【Ⅳ】-2 指揮官

 兵舎内部の廊下は閑散としている。日の出までにはまだ少々時間があるにせよ、不気味だった。


「誰もいない?」


 少しの怖じも緊張もない様子のランテに、ユウラは心の中で面食らっていた。場慣れしていない彼が——しかも三人を守る【加護】を張りながらだ——こうも平静でいられるなんて、と思う。二手に分かれる作戦を決したときは、テイトと彼本人の二人分の加護を張りながら行動するということになっていたのだが、それでもユウラは心配だった。生命線とも呼べる役割を新米に任せるなど、セトもテイトもランテを買い被ってるのでは、と思ったほどにだ。だが、量り損ねていたのはユウラの方だったらしい。口には出さないが、心強いと思う。


「いるわ。機会を窺ってるのよ。後から挟撃するかどこかへ追い詰めるかした方が、って考えてるのね。急ぎましょ」


 廊下を駆け、階段を上がり、また廊下を駆ける。拍子抜けするほど静かで、それは最上階に到達しても変わらない。何事もなくディオンの部屋の前までたどり着く。ユウラもさすがに不審げな顔になって、扉の前で戸惑った。


「ちゃんと人一人分の気配はするけど……罠かしら?」


「呪の類は仕掛けられてないよ。それ以外の罠なら、ユウラならどうにかできる」


「随分あたしを買ってるわね。何かあったときのために準備してなさいよ。ランテ、あんたはできる限り下がってて」


 テイトに答えランテに声を掛けた後、槍を利き手に握り、ユウラは一度天井の高さを確認してからドアノブに触れた。一気に押し下げると、蹴って扉を開き両手で槍を身体の中心に構えた。


 ディオンは部屋の中央に立っていた。穏やかな顔をしているが、鎧を着込み、大剣も抜いてあった。白いものが混じり始めた頭髪が、部屋の明かりを受けている。


「副長の副官殿でしたな。ここは我らが任された地。何の御用か?」


「何の御用か、じゃないわ。今回の件で、北の兵がどれだけ犠牲になったか知ってるでしょ?」


「背教者がどうなろうと知ったことではないが」


「……すっかり正気を失ってるのね。部下たちの命を預かる指揮官がどうあるべきか、分からないあなたではないはずなのに。忘れているなら、あたしが思い出させてあげるわ」


 部屋へ踏み入る。続いて入ろうとしたランテとテイトを止めた。階下で人が動く気配がする。すぐに兵が上がってくるはずだ。


「副指揮官の相手はあたしが。兵の方は、テイト、頼める?」


 廊下はそう広くはない。呪で塞いでしまえば、兵は手を出せなくなる。テイトに任せておけば確実だろう。


「分かった、こっちは任せて。でも大丈夫?」


「誰の心配してるのよ。任せなさい」


 槍を回しながら、ユウラは扉の前に立った。部屋を見渡す。思っていたよりは広く、窓は三つある。彼を正気に戻すにはどうにかして集合場所まで連れて行き、セトに癒しの呪を使ってもらうしかない。他に解毒の方法があればよいのだが、それを探す方が手間取ろう。


 三階の高さならば、よほど打ち所が悪くない限り落ちても死にはしまい。迫り来る兵たちを押しのけて再び一階を目指すより、窓からディオンを連れて飛び降りたほうがよいだろう。ディオンの実力は噂でよく耳にしていた。抵抗されないためには意識を奪う必要があるが、容易くはないだろう。だが、ユウラには自信があった。できなければ、何のためにここにいるのか。


 ディオンが大剣を構えた。空気が張り詰めて、かすかに震動する。強い敵と相対するときにしか味わえないこの感覚が、ユウラは好きだった。息を一つ落として確かめるように槍を握る。やれる、と思う。


 手始めに振り下ろされた剣を、ユウラは寝かせた槍の柄で止めた。普段はランテやセトを始め軽い片手剣を扱う剣士を相手にすることが多く、慣れない重さと衝撃が腕に伝わるが、受けきれないほどではない。ならば。呼吸を鎮めて意識を集中する。


 大剣を弾き返した。ユウラは素早く持ち替えた槍をディオン目掛けて突き出す。後退して避けられたが、深追いはしない。槍を手元に引き戻して、再び距離を詰めてきたディオンに合わせるようにして切り払った。縦に構えた大剣に止められる。攻撃を受け止められたのは久しぶりだが、予想はできていた。大剣使いならばこの程度の力はあって当然だ。


