【Ⅱ】   約束

 黒い影を落とす墓標が、地平線まで整然と並んでいる。百、千——おそらく、もっと。おぞましい数だ。視界の全てを覆い尽くす硬く冷たい石の下では、激戦地で無念の死を遂げた戦士たちが同じ数だけ眠っているのだと思うと、胸が閊えて痛んだ。


「こんなに……」


 それだけしか出てこない。何を言おうとも、今覚えた感情を表すことはできないとランテは悟っていた。分かるのは、何かとても苦しいというだけで。水底で空気を求めて喘ぐような苦しさだ。


「激戦区の殉職者は大体ここかもう一箇所の墓地に埋葬されるからね。僕も来るのは初めてなんだ」


 テイトが墓地一体を見渡した後、黙祷を捧げ始めた。セトは門の外にある——ついに門内には入りきらなくなってしまったのだろう——一つの墓標の前に佇んでいる。朝日を受けて輝く墓石はいくらか砂埃を被っていても艶が残っており、まだ新しいものだと知れた。ユウラが彼に問う。


「知った人なの?」


「初めて激戦区に派遣されたとき、助けられなかった先輩兵だ。……オレを庇ったときの傷が致命傷になった。今と同じ腕があればと思ってさ」


 彼の歳は十九、必然それより若い頃に派遣されたことになる。ニーナもそうであったが、そんな歳から命の奪い合いの地へ借り出され、一体どんな思いをしただろう。ましてや、彼は癒し手だ。次々運ばれて来るだろう重傷者たちの中には、力及ばず救えなかった者も多かろう。想像でしかないが、耐え難かったに違いない。


 後のことをレクシスとナバ——セトは彼に東で連絡を待つダーフへの手紙も預けたようだ。妙に厚みがあったが、一体何を書いたのだろうか——に託し、ランテたち一行は先ほどケルムの兵舎を発った。ひとまず白女神統治区域の東端の町ノンタスを目的地にしている。激戦区に程近いその町に行けば最新の情報を得られるかもしれないと考えてのことだが、激戦区への物資提供も引き受けている町だ、中央の手の者も当然いるだろう。迂闊な行動は取れないので、気を引き締めなければならない。


 出発前、墓地に寄ることは皆で相談して決めていた。ユウラが村の傍に咲いていた野花で作った献花を慰霊碑に供える。村人たちか、それとも兵舎で手当てを受けて立てるようになった兵たちか、先客がいたらしい。慰霊碑には既に数束白や黄や桃の小花が捧げられ、風に揺られていた。


『民のため平和のため 身を捧げた勇士たちに 尊き白女神のお導きを』


 刻まれた碑文に怒りがこみ上げる。ここで眠る多くの兵たちは本当に民や平和のためと信じて戦い、そうして死んでいったことだろう。中央と白女神が何を企んで聖戦を続けているのかは分からないが、許せない。彼らは一度でもこの場所に立ったことがあるのだろうか。自分たちがどれだけ非道なことをしているのか、その自覚はあるのか。一刻も早く止めなければと気持ちが急く。じっとしていられない気分になる。


「……あ」


 そのとき慰霊碑を横切った淡い闇の珠に、ランテは目を奪われた。これは。


「闇呪?」


 警戒し身を硬くしたテイトを、セトが制する。


「いや、大丈夫だ。たぶんこれは——」


「ルノアだ!」


 言うや否や、ランテは駆け出した。闇は門を潜ると墓地をまっすぐに進んでいく。どこへ向かうかは知らない。でも追っていけばルノアに会えると思えば、そんなことは取るに足らない問題だった。






 どれだけ駆けたか、息が切れて足が重くなってきた頃、墓地の最奥まで辿り着いた。そこにもまた入り口に据えられたものと同じような慰霊碑があり、ルノアはその前に立ってランテを待っていた。彼女の足元で囀っていた三匹の小鳥が、ランテの足音を聞きつけると慌しく空へ帰っていく。ルノアはそれを寂しげに目で追って、それからランテを見た。


