【Ⅱ】   不戦

 女は町の南側を一周し、ところどころで呪を使った。何をしているのかと聞くと、言葉少なに下準備だというような答えを寄越して、それきり何も語らない。


「あなたは『私に任せてもらいたい』と言った。何か策でも?」


「苦肉の策なのです。本当は黒軍に思い留まってもらいたかった……でも、話は聞いてもらえませんでした。誰も傷つけないためには、もう、こうするしかない」


 ——潜伏している黒軍のことは気にしないで、北側に住む民衆たちを迅速に避難させてください。敵が引くまでには、それほど長い時間は要さないはずです。身の安全を第一に考えて欲しいと、民たちにはそう伝えてください。


 俄かに信じがたいが、おそらくこの女は南側一帯に結界を張るつもりでいる。こんな若い女に、そんな大それたことが出来るのだろうか。そしてなぜそうまでして、戦を避けようとするのだろうか。女は一体何者か。カゼッタの頭には謎ばかりが浮かぶ。


「民たちの避難には、どれくらいかかりますか」


「サード副長が指示される。それほど時間は取らないはずだ。もうそろそろ完了すると思われるが」


「分かりました。では、今から黒軍の居場所に向かいます。目付け役はあなた一人で十分でしょう。そんなに大勢の白軍を連れて行けば、戦を仕掛けに来たのかと疑われます」


 正論だったが、カゼッタは戸惑った。ゴダとその護衛兵を一人で無力化したような女だ、万一事が起こればたった一人で対処できるか。しかしと思い直す。もしもこの女が、スフィリーナの南側を覆い尽くすような結界を張れる力を本当に持っているのだとしたら、数など無意味だ。何人いたとしても、その気になれば即倒される。


「全員、支部に戻ってサード副長の指示に従え」


 腹を括って、カゼッタは命じた。鎧が支部へ戻っていくのを見て、女は少し笑んだ。


「ありがとう」


 神々しさすら感じる美しい微笑だった。カゼッタは支部のロビーの天井一面に描かれた白女神を思い出した。酷似していると思う。


「少しの間離れてください」


 カゼッタが下がったのを確認してから、女は目を閉じた。右手を延ばし手のひらを下に向けて地面と水平にかざす。女の立つ場所を中心にして、光り輝く大きな紋が現れた。紋はいくつも弧を広げながら、女の瞳と同じ色の文字で飾られていく。中央からさわりと風が生まれて、女が纏っている黒い布を揺らした。黒の合間から、白いワンピースが覗く。


 完成の瞬間、紋は鋭い光を放った。視界が一瞬、宵の空の色一色に染まる。思わず閉じていた目を開いて、カゼッタは愕然とした。町の半分が淡い紫の膜で覆われていたのだ。


「行きましょうか」


 これだけのことをして見せても、女は息を切らすことひとつしない。わずかに乱れた黒布を直してすぐに歩き始める。カゼッタは残されて輝き続けている紋に目を落とした。呪に関して多少は知識を持ち合わせているカゼッタの目から見ても、どのような仕組みになっているのか皆目分からない。複数の陣を組み合わせているように思われるが、それをあれほど短期間で、しかもこの規模でやってみせるなど人間業とは思えない。先刻の微笑を思い出す。あの女は白女神の化身かと考えて、カゼッタは自分の突拍子もない想像を笑った。下らないことを考えている場合ではない。姿を見失わないように、急いで女の背中を追った。




「手出しは一切しないでください」


 町の北側の入り組んだ路地を進み、外壁が見える場所まで出ると、女はカゼッタを振り返って言った。黒軍の拠点が近いらしい。


「剣は抜かないで。あなたの安全は、私が保証しますから」


 直前にあれだけの力を見せつけられていると、言葉の信憑性は十二分にあった。相手がどれほどの者かは分からないが、この女なら可能だろう。そうしようと思えば、の話だが。頷いてはおくが、気は抜けない。まだこの女の真意は見えていない。黒軍の仲間である可能性も完全には否定できない。サードの指示通り、いつでも閃光は撃てる状態にしておかなければ。


