【Ⅵ】-3 召喚

 似ていると思った。ベイデルハルクと。外見ではなくて、雰囲気というのだろうか、纏う空気が。


 項で一つに結わえた長髪を揺らしながら、クレイドはゆっくりと三歩足を進めた。腰に挿した剣は抜かないが、十二分に威圧感を感じる。深い緑の目がランテを捉えた。


「お前がそうか」


 意味は分からない。しかし、戦慄した。


「確かに、瓜二つだな。顔もそうだが……何より」


 皆まで言わず、クレイドは意味深な笑みを浮かべると、隣に目を移した。セトだ。


「先刻の癒しの呪、使い手はお前か?」


 答えず、セトはじっとクレイドを見ている。警戒ではない。揺れる瞳に存在するのはもっと別の、当惑に近いものだった。


「勘はいいらしいな」


「……どういう意味ですか」


 抑えられた声は、何かに震えていた。剣に伸びていた手が柄をぎゅっと握る。それでも余った力に、彼の腕がかすかに揺れた。


「お前の推測通りだ」


 また背が震えた。今度の原因は敵じゃない。隣で、制御を外れた力が一瞬、迸ったのだ。懸命に押さえ込んで、セトは長い息をついた。右腕はなおも揺れている。


「向かってこないのか」


「本当は今すぐ、あんたを殺し——いや、消してやりたい。でも、オレの勝手な理由で、仲間を危険に晒すことはできない」


「馬鹿でもないらしい。が、俺を消すことがどういうことか、分かって言っているのか」


「分かって言ってる」


「どうだかな」


 控えめではあったが心底楽しいという笑みを浮かべて、クレイドもまた剣の柄へ手をやった。そのまま動きを止めて、今度はモナーダを見る。


「モナーダ、白獣を呼べ」


「し、しかし」


「俺の後ろに、何が見える?」


 そこにそびえるのは兵たちの宿舎だ。あの広い建屋では、今、一体何人の兵が休んでいるのだろう。モナーダの喉がこくりと上下した。左の肩へ利き手を伸ばして、それで心が決まったらしく、顔が上がった。見えた目はまだ一瞬迷ったが、次の瞬間には彼を中心にして輝く紋が浮かび上がる。ジェノのときと同じだ。白獣召喚の紋なのだろう。ランテには読めない、複雑な文字が広がっていく。


 真っ先に動いたセトの前に、クレイドが立ち塞がった。避けて通ろうとした——もちろん、彼のあの速さで——が、二度目も捕まる。素早く抜き放たれたクレイドの剣が、弧を描いてセトに迫った。ここでようやく、ランテの体は動き始めた。何から何まで速すぎる。とても追いつかない。白獣召喚を止めるべきか、セトに加勢するべきか悩んで、前者を採った。抜いた剣を片手に駆け出す。途端、視界の端に黒い影が映った。それが何であるか分かるよりも先に、呼吸が詰まる。目を下ろした。腹に肘が食い込んでいる。目が眩む。足から力が抜けた。四つん這いになって咳き込む。やっと呼吸を取り戻してから頭を上げると、セトも、ユウラも、テイトも、皆倒されていた。圧倒的な強さだ。


「話になら——」


 モナーダの方へ飛んだ風の呪をクレイドは煩わしそうに剣で阻み、続いたセト自身の攻撃も容易く受け止める。止められた彼の足元に、何かがパタパタと落ちた。血だ。怪我をしている。


「まだ、斬られ足りないか?」


 見れば、ランテ以外は皆斬られている。ユウラは右腕を、テイトは脇腹を。セトもどこかしら斬られたのだろう。


「ランテ!」


 鋭く呼ばれて、ランテは自分の使命を理解した。慌てて立ち上がり、モナーダのところへ急ぐ。彼の頭上に生まれた白い靄は、もう成長を止めて、渦巻き始めている。光も射し始めた。早く止めなければ。今にもあの白い毛並みの腕が現れそうだ。そうなったら——そうなったら? 動きの遅い足に焦る。


「その剣はハリアルに習ったか? 悪くはないが、そうだな、まだ若い」


 その声を聞いた直後、テイトがセトの名を叫ぶように呼んだ。大丈夫か。振り返りたい気持ちを抑えて、ランテはひた走る。また、黒い影が迫る。剣を振って追い返そうとしたそのとき、ユウラが駆けつけてくれた。


「行って」


 頷いて、また走る。後もう少しだ。靄の中から、銀の線が一本伸びてきた。白獣の爪だ。急がなくては。ユウラの苦痛を堪える声。振り返りたい、でも今は。辿り着いて、剣を振り上げた。再三、黒い影が追ってくる。ランテの周囲を炎が囲った。テイトだ。一瞬、黒い影の動きが止まる。今しかない。両手で柄を握り締めた。空気が唸る。


「すまない」


 不気味な静けさの中、モナーダの声が耳に届いた。両腕が、痺れる。最後まで振り下ろすことのできなかった剣が、振動しているのだ。剣を阻んだものを見る。神々しいまでの白。息を呑んだ。恐る恐る顔を上げる。銀色の、大きな瞳。ふっと引き込まれてしまいそうなほどに、美しい色だった。


「あ……」


 間に合わなかったのだと理解する。空気が凍りついた。息苦しくなる。この場にある全てのものが、白獣に支配されたのだ。皆は? 首を後ろに回した。テイトが立ったまま動かない。瞬き一つすらしない。あのときと同じで、まるで石の像のように。セトとユウラはまたも倒されていた。二人とも身じろいではいるが、立てないようだ。怪我のせいではないらしい。おそらくこの空気のせいだ。


「まだ二度目だろう。もう免疫があるのか。感心だ。……しかし、お前は光呪を使わないのか」


 息を切らしながらもどうにか上半身を起こしたセトに向けて、クレイドが言った。セトは自分の剣を身体に引き寄せる。それを支えにして立ち上がりつつ、口を開いた。


「あんたから受け継いだ力に頼るなんて……絶対に……」


「苦しそうだな。光呪使いならば楽に戦えるものを」


 喉を鳴らして笑ってから、クレイドはランテを見た。今度は興味深そうな目だ。全身を眺められる。凍ったような視線に鳥肌が立った。


「なるほど、どうやら間違いないらしいな」


「何の話を」


「まだ知らなくていい。しかし、面白いことになった。それであの女が動き始めたのか」


 ルノアのことだと、すぐに分かった。


「ひとつ言っておく。今度はあの女は助けに来ない。この状況をどう切り抜けるのか、見せてもらおうか」


 ランテとセトを交互に見て、クレイドは口角を上げた。もったいぶるようにじっくりと、意地の悪い笑みが広がっていく。


 白獣の上げた咆哮が、耳を射るようにつんざいた。すらりと細く長い体躯を覆うのは、ほのかな輝きを秘めた白い毛。光沢を持つ鋭い爪はゆるりと滑らかな弧を描き、大きな瞳は星の色をしている。編まれた三本の尾は優美に伸びて、長い首から流れる鬣は風に揺られてたなびく。見たことのない生物の形をしていたが、絵画にでも描かれていそうな美麗な姿をしていた。長く見ていればきっと心を奪われてしまう。今だって、目を背けたいのに背けられない。


「ランテ」


 はっとした。首を強引に動かして、白獣の呪縛から逃れる。声主はランテの顔が白獣から離れたのに安堵したようだった。


「大丈夫か」


 聞いたセトの方が、大丈夫ではなさそうだった。斬られた二箇所のうち、首に近い方はかなり出血しているようだし、この空気のせいだろう、呼吸すら満足にはできないらしかった。彼は白獣を見上げまだ動く気配がないのを確認すると、ユウラに寄った。腕をついて、彼女もどうにか起き上がろうとしている。肩で息をしながら。辛そうだ。


「何……これ……」


 助け起こされてからも、彼女はよろけた。槍を立てて縋りつき、耐える。怪我は二箇所、右腕と左足だ。動かせないほどではないらしいが、軽い怪我ではなさそうだ。


 ランテも振り返って、テイトのところへ駆け寄った。やはり微動だにしない。見開かれた目が、宝石のようにきらきらしている。名を呼んでみる。応答はない。肩を揺すろうと腕を伸ばして、愕然とする。硬い。本当に石になってしまったかのような硬度だ。


「手遅れだ」


 クレイドは言いながら血を払って、剣を収めた。


「助けたいなら、せいぜい砕かれないように努力することだな」


「砕かれる?」


 反芻してから、ランテは青ざめた。目に浮かんだ映像にひとり首を振る。駄目だ。勢いよくテイトに向き直った。硬い両肩を抑えて、高く呼ぶ。


「テイト」


 もう一度。さらにもう一度。これから、おそらく、白獣と戦わなくてはならない。セトとユウラは万全ではない。そこに大して戦力にはなれない自分を加えた三人で、動けないテイトを庇いながらどこまで戦えるか。もしも守りきれなかったら。身が震えた。


「テイト!」


 引きつったランテの声が響いた、その瞬間だった。白い光の球体が、ランテを中心に生まれた。それはゆっくり広がっていき、セトとユウラのところまで届くくらいに成長すると、途端に弾ける。光の残滓がきらきら舞い散った。


 今、一体、何が? 状況を理解できないままに瞬いた刹那、身体が傾いだ。重い疲労感がのしかかってくる。自分が肩で息をしていたのに気付いた。ふと、手が差し出されて、頭を上げる。


「テイト?」


 テイトも何が起こったのか釈然としない顔をしていたが、どうやら身体は動くようになったらしい。借りた手には、人らしい柔らかさと温かさが戻っていて安心する。ひどく疲れたが、良かった。無駄にはならなかったようだ。何がどうなったのかはまだ、分からないけれども。


「モナーダ」


 温度の無い声が聞こえてきた。


「侵入者の始末はお前がやれ。俺がやると死体の処理が面倒だ。砂にしてしまうといい。ただし、そいつは生かして捕らえろ」


 クレイドは真っ直ぐにランテを指していた。


「亡者が動き出した。この機に葬る。いいな。成功したらお前の不忠には目を瞑ってやる。兵たちにも手は出すまい」


「……承知しました」


 同じ召喚士のジェノは白獣を呼び出した瞬間に石化したが、モナーダは何ともないようだ。力の差があるのだろう。垂らした左手の袖口から淡い光が漏れている。白獣はまだ動かない。モナーダが静止させているのか。


「では、任せた」


 現れたときと同様に、突如、クレイドは消えた。何も見えなかった。直前までしっかりと目を開けてクレイドを見ていたのに、だ。移動したのだとしたら、すさまじい速さ。到底ついていけない。中央本部には、あのレベルの手練がたくさんいるのか。眩暈がした。


「戦わなければならない」


 もはや心を決した顔だった。モナーダは白獣を見上げ、輝く左手を頭上に掲げる。光が強くなって霧を退かせた。白獣が一歩、進み出る。その巨躯を覆う輝きが、細かい棘に代わって身に食い込んでくるようだ。


「私にとって娘がそうであったように、兵たちもそれぞれ、何に代えても守るべき者を持っている。父を子のもとに、夫を妻のもとに、必ず帰してやらねばならない。そのためになら、志を曲げることとて厭わないと決めている。君たちを殺すことも、厭うまい」


 人の上に立つ者として、立派な決意であると感じる。しかし。ランテは洗礼の証をつけた兵を思い出していた。鎧に黄色い洗礼の証をつけた彼らは、皆違う容貌でありながら、揃いも揃って同じ表情をしていた。魂の抜け落ちた、虚ろな、あの表情だ。


「それほど大事に思っている部下に、だけど、あなたは洗礼を受けさせてる」


 モナーダは罪の意識を感じているらしかった。かみ締めた歯が、ぎりぎり鳴った。


「洗礼は命を奪うわけではない。いつか……救いがあるかもしれん」


「洗礼を受けた者たちを救う手立てが見つかったとしても、きっと、また同じようなことが繰り返される。だから、中央をこのままにしておくわけにはいかない」


 握ったままの剣に、ランテは力を込めた。白獣を仰ぐ。そのためには、ここで戦って、生き残らなければならない。


「……若いな。羨ましい」


 沈んだ声でそう言って、モナーダは顔を上げた。ランテたちを順に一人ひとり眺める。


「叶うなら、私を倒して先へ進んでくれ」


 モナーダはほんのわずかだけ微笑んだ、ように見えた。しかし次の瞬間には、戦わなければならないと述べたときの強い表情が戻っていて、彼は掲げていた右腕を一挙に振り下ろした。空気が変わる。白獣は静止を破り、一直線にランテに突進してきた。


 悲しい戦いの幕開けだった。

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