【Ⅸ】 希望
一枚ずつ、何もないところからひらりと新たなページが生まれては、文字に埋め尽くされていく。これが実現の呪か。かなりの速度でページは綴じられていくが、完成までにはまだもうしばらく掛かりそうだ。
「ランテさんでしたね」
テイトと共に祭壇の上に手をかざしながら、イベットは改めて口を開いた。その間も、また一枚、新しいページが作られる。
「はい」
「あなたのあの力、あれは、どちらで?」
「あの力?」
「祝福の証を消した力です」
橙の光を思い出したが、それ以上は何も分からない。無我夢中でやったことだ。ランテは首を振って答えた。
「オレにも分からないんです」
「分からない?」
「はい。最近までの記憶を、全部失くしていて。自分でもなぜあんなことができたのか、不思議なんです」
「そうですか……」
ここでイベットはランテに視線を寄越した。
「あなたの内に眠る力はとても大きい。大きすぎて、私でも正体がつかめないほどです。扱いにはどうか気をつけて。力に翻弄されるようなことにならないよう」
不安になって、ランテは胸に手をやった。心臓が動いていることしか分からない。ますます不安になって、目を落としたところに、女神がいた。白い石の上で、静かに微笑んでいる。慈悲深い微笑みは、今のランテの目には同情しているかのように映る。不安は癒えない。それでも、どうにか口を開いた。
「肝に銘じます」
「あなたは白女神の使いである白獣を倒し、白女神の授けた証も消してみせた。あなたなら白女神に立ち向かえるかもしれない。それに」
イベットの視線を追って顔を上げる。今度はステンドグラスの中の女神が見えた。
「あの色の光は、女神ラフェンティアルンの放つと言われる光と同じ色でした。あなたと女神の間には、何らかの繋がりがある。私にはそう思われるのです。【女神の騎士】の伝説を、ご存知ですか?」
「いいえ」
「女神の騎士は、始まりの女神の祝福を受けた者です。ラフェンティアルン王国の最後の生き残りの姫を、白女神と黒女神から守ったと言われています。書物に記録として残っているのではなく、激戦区に近い一部の限られた地域に伝説として語り継がれていました。事実かどうかは分かりませんが、あなたを見て、ふと思い出したんです。もしかしたらあなたも彼のように、始まりの女神に何らかの力を授けられたのかもしれませんね」
まだ女神を見つめながら、ランテは何か思い出せないかと頭の中を探ってみたが、何も見つからない。何かに手が届きそうになれば、闇が立ち込める。淡くて柔らかくてそしてどこか寂しい、ルノアの残した闇だ。漠然と、守られていると感じる。そして、また思う。もどかしい。息ができないみたいな苦しさの中に、ずっといるようだ。無知な自分が腹立たしいけれど、それでも何も分からない。
イベットが再びランテを見た。
「命を大切にしてください。あなたは希望だ」
希望。言葉は耳に残ったが、頷くことはできなかった。
最後の一枚が綴じられる。光が消えて、祭壇の上には一冊の本が現れた。ラフェンティアルン王国記。ランテにも読める文字で題が記されている。テイトが長く息をついた。ふらついた彼を、イベットが支える。
「すみません」
「いいえ。無理をさせてしまいましたね」
「僕は大丈夫です。それより、セトとユウラが」
「はい。私はすぐに駆けつけなくてはなりません。町の北東部に出口を作ります。結界までたどり着いたら、内側からそっと触れてください。付近に兵がいくらかいますが……」
「何とかします」
答えて、ランテがイベットから差し出された本を受け取る。ずしりと、確かな重さがあった。迷って、ランテはそれをベルトに挿した。きっと両腕は自由な方がいい。次にテイトに肩を貸そうとしたら、首を振られた。「大丈夫、歩けるよ」と言い、彼は笑む。その顔色は悪い。やはり、もう戦えないだろう。剣柄に手をやった。ランテがしっかりしなくては。
「では、幻惑の呪を解きます。なるべく早く、ワグレから離れてください。おそらく、私はクレイド聖者と戦うことになるでしょう。だとしたら、長くは持ちません。私が彼を足止めできている間に、兵たちを撒いてください」
「分かりました。でも……」
ランテたちに伝えたことで、イベットはここでの使命を終えたはずだ。彼が一人残る必要は。
イベットはランテの言わんとしたことを酌み取ったらしく、穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます。でも、私はここに残りたい。私の誓いは果たされようとしています。どちらにしても、私に残された時間はわずかなのです。最期のときは、故郷でと決めていますから」
