【Ⅰ】-6 すれ違い
ケルムでの二日目の晩、セトはようやく重傷者の治療をすべて終えた。ランテの目から見れば分からないが、ユウラが疲れていると言うのだからそうなのだろう。治した兵の数から考えても、負担は大きかったに決まっていた。それでも夜のうちに今後のことを決めておきたいと彼は言い、ランテたち三人は渋々同意して、厨房横の小部屋で地図——中央軍が持っていたもので、大陸の西側、つまり白女神統治区域がすべて描かれている——を広げた。最初にテイトが指を伸ばす。
「王都が沈んでるらしいエマリーユ湖はここ。ちょうど大陸の中央だね。大きな湖だ。分かりきってたことだけど、どうやって水底にある都へ行くかって問題がある。それ以前に、湖までまずどう辿り着くかってことから考えないとならないんだけど」
「奇襲、なかったわね。絶対罠だと思ったのに。中央はどういうつもり?」
ユウラ、続いてセトが言う。
「まずは中央がなぜ王都を残したままにしてるか、だよな。単に水の底に沈んでるだけなら、呪使いを集めればどうにかなるのにそうしない。面倒なら湖ごとどうにかすることだってできそうなものだが、それもしない。できないんだろうな。おそらくワグレを潰したのもそれが原因だ。証拠がない説は脅威にはならない」
ランテも頭の中を整理しようと口を開いた。
「イベットさんたちが推測したように王都は今もやっぱりエマリーユの湖底にある。ただそれは中央ですら手が出せない……で合ってる? それならもしかして、中央はオレたちに王都を見つけさせたいんじゃ? 王都を完全に消すために」
「なるほどね。だったら奇襲をしなかったことも、今回の北の兵への仕打ちも納得できるわ。これであたしたちが激戦地に行く口実ができた。……ずいぶん多くの犠牲を強いるやり方だったけど」
ユウラが視線を下げ、テイトが頷いた。
「いくらなんでも犠牲が多すぎない? もう北の兵はいらないってくらいのやり方だよ。兵はすぐに補充できるわけじゃないし、今回のことでこれ以上兵を出すことを拒否する可能性だって十二分にある……というか、普通そうする。ただでさえ戦力不足なのに、なんでだろう」
「今回の件はリエタ聖者の独断らしいが、この頃の黒軍との戦局を考えるなら、エルティを消そうとしたことからして冷静な判断とは思えない。それだけの犠牲を払っても得たいと思うものがあるんだろうな」
レベリアでのセトとの話を思い出す。彼はそれがランテだと言ったのだ。やはり信じられない。テイトが話を先へ進める。
「このまま行けば敵の思惑通りだけど、どうする?」
「条件は、一、黒軍との戦線を決壊させないこと。二、王都の存在を確かめること。三、一人でも多く帰ってくること。これが果たせれば、どれだけ敵の策に嵌ろうが構わない」
「ただし敵にはリエタ聖者とクスター副官、以下数えられないほどの兵がいるわけね。どう贔屓目に見ても、このままじゃ圧倒的劣勢よ」
「激戦区に忍び込むのはかえって危険だ。そこが一番問題だったが、招待してもらえるなら助かる。その後まで乗せられるわけにはいかないけどな」
「セト。北の担当区域の指揮、どうするつもりでいる? ディオン副指揮官が正気じゃないなら、このまま彼に任せておくのは危険だと思うんだけど」
「元々北の兵が千いたうち、今回六百名分足りなくなった。北の兵の六百を中央兵で埋めようと思ったら、同じ数じゃ足りない。今北の担当区域にいるのは、北の兵より中央兵の方が圧倒的に多いはずだ。で、中央兵は証持ちだらけだが、証持ちの指揮はそれに長けてる者しか執れない。オルジェ支部長はディオン副指揮官が指揮を執ってるって言ってたが、実際指揮をしてる者は別にいる」
間断なく会議を進行する三人に後からついて行くのに一杯一杯だったランテだったが、ここでようやく追いついた。
「確か、中級司令官はディオン副指揮官はリエタ聖者の言いなりだって言ってなかった?」
セトから頷きが返ってくる。
「それなんだよな。たぶんリエタ聖者が入り浸って指揮を執ってる。他のことはどうしてるんだか」
ユウラ、そしてテイトの顔が順に曇った。
「それって激戦区に行くなり聖者と出くわすってことよね」
