【Ⅲ】-1 東支部へ
戸を叩く音に揺り起こされる。瞼を開いて、部屋の明るさに気づく。夜明けから大分時間が経っているらしい。
「ランテ、あんたまだ寝てるの? いい加減起きなさい。朝食冷めちゃうわよ」
扉の向こうからユウラの声がする。ゆうべのことはもう大丈夫なのだろうか。まだ安定しない視界の中、ランテは覚束ない足取りで扉まで進んだ。
「ごめん、今起きた」
扉を開いて目をこすりながらそう言ったランテに、ユウラは呆れたような顔をした。
「寝すぎよ。東支部から遣いが来てるわ。支部に招かれてるから、急いで支度して降りてきなさい。これ、食べ終わったらそのまま部屋に置いといてって宿の主人が」
持っていたトレーをランテに差し出してくる。おいしそうなパンとスープ、サラダと卵料理、コップ一杯のミルクが載せられていた。わざわざ届けてくれたらしい。
「ありがとう」
「いいから支度しなさい。ここで待ってるから」
ユウラが二歩下がって向かい側の窓の傍にもたれかかる。ランテは慌てて首を振った。
「え、いや、いいよ。時間掛かるかもしれないし、みんな下にいるなら——」
「東の遣い、苦手な奴なの。急げって言ったけど、ちょっとくらいなら時間が掛かったって構わないわ」
うんざりした顔でユウラが言う。そういう理由があるなら断る必要もなかろう。ユウラが苦手な人物とは一体どのような者なのだろう。興味を引かれる。
「分かった。でも立ったまま待たせるのは悪いから」
「それなら自分の部屋にいるわ。終わったら呼びに来て」
「了解」
ユウラを見送ってから、ランテは扉を閉めた。
食事を済ませて顔を洗い、着替えも終える。ユウラを呼びに行き、共に階下へ向かった。ロビー横の食堂には、もう朝食の時間はとっくに過ぎているのだろう、ほとんど客らしい姿は見えない。奥の方に、セト、テイト、そしてもう一人の姿を見つけて歩み寄る。
「あ、ランテ、おはよう。よく眠れた?」
気付いたテイトが笑って挨拶してくれる。ランテが答えるより先に、後ろのユウラが口を挟んだ。
「もうおはようって時間でもないわよ」
ランテは思わず苦笑いする。
「遅くなってごめん。久しぶりのベッドだったから寝心地よくてつい」
「長話のせいで寝るの遅かったしな」
「セトはちゃんと寝た?」
「ああ」
ランテとセトが会話を交わす間、一番手前に座っていた者——おそらく彼がユウラの言う「東の遣い」なのだろう——がじっとランテを見ていた。気になって顔を向けると、セトやユウラと同い年くらいの若者が座っている。
「あんたがランテさんか。フィレネ副長が気に入ったって言うからどんな人かと思ってたら、意外と普通すね」
何の臆面もなく、率直な第一印象を面と向かって述べられる。普通というのは確かにそうで、ランテも自分の顔を記憶喪失以降初めて鏡で見たときは、安心半分落胆半分の複雑な心境だったのを思い出した。特にこれといった特徴がない素朴な顔立ちで、ランテ自身でさえすぐには覚えられなかったほどだ。
「ランテ、あれが東からの遣いよ。ナバって名前で、実力的にはフィレネ副長の隊の三番手。一応副長副官よ」
「ユウラ先輩に紹介してもらえるなんて光栄——」
「元は南で実戦部隊の隊長やってたらしいけど、馬鹿やらかして放り出されて東に拾われたのよ」
ユウラの補足にナバは苦味を含んだ笑みを浮かべて、頭を掻いた。
「何もそこまで説明しなくたって」
「馬鹿って何やらかした感じ?」
興味本位でランテはつい聞いてしまった。ナバはなんでもない風にかなり衝撃的な事実を披露する。
「支部の女に六股かけたのがバレただけっすよ。ところでランテさん。あんた何歳?」
前半分にショックを受けすぎて、話の展開についていけない。ランテは急いで頭を動かして追いついた。
「え? あ、ああ……何歳だろ? 十五は越えてると思うけど」
前にセト、ユウラ、テイトの三人がランテの年齢を予想したときは、十六、七だろうとの最終結論が出ていた。四人の中では一番年下ということになっている。
「オレより年上には見えないし、白軍暦も短い……よし、敬語遣わなくていっか」
一人で解決して、ナバはへへっと笑った。外見も——髪や服装など身なりにはかなり気を遣っているように見える——口調も経歴も、なんとも軽そうな男である。悪い者ではなさそうだが。
「別に僕たちにも遣わなくていいのに」
テイトの言葉に、ナバは大仰なため息をついてみせた。
「オレもそうしたいのは山々なんですけど、東は上下関係厳しいんすよ。ユウラ先輩もいることだし、北に転勤願出そっかなー」
「あんたに毎日絡まれると鬱陶しくて仕事にならないわ」
心底迷惑そうな顔でユウラが答える。ナバはユウラの素っ気ない態度を気にすることなく言葉を重ねていく。タフな精神の持ち主だなとランテは感心してしまった。
「そういうつれないところがいいっすよね。俄然燃える。言っときますけどオレ、ユウラ先輩のことは本気ですからね」
「それ何人に言ってんのよ。どうでもいいから話進めて。ランテも来たし、すぐに支部に行く?」
「どうでもいいってあんまりっすよ」
わざとらしく眉根を下げてナバは悲しそうな顔を作ったが、大して気にしていないように見える。やはりそうだったらしく、次の瞬間には彼は軽い笑みを戻して腰を上げた。
「そいじゃ行きますか。セト副長、とりあえず支部長室まで案内しますんで。誤解はそのとき直接解いてください」
「分かった。助かるよ」