イベットが指を鳴らすと、途端に周囲の景色が薄らいだ。祭壇も、燭台も、長椅子も、ステンドグラスの中の女神も、だんだん形を崩して、消えていく。
そうして現れたのは、夜と、白一色だった。何もない、一面の、沈黙の白。全てのものが失われてしまった、無の世界だ。ランテは息を詰めたまま何も言えなかった。
「忘れないでください。これが中央の暴挙によって殺された町の姿です。町だけではありません。人もたくさんいました。王国軍の仲間たちだけではありません。むしろ……何も知らないまま、白炎に焼かれて、砂と変えられてしまった人の方が多いのです」
月と星の銀色を受けて、白砂はきらきらと美しい。屈んで、
ランテの方も、言葉は何も、出てこなかった。
白砂は深く降り積もっており、歩みを阻む。ワグレの人や町の成れの果てだと思うと、その上を歩くのは
「ランテ」
後に続くテイトが、疲労の残る面を上げてランテを見た。
「どうかした?」
「セトとユウラが、町の外へ。北側だよ。僕らが先行してるはずだったけど大丈夫かな。二人ともかなり消耗してる。そんなに離れていないはずだけど、もう呪力が拾えない。速めに合流しないとはぐれるかも」
「了解。走る? あ、いや、そっか。光速を」
実戦では使えなくても、おそらく、移動の目的にのみなら扱える。距離や速度まで自在に操作することは出来ないが、急ぐなら使った方がきっといい。
「ランテは呪力、まだ平気?」
「平気。たぶんまだまだ大丈夫だ」
「無理は禁物だけど……そうだね、ここを人の足で進むには時間が掛かりそうだから、使えそうならお願いしたいな」
光速だけは今まで何度か使ったが、まだ心配なことに変わりはない。上手くいくだろうか。迷う暇はなかった。ランテはテイトの腕を取り、瞼を落として集中した。思うだけでいい。この白砂が終わる場所まで。瞼を薄っすらと開くと、生まれた光が飛び込んできた。身体が引っ張られる。呪を使うと同時に何かが圧し掛かるようなこの感覚にも、大分慣れてきた。あらかじめ予測しているから、呼吸が妨げられることもない。あとは、着地だ。これまでほぼ全て失敗している。止まれと念じればいいのか? 砂の向こうにワグレの防壁が見える。ランテは無意識に息を飲み込んだ。瞬く間に壁が迫る。止まれ。このままでは激突だ。今度こそ。短時間に様々な思考が脳内を駆け巡って、焦る。落ち着かなければと思えば思うほどに気は迷う。でも今ミスを犯せば、自分だけではなくテイトまで危険に晒すことになるのだ。ランテはぎゅっと拳を握った。止まれ。止まるんだ。
両脇で光が鎮まる。急停止して、身体が前につんのめった。ランテは額から壁に激突するが、後ろにいたテイトはランテの背中にぶつかるだけで済んだようだ。暫時視界が煙に巻かれたように曇ったが、すぐに明瞭に戻る。結界は防壁の内側にあった。今ので触れてしまったことになるだろう。仰ぐと、結界はやはり無色透明で目では分からないが、ワグレに入ったときと同じで、正面に道が開かれているのが感じられる。だが、この部分の壁はまだ崩壊を免れていて、見上げるほどに高い。ユウラがいてくれればと思うが、今は二人だ、二人でなんとかするしかない。
「ランテ」
後ろからテイトに腕を引かれる。下がれという意味だろう。ランテは素直に二歩下がって、彼を見る。テイトはすっと右の人差し指を延べた。冷えた空気の塊がランテの鼻先をかすめて、走る。それは壁にぶつかると、氷塊に変じた。足場ができた。
「先に上って。滑るから」
気をつけて、という声は音にならなかった。テイトは肩で大きく息を継ぐ。苦しそうだ。呪を使わせてしまった、無理をさせてしまった。だが、テイトの目はしっかり焦点を定めていて、ランテを早くと強く促してくる。頷いて、足をかけた。先に壁の向こうへ行って、待ち伏せているだろう兵を何とかしよう。氷の足場は体重を乗せてもさほど滑らない。溶けていないからだろう。おかげで上るのは難くはなかった。問題が発生したのは、上りきって壁の上に足を立てた直後だった。
視界の下の方で、何かが一直線に過ぎった。矢だと理解したときにはもう遅い。幸い最初の一本は足を擦っただけで済んだが、見えた弓の数は五つだ。うち四つは矢を番え狙いを定め終えて、あとは放つだけの状態になっている。残りのひとつの弓にも新たな矢が番えられる。嘘みたいに静かな空間で、弦のしなる音が鼓膜をかすかに震わせる。
「投降しろ。お前は殺さない。武器を捨てろ」
高圧的な命令は奥から聞こえてきた。纏う物は相変わらず白いが、鎧ではなくローブだ。呪使いだろう。わずかに緊張した表情を見るに、彼だけは洗礼を受けていない。指令役だろう。
