【Ⅹ】-1 迷い

 恒常的に続いていた頭痛が、その一瞬、はかりが振り切れるように唐突に強まった。覚えのある痛みだ。止めたわけでもないのに風が潰える。セトは最初につま先を、続いて膝を突いた。世界がぐにゃりと歪む。呪力切れだ。


 敵の手を逃れる最中、ついに気を失ってしまったユウラを、そっと横たえる。


「ユウラ」


 呼んでみるが、返事はない。完全に意識を失っている。もはや一刻の猶予もない。しばし目を閉じて呼吸を整え、セトは右手をかざした。応急処置だけで構わない。ひどくなった頭痛を堪えながら、残る力を無理にかき集める。集った光はわずかだったが、肩の怪我の止血だけはどうにか間に合ったようだ。息をつく。しかし、まだ安心はできない。イベットの助けのおかげでそれなりに跳べたが、敵は光呪使いだらけ、光速を使われればすぐに追いつかれてしまう距離だ。もうひとつの脇腹の怪我を包帯で手早く止血して、再びユウラを抱え上げようとしたそのとき、何かの気配を感じた。


 人……だろうか。敵意は感じないが、ランテやテイトでないのは確かだ。近づいてくる。セトは傍に置いていた剣に手を伸ばした。背後の木に手を添え、支えにしながら立ち上がる。身体は重く、思った以上に消耗しているのを知る。襲ってきた眩暈の原因は呪力の使いすぎかと考えてから、己も怪我をしていたのを思い出す。どうやら疲労は思考能力と感覚神経をも鈍らせているようだ。


 音はしない。気配はすぐ傍の木の裏で立ち止まった。セトが持ち上げた剣を構えようとしたとき、聞き覚えのある声がした。


「警戒しないで。敵じゃないわ」


 白とも銀とも言いがたい色味の髪が、まず現れた。正体のつかみきれない不思議な気配の主は、数歩進んで漏れ入る月の光の下へ出てくると、寂しい笑みを浮かべた。


「少し前に命を危ぶめたばかりなのに……またあなたは」


「あのときのことは、礼を言うよ。あんたがいなかったら死んでた」


 しかし、まだ手放しで信用することはできない。セトは身構えこそしなかったが、剣は握ったままに声主に向き合った。木から二歩離れて、ユウラの前に出る。


「警戒しないでと言いました」


 彼女はすっと右腕を持ち上げた。薄闇を引いている。差し伸ばされた腕を伝い、指先を離れて闇は漂う。


「あのときも言ったけれど、少しの傷なら惑わすことは出来ても……私は、あなたのように人を癒すことはできない」


 穏やかな黒に包まれた途端、身体がふいに軽くなった。頭痛が遠ざかり呼吸が楽になる。幻惑の呪の一種だろう。


「まだ呪は使わないで。あなたの身体を錯覚させているだけだから。本当は血も止められたらいいのだけれど、意識が明瞭な人には効き目が薄いの。そして彼女には——意識を失ってしまっている人には、私は何もしてあげられない。ごめんなさい」


 視線を落としてユウラを見た目は、何か悔しさのようなものをたたえている。少し、セトは剣を握る手から力を抜いた。


「ルノアっていったよな」


「ええ」


「単刀直入に聞くよ。あんた、何者だ?」


 ルノアは微かに笑った。欠けるところのない完璧な微笑みであるがゆえ、まがい物であるのは容易に分かった。


「それはどういう意味かしら」


「三年前にも同じ質問をしたけど、答えなかったよな。三年経ったのにあんたは少しも変わってない。今のところ敵じゃないってのは分かるが、それ以外のことは何も——いや」


 ひとつ、確信していることがあった。紫の瞳を見て挑むように、セトは言った。


「ランテ」


 微かに走った動揺を、見逃すわけがない。三年前、彼女が去り際に残した言葉を思い出した。


 ——見つけなければならないものがあるんです。もうずっと、探してる。


「三年前に言ってた『見つけなければならないもの』ってのは、ランテのことか」


 答えず、ルノアは視線を逸らし、彷徨わせた。肯定と同等の意味を持つ沈黙だった。次の言葉を、セトはじっと待つ。傷口から新しい血が流れるのが分かった。痛みがないのは、幻惑の呪のおかげか、それともまだ感覚神経が麻痺しているのか。