 動きを止めたが、ディオンは何も言わない。ユウラを見て静かに片手を胸元で掲げた。大剣へ加えられていた力が半減する。その隙を狙ってユウラが両腕にありったけの力を込めると、床に突き立てられていた大剣と一緒にディオンの身体が浮いた。


 だが、同時に、ディオンの掌から風が生まれる。思わず眉を寄せた。彼が呪を使おうとしているのは分かったが、風呪だとは想定していなかった。その他の属性であれば、ディオンが放つ前に弾き飛ばすことができていたはずだが、風の発動の速さには敵わない。いくつかの空気の刃が形成されたことで下級呪の【鎌鼬】だと見破り、ユウラは槍を振り切ったそのままの腕で首を庇った。


 鋭い痛みは、左頬、右腕、鎖骨下、左大腿と右膝に刻まれる。呪を防ぐ力が高い制服を着ていたこと、ランテの加護の範囲内にいたこと、そして呪を放つ瞬間にディオンはユウラの攻撃を受けていたこと、これらの要因が重なってさほどの痛手とはならなかった。勢いのまま飛ばされて壁に身体を打ちつけたディオンの方が、より大きなダメージを受けただろう。結果として、彼女がいつも危なっかしいと評すどこかの副長の戦い方に似た、刺し違えるような形になってしまったのは大いに不本意だが、これで敵の手の内は知れた。風呪使いならば、扱う呪の種類とそれらへの対応の仕方もしっかりと把握している。


「少しは、目、覚めたかしら?」


 頬から流れ出した血をぬぐって、ユウラはまた槍を構え直した。応えるように構えを取ったディオンの、生気の抜けた目は変わらない。背後で激しい音がしているが、ユウラは振り返らなかった。テイトは任せてと言った。一点の疑いもなく、その言葉を信用していた。また、二人も任せなさいとのユウラの言葉を信じていることだろう。裏切るわけにはいかない。


「……血を」


 ふいに、ディオンが口ごもった声で言った。


「血が何? はっきり言って」


 聞くと、ディオンは口の端を一杯に吊り上げて笑った。


「血を、流したな」


 ちょうど、腕を伝った血が肘に達して、床に垂れたときだった。何とはなしにそれを目で追ったユウラだったが、次の瞬間、目を瞠ることとなる。


 赤い一雫の、その中央が、ぷくりと盛り上がった。一杯まで膨らむと、割れて、中から血に塗れた双葉が芽を出す。


「何よ、これ」


 呟いた瞬間、部屋全体が息づいたように拍動した。壁を見ると、そこを埋め尽くす毒々しい赤花と嘘みたいに瑞々しい緑葉が嬉しそうに蠢いている。


 ——綺麗な花でしょう? この生きた紅色が好きで好きでたまらないのよ。血の色みたいでね。


 餓えたように言ったリエタが、ユウラの網膜に蘇って笑った。ベラーラからの情報で、兵舎が赤い花に覆われていたことは知っていた。けれども、それが何の呪であるかはテイトですら知らなかった。おそらくリエタが開発した新呪だろうとのことだったが、まさか人の血を糧にしていたとは。そのような呪、聞いたことがない。しかし想定外のことが一つや二つあったくらいで動きを止めていては、白軍は勤まらない。


 部屋全体を覆う蔦や花が血を求めてユウラに迫ってくる。絡め取られては厄介だ。ユウラは全身に電気を纏った。下級防御呪【帯電】。肩口に触れた蔦の先が電気に焦がされて退くと、他のものも倣った。まるで意志を持っているようだ。だが、呪を長時間維持させるのは難しく、敵と刃を合わせながらとなればさらに難度が上がる。ユウラは呪の扱いには慣れていない。早期の決戦が望まれた。


 ディオンが再び【鎌鼬】を放ってくる。接近戦より遠距離での戦いが有利だと判断したのだろう。あらかじめ予想していたので、今度は危なげなく避けることが出来た。


 血を流させれば、ディオンのところへも蔦が延びてくるはずだ。蔦は敷地内全てを覆い尽くしている。ここから彼を連れて離れる際、追われながらでは都合が悪かった。傷つけられない。だとしたら、当身で気絶させるか、もしくは呪で麻痺させるか。当身の方はかなりの実力差がなければ難しい。後者に決めて、ユウラは三度目の【鎌鼬】を避けつつ距離を詰めた。今度は槍へ、電気に変えた呪力を流し込む。大剣で防がせるように、敢えて速度を落として薙いだ。


