【Ⅲ】-2 七百年
東支部は、町の外壁や門と同じように分厚い壁と大勢の兵でがっちりと守りが固められていた。兵たちは皆フィレネの姿を認めると深々と頭を下げる。ナバが言ったように上下関係は北支部よりずっと厳しいようだ。
「支部長、失礼いたします」
建物の最上階に支部長室はあった。フィレネがノックすると、奥から声が返ってくる。厳格な人柄を想像させる威厳ある低音の声だ。
「入れ」
皆に続き、ランテが最後に部屋へ足を踏み入れる。ハリアルの部屋よりもかなり広いが、書類や書物で溢れかえっていた。机の上に積み重ねられた紙束の向こうに、白髪混じりの男性が座っている。東の支部長オルジェ。
「フィレネか。ナバはどうした」
「北門警備に当たらせていますわ」
「そうか。ご苦労。一度下がれ」
「あら、わたくしがご一緒するわけには参りませんの?」
「そうはいかぬから言っている」
「では、下がりますわ。皆さんまた後ほど」
フィレネはオルジェ相手だといやに諦めが早い。くるりと踵を返し笑みを残すと、すぐに扉の向こうに消えた。
「まさかお前たちが来るとはな」
オルジェはセト、ユウラ、テイトを順に見た後、ランテにきらめく白刃を連想させる鋭利な視線を留めた。緊張する。軽い会釈をしておいた。セトが言う。
「お久しぶりです、オルジェ支部長」
「今年の総会には出席しないつもりか?」
「そうなると思います」
「賢明だな。ハリアルとお前が共に今のエルティを離れるわけにはいかないだろう。しかし良かったのか? あのまま回復していないことにしておけば、波風立たさず欠席出来たろう」
意図的に取ったような間を返事に代えて、セトは話を先へと促した。
「……北に援軍を要請されたとの話ですが、激戦区で一体何が?」
「ハリアルから聞いていないか?」
「ここ数日北には戻っていませんので、詳しい話は何も」
「そうか。四日前、北の派遣部隊が壊滅的な被害を受けた。レクシス指揮官の安否も分からない」
次の答えまでには、しばらくの間があった。
「黒軍との交戦の末ですか?」
「違う。一昨日、生き残りの兵が一人、深手を負った状態で東の陣まで助けを求めに来た。その者の話によると内紛らしい。ディオン副指揮官が主犯のようだな」
ランテの隣で、ユウラが呟く。
「ディオン副指揮官が……」
「その人ってどんな人?」
ランテも小声にして聞いてみる。
「考え方はあたしたちとは相容れなかったけど、真面目な人よ。ハリアル支部長より年上で、実力もなかなかだったと思うわ」
説明をくれたユウラは、どうにも納得できないといった表情だ。オルジェの話が続く。
「中央が一枚噛んでいるようだな。今はディオンが指揮を執っているらしく、内紛の結果戦力は減ったようだが、中央軍が援軍として協力し、戦線は決壊していない。東としては現段階では問題はないが、助けを求めた者が北へ知らせることを強く望んでいたのでな。あとはお前たちが好きにしろ」
「……分かりました。ご迷惑をおかけしました」
「生死に関わらず負傷者は全員ケルムに運ばれ、中央軍に監視されているらしい。それも伝えてくれと頼まれている」
「ありがとうございます」
「お前が来たならちょうどいい。聞いておこうか。ディオンの目的をどう見る?」
オルジェの目の端には、値踏みするような色が見て取れた。おそらくセトのことを試そうとしている。それを悟ったかどうかは分からないが、セトは顔色一つ変えず応じた。
「元々中央と距離を置くことには反対していましたが、レクシスのことは敬っていたはずです。中央が噛んでいるのなら、扇動されたか利用されたとしか思えません」
「そうか。どうするつもりだ?」
「まずはケルムで負傷者の手当てと情報収集をしようかと」
「中央の監視はどうするつもりだ」
「北の援軍まで既存の兵力で
「うむ。その後はどうする?」
「ディオンの独断か中央の扇動か……状況が分からない限りは何とも言えません。ですが、黒軍との戦線を決壊させないことを最優先に考えます」
終始オルジェは無表情だったが、ここで初めて首を縦に振った。
「それが分かっているなら何も言うまい」
合格だろう。セトがわずかに肩を下ろした。
「もう一つ聞きたいことがある」
「何でしょうか」
「ワグレから中央軍が引き上げた。お前たちなら何か知っているだろう」
先ほどよりも長い間を、セトはまたしても意図的に作ったように見えた。
「今回はその関連でレベリアに来ました。ただオレたちが知ったことは中央の存続に関わるような重大な事実で、話せば東も中央を完全に敵に回すことになります。もしも聞かない方がいいと判断されたなら、今すぐオレたちを追い出してください。できるだけ大々的に。オレたちがここへ来たことは、そのうち露見するでしょうから」
予想に反して、オルジェは即答を寄越した。
「話せ」
これにはセトも驚いたようだ。
「構わないんですか?」
「西での騒動は知っているか?」
「……いえ」
「黒軍の過激派が西を攻めようとしたらしい。西が自力で撃退したと中央は発表したが、それはなかろう。西にかなりの兵を派遣して防衛強化している。激戦区でも中央の部隊は負けが続いて人手不足だ。中央に今、他の支部へ兵を差し向ける余裕はあるまい」
黒軍の過激派。黒軍にも派閥のようなものがあるらしい。ランテにはほとんど黒軍の知識がなかったが、白軍と同じようなものと考えてよいのだろうか。
「では、話します」
セトはエルティ襲撃からワグレ潜入、そして脱出までを簡潔にまとめた。オルジェは表情を変えることも口を挟むこともなく耳を傾けている。
「王国記の中身については、オレからより——テイト」
「はい。それでは僕からお話します。こちらがその書物になるのですが」