「あなたは、どこまで分かっているの?」


 ようやく開いた口で、ルノアは静かに、それだけ聞いた。


「さあ? たぶん、まだほとんど知らない」


「あの人が、『特別』であることは知っているのでしょう」


「知ってるっていうより、分かるの方が近い。初めて会ったとき、なんて言うか……白でも黒でもない感じがした。最初の一瞬は、黒の方かと思ったけどな」


 責めるような色を、ルノアは瞳に宿らせた。


「あなたは……長い間中央が彼を求めているのも知っていた」


「確信が持てたのは少し後になってからだ」


「どうしてそのとき、あの人を逃がさなかったの?」


「逃がしたところで、その場しのぎだ。それくらい、あんたも分かってるんだろ?」


「私が守るわ。あの人が無事に一生を全うするまで、私が」


「本気でそうできると思ってるのか?」


「できるかじゃなくて、やらなければならない」


「あんたの話を聞いてると、自分を見てるみたいで嫌になるよ」


 同族嫌悪だと分かるだけに余計始末が悪い。セトは溜息をついた。ちらりと、後ろのユウラに目をやる。血を止めた成果か、少し顔色はよくなったようだ。


「誰かを巻き込むより、自分ひとりで済むならその方がいい。そういう気持ちは分かる。でもひとりじゃ、何もできない」


 ルノアはしばらく答えなかった。セトの目を見たまま何やら思案するように数回瞬いて、そして。


「あなたは私の正体にも、もう気づいて?」


「気づいていれば、聞いたりはしないさ」


「でも、私が何であるかは、もう知っている」


「あんたの腕をつかんだとき、違和感があった」


「……あの人には?」


 隠し切れない緊張が、滲み出るようにして伝わってくる。


「言ってない」


 そもそも、言うつもりはなかった。ランテが自分で気づくべきことだ。


「ありがとう」


 陰りを残したままで笑んで、ルノアは風になびいた髪を梳いた。


「あなたに話がある。そして、聞きたいことも。でもその前に傷の処置を。そのままでは貧血になります」


 迷ったが、剣はしまわず軽く地面に突き立てた。怪我の程度を確認する。鎖骨の辺りから斜めへ。面倒な位置だが傷ついているのは表皮だけだ、出血はあれど大した怪我ではない。浅い部分は既にその出血も止まりつつある。放っておいても動かさなければそのうちどうにかなりそうな気もしたが、追っ手との戦闘の可能性を考える。結局セトは包帯を一巻き取り出して、簡単に縛った。