「聖者の目をどうにかして盗んで、エマリーユ湖まで行かないとってことか。それに湖周辺は中央の担当区域」
一人表情を変えず、セトは淡白に述べる。まるでまだ遠い激戦区の様子を眺めてでもいるようだ。
「聖者の目をうまく盗んでも、湖周辺では当然中央の手の者が待ち構えてるってことになるだろうな。こっちの顔ぶれは既にばれてるから、オレたちが勝てない者、もしくは数が用意されてるはずさ」
全員一斉に沈黙する。八方塞としか思えない状況に、不可能という言葉がランテの脳裏をちらついた。中央という敵の巨大さを再認識する。
「……厳しいね」
重い空気の中テイトが呟いた。セトが小さく息を落とす。
「やっぱり、このままじゃどうにもならないか」
「何? 何かありそうな言い方ね」
「一つだけな。目的達成だけを考えた最終手段。できれば使いたくない」
気は進まないらしかったが、この状況を打開できる案があるのだとしたらぜひとも知りたい。
「どういう?」
「敵の敵は味方って言うだろ?」
ランテは目を瞠った。
「まさか、黒軍と手を組む?」
ユウラとテイトの動揺が伝わってくる。
「そうできた方が互いに犠牲も少なくて済むんだろうけど、そんな時間も伝手もない。少しあっち側に手を貸して、中央軍を撹乱する。万全の状態で迎え撃たれたら勝ち目はないからな」
ここに至ってもセトは無表情を維持していたが、それが苦渋の選択であるのは皆分かっていただろう。静まった後、ユウラが尋ねた。
「あんた本気で言ってんの?」
「だから言っただろ。最終手段だ。他に策があるならそれでいきたい」
平静を取り戻したテイトが、穏やかに聞いた。
「セト。確かにこの状況ではその作戦が一番成功率が高いと思うよ。だけど、その先のことは?」
「背教者として追われることも覚悟の上で、になる。これまで以上に動きにくくなるし、今度こそ北にも戻れなくなるな」
追われることになるのは、ワグレに侵入するときから考えねばならぬことだった。が、あの件はあくまで中央に非があり、中央以外の人間たちからはランテたちのしたことを認めて受け入れてもらえる余地があった。だが、黒軍に手を貸してしまえばそうはいかない。黒軍と通じていると言われれば、誰からも救いの手を延ばしてもらえなくなるだろう。周りが敵だらけという状況になるのだ。
「黒軍との戦線が完全に決壊する可能性もあるんじゃない?」
「リエタ聖者がいるならそれはない。何としてでも食い止めるさ」
再びの沈黙。どんな策を用いようと、危険であることに変わりはない。ユウラが落ち着かない様子で右手を髪に遣った。
「兵が何人も犠牲になるでしょ?」
「この先聖戦が続いて出る死傷者の数よりは少ない」
「らしくないわね」
「北の兵にはどんな手を使ってもあらかじめ話をつけておくつもりでいる」
「中央兵は? 証持ちの兵は意思なく命じられるがままに動いてるのよ。そういう兵を犠牲にするっていうの?」
「犠牲がないに越したことはないとは思ってる。ただ、それも限界がある。全部守りきろうと無茶して、何も残らないよりは——」
ユウラが被せるように言ってセトを止めた。瞳は揺れていて、ひどく困惑しているのが分かる。
「あんた、やっぱり今日はもう寝なさい。疲れてるのよ」
「今日一日で考えたことじゃない。ワグレを出てから考え続けて出した結論だ」
「だってこんな——」
ついに声まで波打ったところで、今度はテイトがユウラを止めた。
「ユウラ」
口を噤んで、ユウラは顔を俯けた。流れた髪が顔を隠す。息をついた後に、小さくなった声が続いた。
「ごめん。あたしも疲れてるのかもしれないわ」
「そうだね。ここ二日立て込んでたし、やっぱり会議は明日にしようか」
やはり落ち着いて言うテイトに、セトも静かに同意する。
「だな。悪い、無理言った」
ユウラは誰にも目を合わせないまま、背中を向けた。
「先に休んで。頭冷やすついでに夜番はあたしがするわ。おやすみ」
「ユウラ、待って。今日前半はオレだったはずで」
「深夜すぎに呼びに行くから、後半の方頼むわ」
