5:時の楔

【Ⅰ】-1 旅路

 聞こえない。意味を持たない音が耳をかすめて流れていく。あともう少しで届くような気がするのに、指先にほんのわずか触れているだけで、決して掴めない。どれほど願おうと、求めようと。


 夢だという自覚が既にあった。じきに醒めてしまうことも知っていた。けれども、悪夢なのかその反対なのか、それがいつも分からない。苦しい。でも、何か、安らかなものが傍にある気がするのだ。目を閉じたときに見える、あの優しい闇に似た何かが。


 意識が浮き上がる。今日もまた何一つ知ることが出来ずに醒める。音がまだ耳の奥で鳴っている。聞こうと努めれば努めるほど、遠くなる。拒絶されているのか、拒絶しているのか。


「ランテ」


 呼び声に、ランテはついに覚醒した。首を起こす。どうやら座ったまま眠っていたらしい。誰に呼ばれたのか分からなくて、声主を探した。もう長いこと人には使われていなかったのであろう小屋の中に、ひとつだけ残されていた寝台の上で、身体を起こしていたのは。


「魘されてたわよ」


「ユウラ!」


 安心から思わず叫ぶように言ってしまったランテを見て、ユウラは少々困ったような顔をしてから、普段より小さい声で答えた。


「……そんなに大声出さなくたって聞こえてるわ」


「大丈夫? ごめんオレ、いつの間に寝て」


「あんたも疲れてるんでしょ。もう少し寝てたら? あたしは平気だから、ここ、使うといいわ。あとの二人は? あれからどうなったの?」


 テイトと合流後、無人だった泉のほとりの小屋の中でしばしの休息を取ることに決めた。それからどれくらい経っただろう。先ほどまで——どれほど眠っていたかは分からないが、おそらくそう長い時間ではないだろう——中に居たはずの二人の姿が見当たらない。ランテは窓を見やったが、この場所からでは木の先端部と空しか見えなかった。まだ夜は明けていない。


「セトとテイトはさっきまでここにいたけど、今は外を窺いに行ってるのかもしれない。ここ、あんまりワグレから離れてなくて。ユウラが目を覚ましたら出ようって話してたんだけど」


「あんたたち、少しは休んだ?」


「オレはさっき寝ちゃったみたいだから。セトとテイトはどうかな……たぶん、ほとんど休んでないと思う」


「二人、探してくるわ。休ませないと」


 ユウラが布団をどけ、寝台から降りようとする。ランテは慌てて止めに入った。


「待ったユウラ、オレが行ってくるから。ユウラはもう少し寝てたほうがいい。まだ顔色悪いし」


「平気だって言ったでしょ」


 しっかりとした声ではあるが、あれだけの怪我を負っていたのだ、完全に回復したということはなかろう。しかし他の二人とて疲労困憊であるのは間違いないはずだ。今さらだが、ひとり眠ってしまったことをランテは強く悔やんだ。ユウラに首を振ってから、言葉を継ぐ。


「またすぐにでも戦わなきゃいけなくなるかもしれないから、今は休んでたほうがいい。オレが行ってくる」


 傍に立てかけておいた剣を掴みユウラの返事を待たずに、ランテは小屋の出口を開いた。その瞬間、目に飛び込んできた光景に唖然とする。


「なんだこれ……」


 思わず呟いてしまう。目前に展開する景色がとても現のものとは思えなくて、ランテは何度も瞬いた。後ろからユウラが近づいてきて、ランテと同様に息を呑む。


「あ、ランテ。ユウラも。よかった」


 聞こえてきた声に顔を向ければ、テイトとセトは扉のすぐ傍にいた。テイトが安心したように綻んでいる。


「これ、いつから?」


 小屋と泉を囲うように成長し、優美な曲線を描きながら互いに絡み合った枝葉や蔓を指して、ランテは問うた。閉じ込められているというよりかは——上部以外に出口は見つからないから、閉じ込められていのかもしれないけれども——包まれているような感じを受ける。澄んだ空気が、肌を撫でるような風に連れられて漂ってきた。