「お安い御用すよ」
「誤解?」
一体何のことだろう。ユウラが答えをくれた。
「二日前、東は北に救援要請してたらしいのよ。激戦区の人手が足りてないみたいね。オルジェ支部長は、あたしたちがその救援だと思ってる」
ナバが頷き、話を続けた。
「そういうこと。副長、支部長室には全員通しましょーか?」
「そうだな……ランテは来てくれ。ユウラとテイトはどうする?」
セトの問いを受けて、先にユウラが、次いでテイトが返事した。
「あたしも行くわ。フィレネ副長には会いたいけど、他には特にやることもないし」
「なら僕も。オルジェ支部長の意見、聞いてみたいしね」
「フィレネ副長にはすぐ会えると思いますよ。今日は北門勤務のはずですし。……ついでにそのとき、オレが立派に役目果たしたこと、それとなくフィレネ副長に伝えてくれると助かるんすけど。減給食らってるんですよ」
ナバは期待を込めた目でちらりとユウラを見たが、彼女はすげなく断った。
「無駄だと思うわよ。フィレネ副長は一回決めたことはそう易々とは翻さない人だから」
「やっぱそうっすよねー。はあ。オレが餓死したらどうするつもりすかね、あの方は」
ランテたち四人はぼやき続けるナバの先導に従って、レベリアの北門まで歩いた。朝の下町は黄昏時と比べると寂しい。昨日許可を待っていた者たちは、夜明け過ぎにはもう上の町へ行ってしまったのだろう。
それほど時間は掛からないうちに北門が見えてきた。正門に比べると大きさでは劣るが、ここでも門は三重で頑強さでは変わらない。長い階段を上る途中栗色の巻き髪を見つけて、ランテはしり込みした。テイトも怯んだのが分かる。やはり、門の中央に見えるのはフィレネ副長で間違いないようだ。ランテは歩調を緩め、ユウラの陰に身を隠した。視界の隅でわずかにフィレネの姿が捉えられる。あちらからはほとんど見えていないはずだ。見つからないことを祈りながら、一段一段、足音も忍ばせながら歩いた。
階段を上ってくる集団を見つけたらしいフィレネは、門を出てさらに階段を数段下りて出迎えると、まずはユウラに声をかけた。
「ユウラ、久しぶりですわね。この間北へお邪魔したときには姿が見えなくて心配してましたのよ」
「久しぶりです、フィレネ副長。色々あって……でも、もう大丈夫です。よければまた手合わせお願いしますね」
「喜んで受けて立ちますわ。そちらは——」
嫌な予感がする。フィレネはランテに逃げる間を与えず、素早く左へ移動した。大きな目と視線がかち合う。
「まあ、ランテ様。いらしたのね」
諦めて、ランテはユウラの陰から出た。
「えーと、お久しぶりです」
「他人行儀はよしてくださいな。あれほど語らった仲ではありませんか」
「え? ……え?」
意味が分からない。当惑するランテをよそに、ユウラ、テイト、セトの三人は悠長に会話をしている。
「リイザの情報は本当だったのね。まさかフィレネ副長がランテを気に入るなんてね」
「助けてやりなよ、ユウラ」
「いいじゃない。ランテにフィレネ副長なんてむしろもったいないくらいよ」
「ランテに同情したくなるな」
「だね」
そのとき、フィレネの視線が逸れた。それだけでランテは安心する。彼女の目に険しさが混ざったのに気付いて視線を追うと、フィレネはセトを見ていた。
「あらセト副長、まだご存命でしたのね。あなたが早々に殉職でもしてくだされば、心置きなくユウラとランテ様をこちらにいただけるのですけれど」
「残念だけどこの通りだ。両方ともうちの大事な戦力なんで、東にはやれないな」
フィレネはセトの返答には一切の関心を示さず、ユウラとランテにとびきりの笑顔を向けた。綺麗なのだが、ランテの背筋は冷えていく。どうにも彼女は恐ろしい。
「ユウラ、ランテ様、異動はいつでも大歓迎ですわよ。そこの副長さんに愛想が尽きたら、ぜひ東にいらっしゃいな。それで……確かナバがご一緒してるはずですわね。あの子はどちらに?」
確かに、ナバの姿が見えない。捜すと先ほどまで一番先を歩いていたはずのナバはランテより遥か下の方にいて、こちらの様子をこっそり窺っていたらしい。いつの間に。ぜひ伝授してもらいたい逃げ足の速さだ。
「あの子呼ばわりはやめてくださいって、いつも言ってるじゃないすか」
彼も観念したらしく、こちらへ向かって階段を上りながら不満を述べた。フィレネは片手を腰に当てて軽く胸を張ってから応じる。
「そういう口は一度でもわたくしに勝ってから利きなさいな。ナバ、ここからはわたくしが皆さんを支部へ案内しますわ。代わりにあなたが北門警備の指揮を執って頂戴」
「えー」
「あら、わたくしに口答えするつもりですの? 給金がまた半分になりましてよ」
途端、ナバの顔色が激変した。慌てた声が飛び出る。
「ちょ、そりゃないっすよフィレネ副長! ただでさえオレもう四分の一になってるんすよ!」
フィレネは勝ち誇った笑みを浮かべて、選択肢の一つしかない問いを提示した。
「でしたら、もう分かりますわね」
不服そうな顔をしながらも、ナバは頷いた。勝負ありだ。
「はいはいかしこまりましたどうぞお任せください」
「いい子ですわね。頼みましてよ。では皆さんはどうぞこちらへ」
今度はフィレネの先導に従いながら、名残惜しそうに一団を見送るナバにランテは心から同情した。
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