 女が立ち止まった場所には、古びて傾きかけた大きな建物があった。記憶を漁る。赴任してすぐに覚えさせられたスフィリーナ全図は、今もしっかりと頭の中に焼きついていた。確か、ここはずいぶん前に主が死んで使われなくなった宿屋だ。金のない旅人が勝手に泊まったりするなど、それなりに需要はあったようなので取り壊さないで残されていたのだが、なるほど、記帳もいらず路地裏にあるおかげで人目にもつきにくい宿は、そういう集団が集まるのには最も適した場所である。締め切られた窓には、まだ昼下がりの時刻には似合わず、残らずカーテンが引かれている。見るからに怪しい。だが、それ以外にも何か違和感がある。感覚を研ぎ澄ませてみて、カゼッタは悟った。この建物全体を覆い尽くすように結界が張られているのだ。潜伏している黒軍は気にするなと女は言ったが、こういうことだったのか。納得すると同時に、今度は恐怖を抱いた。この結界を維持しながら、あの町の半分を覆う巨大な結界を張ったのか。それも顔色一つ変えずにだ。


 女の指が扉に触れると、空間を分かつ無色の壁は取り除かれた。開かれていく扉の向こうには闇だけが棲んでいる。窓を閉ざし、外からの光を拒んでいるのだから当然といえばそうかもしれないが、それにしたって暗すぎやしないか。何も見えない。女は構わず、その完全な黒の中へ消えていく。カゼッタは躊躇ったが、ここで逃げ帰るわけにはいかなかった。今日だけで何度腹を括ったことになるだろう、意を決して一歩、踏み出した。


 空気が冷えている。背後の扉が締まると同時、建物の内部に一筋の光が生まれた。女が左の掌に光を灯らせたのだ。


「意識があるのは、あなた方二人だけですか」


 ほのかな光だったが、女が顔を向けた方向に二人、何者かがいることは分かった。


「闇呪を扱うから、てっきり裏切り者かと思ったけど……そう、あなただったか」


 聞こえてきたのは女の声だ。二人分の影のうち、背の低いほうがかすかに動いている。声の主はこちらだろう。


「それで、後ろに白軍支部の副長副官を従えて、一体何をしに来た? さっきの大きな力もきっとあなたの仕業。結界でも張った? 白軍側についた……つまり私たちの敵になったと考えてもいい?」


「私はどちらにも属さないと、この間も言ったはずです」


「何をしに来たって聞いた」


「前回と同じことを」


 女は黙って闇の向こうを見ている。カゼッタには人の形を認識するのがやっとだったが、この女にはおそらく、二人の顔や表情まで見えているのだろう。


「早まった行動はやめてください。【聖戦】は、無意味な戦いです。これ以上、互いを傷つけ合ってはいけない」


「私も前回と同じ返事をする。私たちにとって白の民はすべて敵。敵がどうなろうと知ったことではない。私たちは私たちの同胞を守る。そのために敵を滅す。誤った考えではないはず」


 わずかに瞳を俯けて、女は言った。


「……では、私はあなたが滅そうとしている者たちを守らなければなりません。彼らに罪はない」


「なら、私たちはあなたを殺してでも目的を果たす、それだけ」


 光の色を映した紫の瞳が、寂しげに陰った。


「私は殺せないと、前に言いませんでしたか」


「やってみなければ分からない。イッチェ」


 呼ばれて背の高いほうの影が蠢いた。わずかな光を反射して、刃物が光る。短刀のようだ。影は女に迫って、次の瞬間、銀の一閃が走った。過たず、女のか細い首を横切る。カゼッタは思わず目を背けたが、いくら待てども血の臭いはしない。目を戻すと、女はまだ光を掲げたままそこに立っていた。傷一つない。信じられないことに。イッチェと呼ばれた男も驚いたらしく、立ち尽くしている。もう一人に再び名を呼ばれて、二回目、三回目と短刀を振るったが、女は刃が身体を通っても倒れるどころか傷つきすらしない。微動だにせず佇み続ける。


「刺せ」


 闇の中から飛んできた指示通り、イッチェは女の腹部目掛けて短刀を突き出した。確かに刃は背中まで通っているが、血は流れてこない。身体に刃を受け入れたまま、女は微笑んだ。左手に捧げ持つ光に照らされたその表情は、おぞましいほどにあでやかで、身が凍るのではと錯覚する。


