【Ⅶ】-1 鍵
崩れた防壁の向こうには、一面、白い砂漠が広がっている。何もかもが死した世界だった。結界を破ろうとしたが、その必要はなくなる。刹那、一部分景色が揺らいだ。目には見えないけれども、そこから確かに道が拓けたと感じる。
「ここだけだね。入って来いってことかな?」
肩を貸されることは断ったが、テイトは今にもよろけ、倒れてしまいそうな顔色をしていた。先ほどの戦いでかなり無理をしたらしいのは、誰の目から見ても明らかだ。もっと早く倒せていたらと、ランテは今さらの後悔をする。
分からないと思う。自分のどこに、白獣を倒せるだけの力が存在していたのか。そして今、その力はどこに行ってしまったのか。一時は影を潜めていた不安が、またじりじりと胸を苛む。苦悩はいつも同じ場所に帰結した。
自分は一体何者なのか。
「ランテ」
呼ばれて、歩き出す。考えないようにしよう。思っても、やはり、残る。残ったものは、やがて恐怖に代わり。目を閉じた。何も見えない。何も分からない。答えはずっと見つからないのかもしれない。首を振る。考えるな。考えたところで、今すぐ何かできるわけではないのだから。
先へ進め。一歩でも前へ。何も分からなくたって、歩くことはできる。だから、歩け。
「あんた、平気なの?」
心配させていたらしい。慌てた。
「大丈夫」
しばらく無言で、ユウラはランテを見つめた。戻し時を失った即席の笑顔が、あえなく強張る。
「だから、嘘はやめなさい。あんたには無理よ」
今度は、どこか諭すような、労わりを含む口調だった。
「そんなに分かりやすい?」
「すぐ分かるわ。分かりやすい」
でも、大丈夫。身体が動かないとかそういうのじゃないし。答えようとしたら、ユウラに先を越された。
「何考えてるかは知らないけど、後にしときなさい」
そこまで見透かされていたとは。ユウラの鋭さには毎度驚かされる。しかし、お陰で気が紛れた。
「うん、そうする。ありがとう」
結界の向こうへ足を踏み出した瞬間だった。背後の入り口が閉ざされて、前方では白い砂漠が空の闇と混じって消える。そこに新しい景色が生まれた。
「町?」
雲間から日が差した。眩しい。光り輝く空間の中、続く道々、並ぶ家々、木々、行きかう人々。とても綺麗な町並み。潮の匂いが風に乗って流れてきた。さわりと細枝が揺れる。
「懐かしいな」
言って、セトはあの目をした。ワグレを語るときの暗い目だ。ユウラとテイトも同じ目をしている。響いた子供の声が、空に飲み込まれた。ランテも無性に悲しくなった。
「幻惑の呪?」
「たぶんな」
ユウラの問いに、セトが頷いた。
「幻惑の呪って?」
「あるものをないように、ないものをあるように見せる呪のこと。人を惑わせる呪よ」
続いたランテの疑問には、ユウラが答えてくれた。セトの補足が続く。
「エルティでルノアがオレに使ったのも、幻惑の呪だ。使い手によっては人の五感全てを支配したり、それ以上のこともできたりする。誓う者が実体を持てるのも、幻惑の呪の応用だ」
蘇った感覚があった。直前まで握っていたはずのルノアの手首が、突如形を失った、あのときの虚しさだった。あれはもしかして。胸が早鐘を打ち始める。
「誓う者は、中心部に」
テイトが細い声で言った。本当に大丈夫なのか。
「大丈夫?」
「結界の中に入ってからは、だいぶ楽になったよ。ありがとう」
相変わらず消え入るような声だが、微笑む顔は確かに先ほどよりは幾分血色を取り戻しているように見える。今気づいたが、ここの空気は、冷えてはいるけれども穏やかだ。気を緩めてはいけないと分かっていたが、自然と安らいでしまう。まだまみえぬ、誓う者のことを思った。敵に囲まれながら滅びた故郷に立ち、ひとり、三年間も耐え続けてきた人物。スンは彼と言っていた。男性なのだろう。彼は自分で作り出したこの温かい幻の中で、何を思っていたのか。胸が疼いた。ひどく。
一体誰が根源なのだろう。あの男だろうか。ベイデルハルク。あの男が、全て企み、命じているのか。それとも——大聖者は白女神の預言者だと、あの白い本には書かれていた。だとしたら、白女神がこうすることを望んでいるのか? どちらにしても、許すわけにはいかない。これからも繰り返すというのなら、止めなければならない。しかし、敵うだろうか。今のままでは到底届かない。
ランテは剣の柄を強く握った。気だけが急いていた。
幻の町に注ぐ、幻の陽光。幻の町を歩く、幻の人々。寂しさに似ているけれど、言葉では掴むことのできぬ感情が、胸を一杯に支配している。ランテたち四人は黙々と歩いた。
町の中央部には美しい建物があった。煉瓦造り、正面には大きなステンドグラス。女性が一人描かれてある。七色に輝く豊かな髪を広げ、白い衣をまとい、半分落とした瞼の奥に慈愛を満々と湛えた瞳をのぞかせて、安らかに笑んでいる。女神なのだろう。柔らかに広げたたおやかな両腕からは、周囲一帯を照らす強い光が生まれていた。朝焼けの光だ。その色に懐かしさを覚える。心の奥底の何かがそっと揺られるような、優しい懐かしさだ。