テイトが進み出て、取り出した王国記をオルジェに手渡した。オルジェは受け取ると表紙を検め、ぱらぱらとページを捲る。
「王国記には主にラフェンティアルン王国の歴史が綴られています。小国の集まりだった大陸を統一し王国を築いた初代の王から、王国が滅びる二十七代の国王の時代まで、各代の王の統治を主軸にして民の生活や王国各地の風土についても言及しています。詳しくは実際に読んでいただいた方がよいかと思われますが、要約するなら、このラフェンティアルン大陸には聖戦以前に千年以上に及ぶ王国の時代が存在したこと、王国では始まりの女神という全ての属性を統べる女神が崇められていたこと、今は残らない言葉や技術そして呪が存在したこと、白黒両女神は二十七代国王の御世の末期に始まりの女神から力を奪う形で生まれたこと、そして国王の姪の夫にあたる者の陰謀によって王国は滅び、二人の女神が争う戦場となった王都は壊滅的な被害を受け水底に沈んだこと」
テイトは手際よく要点だけさらった説明を終え、後に補足を続けた。
「不明な点はいくらかあります。千年もの歴史を持つ王国の痕跡がこの大陸の中にほとんど見受けられないのはその最たるものですが、今の中央の情報規制やワグレ、そしてエルティへの攻撃などその徹底ぶりを考えると、説明はつくように思います。過去にもそのようにして王国存在の証拠を抹殺してきたのでしょう。白軍中央政府の樹立後、黒女神信仰撲滅との名目で大規模な焚書が行われたことは、オルジェ支部長もご存知のはずです」
王国記を閉じて、オルジェはテイトに返却する。ひとつ、深い頷きを添えて。
「王国説の存在は気になってはいた。おそらく事実だろう。だが証拠がなければどうにもならん」
「大陸のちょうど中央がかつての王都の場所です」
「エマリーユ湖か。水底に王都が今なお残っていると?」
「僕らはその可能性を信じて、確認のため激戦区へ向かおうと考えていました」
「ふむ。だがそれを許す相手ではなかろう。中央の激戦区派遣部隊の長はリエタ聖者だ。たった四人で相手にするつもりか?」
テイトがセトを見た。選手交代の合図だろう。頷いて、セトが再びオルジェと向き合った。
「……ですから、あなたに話しておきたいと思ったんです、オルジェ支部長」
「なるほど。決死隊というわけだな。そもそもワグレへの突入からして無謀な話。味方となり得る誓う者の存在を知っていたとしてもだ。よく生きて戻ったな」
「誓う者の助力によるところが大きかったので」
「今度はその助力なしに立ち向かうことになるのだぞ」
「はい。全滅が避けられればそれだけで御の字だと」
「それすら叶う可能性はないに等しい値だ」
ここでセトはランテを振り返った。
「ランテは光呪使いです。リエタ聖者は光呪を使えない。数瞬稼げれば希望はあります」
ワグレからレベリアまでの道中、ランテはセトから光速の扱い方を習っていた。セトは精度よりも速さと距離の長さを磨くことを優先して教えてくれたが、昨日——もしかしたら日付が変わっていたかもしれないが——の話と、今ここでの話を聞いて、ランテはその意図を知った。敵地から、ランテが一人だけでも逃れられるように、そのための。しかし、と思う。もしもそんな事態になったら、自分は本当に、冷静にその決断を下せるだろうか。首を振っていた。できない。
悩むランテを残して、オルジェとセトの会話は進行する。
「副官のクスターは光呪使いだ」
「できれば真っ先に仕留めたいと考えています。他の光呪使いではランテには追いつけません」
「強いぞ」
「そうですね。そしておそらく召喚士」
「分かっているならいい。東も出来る限りの協力はしよう。だが一つ言っておく。今の北にとってお前たちを一人でも失うことは、大きすぎる損失になろう。よく考えろ」
「……はい」
返事してから、セトは沈黙した。ややあって、おもむろに言葉を継ぐ。
「オルジェ支部長、聞いておきたいことがあります」
「なんだ」
「湖底に王都が存在したとして、の話になります。東は中央打倒のために動きますか?」
オルジェは静かに答えた。
「無論だ」
「黒軍との戦いはどうされますか」
「聖戦は中央政府が始めた、ゆえに中央が倒れれば戦う理由がなくなる、と言いたいのか?」
「争いを止めることを、ワグレの誓う者は望んでいました。オレも無意味に争うことはないと考えます」
「もう無意味ではなくなっている」
厳かに、オルジェは言った。
「七百年間以上、白軍と黒軍は争ってきた。確かに元を辿れば中央の指示だが、実際に戦地に立ったのは我々だ。殺された親兄弟や友の無念を晴らすため、黒軍を憎み戦地に立つ者も多い。いや、大多数がそうして戦っている。戦いを止めろと言われて納得できる者はいない。七百年の時の楔は、我々を容易く自由にはしまい」
七百年。想像を絶する、あまりに長い時間だ。その間、白軍と黒軍は互いを憎み続けてきた。そう仕向けられたのだとしても、憎悪の気持ちは一人一人のものだ。オルジェの言うように、簡単に捨てられるものではなかろう。
「黒軍が戦意を喪失したならば、考え直さざるを得ないがな」
続けられた言葉にも、希望は見出せなかった。黒軍とてこちらと同じだろう。遥か彼方、ランテはまだ見ぬ激戦区を思った。今も虚しいだけの戦いが続いていると思うと、やるせなさと一緒に怒りが募った。中央と、そして、白女神とやらへの。それでも、争いを止めるために己ができることはほとんどなくて、ランテは顔を俯けて黙るしかない。今度は悔しさがせり上がった。
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