「ついさっき。中央の光呪使いが一人近づいてきてたんだけど、それから守るように。ほら、あそこ。精霊があんなに」


 泉の上では精霊がいくつも集まって、緩やかなテンポで明滅を繰り返しながら浮遊している。水面もそれを映していて、まるで幻のように美しい。


「こんなこと、初めてだよ」


 テイトが言葉少なに、それだけ言った。しばらく舞い続ける精霊たちを見てから、付け加える。


「でも、お陰でこの向こうの様子が全然分からないんだ。敵の呪力が全然拾えない。セトはどう?」


「こっちもさっぱり。ここだけ切り離されてるみたいな感じだ。でも、向こうも一緒だろうな」


「ここにいれば安全かな?」


「多分、ここを出るよりかは。……今は全員、まともに戦えるような状態じゃないしな」


 作ったような苦笑を添えてから、セトはランテとユウラの方に向き直った。


「二人とも、大丈夫か?」


「オレは全然大丈夫。寝ちゃってごめん」


 ユウラは答えないままランテの脇を通り過ぎて、小屋から出た。セトの前まで来ると立ち止まって、無言で見上げる。


「……何?」


「何じゃないわよ」


 言葉と同時に持ち上げた手で、ユウラはセトの胸の中央辺りに軽く触れた。痛んだのだろう、途端息を詰めたセトを、今度はいささか咎めるような目で見る。


「人のことを気にする前に、自分の怪我を気にしなさい」


「ユウラの言う通りだよ、セト。見張りなら僕がしてるから——」


「あんたもよテイト。眩暈がするなら無理はしない」


 ひとしきり叱り終えてから、ユウラはつと視線を落とした。髪が頬にかかって表情が見えなくなる。


「……ごめん。迷惑かけたわ」


 聞いてテイトが微笑み、セトは一度ユウラと同じように視線を下げた。何か深刻なことを考えている、そんな顔をしていたようにランテには映った。


「無事でよかったよ」


 テイトの言葉に、ランテと、顔を上げたセトとで頷く。


「全員、満身創痍だな」


 セトの呟きに、今度はランテが答えた。


「でも、全員無事に帰ってこれた」


 安堵の笑みが全員に広がる。空気も安らいだ。心なしか、少々温かくなったような気さえする。


「だな」


 見れば、東の空が白み始めている。夜明けを迎えようとしていた。




「わ、ちょっと待った。無理無理、無理だって!」


「待ったはなしって言ったでしょ」


「ユウラ、ちょ、ほんとストップ。腕痛い……わっ」


 力強く薙がれた槍に、弾き飛ばされた剣が空高々と舞った。腕にじんと痺れが残る。剣がくるくる回りながら落下する様を呆けたように見ていたランテだったが、ユウラはまだ容赦しなかった。返した槍の柄が迫ってくる。気づいたのは当たる寸前だ、避けることは出来ない。したたかに腰を打たれる。勢いのまま、ランテは前に倒れた。衝撃が骨に響く。


「痛っ」


 思わず口に出していた。それほどには痛い。ユウラは転んだランテを見据えて槍を戻した。身体の前で二度回して構え直す。初めて見たときから思っていたが、相変わらず姿勢の良いきれいな構え方だ。感心してしまう。


「ここが戦場だったら今ので死んでるわよ」


「張り切ってるね、ユウラ」


 テイトが笑い声を上げてから言う。その隣ではセトも笑っている。腰をさすりながら起き上がると、ユウラが槍を持ったままの腕組みをして待っていた。


「あんた、そんなんでよく生き延びられたわね。ヨーダのときはもう少し動けてたでしょ?」


「なんかやりにくくて」


「終始ユウラのペースだったからな」


「広いところだと、リーチの差で剣じゃ槍には相性悪いしね」


 セトの批評とテイトのフォローを聞く。ふと支部での実戦演習を思い出した。


「そう言えば、アージェとか……フィレネさんだっけ? 東の副長とやったときもやりにくかったな」


「広い場所で長物相手にするときは不利になるのは仕方ない。その代わりちょっと工夫しないとな。例えば」


 セトが剣を抜きながら進み出る。受けて、ユウラが半歩足を引いた。唇を結んで緊張した面持ちになる。


「一戦、いいよな?」


「いいわよ」


 剣を構えて、セトが少し笑んだ。ユウラがさらに緊張したのが分かる。


「リーチの差をどうにかしないと、押されっぱなしになるから」


 ユウラが仕掛ける突き主体の攻撃を、セトは受けずにかわしていく。後ろへではなくて、横へ横へ。ユウラの方が徐々に突きでは追いつけなくなって、槍を素早くわずかに持ち替えた。薙ぐつもりだろう。