そして、あの印があちこちにあしらわれていた。交差された二本の線に横一線を加えたもの。やはり似ていると思って、ランテはデリヤに託された短剣を取り出した。偶然とは思えない類似性、通じるものが確かにあると再認する。
「教会ね。ここ?」
「うん、ここだ」
ユウラに頷きかけて、テイトは迷いなく言い切った。確信しているのだろう。続ける。
「誓う者は神僕かな?」
セトが首を振った。
「いや、神僕は【誓いの呪】の行使を禁じられているはずだ。命を歪める行為だとかでさ。【神教】には敬虔な信者が多くて、戒律を破ることを何より嫌い、拒む。違うとは言い切れないけど可能性は低い」
「詳しいわね」
「ああ……まあ、少しは知ってる」
歯切れの悪い言葉で答えて、セトはユウラから目を離した。ユウラの方はその後もしばらくセトを見つめていたが、その目に悲しげな影が落ちたように見えたのは、ランテの気のせいだろうか。
「行く?」
聞いてみると、頷きが三つ返ってきた。入り口は両開きの大きな扉だ。手で触れてみると、しっかりとした重量がある。とても幻とは思えなくて困惑した。
ステンドグラスから射し込んだ光が、白い石の敷き詰められた床を鮮やかに彩っている。等間隔に並べられた長椅子、燭台。蝋のにおいがした。祭壇に目を移す。エルティの教会で見たものがそのままに再現されている。
神光の模造品の傍に、佇む者があった。壮年の男性だ。日焼けのしていない肌に細い身体は一見すると女性のように見えるが、きりりと引き締まった顔立ちからは一筋芯の通った意志の強さが伺えた。ランテは直感した。この人が誓う者なのだと。
「よく来てくれました」
誓う者は、まっすぐにランテを見ていた。祭壇から降りて、近づいてくる。靴音はよく響いた。
「【ラフェンティアルン王国軍】総司令、イベットと申します。……今となっては、たった二人きりの軍となってしまいましたが」
「ラフェンティアルン王国軍?」
聞いたランテに頷きだけ返して、イベットは他の三人にも目を向けた。
「兵士をおびき出す陽動作戦、それから白獣との交戦を拝見しました。お若いようですが、かなり戦闘経験を積んでおられますね。どこかの組織に?」
いくらか間を置いてから、セトが答えた。
「白軍北支部の者です」
イベットは驚いたようだった。
「北の……そうでしたか。では、お気づきに?」
「どこまで気づけたのかは」
「何かきっかけが?」
「エルティが中央本部に襲撃されました。それで」
「なるほど。中央もついに大きく動き出したのですね」
伏せた目は、様々な感情に揺れていた。瞼を閉じて、イベットはひとつ、息を落とす。
「本当に……よく来てくれました。このまま……何もできぬまま果てるのかと、諦めかけていた頃でしたから」
「もっと早くに気づけていたらと、そう思います」
「ありがとう」
微笑んで言ってから、イベットは改めてセトを見た。
「癒しの呪を使っていたのは、あなたでしたね?」
「はい」
「あなたは神僕ではありませんね」
「……はい」
「では、もしかしたら、私はあなたの母上を知っているかもしれない」
返答に窮した様子で、セトは「そうですか」とだけ言った。知ってか知らずか、イベットはさらに質問を重ねる。
「母上は、今もご健勝で?」
「分かりません。長い間会っていませんから」
今度はイベットの方が「そうですか」と答えた。ふっと瞳が遠くなって、微かに口元が動く。ユリユ。ごく小さい声を、ランテの耳はそう拾った。
躊躇いながら、セトが口を開く。
「もしかして、あなたが」
「うん?」
「あの人は——母は、よく指輪を眺めていました。泣きながら」
「そうか、ユリユはまだ……持ってくれていたのか」
聞いて、セトは顔を俯けた。
「すみません」
「なぜ君が謝る」
「オレが生まれていなければ、母もあなたも苦しまずに済みました。袂を分かつ必要もなかったはずです」
「君に罪がないことは、私も、そしてユリユも理解している。君が謝る必要はない。むしろ……謝るのはこちらの方です。私の息子として育てられていたら、君を苦しめることは」
そのとき、地面が大きく揺れた。ランテは長椅子に手を延ばす。しがみついてしていなければ立てないほどに強く震動している。はっと息を呑んで、テイトが呟いた。
「結界が」
敵の仕業か。イベットが頷いた。ようやく震動は収まったが、何か、不穏な予感がしていた。それは胸を端から着実に蝕んで広がっていく。落ち着かなくて、ランテは意識的な息を吐き出した。
「もう長くは持ちません。あなた方の苦労を、そして私の仲間たちの信念を、無にはできない。私が知っている全てのことを、今からあなた方に託します。よく聞いてください」
ステンドグラスの中の女神を仰いで、イベットは語り始めた。
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