「話はここで? ワグレからそう離れてないけど」


「追っ手のことなら、安心して。林には踏み込ませません。たとえそれが聖者であっても」


 言葉に呼応して、ルノアの背後の闇が揺れた。まるで生き物のように。


「……西のことについて教えて欲しいの」


 出し抜けに、ルノアは切り出した。


「西? 西支部か?」


「ええ」


「何でまた」


「理由は言えない」


 何か探れないかとセトは注意深くルノアの表情を見守ったが、成果はなかった。目的が見えない相手に、容易く情報を渡すわけにはいかない。


「それなら教えられないな」


「西をどうにかしようというわけではありません。反対に、守るために情報が必要なの。代わりにあなたに中央の目的を教えるわ。交換しましょう」


「どうして理由が言えない?」


「言えば、あなたたちをまた巻き込むことになる」


 答える気はないようだ。ルノアの目を見たまま、セトは腕を組む。


「中央の庇護下にある西を、一体何から守る必要が」


 疑念を口に出しかけて、噤んだ。直感はおそらく正しい。


「黒軍?」


 ルノアは答えなかったが、誤りでないのは、わずかに逸らされた視線から分かった。


「なるほどな。確かに、落とすなら一番警戒の甘い西からってのは頷ける」


 察しがよすぎるわ、と彼女は小さく零した。


「あなたは、動かないで。あの人だけじゃない。あなただって、中央に狙われている。西へ行くのは、敵の懐に飛び込むも同じ」


「あんたもだよな」


「私はいいんです」


 本来の敵であるはずの黒軍の存在を、忘れていたとは言わないまでも——いや、忘れていた。中央に囚われていて。そうだ、敵は中央だけではない。しかし、本当に、黒軍は敵なのか? イベットの言葉が頭を過ぎる。


 ——我々人も、始まりの女神と共に白女神と黒女神に立ち向かわねばなりません。けれども共に手を取り合って戦うには、白の使徒と黒の使徒は長い間互いを憎みすぎました。今さら争いを止めろ、共に戦えと言われても、容易く納得はできないでしょう。


 激戦地での記憶が蘇る。殺された仲間は多い。反対に、黒軍の中にはこの手で殺めた者もいる。これまで黒軍は確かに敵だった。イベットの言う通りだ。今すぐ、争いを止めることなどとてもできない。


 ——皆を迷わず頷かせる、確固とした証拠が必要です。


 それを見出せない限り、いや、見出せたとしても、本当に? セトはそこで思考を遮った。今考えるべきことではない。


「白軍と黒軍の戦いは、仕組まれた戦いなんだよな。もうずっと前から。中央の目的も関わっているんだろうが、負けることは本意じゃないはずさ。だったら、中央が何とかする。オレたちや、あんたが動かなくたってな。今はそれより……戦いの根源を断つ方が先決」


「人がたくさん死ぬわ」


 かすかな声は、心底脅えた響きを持っていた。おもむろに上げられた顔にも、まぎれもない恐怖が棲んでいる。


「また、たくさんの命が消える」


 耐えられない。彼女の目はそう訴えていた。人死にの、目の前です術なくそれが起こっていく辛さを、身をもって知っている目だった。共感は出来る。自分もよく知っているから。しかし。


「戦いである以上、そうなるのは仕方ない。皆、覚悟して戦地に立ってる。犠牲がないのに越したことはないけど」


「止めたいのよ。私が止めなくちゃいけない」


 ルノアはかたくなに首を振り続ける。冷たい言葉だと分かっていたが、セトは敢えてそのまま口にした。


「あんたが止めたいのは、西での戦いだけ? 他にも既に戦いは起こってる。激戦区では、今だってかなりの数、死んでるはずだ」


 脅えが、自責に変わった。目を閉じて、ルノアは小刻みに首を振る。震えているのかもしれなかった。


「違う。でも、起こらなくて済む戦いがあるのなら、まだ守ることのできるものがあるなら、止めなければいけない。そうでしょう」


 言い終えると同時に開かれた瞳は、悲しみに満ちながらも、芯のある覚悟と意志が湛えられていた。


「……西は」


 思わず口を突いて出た言葉に、自分で驚く。続けるか否か。迷った末、セトは言葉を継いだ。


「支部長はゴダっていう貴族の光呪使いだが、実質支部を取り仕切ってるのは副長のサード。西でそれなりの地位にあって話が通じるのは、その副長ぐらいだ。口は悪いけどな。兵の三分の二は証持ち、残りは主に光呪使い。すぐに動かせる兵は二千いるかいないか。小隊長クラスの指揮官は中央以上にひどい。戦いを経験したことのない者が大半で、まともに指揮ができるかすら怪しい。あのあたりは黒獣の出没も少なくて、町の防壁や門の造りも甘い。攻められたらすぐに崩れるだろうが、西には数人、かなり戦える者がいる。その数人の頑張り次第では、中央が援軍を出すまで持ち堪える可能性も十分ある。オレが知ってるのは、このくらいだ」


