【Ⅹ】-2 望んで
精霊は、穏やかな緑の光を放ちながら、迷わずどこかへ向かっていく。どんどんワグレの方へ近づいているから、やはりセトとユウラのところへ向かっているのだろう。そんな気がする。
二人は大丈夫か。おぞましい数の兵を相手にしただろうし、その中にはおそらく聖者もいただろう。テイトの話では町は脱出できたらしいが、早く無事を確かめたい。さっきから精霊はずっと一直線に進んでいる。この方角で合っているのなら。ランテは立ち止まった。精霊も進むのを止めて、その場に漂う。
「教えてくれてありがとう。心配だから、先に行くよ」
無論精霊から答えはないが、了承したようにすっと姿をくらました。言葉は通じているのだろう。全速力で駆けたせいで少しばかり切れた息を、深呼吸で整える。ランテは目を閉じた。光速を。さっき飛んだ距離よりも、少し短く。ずいぶん慣れてきた。距離を操作する方法も、やっと分かってきた気がする。使う力の量で調節するのだ。まだ細かい調整はできないが、修練を積めばできるようになろう。今度こそ上手く着地できる、そう思った瞬間だった。身体が急に重くなる。見れば、光の合間から重量のある濃い闇が広がっている。押し戻される感覚がした。光が消えて、ランテは地面に投げ出された。
土ぼこりを吸ってしまった。咳き込みながら身体を起こして見渡すが、一面、黒い靄のようなものに覆われている。仰いでも月は見えない。そこは一点の光さえ届かない、本当の闇の中だった。あの美しくも悲しい色の瞳を連想して、ランテははっとした。ルノアだ。これはルノアの呼んだ闇だ。理由はない、しかし確信する。傍に、いる。この先にいる。
前へ進もうとするが、闇がまとわりついて動くことができない。セトとユウラもそこにいるのだろう。ルノアがいるならと少し安心するが、このままここに立ち尽くしているわけにもいかない。足に全身の力を注ぐ。闇を振りほどきながら、どうにか一歩、踏み出した。楽には進めない。拒まれている。しかし、行かなくては。渾身の力を込めて、ランテはもう一歩、踏み出した。
手探りに闇の中を彷徨い歩いて、どれほど経ったか。
「え?」
唐突に、闇の束縛から解放された。ランテはまたしても体勢を崩して膝を突いた。薄明かりが見える。脱出できたようだ。ルノアの“感じ”が、近い。立ち上がり、ランテは駆けた。進行方向を誤らないよう注意しながらも、加速する。根に
そうして、ふいに、開けたところに出た。足を止めて、速くなった血流が身体中を巡るのを感じながら、月の微かな光を頼りにランテは周囲を見渡した。人影を発見する。
「セ——」
呼びかけて、声を詰めた。セトの正面の、もう一つの人影に気付いたのだ。ルノアだ。さらに駆け寄ろうとしたが、二人の間に流れる緊迫した空気を感じ取って、ランテは動きを止める。さほど遠いわけでもないのに、二人ともランテには気づかない。ルノアが先に口を開いた。
「自分を見ているよう、とあなたは言ったでしょう。私も同じ。同じだから、あなたを私と同じ目には遭わせたくない」
「……ルノアは、ランテを?」
「一度、巻き込んでしまったわ。もう二度と巻き込めない。そんなことは、絶対に、できない。だから——」
「だから全部忘れさせた、か」
音を立てないように、ランテは空気を呑みこんだ。そのまま息を殺して続きを待つ。そのとき、影が差した。急に立ち込めた重く湿気た匂いを嗅ぎながら、夜空を仰ぐ。分厚い雲に月が隠されていた。ひらりとそこから白いものが降ってきて、ランテの頬に触れる。冷たい。雪だ。凍てた風が駆け抜ける。寒さに身が震える。ランテは無意識に外套の襟を寄せた。
「ルノアは、それで……そうして良かったと思ってるのか?」
会話は進んでいく。二人とも薄着だったが雪は気にも留めない。寒さも感じていないようだ。
「私はあの人を守ることがすべて。そのためなら何だってする。そう決めているの」
セトはルノアから視線を外した。追う。寝かされたまま動かないでいるユウラを見つけて、ランテは青ざめた。ルノアが言葉を継いだ。
「人の死の辛さを、あなたは知っている。でも、それがいつも当たり前のように傍に居てくれる——かけがえのない者だったときの喪失感を、あなたはまだ知らないわ。それは、あなたが恐れている以上に恐ろしいものよ。とても耐えられない」
「オレは」
「あなたまで、私のようにならないで」
ルノアの声は、夜の雪の林の中によく響いた。セトは、答えなかった。迷っているのは、遠目であっても知れた。ランテは息を吸う。さらに一歩踏み出した。そのときには、心は決まっていた。
「駄目だ」
腹に力を込めてその一言を口にすれば、二対の視線が集った。ルノアが一歩後ずさり、セトが名を呼ぶ。
「……ランテ」
「駄目だ、セト。ユウラはそんなこと望んでない。ヨーダで言ってた。セトが行かなくても、ユウラは行ってた——中央と戦っていたって。セトが巻き込んだわけじゃない。ユウラが望んでここにいる」
セトも、ルノアも、何も言わない。沈黙して、ただランテを見ている。
「何も知らないことにされて、知らない間に誰かに守られて、知らない間に別の場所で……オレの分まで、誰かが辛い思いをしてる。そんなのは嫌だ。そんな風に守られたくなんかない」