はっとして声をかけたランテだったが、彼女はそれだけ残すと返事を待たずに扉の向こうへ消えてしまった。見送った後しばらくして、テイトが地図を畳み終えると切り出す。
「セト、ユウラはきっと分かってると思うよ。現状では、この手段しかない」
「ああ、分かってる」
「じゃあ、はい。これ」
彼は笑顔でセトに本を一冊差し出した。表紙を検めてから、セトは訝しげな顔を上げる。
「呪の指導書?」
「うん。今日夜番のときに読みたいって言ってたんだ、ユウラ。渡しそびれちゃったから代わりに頼むよ」
ユウラもセトも、このままでは後味が悪いに違いない。年長者らしい気遣いだった。すべて分かってだろう、セトも苦笑いで応じた。
「……変な気回すなよ」
「僕はランテの呪見てあげないと。今日はまだだったよね、ランテ」
テイトの視線を受け取らずとも、どう答えるべきかはランテとて分かっていた。
「そういえばそうだった」
「ほら、疲れてるときの夜番はすることないと眠っちゃうよ。このあたり黒獣も出るし、危ない」
「分かったから。悪いな」
大人しく気遣いと一緒に指導書を受け取って、セトが次に部屋を後にした。残った二人で顔を見合わせて、ほっと胸をなで下ろす。
「大丈夫かな?」
「大丈夫だよ」
安心しきった顔のテイトを見ていると、少しばかり残っていた不安な気持ちが霞んで消えた。それと入れ替わるようにふと思い出し、言う。
「そう言えば、この間つけてたの、セトにばれてた」
「うん、あの後セトに釘刺されたよ。聞けば答えるから、隠れて探り入れるのはやめろって。話さないくせにね」
確かに、彼が話せないとするところは決して話さないだろう。どうしても聞きたいのならば酒場に連れ出して、この前以上に飲んでもらわなければならない。中々難しい任務だ。
ついでなので、以前から気になっていたことをランテは聞いてみることにした。
「テイトはいないの?」
「何が?」
「恋人」
テイトは数回、目を瞬かせた。
「……びっくりするなあ。いきなりどうしてまた」
答える声の調子がいつもよりほんの少し上ずって、さらに速くなっているのをランテは見逃さなかった。セトのときもだったが、こういう話はいきなり切り出すほうが効果があるらしいと一つ学習する。
「レベリアで普通の人は二十過ぎたくらいに結婚するって言ってたから、どうなのかなって思って。あと、この間セトとユウラがなんか含みのある言い方してたから」
「何て言ってた?」
「『テイトはな』『そうね』って」
レベリアにいるときだ。気が多い様子のナバを見て、北支部ではそういう浮いた話は全く聞かなかったと思い出し——リイザは除いてになるが——セトとユウラに尋ねたのである。思い返してみれば、あのときテイトは通行人に支部までの道を聞かれていて、話に参加していなかった。意味ありげなやり取りは、ずっとランテの頭の中に引っ掛かっていた。
「あの二人……何が隠れて探り入れるのはやめろだ。なんで知ってるんだろう?」
恨みのこもった言い方に、思わず笑ってしまう。心なしか、顔が赤く見える。
「やっぱいるんだ?」
テイトは言いにくそうにまごついたが、結局認めることにしたようだ。
「まあ、うん。一応……そのような人は」
「テイトも照れたりするんだ」
特に他意はなくランテはただ素直に感想を言っただけが、テイトには別の意味に聞こえたようで、恐ろしい言葉が返ってきた。
「ランテ、よく覚えといて。ランテにそういう人ができたら、三倍にしてからかい返すから」
兵舎の入り口付近には数本木が生えている。そのうちの一つに背を預けて、ユウラは一人、特に変わらない景色を眺めながら自ら引き受けた夜番をしていた。今のところ変事はない。奇襲があるとしたら昨日のうちだっただろう。気は抜けないにしても、昨日ほど張り詰めている必要はなかった。建物の方から草を踏みしめる音がして、そちらに目を遣れば、ナバが向かってきているのを見つけた。
「ユウラ先輩。何してるんすか?」
「何してるって、夜番よ。あんたいつまでいるつもり? 手伝ってくれるのは助かってるけど」
気を紛らわせようと外へ出たのに余計なことを考えるばかりで、適当な返事を返しはしたが、正直誰かと話していられるのはありがたかった。