「人に私は、殺せない」


 そう言った女の声はいくらか震えていた。自分で自分に臆している。カゼッタには、そう聞こえた。


「そういうこと。軽蔑する」


 非難を聞いても、女は表情を動かさなかった。二歩足を引いて短刀から離れ、イッチェを見上げる。


「中央白軍の——ジェノ上級司令官の隊にいたと記憶していますが?」


「長年中央に身を置いていたが、最近では中央の密偵として北に派遣されていた。だが、オレは黒の民だ。中央にも白軍にも与する気はない」


「あなたからは黒の気配が感じられませんが……長い間、白女神の支配する地で生きてきたんですね」


 イッチェは答えを返さず、短刀を鞘に納めた。効かないと分かった以上、無駄な行為はしないらしい。


「何を欲して亡者になった? 不死か、それとも不老か? 一体何年生きて——いや、存在している?」


 奥の人影からの矢継やつばやな詰問に、女は一切答えようとしない。人影は声を荒げた。


「神の創られし尊き理を蔑ろにする人非人め。恥を知れ。二度と私の前に現れるな。汚らわしい」


 身を刻むような罵倒にも女は眉一つ動かさない。ただ静かに闇の向こうを見つめている。左手に載せられた光が、少し薄れたように感じたのは、カゼッタの気のせいだろうか。女はこれまで以上に穏やかな声で応じた。


「私はどう思われようと構いません。あなたがたがこれ以上動かなければ、二度と会うこともないでしょう。私は、あなた方がここを去るまで結界を張り続けます。しばらく経てば中央から増援が来るでしょう。その前に去ることを勧めます。この戦力では、中央と西支部を同時に相手にはできない、そうでしょう?」


「お前は人には殺せないと言った。確かに殺せはしないが、私は知っている。お前たちは殺すものではなく消すものだ。お前は今、巨大な結界を張って力を著しく消費している。刃は受け付けずとも、私の呪なら通用するかもしれない」


 聞いて、女の目に寂寞とした光が宿った。闇が意志を持ってざわめき始める。奥の人物が闇の呪を使おうとしているのだろう。光を載せた左手に右手を添えて女が目を閉じると、途端光は目映く照って、弾け散ると周辺の闇を残らず駆逐した。


 空気が澄んだのがカゼッタにも分かる。明るくなって、宿の内部すべてが見渡せるようになった。酒場と同じように、あちこちで人が意識を失って倒れている。ざっと数えただけでもかなりの人数がいる。すぐ傍に立つイッチェという男は頭からすっぽりと黒い衣を被っており、顎だけが光の下に晒されている。さっきまで人影でしかなかった奥のもう一人は、まだ若い女だった。深い緑の髪を編んで垂らしている。二十は越えていようが、三十にはまだ遠かろう。この女が、黒軍過激派の長だというのか。カゼッタの予想とは違いすぎて、少々戸惑う。


 つりあがった目で相手を睨み、黒軍の女は舌打ちした。どうやら呪が上手く使えないようだ。空間を一杯に満たす光があまりに清く、あまりに強すぎるせいだろう。


「私はまだ、消えることはできません」


 諦めきれない黒軍の女はなおも呪を使おうと苦心していたが、少しの闇も集まらない。完全に封じられている。それが分かると、苛立ちを拳に変えて、背後の壁へ叩きつけた。窓が震える音と、天井の灯が揺れる音、そして壁が軋む音がする。


「私は志を捨てない。必ずや同志たちと敵を滅し、戦に幕を引いてみせる。お前に何度邪魔されようと」


「黒の民も、白の民も、同じ人。争いが始まったのはごく最近のことなのです。止められなかったのは私の咎。消えていった——今も絶えず消えていく尊い命たちの、そのすべてに、私はあがなわなくてはならない。報いを受けなくてはなりません。それまでは、いいえ、そして争いを止めるまでは、私は私のなすべきことを全うします。全てを賭して。あなたが白の民の殲滅を狙い続けると言うのなら、私は何度だってあなたを止めます。民たちに、これ以上血を流させない。これ以上無用な罪を重ねさせない。それが私が今、なすべきことだから」