「速さに自信があるなら、薙がせて——」


 今度は後ろに最小限の動きで避けて、槍がセトの身体の前を行き過ぎた直後、ランテは彼の姿を見失った。瞬きの後に、距離を詰めきったセトがユウラに剣を突きつけているのを見つける。


「今の、呪は?」


「使ってない」


「……そう」


 ユウラが悔しげに言った後、素早く身体を回転させる。繰り出された回し蹴りを、セトは槍も届かないような場所まで跳躍して避けた。目を疑いたくなる瞬発力だ。


「ああやって距離を詰めればいいけど、ユウラの場合は蹴りが飛んでくるから注意な」


 ほとんど使っていない剣を、セトは鞘に戻してランテに向き直った。ユウラも槍を背中に直して戻ってくる。


「セト、オレそんな速く動けない」


「ユウラは立て直しが速いから、あれくらいでいかないと厳しい。力の方が自信あるなら、突きを伸びきったところで弾き上げてもいいけど、やってみるか? さっきみたいに、痛い目見ることになると思うけどな」


 ユウラの力の強さは身をもって知っている。やる前から結果が目に浮かんできた。ランテは急いで首を振る。


「……他には?」


「呪が使えるならそれが最善かな。やっぱり長物相手に剣で直球勝負は分が悪い」


「呪もまだそんなに」


 自信なさげに言いかけると、テイトが割って入ってきた。


「大丈夫だよ、ランテ。僕がしっかり教えるから」


 テイトは微笑んでいるのに、ランテは背筋が冷えていくのを感じた。相変わらず恐ろしい。


「テイト、あたしにも頼むわ。そろそろ実戦で使えるようにならないと」


 テイトはユウラにも微笑む。彼女もランテと同じく、少々不安げな顔になった。テイトはやはり誰にでも厳しいようだ。


「任せて」


 テイトを恐れるランテとユウラを後目に、セトは笑っている。こちらの身にもなってもらいたいものだ。




 出発前、小屋の中で、四人で今後の目標と目的地を話し合って進路を決めた。


「北へは戻らない?」


 最初にランテがそう聞くと、セトは「戻りたいけど」と前置きした後答え、会議が始まった。


「今戻るのは危険だ。敵はオレたちが北に戻ることを真っ先に考えるだろうから、待ち伏せされている可能性が高い。無事たどり着いたとしても、前みたいに町ごと標的にされるかもしれない。それだけは避けないとな」


 手にしたラフェンティアルン王国記に目を落として、次はテイトが口を開く。


「それなら、激戦区に向かう? イベットさんが話してくれた王都の探索をしてみるとか」


「ああ……」


「セト?」


「どっちにしても——」


 何かを考えながら言いかけて、しかしセトは口を閉ざした。ユウラが怪訝な顔で聞く。


「何?」


「いや、悪い、何でも。激戦区へ向かうなら、東の協力が不可欠だな」


「東って、東支部のこと?」


 問いには、テイトが返答をくれた。


「東の準都市レベリアにあるよ。ここからだと少なくとも四日はかかるかな」


「レベリアに着いてからも、中に入る許可取るのに一日は掛かるわよね。その許可も中央を完全に敵に回したあたしたちに、下りるかどうか」


「たぶん町へ入る許可自体は取れる。東だって情報は欲しいはずさ。問題はその後だ。東は北に比べて攻められにくいが、本格的に対立するとなると中央はどう出てくるか分からない。戦力的に東は北を上回るが、激戦区にもかなりの兵力を割いてるし、そう大きくは変わらないよな。中央に本気になられると潰されるのは同じだ。オルジェ支部長がどう判断するか。全面的な協力は——まあ、どうなってもオレたちを中央へ突き出したりはしないだろうけどさ」


 セトは淡々と話したが、現状あまり良い見立てはできないことは、選択された言葉から受け取れた。


「東の協力が得られなかったら?」


 躊躇いながらもランテが聞いてみると、セトも少々躊躇ってから答えを寄越す。


「このまま四人でってのは危険だな。敵が多すぎる」


 しばらくの間、重い沈黙が流れる。ランテはワグレでの戦いを思い出していた。大きな兵舎、上級司令官、白獣、そして聖者。あれ以上の敵と対峙するとなれば? もはや予想できる範疇すら越えていた。顔を俯けたとき、ユウラの言葉を聞く。