呪使いは、殺さないと言った。違うな、とランテは思う。殺せないんだ。さっきの矢がランテを射止めなかったのも、狙いを外したわけじゃない。聖者はなぜかランテだけは生け捕りにしろとモナーダに命じていた。ならば、何を臆する必要があるだろう? 向こうは加減を強いられているのだ、多勢に無勢とはいっても絶望的に分が悪いわけではない。ランテはゆっくり剣の柄に手をやった。鞘を留める腰のベルトを外して敵を安心させるが、無論、大人しく従う意志はない。武器は捨てずにランテ自身が壁の上から身を躍らせる。敵陣の中央へ降り立った。
ランテの意表をついた行動に、敵は——司令役の呪使いは一時思考能力を奪われ、己の役目を忘れる。指示を出されない証持ちの兵士たちは、ランテを狙って構えてはいるが、一向に動こうとしない。いや、動けない。チャンスだった。最も近い兵士に寄り、抜いた剣で弓の弦を断ち切った。振り向きざまに、もうひとつ。兵士は、壊された弓を持ち直して——もちろん今までのようには構えられない。矢を番えることも出来ない弓で、しかし、なおもランテを狙おうとしている。胸を焼いた感情に、名をつけることは出来ない。哀れみに近いかもしれないが、それとも違う。ただ漠然と、悲しいような悔しいような。
「足、足だ! 足を狙って動きを止めろ!」
呪使いがようやっと指示を出すが、そんなに大声で言っては丸聞こえだ。狙われる場所が分かるなら動きを読むのは容易い。戦闘経験の少ないランテでも、殺されず、その上敵の狙いが分かるのなら存分に戦える。己の中に、やれるという揺るぎない自信が宿っている。内心驚きながらも、ランテは余裕を持って剣を構え直した。
かわすのは易い。けれども、敵の数を減らすにはそれだけでは足りない。こちらから仕掛けなくては。致命傷は与えないように、慎重に、しかし時間はかけず。
指令の呪使いが一、剣使いが三、槍使いが三、そして弓使いが五、うち二人の武器はさきほどランテによって壊されている。だが、彼らは徒手でもかかってくるのだ。武器を壊すだけでは数を減らしたことにはならない。テイトを案じて背後を振り返る。まだ姿は見えない。そこで待っているよう声をかけるべきか迷ったが、敵に居場所を教えることになる。やめて、ランテは直り、証持ちの兵の囲みの奥にいる白ローブの男を見た。あの呪使いがこの集団の要。無駄な血を流させないためにも、真っ先に倒すのが一番だ。
繰り出される低い位置の攻撃を跳んだり剣で弾いたりしながら、ランテはじりじりとターゲットに近づいていく。残り数歩という距離になったとき、呪使いは両腕をランテに向かって突き出してきた。危険を感じて、大きく跳ぶ。足のすぐ下を光線が走った。ひやりとする。が、これで敵が次の手を打ってくるまでには時間ができた。今だ。一気に距離を詰める。後ろから矢が飛んできたが、進路をわずかに右にずらしてかわした。剣を斜め下から一気に切り上げる。
首もとのローブが裂けた。浅く切れた皮膚から血がにじみ出る。呪使いの男は腰を抜かして尻餅をついた。左手で喉元を押さえる。血がついたのを見て、「ひっ」と布が裂けた音と同じような引きつった叫びを上げた。
「わ、私は呪使いだ。武器は持っていない。た、頼む。殺さないでくれ」
「なら、兵を止めてください」
もう一度、呪使いは赤く汚れた手のひらに目を落とし、次にがくがくと震える頷きを落とした。
「と、止まれ。武器を下ろせ」
兵士たちは従順に従った。全員の構えが解ける。最後の一人までしっかり見届けてから、ランテは壁を振り返って呼んだ。
「テイト」
上った壁の上からテイトが降りてくる。少々危なっかしい着地だったが、無事にこちら側へ降り立った。
「行こう」
声をかけて、ランテが呪使いの傍を通り抜けた、そのとき。
「その男を殺せ!」
突如静寂を割った声に、ランテは弾かれたように振り返り、同時に己の迂闊を悔いた。しかし、今はそれより。テイトはちょうど敵の中央にいた。慌てて助太刀に向かうが、もう目の前の兵が槍を構えて——駄目だ、このままでは間に合わない。テイトは別の兵士に気を取られている。あと数秒の猶予もない。腹を貫かれる仲間の幻影に脅える。させない。ランテは剣を強く握り締めた。
その瞬間、無心だった。我に返ったときには既に、振り切った剣が揺れていた。刃は赤くぬらりと輝く。その向こうで、兵士が崩れていく。鎧の継ぎ目からたくさんの血を流しながら。思わず、ランテは二、三歩後ずさった。手に生々しく残る感覚に身震いする。
刹那、脳が、雷に打たれたように痺れた。これは知っている。とてもよく、知っている。忘れたくても忘れられない、深く身に刻みこまれた咎。オレは、これまでも、こうして。手足から熱が引いていく。己の中に底なしの恐怖を見る。どこまでもどこまでも黒い澱。増殖していく。胸を苛む痛みの正体に、今、触れようとしている?