「ルノア」


 一枚、翼を離れた羽がふわりと落ちてくる。白い羽だ。名を呼んで近づこうとしたランテに、ルノアは首を振って答えた。


「……それ以上、寄らないでください」


「何で」


「どうしてあなたたちがここにいるんですか。これからどこへ向かうつもりですか」


 たち、と言われて初めてランテは他の三人もここまで追って来ていたことを知った。一度振り返って確認してから、再びルノアに向き直る。


「激戦区に行くんだ」


「行ってどうするつもりですか」


「王都の存在を確かめる」


 ルノアの表情が陰った。


「無茶はしないでと言ったでしょう。たった四人で、死にに行くつもりですか。無謀すぎます。行かせません」


「行かなきゃならないんだ。このまま知らない振りして放っておくことなんてできない」


「私に任せてくれればいいわ。私がやるべきことだもの。あなたたちも、これ以上深入りしてはいけない」


 紫の瞳がランテを通り過ぎて、後ろの三人に注がれる。代表してセトが口を開いた。


「もう引き返せないところまできてる」


「前にも言ったわ。私が記憶を奪えば——あっ……」


 その瞬間、ルノアの姿が大きく揺らいだ。一瞬形を失って背景に溶け込んでしまいそうになる。霧や煙のように、消えてしまいそうになる。


「ルノア!」


「寄らないで!」


 叫んで駆け寄ろうとしたランテを、ルノアの鋭い声が止めた。


「何で」


「あなただけは……寄らないで」


 問いには答えをくれないで、ルノアは同じ言葉を繰り返すと、しばらく目を閉じていた。次第に姿がはっきりしてくる。次に彼女が目を開いたときには、消え入りそうな危うさはもう残っていなかった。


「……王国については、もう知ったのでしょう?」


 風が吹いたが、ルノアの髪は、そして彼女の着る服の袖や裾は、まるで別の世界に在るかのように微動だにしない。彼女の立つ空間だけがここから切り離されてしまったようだ。前々からずっと胸の片隅に棲んでいた予感が、ランテの中で膨張して途端に存在感を増した。


「ルノアはやっぱり何か王国と関わりがある」


「ええ。ラフェンティアルン王国は私の故郷。そして……私が滅ぼした」


 喉元を締めつけられたような、細く苦しげな声が耳に届く。到底、信じられる話ではなかった。


「オレは信じない。ルノアはそんなことしない」


「あなたは私のことを何も知らないでしょう」


「知ってる」


 そう、知っている。彼女は何度もランテを救ってくれた。そして誰も傷つけないために、一人で強大な敵に立ち向かおうとしている。そんな人間が、故郷を滅ぼすような悪行をするはずがない。断じて、ない。


「……不思議に思いませんでしたか。いくら焚書を行おうと、緘口令を敷こうと、こうも容易く一つの国の存在が——千年以上に渡って在り続けた大国が、人々の記憶から消えるものでしょうか。それも、王国の滅亡からはまだ七百年しか経っていません。西大陸のどこを探しても、伝承一つ残っていないのは不自然ではないかと、そう感じませんでしたか」


 何を言おうとしているのか最初はつかめなかった。しかし彼女の沈痛な表情からランテは察する。


「……まさか」


「王都が沈んだあの日、私は——私が、西大陸の民たちの記憶を奪った」


 日が雲に隠れ、墓地に薄闇が立ち込めてざわめいた。鮮やかな紫の双眸が遥か遠い過去を彷徨う。引き結ばれた唇が、かすかに、何かに震えた。


「私は戦えなかった。屈してしまったんです。結果、聖戦が始まって、多くの民が命を落とすこととなった。今、あなたたちがこうして苦しまなくてはならないのも、私のせいなのです」