伝えなければならないことがある、しかし、何をどう伝えたいのか分からなくて。言葉は次から次へと溢れ出てくるが、要の部分に届かない。しっかり思いを乗せられるものが見つからない。歯がゆい。それでも伝えたくて、舌を懸命に動かした。
「守られるだけじゃなくて、守りたい。一緒に戦いたい。それで死ぬことになったって、後悔なんかしない。自分で決めたんだ。後悔なんて、するわけがない」
ランテの視線を受けると、ルノアはわずかに身じろいだ。
「ルノア。オレは戦うよ。また記憶をなくしたって、オレは、何度だって同じ答えを出すと思う。オレだって巻き込まれてるわけじゃないんだ。自分の意志で、戦ってる」
不完全だったが、少しは伝わっただろうか。美しい紫の瞳は切ない追憶をする。
「『彼』も、同じことを言ったわ。でも」
「彼?」
聞いても、ルノアはランテの方を見たままランテを見ることはせず、かすかに、本当にかすかに、笑った。唇が動く。声のない声で、何かが——おそらく誰かの名が、囁かれる。何と言ったのかは分からなかった。
こちらの世界に戻ってきた目をルノアはランテから逸らして、セトを見る。
「彼を、中央に渡してはいけない」
「分かってる」
「中央は、これから全力で彼を求めるわ。手に入れるためには、何の犠牲も厭わない。あなたでも邪魔をするなら殺される。すべて守りきるつもりでいるのなら、それは甘いわ」
「自分の力不足なら、よく知ってるつもりだ」
「そう……。それでも、あなたも戦い続けるのね」
寂しい響きを持った言葉だった。それはとても孤独でもあり、聞くだけで胸が痛む。ルノアは目を伏せて、闇を呼んだ。彼女を囲うように、地から新しい黒が生まれていく。降りしきる雪も、照らす光を失った今は闇色だ。彼女を隠すように、守るように、舞っては落ちる。
「ルノア」
行ってしまう前に、ランテは呼んだ。立ち上る闇が彼女を覆っていく、さらっていく。その闇ごしにほんの少し見える瞳に向かって言う。
「一緒に戦おう」
「できないわ」
一瞬の迷いもない即答だった。
「どうして」
「私は、あなたの傍にはいられない」
彼女から返ってくる答えは、いつも拒否だ。ついに瞳までもが真っ黒に塗りつぶされる。闇だらけの視界。何も見えない中、ルノアの感覚が遠くなって遠くなって、やがて分からなくなって。虚しさがこみ上げる。何度目だろう。今度もまた。
「……ありがとな」
唐突に、セトが言った。何のことか分からなくて、ランテは首を傾げる。
「何が?」
「いや、何でもない。とにかく無事でよかった。テイトは?」
「疲れてはいるけど無事だよ。怪我もない」
「そっか。安心した」
言いながらふらりと下がって、木の幹にもたれかかる。長く息をついて、崩れるように彼は座り込んだ。服を染める血に目が行く。治療はされていないのか。
「大丈夫?」
「悪い、ちょっと休憩。オレは大したことない」
オレは、という言葉が気にかかって、ランテはユウラに目を落とした。ヨーダでもらった外套が血染めになっている。身震いした。
「ユウラは?」
「重傷だけど、どうにか応急処置は済んでる。残りはオレの力が戻ってからになるかな。もう少し掛かりそうだ」
「セトも怪我を。あ、そうだ、これを」
長袖一枚という薄着が気になって外套を渡そうとしたが、セトはランテを止める。
「大したことないって。オレは寒さには慣れてるし、お前が着とけよ。それか……ユウラに貸してやってくれ。貧血で寒いだろうからさ。それで、ランテは無傷か? 戦闘は、やっぱり避けられなかったか」
セトの目が、ランテの右腕に握られた、抜き身のままの剣を見た。ランテも目を落として、はっとする。残った血が赤黒く輝いていた。目の前で倒れていった兵士の姿が蘇る。振り切るように、ランテは首を勢いよく振った。
「でも、こっちは敵が少なかったから」
「相手は中央兵でもモナーダ上級司令官の兵だから、そんなに楽な相手じゃなかったはずだけど、さすがだな。末恐ろしいよ」
「セトたちこそ、聖者もいたのに」
「聖者は、本気じゃなかった」
暗い顔と声でそれだけ言って、しかしその後、セトはふっと笑んだ。
「とにかく、全員生きて脱出できた。良かったよ。後は早くユウラを治してやらないとな」
外套を脱ぐといっそう寒さが身に染みた。落ちてくる雪がさらに体感温度を下げてくる。ユウラの上に脱いだ外套を載せてから、ランテは顔を上げた。
「セト、さっきオレたちがついた場所に小屋があるんだ。テイトが癒しの呪の永続呪がかけられてるって言ってた。そこで休まない?」
「遠いなら、ユウラを治してからの方が」
「大丈夫。オレが光速で連れて行くよ」
「ユウラを?」
「セトも」
セトが目を見張った。
「三人って……いけるのか? お前も疲れてるだろ?」
「まだ全然疲れてない。任せて」
全然、というのは少しばかり虚勢を張ったかもしれないが、しかしまだ呪を使える力が残っていることは確かだ。三人を運ぶのは初めてだったが、一人でも二人でも少し疲れるくらいでそう変わらなかった。慢心は禁物だが、きっと大丈夫だ。セトとユウラを早く安全な温かい場所まで連れていかなければ。
ランテの呼んだ光は温かく、冷え切った闇を強く裂いて走った。
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