【Ⅳ】-1 毒花
白軍北支部激戦地派遣部隊の陣は、アノレカと呼ばれる場所に敷かれている。丘の麓にある兵舎は夜闇の中にあっても白く、ワグレやケルムと同じような造りをしていたが、三階建ての建物全体が植物に覆われており、血のように赤い花があちこちで咲いていた。
ベラーラから受け取った羊皮紙には、どこで仕入れたのか、激戦区の中央軍の配置の詳細など貴重な情報で溢れており——うち数枚は筆跡と紙質の違うものが混ざっていた。改めて問うことはしなかったが、きっとフィレネからの情報だろう——危険を冒してノンタスへ向かう必要はなくなった。そのため一行はこうして直接陣まで足を運んだのだが、羊皮紙にはリエタ聖者は緑呪を使うと書かれており、それが真実であるのは兵舎を埋め尽くす毒花を目にした今、疑いようがない。
緑呪は、毒を主な武器とした呪であることはテイトから習っていた。毒は変幻自在で、使い手の能力に応じて自由に強さや効果を生み出すことができるらしい。攻撃力や破壊力には乏しいものの厄介さでは属性呪随一で、掠り傷が致命傷になりかねないから、十分に注意しなければならないとのことだ。
門で出迎えた北の兵たちの瞳は、揃って虚ろだった。ランテは一瞬洗礼を疑ったがそうではないらしい。男の兵二名と女の兵一名だが、洗礼の証はどこにも見当たらなかった。
「セト副長……ユウラ副官……テイト教官……誰?」
女の兵の目がゆっくり動いて、最後にランテに留まる。声には力がなく、霞がかかったようで聞き取りにくい。
「あ、オレ、ランテって言います。最近白軍に入ったばかりで」
「ランテ……そう……」
どうしたのか、言葉もたどたどしく覇気がない。ユウラが眉を顰めた。
「エルダ、どうしたの? 聖者に何かされ——」
「ユウラ副官……」
エルダは突如腰の細剣を引き抜いた。切っ先をユウラに向けて、身構える。彼女も応じて腕を背に回した。
「あんた、誰に剣向けてるか分かってる?」
「先輩……死んでください」
細剣が突き出されるが、ユウラは身を翻して避けた。掠りもしない。同時に両脇の男の兵も動き出す。うち一人が突撃してきて、ランテも慌てて剣を抜いた。
「傷つけちゃ駄目だよ、ランテ」
槍をいなしながら、テイトに頷きだけ返す。しかし、ならばどうすればいいのだろう。戸惑いながら三度突き出された槍をやり過ごしたが、四度目を繰り出す途中で兵はくず折れた。セトだ。剣は抜いていないし倒れた兵も血を流してはいないから、当身で気絶させたのだろう。
「手荒いけど、こうするしかないわよね」
ユウラも意識を失ったエルダをそっと門の内側へ寝かせる。三人はよく見れば顔色が悪い。日に焼けているはずなのに、青白いのだ。テイトが門にも絡みつく赤い花を見た。
「どうやらこれは思考能力を低下させる毒みたいだね。ディオン副指揮官も、もしかしたらこの花のせいで……。セト、皆を癒しの呪で正気に戻せないかな」
「リエタ聖者の腕にもよるけど、難しいな。時間がかかるし、治しても聖者がいる限り同じことの繰り返しになる」
「でもその聖者を倒したら黒軍を止められなくなる。どうしたものかな」
「予定通りディオン副指揮官だけでも正気に戻して、なんとか北軍の指揮を執らせたいな。聖者さえ引きつけておけば——」
セトが口を噤んだ。しばらくして、門に一番近い建物の陰から女が一人、その後ろから兵が四名ほど連なって現れた。先頭を歩く女が聖者であるのは、ランテにも分かった。威圧感というのか、何か独特の雰囲気——目にするだけで命の危機を感じてしまうような——を感じる。セト、ユウラ、テイトが倒れた北兵の前まで庇うように進んだ。一度歯噛みして、ランテも倣う。
「あらあら、遠路はるばるご苦労様。私が激戦地の総指揮官リエタよ。うふふ、同士討ちしちゃったの? 楽しかったかしら?」
リエタは制服を着ておらず、代わりに肩と胸元が大きく開いて、裾には深くスリットが入った白一色のドレスを身に纏っていた。結い上げた頭からは幾筋か髪が零れ落ち、垂れた大きな瞳の下には泣き黒子がある。美人だが、年はよく分からない。
「……北の兵が世話になっているようで」
セトの声にはほんの少し緊張が混ざっていた。道中何度もこの日のために策を練ってきたが、筋書き通りにいかないだろうことは全員心得ている。いつどこで想定外が起こるか分からない。緊張は当然だ。ランテの心臓も先ほどから煩い。
