4:西の動乱
【Ⅰ】 光闇
扉をノックすれば、すぐに「入って来い」と返事が来た。気の乗らない報告だったので、カゼッタは少々躊躇ったが、いつまでもそうしてはいられない。溜息を飲み込んで扉を開く。
「サード副長、支部長がまた行方知れずとのことです。護衛兵も消えておりますので、おそらくまた酒場にでも行かれたのでしょう」
案の定、という顔をしてサードは面倒そうに額に手をやった。ぞんざいな答えが返ってくる。
「またか。もういい。放っておけ」
「しかし、近頃不審者の報告が相次いで——」
「知ってるに決まってるだろうが。ちょうどいい。あの能無しが何かの拍子に死にでもしてくれれば、この支部ももう少しまともになる」
「副長、どこで誰が聞いているか分かったものではありません。口は慎まれた方がよろしいかと」
「聞かれたって構いやしない。クビにするならしてみろってんだ。支部長も、もう一人の副長も役立たず。この俺の苦労のお陰で支部は成り立ってるようなもんだ。使える部下もお前くらいなものだしな、カゼッタ」
「お言葉光栄です」
「硬すぎるのが玉に瑕だがな」
「は。申し訳ございません」
「そういうところだ」
この人の臆面がない物言いは、爽快であると同時に、副官としては非常に心臓に悪い。カゼッタは気づかれないように、密やかな溜息をついた。全く、ここはいちいち気疲れする。中央よりはと思い直していつも自分を励ますのだが、気がかりな事件も多発している今、それだけでは一時の慰めにもならない。
「お前はどう思う?」
「何がでございましょう」
「さっきも言ってた不審者の件だ。どうにも多すぎる」
「はい、私も今同じことを考えておりました。南の町オリーバが盗賊団に襲われたという話もありますし、警戒せねばと」
「盗賊団か。そう思うか?」
「他の可能性が思い浮かばぬゆえ。副長はどのようにお考えですか」
「盗賊団なら、ゴダなんかは真っ先に狙われるだろう。金だけは持ってるからな」
「仰る通りですね。ならば、一体?」
「分からん。お前の言うように警戒しないとならないが、ここの連中は危機感というものを毛一本ほども持ち合わせていないからな」
「本当に、どうしようもありませんね、ここは」
「お前も言うようになったな。その調子だ」
笑われて初めて、カゼッタは自分の失言に気がついた。知らない間にサードのペースに乗せられていたらしい。頭を掻いてどこか気恥ずかしい気持ちをごまかす。そのとき誰かが廊下を駆けてくる音に気付いて、腹の辺りからさあっと血の気が失せた。聞かれていたら。有能で実力もあるサードは、ある程度の粗相や失言は許される。しかし彼とは違い、自分はいつ切られてもおかしくない立場にあるのだ。冷や汗をかいたが、どうやら足音の主はそれどころではないらしく、どんどん扉を叩くと、そのままの勢いで副支部長室へなだれ込んできた。
「さ、サード副長! た、大変です。助けてください」
ゴダの護衛兵のひとりだった。主に脂肪のおかげで恰幅のいい兵士で、名前は何だったか思い出せないが、見たことはある。いつもの尊大な態度はどこへやら、おろおろして落ち着きがない。
「どうした?」
半笑いで、サードが聞いた。ああ、これはよからぬことを企んでいる顔だな、とカゼッタは察する。
「ゴ、ゴダ支部長が」
「支部長がどうしたってんだ?」
「ひっ、人質にとられました!」
「人質だあ?」
「はいぃ」
サードの剣幕に押されて、護衛兵はますます縮こまる。さすがに哀れになってくるが、普段の悪行を知っているだけに、助けてやろうという気持ちにはなれない。
「それで、俺に助けて欲しいって、あの大馬鹿野郎がそう言ったのか」
「そ、そうです。お願いします」
「虫のいい野郎だな。で、どこのどいつがそんなありがたいことをしてくれたんだ」
「は、は?」
「しっかり聞いとけよ。誰がゴダを人質に取ったんだ」
「ああ、はい。女です。女が一人で」
「女?」
「とてつもなくきれいな女で、しかし、これがめっぽう強いんですよ。どこかで見たことがあるような気もするんですが」
ここで、サードの目が変わった。真剣なまなざしになる。仕事の目だ。
「待て。その女の特徴を言ってみろ」
「え? そうですね。黒いマントを被っていてよくは分かりませんでしたが、細くて……ありゃあ相当な美女ですよ」