 自責が染み渡った言葉だった。今の世に戻ってきた瞳は、すぐにでも壊れてしまいそうだ。それでも彼女は泣かない。泣けないのかもしれなかった。


「きっと何か理由が」


「理由なんてないの。ただ私が弱かっただけ。巻き込んだ人は……私のせいで、全て失ってしまった。だから、私が戦うんです。これ以上この争いで何かを失う者が出てはならない。あなたたちが行くと言うのなら、力ずくでやめさせます」


 ルノアの言葉に応えるように、薄闇が意志を持って動く。全身が冷えるのを感じたがランテは怖じなかった。顎を上げ、ルノアを真正面から見据えて、言う。


「戦いたくて戦ってるって、この間も言った」


「好きで戦う人なんているはずがない」


「ここにいる」


 静まった墓地に、ランテの声は強く響いた。ルノアは言葉を失って、一歩、足を引く。


「どうして?」


 そうして初めて会ったときと同じ台詞を口にした。あのときと同じ泣き出しそうな表情で。


「……今度は私に守らせて」


「何も知らずに守られたくなんかないって、これもこの間言った。ルノアがどう言おうと、オレがどうするか決めるのはオレだ。オレは中央と戦いたい。洗礼や、人を人と思わないやり方をやめさせたいんだ」


 ランテは言い終えてから二歩、彼女に近づいた。


「ルノアは、王国が滅んでからずっと一人で?」


 返事はなかったが、無意味な質問だった。答えは既に知っている。ランテはさらに三歩進んだ。


「七百年もの長い間、ルノアがどれほど辛い思いをしてきたか、オレには想像することしかできない。オレの知ってる言葉じゃ足りないくらい苦しかったと思う。でも、だから、もうそんな思いしなくていいんだ。オレはルノアと一緒に戦いたい」


 もう三歩。ルノアは脅えたような瞳をランテに向けて、竦んだように動かない。


「これからは一緒に戦おう、ルノア」


「できない……できないわ……」


「できないだけじゃ分からない」


「私は……私は」


 震える唇から弱々しい言葉が零れ出る。相変わらず涙は流さないが、声はもう泣いていた。


「七百年、ずっと……平和の戻った大陸を夢見るのと同じくらい……いいえ、もしかしたらそれ以上に、あなたにもう一度逢えることを支えにして……そう……戦ってきた……。もし今度あなたが目の前で……そんなことがあったら、私は……」


 ルノアの姿がまたしても頼りなげに揺らぐ。ゆっくり歩を進めるランテを見て、彼女は大きく首を振った。


「来ないで」


「嫌だ」


 彼女のために自分には何ができるのか、ランテには分からない。何もできないかもしれない。でも、もう一人で戦い続ける必要はないのだとルノアに分かって欲しかった。正面に立ち、見つめる。ルノアの瞳はなぜか懐かしそうに細められた。


「……ランテ……」


 ふいに、細く白い指がランテに向かって延べられる。腕に確かに触れた、はずだったが、その感触は少しもなかった。はっとしてルノアが腕を引っ込める。自分の指の輪郭がおぼろげになっているのを遠い瞳で見下ろすと、彼女は口を閉ざして指を握りこんだ。


「ごめんなさい。どうか忘れて」


 呟くように言って、腕を下げ、瞼を落として、そして開いて、ルノアは凛と顔を上げた。瞳の色が強くなる。


「……私はもはや人の身ではありません。ルノアと名乗りましたが、それは仮の名。今、私の本当の名をお教えします」


 先ほどまでの迷いは一抹も感じさせない、毅然とした表情をしていた。そのとき雲間から射した光が彼女を照らし出す。光を全身に纏った彼女は、言葉通り人の身らしからぬ崇高さを感じさせた。