「でも、やるしかない」


「……そうだな」


 間を置いてから答えたセトの声に何やら違和感を覚えて、ランテは彼を見た。どこか遠いところを見ているような目が、なぜかとても苦しげに見えて、気づけば聞いていた。


「セト、大丈夫?」


「何がだ?」


「いや、なんだろう……オレの気のせいかも」


 セトはしばらくランテを見返してから、笑ってみせた。


「別にオレは何ともないけど? 怪我だって大したことはなかったし」


「なら、いいけど」


「セトも呪力使いすぎてるしちょっと休まないとね。休んでからは、とりあえず東を目指すってことでいいのかな」


 テイトがまとめ、ユウラが頷いて、行き先が決まった。


「それがよさそうね」




 小屋を出て休息を挟みながら一日半、精霊に守られながら林の中を歩き、平原に出てからさらに二日。ランテたちは東の準都市レベリアを目指して南進していた。出発前の肩慣らしを終え、四人は今日もまた南を向いて歩き続ける。進み始めてからも何度か休憩は取っているが、疲労は抜けきらない。皆も万全からは程遠いだろう。しかし三人は誰もそんな素振りを見せない。感心しながら、ランテも倣う。


 ワグレからはそれなりに離れ、少し気は楽になった。今のところ追っ手もない。平原に出てからは見通しが良くなったことに加え、外套が必要ないほどに温かくなったことも相まって、和やかな談笑混じりの旅路となる。


「でも、不思議だったよね。どうして精霊は力を貸してくれたんだろう? 結局森を出るまで守ってくれたみたいだし」


 テイトにユウラ、続いてセトが賛同した。


「精霊が能動的に人の助けをするなんて、聞いたことないわ」


「あり得ないよな、普通なら」


 泉の上の大勢の精霊たちを思い出した。不可思議で、だからこそか、強く目を奪われる光景だった。


「テイト、呪を使うためには精霊と契約しないとって前に話してくれたけど、一体どうやって? ネーテがやってたのは見たけど」


「契約には、【宿りの呪】っていう呪を使うんだ。ただ、合う合わないもあるから——力の釣り合いが取れていなかったり適性のない属性だったりすると、上手くいかなかったりもするんだ。二度目以降の契約は、既に宿っている精霊との相性もあったりするからさらに難しい。ランテは光の呪を使うから、特に難易度も高いんだ。でも光は一つ使えれば十分だよ。何だってできる」


 テイトの丁寧な説明の後には、ユウラのお叱りが続く。


「あんたはとにかく実戦で無謀なことするのやめなさい。ちゃんと扱えてもないのに光速で突っ込んでくるような馬鹿なこと、もう二度としないようにしなさいよ。命がいくつあっても足りないわ」


 白獣と戦ったときのことが蘇って、ランテは慌ててユウラに謝った。確かに、ああして自分の過失のせいで皆を巻き込むようなことは二度と御免だ。


「光速は僕よりセトに習うといいよ。疾風と似てるから」


「セト、いい?」


 セトは少々意地悪さを含んだ笑い方をした。


「いいけど、覚悟しとけよ?」


「テイトよりは優しいかなと思ったんだけど」


 聞き捨てならないといった様子でテイトが口を挟む。


「僕は優しいって。怒らないし。セトの方が厳しいかもしれないくらいだよ。どう、ユウラ?」


「二人とも似たり寄ったりね。こっちが悪戦苦闘してるの見て楽しんでるでしょ? ……でも、そうね。テイトの方が露骨な悪意が見て取れる分、性質が悪いかもしれないわ。あんたも気をつけなさい、ランテ」


「そうしとく」


「露骨な悪意か。なるほどな、確かに」


「そんなものないんだけどね。人聞きが悪いなあ」


 笑いながら、一行は歩く。その後も話は尽きず、黒獣の姿も中央兵の姿も見ないまま昼下がりまで進み続けた。その頃になってようやく、遠くに東の準都市レベリアの町影が見えてきた。

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