「馬鹿かお前。誰もそんなこと聞いてない。もっと具体的に言え。髪色、目の色、身長、使う武器、呪。そこら辺だ」
一瞬きょとんとして、兵は首をかしげた。幼い子供ならともかく、大の大人の、しかも男のこういう仕草は見るに耐えない。カゼッタは思わず目を背けてしまった。耳だけ向ける。
「それがその……すみません。ほとんど覚えてないんです。黒いものが見えたかと思うと、何も分からなくなって。気づけば女は支部長に短剣を突きつけていて、『サード副長を呼んできてください』と」
「黒い……闇呪か。で、俺をご指名だって?」
サードの呟きで、カゼッタも理解した。先の北での一件を思い出す。
『ジェノ上級司令官が護送中の黒の使徒の女が脱走、同司令官の部隊を壊滅させると同時にエルティや北支部にも大きな被害を与え、逃走中——』
その女か。だとしたら敵は、黒の使徒なのか。
「おい、場所は?」
「正門付近の酒場です。支部長行きつけの」
「カゼッタ、ネリドル副長を呼んで来い。寝てたら叩き起こして、俺の代わりに副長室に居るよう言え。俺は兵をまとめる。終わったら下まで降りて来い。戦闘準備して来いよ」
「相分かりました」
中央に比べてまだ環境はよくなったのだが、悲しいのは腕を試せる機会が一気に減ったことだ。久しぶりに大きな任務前の心地良い高揚感を感じながら、カゼッタは副支部長室を後にした。
町は平然としている。支部の長が人質に取られたというのに、いつもと何ら変わらないのだ。驚きを通り越して、カゼッタは呆然とした。目の前で親子は手を繋いで笑い合いながら歩いていくし、鳥は日向で跳ねながら遊んでいる。それは騒ぎの起こっているはずの酒場の前まで来ても変わらなかった。信じられないなと思う。あまりに平和で、あの護衛兵は嘘をついたのかと疑ってしまったほどだ。
しかしサードの横顔を見て、やはり偽りではなかったと確信する。彼の副官として働くようになって一年と半年、だがこの人のこれほど緊張した顔を見たのは、まだ数えるほどだ。いつもその後にはよからぬ事態が起こった。カゼッタも気を引き締める。
「カゼッタ、ついて来い。後はここで待機だ」
選りすぐりの証持ち兵十名だったが、中まで連れていくつもりはないらしい。サードに従って、充満した酒の匂いにむせそうにながらも、カゼッタも踏み込んだ。
「待っていました。あなたがサード副長ですね」
途端、女の声がした。周囲を見渡して姿を探す。広い床にはのびた兵が数人転がっていた。従業員はどこに行ったのか、全員ゴダの護衛兵で外傷はない。呼吸のたびに腹が動いているから、おそらく気を失っているだけだろう。グラスの並んだカウンター付近に、ゴダの姿も見つけて驚いた。やはり倒れてはいるが、人質になどされていない。そしてその隣に、女はいた。目深に被ったフードを落とすと、見えた顔は確かに美人だ。大きな紫色の目がサードを見ている。
「俺をご指名だって? いったいどんなご用だ」
「北の副長が、あなたなら話が通じるって言っていたから」
「北の? ああ、あの生意気な。瀕死の重傷って話だったが生きているのか」
「ええ。もう元気なようね」
「いいことだ。若い奴はそうでないとな。で、巷ではお前がやったって噂だが、違うのか」
女はかすかに口角を上げた。
「あなたはどうお思いかしら」
「へっ、俺を試そうってか? お前いくつだよ。嘗めてやがるな」
謎めいた微笑を浮かべ続けて、女は答えない。年はよく分からない。容姿はほのかにあどけなさを残しているような気もするが、表情は大人の女のそれだ。どう見てもサードより年上には見えないという点では、どこの誰に聞いても異論はなかろうが。
「中央の腰抜けどもが流す情報よりは、俺は北のガキの見る目を信じるね。その話とやら、聞いてやるよ」
「感謝は……北の副長にするべきかしらね」
「俺の気まぐれに、だな。そこで馬鹿がのびてるお陰で機嫌がいい」
いっぱいに膨らんだ巨体を顎でしゃくって、サードは唇だけで笑った。ひどく冷たい笑みだ。横から見ているだけでもひやりと冷えてきて、カゼッタは思わず腕をさすった。女は動かない微笑を湛えたまま、彫像のように佇んでいる。
「主に深夜、町を徘徊する者たちのことは、支部には?」
「伝わっている。じき十件になるな」
「その者たちの件で、あなたと手を組みたいと思っています」
「手を組む?」
「この町を守るために」