「我が名はミゼリローザ。闇と東大陸を統べる神です」


 驚きはしなかった。そんな隙も与えないくらい、彼女の姿はひどく美しく神々しかった。


「これは私と我が母ルテルアーノの戦い。神同士の争いなのです。本来、あなたがた人間は手出し無用であるはずです。人の力など、神を前にしては無力も同じなのですから。この争いに人を巻き込んでしまったことは、謝らなくてはなりません。私たち最大の過ちです。ですから、これ以上巻き込みたくはないのです。分かっていただけますか」


「分からない」


 ほとんど反射的にランテは答えていた。言葉を止めたルノアが、落ち着いた——装っているだけかもしれない。ランテにはそう思えた——視線を声主へ向ける。


「ルノアが黒女神でも、一緒に戦えない理由にはならない。ルノアがオレが死ぬことを恐れて一緒に戦えないなら、絶対に死なないって約束する」


「人は戦い続ければ、どれほどの戦士であってもいつか死ぬものです」


「オレは死なない。信じて欲しい」


 何の証もなく、何の保障もできない。信じろと言うには根拠に乏しすぎる言葉だとランテ本人も自覚していた。それでも敢えて口にした。口にしていた。そうすることが必要だと思った。


「……また、あなたは」


 彼女はほのかに表情を動かした。笑んだように見えた。


「ルノアがどんなに強くても、一人じゃ戦えない。現に今ルノアは疲れきってる。相手が神だったとしても、オレにだってできることはあるはずだ」


「……王都に行って、存在を確かめて、それからどうするつもりですか」


「中央の嘘を皆に知ってもらって、一緒に戦ってくれる人を増やす」


「たくさんの人を巻き込みます」


「だから、巻き込むんじゃない。同じ思いを持った人と同じ目標の下戦う。今、オレたちが生きる世界のために戦うんだ。巻き込まれてるのとは全然違う」


 沈黙して、ルノアはしばらく何かを考えていたらしかった。ランテから奥の三人へ、ゆっくり視線が移される。


「あなたたちも、そう?」


 三人はそれぞれ一様に頷いた。


「前に言った通り」


「僕も、巻き込まれてるつもりはありませんよ」


「心外なくらいよ」


「たとえば……命を落とすことになっても?」


「命懸けなら、白軍に入ってからずっとそうだったしな」


「あたしは死ぬ気はないけどね」


「そうだね。みんなで生きて帰ろう」


 聞いてから、ルノアは空を眩しそうに見上げた。いつぞや雲は去り、鮮やかな光と青が戻っている。


「神と呼ばれる存在を身に宿しても、人は、思い通りになってはくれないのね」


 寂しげに独り言つと、再びランテに目を戻す。


「王都を目覚めさせるには、あなたが必要です。あなたが近づけば、王都は自然と悠久の眠りから覚めるでしょう。しかし、同時に王都は無防備になります。誰かが結界を張って守らなければなりません」


 垂らしていた手が、自身の胸まで上げられる。ほんのわずかな動きだったが、洗練された優美な所作だった。


「私がやりましょう。けれど、それには少し力を使いすぎてしまいました。王都を多い尽くすほど大きく、そしていかなる攻撃にも耐えうる強固な結界を張るためには、しばらく身を休め、そして準備をしなくてはなりません。……先に、王都で待っています」


「ルノア、じゃあ」


 期待を込めて尋ねると、ルノアはついに頷いた。


「私も、もう心を決めます。失う覚悟はできないけれど、それを必要ないと言ってくれるのなら、共に戦いましょう。大陸に再び平和をもたらすために」


「もちろん」


「あなたたちが王都へ近づくために、出来る限りのことはします。でも、今の私にできることはそう多くない。どうか無理はしないで……どうか命を大切にしてください。誰も死んではいけない」


「分かった」


 またもや無言になると、ルノアはランテから順に四人を見つめた。最後にまたランテに戻ってきたとき、彼女は確かに微笑んだ。


「ありがとう。少しだけ、救われました」


 ほとんど曇りのない、安らかな微笑だった。

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