【Ⅳ】-3 誘惑

 リエタはセトを、二年前までは存在しなかった建物へ案内した。ベラーラの地図では中央軍の兵舎とあったが、内部は兵舎と思えないほど豪華絢爛で、通された応接間のような部屋も絹のカーテンに絨毯、ガラス張りの机にシャンデリアと贅が尽くされていた。


「どう、素敵でしょう? 本陣の兵舎はもっと綺麗なのだけれど、それでも中央の私の館には遠く及ばないわ。ああ、なんだか懐かしくなってきたわね。ちょっと恋しいわ」


 一人呟いて、リエタは扉脇に並ぶ兵四人に目を遣った。中央兵二人に北の兵二人。北の兵は二人とも洗礼は受けていないようが、毒にはやられているのだろう、焦点の定まらない目で正面を見つめている。


「さあ、あなたたちは部屋の外で控えてなさい。セト副長、どうぞ座って。何か飲むかしら?」


「いえ、結構です」


「あらそう? 心配しなくても毒は入れないわよ。血が濁っちゃうから」


「結構です」


 いつでも応戦できるよう、壁を背にして立つ。扉の向こうに下がった兵四人とリエタ以外には、セトが感知できる範囲には誰もいない。


「兵の派遣についてですが——」


「まあ、せっかく二人きりになれたのだもの、堅苦しい話はよしましょうよ。ふふ、あなた、大聖者様やクレイドとりあったそうじゃない。そう緊張しなくても、私は二人には及ばないわ。それでも、あなたじゃ到底敵わないという点では変わらないのだけれど、そうねえ……」


 わざとらしい動作で窓にカーテンを引いた後、リエタは椅子に座ってすっと足を組んだ。スリットから血が通っているのか疑わしいほど青白い太腿が覗く。静かに笑みながら肘掛に頬杖をついて、リエタは艶かしい上目遣いでセトを見た。


「大聖者様から、守ってあげてもいいわよ」


 ベイデルハルクと対峙したときの、身の凍るような恐怖感が蘇って刹那、セトを襲った。あのとき貫かれた腹が鈍く疼く。身震いを堪えた。ここにきて、甘言につられるような愚は犯さない。口元だけで笑う。


「ディオンもそうやって手中に収めたんですか?」


「ふふふ、北のエリートは手ごわいわね。彼もこれじゃ落ちなかったわ。こうやって——」


 リエタは椅子を離れると、ゆっくりとセトの方へ歩み寄った。毒を防ぐためだけの薄い風守では侵入を拒めず、容易く手が届く距離になる。セトが脇へ身を引くより先に、腕を掴まれた。動かない足元に目を落として、片足首が壁から生えた蔓に何重にも絡め取られているのを知る。呪の気配はしなかった。いつの間に。


「捕まえて、『私の元で働きなさい。可愛がってあげる』って言ったわ」


 手首を握っていた温度のない手が、肘を沿い、二の腕を上って肩へ至り、そして顔に添えられる。背筋が冷えた。


「癒しの呪が使えるそうね? それで、その年で副長になるほど有能……あなた、いいわ……すごくいい」


 さらに距離が詰められた。身体が密着して、壁に押しつけられる。人のものとは思えないほどに冷え切った身体だ。力はその細腕からは想像もつかないほどに強く、少しも身動きが取れない。


「あなたなら、ディオンよりももっともっと可愛がってあげる」


 鮮やかな紅色のルージュを引いた唇が、近づけられる。少しずつ、少しずつ。


「だから——ね?」


 囁いて、リエタが瞼を落とした。待ち望んでいた瞬間だった。唇が触れる寸前、呼んだ突風は一瞬力を緩めたリエタをなぎ倒し、セトを自由にする。抜いた剣で足に巻きつく蔓を断ち切り、セトは壁とリエタから離れた。息をつく。


 ゆらりと立ち上がったリエタは、乱れた裾を直し、髪を手で梳きながら顔を上げる。笑っていた。


「ふふ、女性を押し倒すなんて紳士がやることじゃないわね。男なら皆、私とキスできるなんて泣いて喜ぶのに。意外と初心なの? でもそれにしては、私が目を瞑るのを知って待っていたかのようなタイミングだったわね。腹立たしいほど落ち着いているじゃない」