「あなたが北の副長ね? やっぱり若いのね。顔も好みだわ。ふふ、気にしなくていいのよ。私、男には甘いってよく言われるの。これからはあなたも一緒に世話してあげるわね」
リエタの白い腕が、門を伝って咲く花の一つに伸びる。摘んで手のひらに載せて、彼女はうっとりと笑んだ。
「綺麗な花でしょう? この生きた紅色が好きで好きでたまらないのよ。血の色みたいでね——ああ、駄目だわ。また殺しがしたくなっちゃった。あなたたち、皆美味しそうな血を流しそうね。艶やかで深い色の紅……きっとこの花よりずっと綺麗よ……うふふ……ふふふ……今から楽しみだわ……ふふふふ……私はその色でこのドレスを染めるの」
恍惚とした表情にぞっとする。ランテは生唾を飲み下した。怖い。そう思ってしまう。セトが息を継いだ。
「リエタ聖者。今後の北の兵の派遣について、話がしたいのですが」
「まあ、思ったよりも冷静ね。もっと怖じた顔が見たかったのだけど。いいわ、話しましょう。だけどセト副長、あなた一人でお出でなさいな。私もあなたに話があるのよ。二人きりでね」
「副長」
ユウラが短く呼んだ。赤い瞳に不安が過ぎる。引きつけと時間稼ぎはセトとユウラ二人でこなす計画だった。リエタが目を細める。
「あら、駄目よ? 無粋な真似をしちゃいけないわ。女の子はお呼びでないの。それとも今、ここで死んどく? 私はそれでも構わないのよ」
「恐れながら、あたしは副長の副官です。副長を一人には——」
「ユウラ」
セトとユウラが目を見交わす。無言の説得に、渋々ユウラは頷いた。
「……失礼いたしました」
「いいのよ、分かってくれれば。うふふ、私ったら、女の子にも甘くなっちゃったのかしら。少し時間がかかるでしょうから、あなたたちは好きにしてなさい。北の兵なら宿舎にいるわよ。会ってあげたら?」
セトから今度はランテに目配せが来る。手筈通り、ランテは【加護】を使った。ユウラとテイトを覆うところまで光を成長させて、頷く。これでセトが離れて【風守】の範囲から出ても、三人が飛散する花の毒に蝕まれることはない。
「あら、上手ね。名前はランテだったかしらね? まだ初心者だって聞いていたけど、とんでもないわ。私が副長さんを返すまで維持できるといいわね。……ちゃんと返すかどうかは分からないけれど」
訓練はした。何度もだ。呪力が尽きるまで【加護】を維持させる自信はある。その呪力も、テイトが目を瞠るほどの量をランテは持っている。心配なのはセトの方だ。聖者をたった一人で、約束の時間まで無事に足止めすることができるだろうか。
「頼むな。また後で」
小声で三人にそう言い残したセトは、安心させようとしたのか、かすかに笑んでいた。ごく自然な彼らしい笑みで、しかしだからこそ、不安は強く残った。ベイデルハルクのときと同じ顔をしていた。無理をせねばよいのだが。
セトとリエタと彼女に付き従う兵たちが角を折れて見えなくなるまで見送って、ランテたち三人は顔を見合わせた。黙っていられず、聞く。
「大丈夫かな、セト」
「『また後で』って言ったからね。大丈夫、セトなら何とかするよ」
「うん……」
「あいつは守れないことは言わないわ。あたしたちには別の仕事がある。ディオンを探すわよ。兵たち、エルダみたいに話が通じないなら時間がかかる。急がないと。三人はひとまずここに置いていきましょ。兵舎の中に運ぶのは後でいいわ」
「ランテ、ちょっとくらいなら【加護】切らしたって大丈夫だから。危ないと思ったら自分の身を守ることを一番に考える。いい?」
「分かった」
「あたしたちがいる。あんたに無理はさせないわ。これからの戦いもあるんだから、あんたはなるべく力を使わないように集中してなさいよ」
「ありがとう」
羊皮紙にあった北の陣内の地図と、セトが二年前ここに派遣されたときの記憶はほぼ一致していた。信頼できる情報と言えた。兵舎は二つあるが、副指揮官の部屋があるのは手前側だ。厄介なことに部屋は三階建ての最上階で、攻め込まれたときのためか、階段の位置も階ごとにずれていたはずだ。狭い場所で、しかも相手を傷つけてはならないときたら、長物使いには辛かろう。だがユウラなら。いざというときにはテイトもいる。言われたとおり、ランテは呪を使い続けることに集中した。
準備は整った。ユウラが、兵舎の扉を開いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます