【Ⅵ】-4 決着と

 白い四肢は、しなやかに駆ける。まだ動きづらそうなテイトの手を引っ張って、ランテは右に動いた。速いが、身体の大きさが災いしてだろう、反応できないほどのものではない。余裕を持って避けることができた。ところが。


「屈め!」


 セトの短い警告にひとまず従う。頭上で何かが風を切った。見上げる。尾だ。延びたそれを、目で辿っていく。ランテの後ろまで続いていた、その先では。


「テイト!」


 全身を尾で巻かれたテイトは、ランテの呼びかけで自分の身体を見、それで事態を理解したようだった。抜け出そうとしたが敵わず、締め上げられる。両足が浮いた。息を詰めた彼を救おうと、ランテは剣を振り下ろした。しかし、尾は刃を受け付けない。ランテの両腕を合わせたほどの太さほどでしかないのに、剣を直に受けても、傷一つつかないのだ。目を疑った。なんという硬さ。これこそまるで石だ。さらに両腕に力を加えてみたが、剣は滑っただけ。ランテは体勢を崩して横によろけた。瞬間、白獣はテイトを解放する。放り投げたのだ。


「テイ——え?」


 間近で光った白に、困惑する。目を遣ることはできた。けれども、反応するのはおろか、状況を認識することも間に合わない。身体が吹き飛ばされるのと、熱に肌が負けていくのを感じる。痛みが全身をじわじわと侵食していく。堪えきれずに呻いた。


 次に来るだろう衝撃を覚悟して、唇を噛む。どこから落ちるだろう。背中か、頭か。耳のすぐ傍で鳴る風が刹那、緩んだ。身体がふわりと浮き上がる。この感覚、どこかで。把握する。風の呪だ。どうやらそれだけではなく、癒しの呪も混ざっている。火傷の痛みが遠のいた。ゆっくり下降して、足が地面につく。


「ありがとう」


 礼を言うと、セトは頷きだけを寄越した。息を整えてから、彼は白獣の向こう側のテイトに声をかける。テイトはユウラに助けられたようで、時折咳き込んではいたが無事だ。


「折れてないな?」


「大丈夫」


「テイト、呪は使うな」


「え、でも、それじゃ」


「下がって指示頼む」


 テイトはうけがえずにいたが、白獣は待ってはくれない。再びランテを目掛けて駆けてくる。音はしない。巨大な身体は、しかし、軽やかに跳ねる。たてがみと尾とが舞い踊り、ほのかな輝きが宙に残り。またも見とれそうになるが、すんでのところで目を逸らした。長爪が迫っている。身を低くしてやり過ごした。セトは地面を蹴って跳び上がると、前へ差し出されていた白獣の足の上に降り立ち、間髪入れずまた跳躍する。彼が背中に乗った瞬間、尾が三本、一斉に動き始めた。阻もうとランテは後ろへ回ったが、こちらにも一本近寄ってくる。剣で相手しながら、白獣の背を見上げた。セトは二本の尾を器用にかわしていたが、迫る攻撃はそれだけではなかった。彼の背後で光が走る。白獣の呪だ。反応は速かったが、白獣の背に乗ったままではいられなかった。ランテの傍に着地して、大きく息をつく。


「平気?」


「ああ。お前のお陰で、だいぶ楽になった」


 さっきのあれ——勝手に現れた光の球体のことだろう。確かに少しばかり空気が穏やかになった気がする。だがなお常からは程遠いものであるのは、ランテにも分かる。重量のある空気が手足に纏わりついてくるように感じるのだ。他の三人はもっとだろう。動きは著しく制限されるはずだ。


 ランテとセトの付近を彷徨さまよいながら隙を窺っていた尾が、一旦、引き戻される。次なる攻撃に備えてだろう。セトが剣を握り直した。


「ランテ、目だ」


 白い毛並みに囲まれた、潤う銀の瞳は、見開かれてはいたが何も映していない。美しいだけの飾り皿のようだった。


「分かった」


 なるほど、目ならそれほど硬いことはなかろう。答えてはみたものの、仰げば首が痛くなりそうなほどの、あの高さ。まずはどうやって辿り着くかから考えなくてはならない。よじ登るわけにはいかないし、セトのように高く跳ぶこともランテにはできない。


 白獣は今度はユウラに目標を定めた。咆哮を上げた途端、閃光が走る。かわしたところには既に爪が先回りしていた。危ない。加勢しようとランテは駆け出した。ユウラは槍で迫った爪の軌道を逸らして避ける。次は尾だ。三方向からの敵に、ユウラは一瞬後込しりごみした。駄目だ、捕まってしまう、助けに入らなくては。だがまだ遠い。届かない。そうだ、呪。光速だ。思った瞬間、身体が引っ張られた。自分の周囲で、光が迸ったのが見える。使えた。


 突然変わった景色に、ランテは戸惑った。一体今、自分はどこに?


「馬鹿!」


 後ろで、ユウラの声がする。彼女のすぐ傍に来たのだろう。ということは。把握の瞬間、焦燥する。上げた目に入ってきたのは、真っ直ぐに向かってくる三つの銀の尾だ。何の対策も用意しないままに飛び込んでしまった。


 背中を押される、が、逃れることはできなかった。触手に絡め取られる。首を捻って、ユウラも別の尾に捕まっているのを知った。自分の不用意な行動のせいで、ユウラも巻き込んでしまった。後悔は手遅れ。尾が食い込んでくる。痛い、苦しい、息ができない。どうにかしなければと思うが、手立てはない。無抵抗なまま締め上げられる。視界の隅から、黒が侵食してくる。ああ、もう——


 そのとき、ふいに緊縛が解けた。身体がするりと抜け落ちる。一度に肺を満たした空気に、咳き込んだ。何が? 少しずつ普段の呼吸を取り戻しながら目を遣ると、白獣は微塵も動かない。長い首をなぞるように一筋、何かが流れる。白い——が、ただの白ではない。白の中に様々な色彩を持つ白。いつの間にか現れていた月の、清浄な光を浴びて、ただただ美しい。ランテはルノアの髪色を思い出していた。ちょうど同じ色だった。


 ランテたちのすぐ前に、セトが着地した。ヨーダでもらった外套の裾が、白獣の首を流れているのと同じもので彩られている。これはいったい、何だ?


 白獣が少し動いた。首を傾けてこちらを見たのだ。不思議な白の源泉は右目にあった。瞳の中央に突き立てられた短剣、そこから流れは生まれている。ようやく悟った。これは、血なのだ。白獣の血。人の身体を流れるそれとは違いすぎて、結びつかなかった。


 ふいに、短剣が燃え上がった。白い炎だ。デリヤの腕を焼き尽くしたのと同じ色をしていた。熱に強いはずの金属が、その中で形を崩し、真っ白な灰に変わって散った。瞬く間だった。気づいて、セトは素早く脱いだ外套を風の呪に乗せた。白い血の附着した部分から発火して、すぐに全てを覆い尽くす。小さくきらめく灰を雪のように降らせながら、燃えて燃えて、燃え尽きた。


 白獣の身体を伝う血が、緩やかに足をたどって、地面に触れた。土も白炎を拒めない。生まれた炎がゆるゆると広がっていく。水紋が広がるように、静かに穏やかに、だが着実に。


 誰も何も言えなかった。白い炎に、言葉まで焼かれてしまったようだ。何をすべきか分からずに、立ち尽くす。白獣もまた動かない。着々と周囲を飲み込んでいく炎の中心に凛と立って、血を涙のように流し続ける目で、こちらを見据えたまま。


「白獣は白女神の使い。刃を立てる罪を犯した者は、白炎の裁きを受ける。骨一つ残らず、灰となる」


 震える声で、モナーダが言った。強い風が吹いて霧が濃くなる。いや、ずっと霧だと思っていたものは、霧ではなかった。壁の向こう、ワグレの地から巻き上がる白砂だ。家や、船や、木々や、土、そして人。町の全てが焼き尽くされて、ただひとつ、残ったもの。それが風に乗って舞っていたのだ。


 広がり続ける清い炎は、刻一刻とランテたちのほうへ迫ってくる。黒煙の代わりに、白砂を立ち上らせて。


「離れないと」


 ユウラが呟いた。立ち上がる。頷いて、ランテも足を立たせた。待っていたように白獣は一声啼いた。高く澄んだ音が響く。するとランテたち四人すべてを飲み込む大きな円が浮かび上がった。呪だ。飛び退ろうとするが、間に合わない。光が強くなる、飲み込まれる。瞬間、突風が吹きつけた。セトだろう。四人とも風に運ばれて、難を逃れる。ランテの鼻先で、天高く伸びた白い円柱。注いだ光は熱を持っている。直撃していたら、全身に大火傷を負っていただろう。


「ありがとう」


 一度の呪でひどく消耗するらしく、セトはしゃがんだまましばらく立ち上がれないでいた。光の柱が消えた。その向こうに白い炎は残っていたが、白獣の姿がない。落ちてきた影に振り返る。すぐ後ろ。身体中の血が引いていく。思わず剣を握ったが、駄目だ、白獣にこれ以上血を流させるわけにはいかない。


「下がって!」


 今度は、テイトが動いた。白獣の顔を覆うように炎が呼び出される。白獣は一瞬、止まった。息を詰まらせたテイトを引っ張りながらランテは下がるが、しかし、下がりすぎれば白炎に近づくことになる。そして滴り続ける血は、新たな白炎を呼ぶ。挟まれる形になった。このままでは逃げ場がなくなる。囲まれて骨まで焼き尽くされる。


「テイト、呪は」


 セトに皆まで言わせる前に、テイトは首を振って拒否した。まだ苦しそうだ。


「そう言いながら……セトも使ってる」


 一度大きく息を吐き出して、テイトは白獣を見上げた。赤い炎が一塊目許に残っていたが、それも潰える。何かしらのダメージを受けた様子はない。けれども攻撃を受けたとき、一度怯んだように動きを止めたのは確かだ。効いているはずだと祈るように思う。


「斬るのも突くのも、血がたくさん流れる。でも、焼くか凍らせるかならまだ少なくて済む。それなら、僕の出番」


「分かってるだろうけど、この中で使いすぎたら」


「大丈夫。ちゃんと加減するから。セトこそ使いすぎないで」


 そうか、呪なら白獣に血を流させずに攻撃できる。光の呪は通用するだろうか。今度こそ失敗のないようにしなければ。白獣は近づいてくる。歩みの後に、点々と白を落として。


 瞬間、冷気が上った。白獣の後ろ足が氷塊に包まれる。テイトだ。氷は二本の足を覆い切るところまで駆け上った。苦しげな息をしながらも、もう一つ。背中から頭へ、一線、炎が走った。白獣は今度も動きを止める。おそらく効いている。しかし、テイトもここで膝を折った。連続して二つの呪を使った。その上、彼はこの空気に晒されるのは初めてだ。途切れ途切れの呼吸音。そこへ、白獣の尾が。セトとユウラに並んで、ランテも進み出る。一人一本。今度は、硬いのが幸いした。刃で触れても容易たやすく傷はできない。


 突如、何かの気配を察知する。感じたのだ。来る。見上げれば整然と並んだ牙の向こう、大きく開いた白獣の口腔に、光が集っていた。痛いほどにまばゆい光。知っている。ベイデルハルクが使っていた呪と同じだ。テイトが書いてくれた光呪のリストの中にはなかったもの。上級呪だろう。しかもあのときのそれより、ずっと大きい。手の中に納まるくらいの大きさであったあれでさえ、跳ね返した後ベイデルハルクを遠くへ弾き飛ばしたほどの力を持っていた。白獣の喉を満たすほどのこれが、そのまま放たれたとしたら? 目の前に惨状が浮かんだ。唇を結ぶ。そんなことにはさせない。


「ランテ」


 何をする気かと問う声だった。ひとつ、息を吸う。大丈夫だと、確信した。


「オレが」


 それだけ言って、ランテは両腕で剣を構えた。顎を引いて、足は肩幅、腰は軽く落とす。身体は勝手に動く。不思議と落ち着き払っていた。曇りのない刃に映った双眸は、己でも驚くくらいに、揺るぎない自信を湛えていた。


 大きく膨張した光弾が、迫る。すべきことはもう分かっていた。剣を振り下ろすだけでいい。柄を握り締めて、集中。刃の一閃。あのときと同じように、光は跳ね返された。炸裂。でも、まだだ。すっと短く息を吸う。ランテを中心にして、地面に円紋が浮かび上がった。複雑な文様が描き出される。


「紋章呪?」


 後ろで誰かが呟いた。紋章が、照る。文字が刻まれ尽くして、力が解放されるそのときを待っているのだ。ランテは片腕を持ち上げて、真っ直ぐに延ばした。掌を正面、白獣の方へ。自分はどうしようとしているのか、何も分からない。が、全ては身体が知っていた。


 紋章から滲み出た光が、細く長い光の柱を無数に作り出す。それらは紋章の周りを巡りながら浮かび上がって、連なり、揃ってその先端を白獣の方へ向けた。一瞬の間、そして。群れを成す光の矢は、空を切って走ると、次から次に白獣の身体を射止めた。一本とて外れることなく。


 地面が大きく縦に揺れる。巨体が倒れた。風が巻き起こって、白砂の霧が濃度を増す。しかし、まだ。今度は腕を掲げようとして止められた。セトだった。


「ランテ、もういい」


「でも、まだ」


「決着はついた。それに、それ以上はお前がやばい」


 途端、かくんと視界が落ちた。膝が崩れていた。足を立たせようとするが、できない。完全に力が抜けている。


「あっ」


 頭を、あらゆる方向から激痛が刺し貫いた。額を覆い、歯を食いしばった。身体の中で大きく心臓が鳴っている。急に吹き出した汗が、頬を流れ顎から滴った。


「今のは光呪か? 初めて目にする呪だ」


 モナーダの声が、遠くに聞こえる。息が切れていた。苦しい、痛い。


「白獣を光呪で破るか。面白い青年だな」


 世界が霞む。今にも消えそうだ。頭痛はますます酷くなる。でも、ここで倒れるわけにはいかない。気力で意識を繋ぐ。


「術の練度は高かったようだが」


 ふいに、身体が軽くなった。全ての苦しみから解放される。息が吸えた。


「私も光呪使いだ。少しは足しになるだろう」


 顔を上げて、すぐ傍にモナーダが来ていたことを知る。彼がこちらに向けた腕からほのかに色づいた光が降ってくる。楽になったのは、それのお陰らしかった。


「いいんですか」


 まだ呼吸の整わないランテに代わって聞いたのは、セトだ。


「構わない。どちらにしても、じきに動けなくなる」


 上級司令官の向こうに白獣の姿が見えた。投げ出された四肢が目に刻まれる。それはゆっくりゆっくり、薄れていく。白獣も黒獣と同じで倒されると消えるようだ。

 と、音がした。重く鈍い音だ。ランテに注いでいた光が失せた。モナーダが左の肩口を押さえて、蹲る。響いた苦痛の声が耳を刺す。


「どうして」


 思わず、問うた。自分の意識から離れた場所で戦っていたが、モナーダを傷つけることは決してしていないはずだ。何が彼を苛む?


「構わない……当然の……報いだ」


 苦しい息のもと、モナーダは懸命に言葉を紡ぐ。どうにか起こした顔で、彼はセトを見た。


「もし、また、娘に会ったら……囚われず……自由に生きろと、そう伝えて……くれないか」


 瞳に影を落として、しばらくの沈黙の後、セトは頷いた。


「伝えます。必ず」


 まるで遺言だ。なんでこんなことになっている? 理解が追いつかない。ふいに、蘇った光景があった。デリヤだ。彼も同じように苦しんでいた。もしかして、同じことが? 腕から白炎が生まれ、焼き殺されるのか?


 腹の中にあるものが、本来あるべき場所を離れて、ひどく捩れているような感覚がした。モナーダは当然の報いだと言った。だが彼は兵を人質に取られ、従わされていたに過ぎない。どこが当然の報いなのか。理解が追いつかない、いや、理解などしたくない。


「駄目だ」


 口にしていた。何かを考える前に、モナーダの元へ寄る。左肩口に両手をあてがった。やはり熱されていたが、デリヤに同じようにしたときの押し返すような抵抗は、今度は感じなかった。


「君は」


「当然なんかじゃない。あなたが死ぬことはない」


 こんな風に命を弄ぶような真似を認めるわけにはいかない。絶対にだ。


 指先に、光が宿る。光の呪の光ではない。長い夜に終わりを告げる、新しい日の始まりを告げる曙の色。淡く澄んだ灯の光。どこかで見たことのある。思い出したのは蝋の匂い。透明な球体の中で渦巻く光の渦、あの色と同じ色だった。


 生まれた白い炎を、その橙の光が覆う。光に阻まれて炎はそれ以上増幅できない。それどころか時を経るごとに勢いを欠いていく。鎮められていくのだ。そうして、ついには消え去った。肩で息を繋ぐモナーダが、恐る恐る左肩に手をやった。衣の襟を落とす。現れた素肌の肩にはもう、祝福の証と呼ばれるものは無かった。


「ランテ、お前は」


 目を合わせると、セトは口を噤んだ。そのまま黙ってランテを見ている。言葉の続きは、いつまで待っても聞けなかった。

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