 けたたましい不協和音が鳴った。加減しすぎたか、押し返されてユウラは構えを崩したが、ディオンもふらついた。感電させるのに成功したようだ。が、完全に動きを封じることは敵わない。もう少し強めの電気を流さなければならないらしい。


「……レ……シ……」


 よろけた足を立たせて、ディオンが何かを呟いた。


「何?」


「……レクシス……指揮官……」


 まるで生気のなかった瞳に、わずかに光が戻っている。期待をかけて、ユウラはディオンの片腕を取ると二、三度引っ張った。


「ディオン副指揮官、あたしが分かる? 今あなたが何してるか——」


 何かが後ろから腰に触れてきて、ユウラは言葉を飲み込んだ。振り返る前からその正体は悟っていた。蔦だ。武器へ電気を流し込む【電流】を使ったときに、【帯電】の方を無意識に止めていた。痛い過失だった。振り払おうとするが、蔦の方が一瞬速い。素早く腰に巻きつくと、軽々とユウラの身体を持ち上げた。すかさず他の蔦も寄ってきて、手足に絡みついて動きを封じてくる。引き千切ろうとしたが、その細さからは考えられない強度だ。並の男性では相手にならないユウラの腕の力をもってしても、逃れることは出来ない。最も、動きが制限されている中なので、全ての力は出し切れていないが。


「どれだけ強度あるのよ」


 零しながら、ユウラは瞼を落とした。呪しかない。ところが集中し始めた瞬間、鋭い痛みが彼女を襲った。見れば、先ほどの鎌鼬で負った小さな切り傷に蔦の先が入り込んでいる。浅いところとはいえ、皮膚の内側で異物が動く不快感とその痛みは、ユウラに長い集中を許さなかった。呪など使えたものではない。取り落とした槍が足の下で鈍い音を立てた。


 足先から身体を這い上がった一本の蔦が、首元に至る。細い首をするりと一周して、きゅっと絞まった。気管が塞がれて呼吸が止まる。五箇所の傷口の全てでは蔦が血を啜っている。逃れたい、逃れられない。されるがままになっている自分が情けない。


「ユウラ!」


 背後で声がした。部屋が眩く照ったかと思うと、一線の光が走る。ランテだ。ユウラの首を締める蔦を狙ったのであろうが、わずかに逸れて端をほんの少し焼き切っただけに終わる。が、それで全ての蔦の動きが止まった。その隙に再び電気を纏うことに成功する。


 どうにか蔦から解放された。呼吸が戻ってくる。急に肺を満たした空気に咽ながら、ユウラは床へ着地すると槍を握った。


「助かったわ」


 一瞬だけ顔を肩の向こうへ向けて言い、即ディオンに向き直る。傷口が広がったらしく、槍を構えると右腕が鈍く痛んだ。新しい血が流れ出す。徐々に身体が侵食されていくような不快感は、蔦が去った今でも後を引いていたが、懸念するほどの傷というわけではない。毒があるのは花だ、おそらくそちらの方も問題ないだろう。


 ディオンの瞳はまた遠くなっていた。しかし、もしかしたら解毒をせずとも強い衝撃を与えれば正気に戻すことが可能かもしれない。それが叶えば、かなりの時間短縮になる上、綱渡りの回数も大いに減る。試してみる価値はあった。


 問題はどう呪を当てるかだ。ディオンとて場数を踏んだ実力者、毒で多少思考能力を奪われているとしても、二度同じ手に乗ってくれるほど甘い相手ではない。現に、槍と大剣の攻防が再開されたが、武器を合わせはしても呪を使えるほど長い間は与えてくれなかった。ならば。


 ユウラは槍使いだが、攻撃は決して遅くない。スピードを最重視するタイプの戦士には多少遅れを取っても、その他の相手に劣ることはなかった。なにせ、生粋のスピード特化型の隊長に鍛えられている。速さではもはや姉弟子のフィレネすら追い越そうとしていた。重い大剣を扱うディオンには、力で互角でも、その気になれば速さにおいてはかなり勝ることが出来る。攻撃の間も思考の間も与えずに、徐々に押していく。ユウラが距離を詰めるたびにディオンは足を引いた。防戦一方になったことに危機を感じたのか、形勢逆転を狙って下級攻撃呪【渡風】——【風切】の下位呪だ——が放たれたが、軌道は一直線、身を引けば当たらない。