「話が唐突過ぎる。もっと詳しく話せ。まず、あいつらは何者だ」
女は無言で視線を落とした。長い睫が瞳を陰らせる。カゼッタは思わず見惚れそうになった。
「言えないのか?」
サードに急かされて、女はようやく口を開く。
「……黒の使徒たちです」
「黒の使徒だ? なんで奴らがこんなところに」
「激戦区での戦闘は、少しずつ黒軍が優勢になりつつあります。ここでさらに白軍の戦力を削いで、勝負を決したい。黒軍の一部の過激派は、そう考えているようです」
「弱ってる北からじゃなくて、西からか。嘗められたもんだ。いや、始めは北に仕掛けて失敗したのか?」
「いいえ。北は、黒軍の仕業ではないわ」
「なら、どいつのせいなんだ」
「それは言えません」
「なぜだ」
女は頑なに首を振る。
「言えません」
「……まあいい」
カゼッタは目をしばたいた。サードが妥協するなど、珍しいことがあったものだ。
「お前は今の自分の立場を理解して、俺にその話を持ちかけているのか」
「私は中央から黒の使徒だと言われ、そして闇の呪を使う。信じてと言う方が無理な話でしょうね」
「分かってるじゃねえか」
「多くは望みません。二つだけ、私に協力してくれませんか」
女は毛ほどの動揺も見せない。淡々と言葉を並べていく。
「二つ?」
「このスフィリーナの全住民を支部のある南側へ迅速に避難させること、戦いが終わるまであなたたち支部の者は一切手を出さないこと。この二つです」
「手を出すな? 黙って降伏しろってか?」
「いいえ。けれど、相手は黒軍過激派の精鋭部隊です。西は数では勝っていても、彼らとの兵力差は明らかです」
「やはり降伏しろと言っているように聞こえるが?」
緩やかに女は首を振った。白銀の髪が一筋、まとった黒布から零れて揺れる。
「違います。私に任せてもらいたいのです」
「一人でか? それこそ勝ち目はない。それに、お前が黒の使徒で俺たちを
頷いていた。その通りだ。女は暫時サードを見つめ、それからおもむろに右手を延ばした。手のひらの上に光が生まれる。カゼッタは息を呑んだ。光呪だ。信じられない。サードも同じ気持ちでいるのだろう、分かりにくいが、両の目は普段よりもわずかに大きくなっている。
「闇も光も扱う者など聞いたことがないが。お前は何者だ?」
「白の民にとって私は黒の民、黒の民にとって私は白の民、きっとそう映るのでしょうね。私はそのどちらでもありません。名を捨て、故郷を捨て、人であることすら捨てて、ただ誓いのために生きる者。争いを止め、そして——」
その先の言葉を消して、不思議な女はまたも笑んだ。影を感じさせる笑みだった。
「私の望みは、この地を、白の民も黒の民も誰一人傷つけることなく守ること、それのみです。果たすために、あなたの力を貸していただきたいのです。どうかお願いします」
「不審者の目撃情報が多いのは北側だ。南側へ民を集めることはやぶさかではない。しかし、一切手を出すなというのは無理な相談だ。お前一人で一体何が出来る?」
逡巡の後、女は首肯した。
「分かりました。それでは、町の北と南を二つに分かつ場所に防衛線を引いてください。そこまで敵兵が来るようであれば……戦うのも、やむを得ないでしょう」
「俺に指図するつもりか?」
「指図ではありません。助力を求めています」
腕組みしたサードが、目を細めて値踏みするように女を見る。
「兵の配置は俺が決める。敵兵が町の南側へ接近するまでは手出しはしない、これだけは受け入れてやろう。ただし、お前にはこれより監視役をつける。妙な真似をしたら即座に首を落とす。これがこちらの条件だ」
「構いません」
サードの視線が飛んできた。カゼッタは反射的に背を伸ばす。指令が下った。
「カゼッタ、お前がやれ。外で控えている兵は全員使っていい。何かあれば【閃光】を使え。町のどこにいても見えるよう派手にな」
「承知いたしました」
カゼッタはいつものように答えてから、改めて女と、そして床に無様に散らばった兵たちを見た。華奢な女だが、その力は計り知れない。予想以上に厄介な仕事を引き受けることになったなと思うが、だからこそやりがいもあるというものだ。剣の腕が落ちていないことを祈りつつ、早速動き始めた女を追った。
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