「投降は、するかしら」


「投降?」


 聞き間違いではと思って聞き直したが、どうやら違ったらしい。


「相手は黒軍の過激派の精鋭部隊、勝ち目は薄い。そうと分かれば、迅速に……犠牲が出る前に、投降するかしら」


「最終決定権はゴダ支部長にある。冷静に戦況を見極められる目があるとは思えない。逃げでもしてくれれば、決定権は副長に降りてくる。副長だったら、少なくともゴダ支部長よりはましな状況判断ができると思うけど」


 ルノアは両手を膝の上にそろえ、丁寧に腰を折った。深く頭を下げた状態のまま、謝意を述べる。


「ありがとう。感謝します」


「西を黒軍に渡す気か?」


「だとしたら、あなたは私を止める?」


 本気なのだろうか。地面に突き立てていた剣に、セトは手を伸ばした。だとしたら、喋りすぎた。


「さすがに看過はできないかな。黒軍は西を占領して、それで止まるわけじゃないだろ? 次の標的は、地理から考えるとおそらく南か北かになるが、北は先の一件からまだ立ち直れていない。次に狙われる可能性は高い」


 ルノアは目を伏せて、迷いの様相を呈した。そのまま黙っている。


「あんたの……ルノアの考えは、やっぱりその場しのぎにしかなってない。抱えすぎて、目先のことだけを考えてないと動けなくなるんだろうけどさ。全部守るのは無理。人間ひとりの力なんて、高が知れてる」


 苦しそうな微笑で聞き届けて、ルノアが言った。


「自戒のようね」


 セトも苦笑で応じる。


「オレもよく言われるからさ」


 微笑みを残したままでルノアは視線を落として、ユウラを見た。その目に優しい光が宿る。


「彼女に?」


「とかな」


 次にルノアは一歩、こちらへ寄った。揺れた長い髪の先に触れた闇が騒ぐ。


「あなたも本当は迷っているのでしょう」


「迷う?」


「このまま、中央と戦い続けていいのか」


「まさか」


「嘘」


 紫の目は、二度目に、ユウラを見る。向けられたまなざしに、今度は温度がない。


「今回は運よく全員生き延びることが出来た。でもひとつ間違えば、誰かが死んでいたかもしれない。あなたは中央の力をよく知っている。このまま戦い続ければ、いつか……例えば、彼女を死なせることになるかもしれない」


 意地でも動揺するわけにはいかなかった。そのために沈黙を守る。


「自分ひとりなら、あなたは迷わなかった。でも、違う。あなたは誰も死なせたくない。だから、迷っている」


 もう一歩、ルノアは距離を詰めた。月の光を含んだ髪が、妖しげに輝く。一瞬視線を落とせば、左半身の服が、おびただしい量の血で染まっていた。ユウラの血だろう。


「……それで? 何が言いたい? どっちにしても、もう後戻りはできない」


 否定できる余裕は、既になかった。セトの返答を聞いて、ルノアは微笑む。この上なく妖艶に。


「私なら、できるわ」


「何が」


「彼女の記憶から、さっき知ったものを、取り除くことが出来る。必要なら、あなたのことを忘れさせるのも」


 思わず、セトは再びユウラを振り返った。少し良くなってるとはいえ、流した血の量は多い。いまだいつもの彼女からは程遠く、血色は悪い。


 ——でもひとつ間違えば、誰かが死んでいたかもしれない。


 先の言葉が脳内で再生される。事実だった。


 王国説を知ってしまった以上、中央は必ず消しに来る。後戻りはもうできないはず……だった。しかし今なら。ルノアの言っていることが真実なら。


 ルノアの見当は当たっている。見透かされているのではと思ったほどだ。迷わないふりをしているだけだったのだと、気づかされた。本当は迷っている。次は守りきれないかもしれない。そうなったとき、その先に起こるだろうことをひどく恐れているのを自覚する。やはり、迷っている。唯一確かなのは、独りよがりでも、死なせたくない、そう思っていること。セトは今一度、ユウラを見た。


 なあ、お前は、どうしたい?


 目を閉じたユウラは、無論、答えなかった。

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