「ディオンの二の舞になるわけにはいかないですから」


「あら、ばれていたのね」


「ええ。解毒剤をお持ちのようで」


 唇に毒でも塗っていたのだろう。


「私にはもう解毒剤なんて必要ないんだけど、そうね、持ってるわ。欲しい?」


「北の兵全員分用意してもらえると助かるんですが」


「残念、そんなにはないわね。あなたは自分の身の心配をしてなさい。この手は使いたくなかったけど、仕方ないわ」


 リエタは扉に目を移すと、「おいでなさい」と兵たちを呼んだ。入ってきた中央兵二人に、北の兵の喉元へ剣を向けるよう命じる。


「ふふっ、北の副長さんは、部下を見殺しにできるかしら? できないわよね。あなたたちはそういう人だもの。なら観念して——」


 相手がこちらのことをよく知っているように、こちらも相手のことは熟知している。あまりに予想通りで、セトは不敵に笑んだ。


「あなたがこれ見よがしに北の兵を連れてきたときから、こうなる予想はついていました。オレが何の手も打たずにいたと思いますか?」


「何ですって?」


 指を鳴らす。北の兵二人の背にあらかじめ刻んでおいた紋章から鋭い風が生まれて、中央兵の身を鎧の上から裂いて地に伏せさせた。間髪入れず新たに呪を使い、二人をリエタの手が届かないところまで退避させる。初手はともかく次は防ぐことができただろうに、虚を突かれたリエタは呆然とするばかりだ。


「……味な真似してくれるわね。今のは何? ただの中級呪を紋章呪の要領で使ったわけ? その上時間を置いて発動させるなんてすごい技術だわ。そもそもどうやって私にばれないように仕組んだの? 信じられない」


「中央と違って、北には優秀な人員が多くいますから。今のもうちの呪の教官がつい最近考案した新技術です。そいつならオレよりもっと上手くやりますよ」


「一副長風情が、生意気なことしてくれるじゃない」


 セトはカーテンで閉ざされた窓を見た。当然まだ光は射していない。こうなる前にもう少し時間を稼いでおきたかったが、今さら後戻りはできまい。心を決して、剣を構える。


「オレのことも、たかが副長と侮らないことですね。……あんたを一人でどうにかできる自信がなければ、ここには来ていない」


「あらあら、なーに、挑発? いいわよ、腹立たしいけど乗ってあげる。粋がるのも大概にしときなさいな。その【風守】ずっと張りながら私と戦う気かしら? 馬鹿ね。大馬鹿だわ。泣いて命乞いしたってもう助けてあげないわよ。あなたたちが王国を見つけるまでは殺しちゃいけないんだけど、一人くらいはいいかしらね? それか、見つけた後にご自慢の速さで逃げられないよう、足をもらっとくのもいい考えだわ。そうよね、司令塔はあなただもの、あなたから潰しておかないとね……ふふふ……本当はずっと我慢してたのよ……ふふふふふ……早くあなたの血、私に見せて頂戴な」


 勝つ必要はない。今自分がなすべきは、黒軍との戦いが始まる夜明けまで聖者の注意を離さず、彼女の力と体力の浪費を誘いながらも自身はできる限りそれらを温存することだ。遮蔽物は多い。危ういときは逃げながらで構わない。それほど長い時間でもないはずだ。油断は禁物だが、目標がはっきりしてる上、もっと強い敵と対峙した経験もある。自分がリエタを引き受けている間は、残りの三人に魔の手が伸びることがないのも安心できた。予定とは違えど、ユウラがあちらにいる以上、彼女らが今目の前にいるリエタかもしくはクスターと出くわさない限り——しかもテイトの見立てでは、クスターはこの兵舎周辺にはいない。リエタの代わりに中央の本陣を任されているのだろう——心配が要らないのはありがたかった。自分ひとりの戦いに集中できる。


 まだ、入り口に足を一歩踏み込んだ状態に過ぎない。相手が誰であれ、共に身を投じた仲間たちのためにも、ここで自分が真っ先に倒れるなどという失態を演じることだけは、何としても避けねばならない。彼らを無事帰すことが己が役目だ。その思いが、セトを強く支え、鼓舞し、大きな力を与えてくれる気がした。

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