嫌だ。見たくない。聞きたくない。知りたくない。
「ランテ、光速を」
すっかり忘我し動転していたランテにとって、その一声はまさに
倒れた兵士の流す赤からは遠ざかれても、自らの手に握った剣の赤は、どこまでも追ってきた。
かなり飛んだ。ランテの意志だけではなくて、何か別のものに進めと後押しされた、そんな気がする。さすがに息を切らしながら、ランテは地面に足をついた。打って変わって、視界を覆うように広がるのは、闇に埋もれた緑だ。夜の林の中にいる。深く息を吸う。湿った土と葉の匂いがした。寒い。
「ランテ」
テイトが木の陰を指した。そこをほのかに光るものが過ぎる。ランテは目を凝らしてみた。不思議な光は、一度幹の後ろに隠れて、今度は反対側から現れる。そのままゆらゆら虚空を漂って。
「精霊だよ。呼び出してないのに近づいてくるなんて、珍しいな」
絶えず形を変えながら明滅し、漂うそれ。放つ光に照らされるたびに、溜まった疲れが洗われていくような、そんな心地がする。祠で見た大精霊よりはずっと小さいが、それでも大きな力を秘めているらしいことは分かった。精霊はランテに寄ると、ぐるりと一周巡って、やがて林の奥へ進んでいき、またしても木陰に消えた。
「誘ってる?」
声にしてみて、確信した。
「テイト、追おう!」
「え?」
「早く!」
そうしなくてはならない気がした。時折姿を現し、灯り代わりになってくれる精霊のしるべを追って、木々の合間を縫うように駆けていく。
「あれ、この感じ……セト? もうこんなところまで?」
途中、後ろでテイトが呟いた。合流できるか。木の根を跳び越えてから、尋ねてみる。
「セトたち、この先にいる?」
「いや……一瞬そう思ったけど、ちょっと違うかな。さっきのランテの光速、一気にすごい飛んだから、二人ともまだ追いつけてないはずだよ。それにしてもこの力、すごくセトの感じに似てる。源は人じゃないみたいだけど……呪の痕跡かな? 一体誰のだろう」
「どういうこと?」
ランテがもうひとつ質問を重ねたとき、大きく視界が開けた。泉だ。精霊の姿を鏡のように映す澄んだ水を、満々と湛えている。その脇に、小屋がひとつ。古びてはいるが、何かとても心惹かれた。詳しくは分からないが優しい感じが伝わってくる。
「すごい……」
テイトがそっと言った。心からの感嘆の声だ。
「あの小屋、どうやら【永続呪】がかけられてる。それも、癒しの呪の。初めて見た」
「永続呪?」
「中に入ってみたら分かるよ。人の気配もないし、行ってみよう。セトもユウラも怪我してるだろうから、ここで少し休めるといいんだけど」
先を行くテイトに続こうとしたが、道案内をしてくれていた精霊が、様々に形を変えながら、再びランテのまわりを一周した。そうして来た道を戻り始める。また、ついて来いと言っているのだろう。行かなければ。
「テイト」
「何?」
「オレ、ちょっと行ってくる。テイトはここに居て」
「ランテ?」
「たぶん、セトとユウラのところに連れて行ってくれるんだと思う。オレならまだ平気だから。テイトは先にここで休んでて」
「なら、僕も」
「もしかしたら行き違っちゃうかもしれない。そのときのために」
「……分かった。気をつけて」
心配そうに眉根を下げてはいたが、テイトは笑ってランテを見送ってくれた。
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