 仕上げに身体を回転させて、遠心力を乗せた重い一撃でディオンを部屋の隅へ追い詰める。ディオンが何かする前に、片手で縦に握った槍を彼に突きつけるようにして逃げ場を封じる。どうにか反撃しようと振り回された大剣は、もう片側の手でディオンの腕を掴むことで止めた。さすがに腕一本では押されるが、構わない。もう準備は済んでいる。


 【放電】。本来は中距離攻撃に使う呪で、手のひらから電気を一直線に走らせるのだが、今回は零距離での行使となった。そのせいでユウラも若干の痺れが腕を駆け上ったのを感じたが、一瞬の衝撃を目的にして放った呪だ、大した後遺症はない。


 ディオンの大剣が刃から落下して、自重で床に突き刺さった。本人も膝を突いて、痺れた身体を花で埋め尽くされた壁にもたれさせる。ひどく遠いところを見ていた両眼が揺らいで、ユウラを見上げた。焦点が合ってくる。今度こそ正気に戻ったディオンは、最初に呆然とし、次に困惑し、最後に低く唸った。両腕を持ち上げて、頭を抱え込む。


「俺は……俺は、なんてことを」


 歯を噛み締め、苦しげな小声でそれだけ呟いたディオンは、その後沈黙して俯いた。握られた拳が一度、地面に叩きつけられる。全身を震わせていた。酷なことだろうが、今、嘆いて立ち止まられては困る。ユウラは槍を戻して彼を見下ろした。


「ディオン副指揮官、あたしが分かりますか」


「……すまない。こうなったからには、責任を」


 大剣に延びかけた腕を留める。自決なんてさせない。させるわけにはいかない。ユウラは膝をつき、ディオンと目の高さを合わせた。


「今、あなたがすべきはそんなこと? 違うでしょ」


「しかし」


「あなたに命を預けた兵がまだ四百、ここにはいるわ」


「だが、俺にもうその資格は」


「死ねば楽よね。一人で勝手に逃げ出すの? あなたは指揮官なのに?」


「他に償う方法を知らない」


「何度だって言うわ。あなたに命を預けた兵が四百もいるのよ。あなたは指揮官。預かった部下の命を守るのが役目、そうよね」


「俺はその部下の信頼を裏切って——」


「命を預ける相手は自分で選んでるのよ。裏切られたと思ったら自ら離れていくわ。決めるのはあなたじゃない」


 時には一人の隊員として、そして時には指揮官として戦い、どちらの思いも理解するユウラだからこそ言える言葉だった。責めるわけではない。詰るつもりもない。ただ、諭す。静かに穏やかに。


 やりきれない思いは分かる。自分を責めて責めて、殺してしまいたい気持ちになることだって、分からないことはない。だが、だからこそ止めるのだ。


「指揮官である以上、あなたはあなたの役目を全うしなければならない。途中で逃げ出すことは許されないのよ。あなたなら、そんなことあたしに言われるまでもないでしょう」


 ディオンは黙って受け取り、目を落としたまま一度、頷いた。


「……すまない」


「あたしに謝っても意味はありません。部下たちを正気に戻して、ここから逃がして、それから存分に謝ったらどうですか?」


「ここで我らまで去れば、黒軍との戦いは」


「こうなった原因はもともとリエタ聖者にある。あなたは使命を全うするように、それが副長からの伝言です。後のことは任せてください」


 なおもしばし、ディオンは迷ったようだった。だがやがてゆっくりと立ち上がると、落としていた剣を拾い、刀身を見つめ、またしても頷いた。ユウラに目を向け、改めて意志を伝える。


「了解した」


 そのときには、ディオンはすっかり覚悟を決めた指揮官の顔になっていた。必ず無事四百人の兵を北へ連れて戻ってくれるだろうと、少しの疑いもなく信じられるほど精悍な表情をしていた。己の気持ちに整理をつけたわけではないだろう。だが、今は忘れなければならないことを理解していたのだ。彼もまた、激戦区で長年レクシスの右腕として働いた猛者であり、優れた指揮官であった。

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