 女は語り終えると、目を伏せて、それからすぐに踵を返した。扉まで歩んで、背中を向けたまま言葉を足す。


「少ししたら、あなたの仲間にかけた呪を解きます。中央も結界を見て動き出していることでしょう。退却は急いでください」


 女は扉をくぐる前にカゼッタを振り返った。先に出ろという意味だろう。従う。背後でもう一度、拳が叩きつけられるのが分かった。固まった埃が、天井から雪のように舞ってきた。




 女が結界を解いたのは、日が落ちた頃だった。


「黒軍たちは先ほど、スフィリーナを後にしました。二人ほど付近に残しているようですが、おそらく偵察が目的でしょう。攻めてくることはないはずです。私はもう少しの間スフィリーナに留まるつもりですが……しばらくすれば中央軍が来る。あなたがたに迷惑をかけるようなことにはならないようにします」


 ここまで言ってから、女は頭を下げた。一見しただけで育ちがよいことが伺える、上品で優美な動作だった。どこかの貴族の娘か何かなのだろう。


「あなたがたの助力のお陰で、西での戦を止めることができました。感謝します。サード副長にも——」


 言葉を止めて、女は顔を上げた。カゼッタも気付いて背中を振り返る。身を鎧で固めて武装したサードが立っていた。


「お前の言うことを鵜呑みには出来ない。これから兵たちに北側の調査をさせる。安全が確認できるまでは民たちは避難させておく」


「後のことは、あなたにお任せします。ありがとう」


 微笑んだ女に、サードは三歩寄った。カゼッタの隣まで並ぶと腕を組んで、女を見下ろす。


「教えてもらおうか」


「何をですか」


「北のことだ。黒軍ではないと言ったな。南の村のように、盗賊団の仕業と言うわけではないだろう。北の戦力はよく知っている。あそこはそう簡単に攻められるような場所ではない。相手はどんな組織だった?」


 女は黙ってサードを見つめた。一度何かを言いかけて、飲み込んでから、別の言葉を声にする。


「……おそらく、あなたの推察どおりでしょう。でも、早まらないでください。あなたにはこの地でやるべきことがある」


「今回のことでお前と手を組んだことが分かれば、よくて終身刑、悪いと即処刑されるがな」


「私が接触したのは、あなたとあなたの副官だけです」


「ゴダが知っている」


「支部長と彼の護衛兵たちの記憶には、私に会ったことは残らないようにしてあります」


 闇の呪の中には、対象の意識を奪うだけでなく、思考や記憶を操作するものもあると聞く。おそろしい呪だと、今さらながらカゼッタは思った。


「お前の望みはなんだ」


 サードの問いに、女はまたしても微笑んだ。今度のものは、痛みを潜ませている。


「先に述べた通りです。争いを止めたい。それだけです」


「北のことが俺の想像通りなら、それは難しいと思うが。じきに総会がある。北はどうするつもりだ? 北が動くなら、東も動くだろう」


「あなたは、西のことを考えていてください」


 きっぱりと遮るように言って、女は再び礼を述べる。別れの挨拶も同時に。


「本当にありがとうございました。また、機会があれば」


 顔を上げるのと同じタイミングで、女の姿は消え入った。後には宵の薄闇と沈黙だけが残される。これ以上の追及を逃れるためなのだろうか、それとも何処か急ぐ場所でもあったのか。何にせよ、与えられた指令はやり終えることが出来た。一息つくと、胃がきりりと痛んだ。今回は本当に厄介な任務だったと、いつの間にか疲れきっていた頭でカゼッタは思う。


「カゼッタ」


 呼ばれた。反射的に背を伸ばしてサードを見やれば、またあの真剣で緊張した横顔をしていた。気を引き締めて、返答する。


「何でございましょう」


「もし俺が職を辞したとしたら、お前は、ここの副長を継げるか?」


 あまりに唐突過ぎる問いで、カゼッタは答えに窮した。混乱して戸惑っていると、サードは口元だけ緩める。


「本気にするな。冗談だ」


 それにしては、今なお瞳に真剣さが後を引いていて、カゼッタの胸中には、霧が立ち込めるように、不穏な予感が残った。

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