「ここがどうなるか見届けるのが役目っすからね。あと、ユウラ先輩たちがどうしたのかも報告しないと駄目ですから。さっきの話も聞かせてもらいましたよ」
「知ってたわよ。たぶんランテ以外は全員気づいてるわ」
東に筒抜けになる分には構わない。むしろ、知っていてもらった方が何かと都合がよいだろう。
「それで……そっか、ケルムって元は南の兵舎だったわね。東が面倒見てくれるの?」
「東の領地ですしね。どうせ南は何も言わないっすよ」
「そう、それであんたが派遣されたわけね」
「オレ有能ですし」
以前自分もランテに同じような台詞を言ったのを思い出して、返す言葉の勢いがわずかに減じた。
「そのいい加減な口以外は、フィレネ副長も認めてるわ」
そのせいか、あまり行動を共にすることがないナバにまで異変を気取られてしまうことになる。
「それはそうと、浮かぬ顔っすね。なんかありました?」
「あんたには関係ないわ」
「関係ないからこそ聞ける話もあると思いますけど」
断る言葉を考えるのが億劫だったのは、疲れのせいもあったのだろう。ユウラとて大勢の食事を毎食用意していたのだ、疲労を感じない方がおかしい。彼女が気づいたときには既に口は動いていた。
「……東は任務遂行のためには犠牲を厭わないわよね」
「そうっすね」
「北は違うわ。違ったんだけど」
ユウラは背中の槍に触れた。指が痛むほどに、強く握り締める。
「分かってるわ、そうするしかないって。でも……犠牲を出すのを一番嫌がってるはずなのに、そういう結論を出させるしかなかったのが悔しいのよ」
レベリアの下町で問い質したときセトは頷かなかったが、重荷に感じているに決まっていた。そしてどうあってもそれを口にはしないだろうことも知っていた。それなのにあえて尋ねたのは、淡い期待があったからだ。四年だ。短い時間ではない。少しずつでも力になれているのだと、そう信じていた。だから、もしかしたら、半分とは言わずとも一部でも自分に背負わせてくれるのではないかと期待してしまった。だが、実際はどうだ? 話してどうにかなるのかとの返事を寄越され、彼が今日まで悩み続けてきたことにも気づけなかった。挙句の果てには責めるような愚行まで犯してしまったのだ。実力だって至らない。後悔は嫌う彼女だったが、今回ばかりは思わずにはいられなかった。一体自分は今まで何をしてきたのか。思っていても、吐き出すことはしなかった。が、その一端が、少し零れてしまった。
「オレは見直しましたけどね」
ナバから思いも寄らなかった答えが返ってきて、ユウラは首を傾げた。
「見直す?」
「副長、ちゃんと分かってるじゃないっすか。自分が一番何を守るべきなのか。ユウラ先輩も分かってんでしょ。他に犠牲を出してでも、先輩たちのこと死なせたくなかったんすよ」
「分かってるわ。そうじゃなくて……」
「たとえばユウラ先輩が副長より強かったとしても、今回はどうにもならなかったと思いますけどね」
口を噤んでいた。その点においては、おそらくナバは正しいと言えた。
「あんまり好き勝手言うと、後で副長に怒られそうですからこの辺にしときますけど、ユウラ先輩は考えすぎっすよ。自分にできることをすればいいんです」
頷くことはできなかった。できることだけをしているのでは、この先、全員で生き残ることはできない。だが、無理をしても良い結果を招かないのは確かにその通りである。ユウラは息をついた。苦笑が滲む。
「まさか、あんたにこうやって諭される日が来るとは思ってなかったわ」
「オレだってたまにはまともなこと言うでしょう?」
「そうね。ありがとう。ちょっと気が楽になったわ」
胸がすいたような心地がしたせいか、普段よりもすっと言葉が出てきた。自分で驚いていたら、ナバがにやにやして言ってきたので、思わず睨みつけてしまう。
「やけに素直っすね」
「一言多いのよ」
ユウラは知らない。傍の物陰に身を潜めていた者があったのを。彼が結局彼女に声をかけぬまま、踵を返して去っていったのを。
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