【Ⅴ】   救い

 これ以上歩けなかった。傍らの木にもたれかかり、そのままずるずると崩れ落ちる。仰ぐと、深緑の隙間から星を散りばめた空が見えた。不思議なほどに美しい。気付けば涙を零していた。誰もいなくてよかった。残った右腕で拭う。赤黒い染みが滲んで広がった。


 後悔はなかった。もとより命は捨てていた。それなのに少し悲しくなったのは、きっと昔の——友に会ったせい。思い出すのが綺麗な思い出ばかりなのは、死のときが近づいているからだろうか。懐かしいなと思う。あの頃が楽しかったからこそ、恨みも募ったのか。今さら気付いたところで、誰も救われはしない。






 少しの間、眠ったかもしれない。突如溢れた光に、安らかな闇は砕かれた。ああ、と思う。終わりだ。いや、終われるの方がきっと正しい。早く楽になりたい。そう思いながらも立ち上がった理由は、意地だ。最後の一瞬まで誇りを捨てることはしない。母のように。


「やはり人間は、面白いな」


 光の中から現れた姿には、見覚えがあった。遠い昔、一度だけまみえた男だ。


「クレイド聖者」


「覚えていたか。あれほど幼かったのに」


 剣の達人だと聞いたことがある。片腕を失った今、いや、たとえ両腕が残っていたとしても、勝負は一瞬で決しただろう。恐れはないが、代わりに悔しかった。ひとりの人間の、なんと無力なことだろう。


「腕を落としてまで、【断罪】から逃れたらしいな。感心した」


 左の肩に触れた。もはや少しの痛みもなかった。斬った者と治した者、双方の腕がなせる業だった。


「裁きの前に、聞いておこうか。何のために永らえた?」


 黙したまま死ぬことを決めていた。


「言わぬか。しかし大方の検討はついている。お前は命懸けで得た情報を、死ぬ前に誰かに託さねばならなかった。その腕——」


 細められた目が、左肩を見た。思わず右腕で覆って隠す。


「自ら斬ったということはないだろう。その上、治療までされている」


 一歩、詰め寄られる。足を引きかけて、やめた。屈することはできない。背を伸ばし、顔を上げて、正面から敵に向き合う。


「誰に喋った?」


 無表情の詰問。黙秘を貫くために、歯を噛んだ。聖者が唇だけで笑む。


「お前が喋らずとも、そのうち分かるだろうがな。後を任せられるほどには縁のある癒し手、及びそれと行動を共にする者。もはや答えか」


 またお節介が首を絞めたと、今回ばかりは笑うことができなかった。


「案ずるな。すぐには殺さない。少しばかり泳がせるのも一興」


 聖者は、緩やかに剣を抜いた。一見しただけで分かる、出来る者の所作だ。応じる。月光か星光か、艶のある輝きが抜き身になった刃をするりと撫でた。


 刹那の間。


 かすかな煌きが見えただけだった。一直線に、鋭く。到底、反応できる速さではなかった。首を刎ねられた。そう思った。触れる。冷えた皮膚の感触が伝わる。まだ繋がっている?


「これはお久しゅうございます、殿下」


 剣を下ろした聖者の目が、森の奥を見た。そしてわずかに腰を折る。視線を追った。女がいる。吹いた風に珍しい色の髪を遊ばせながら、滑るように近づいてくる。


「久しぶりね。本当に」


 歩みを止めると、女は悲しげな目で聖者を一瞥して、こちらを向いた。場に不似合いな、優美な動作だ。


「できるだけ遠くへ」


 逃げろと、そう言いたいのか。


「それは困りますね。この者は知りすぎている」


「いずれ知られることよ。いつまでも偽り続けられると、あなたも思ってはいないでしょう」


「どうしてあなたが、今になって?」


 目を伏せただけで、女は答えなかった。聖者が言葉を継ぐ。


「亡国の民も、そしてあの者も……あなたがこうして永らえていることを喜んで」


「黙りなさい」


 静かな、しかし毅然とした口調で聖者の言葉を断ち切って、女はもう一歩進み出た。聖者が後退して間を取る。女の背に庇われる形になった。


「喜ぶ? ふざけないで」


「これは失礼しました」


「あの国のことを、民たちのことを、そして……あの人のことを、あなたたちが軽々しく口にするのは許さない」


「その犠牲の上に立たれるあなただからこそ、仰ることができる言葉ですね」


「黙れと言ったはずです」


 やはり静かに言って、女はひとつ小さく息を落とした。右手を左の肘へやる。


「どうして、と聞いたわね。私も聞きたいわ。あなたはどうして?」


 聖者の顔に、笑みが滲むように広がった。


「ありふれた理由ですよ。あの国は平和すぎた。私の力を存分に活かせる場所が欲しかった。それに、美しいものほど、壊したくなるでしょう」


「それだけのために?」


「そうです」


「分かったわ」


 もう一度、女はこちらを振り返った。


「動けますか」


 声と同時に、呪の気配がした。急に身体が軽くなる。癒しの呪ではない。一体何の呪か。


「できる限り中央から離れて、身を隠して。証がなくなった今、敵はあなたを追えない。一度行方をくらましてしまえば、簡単には見つかりません」


 動かないでいると、女は手を差し伸べた。その指先に闇が集い、膨らみ、そして解けるようにして離れていく。闇は流れて、漂う。風に舞う綿毛のようにふわりと近づいて、額に触れる直前に弾け散った。瞬間、夜の森が歪む。黒と緑が、揺らいで、捻じれて、混ざって。一体何が起こっているのか。身体が浮く感覚がした。いや、浮くというよりは突如足場を失って宙に投げ出されたような。落ちていく。


「どうか、命を大切に」


 何も見えなくなる前に祈るような声が聞こえた。それでようやく、助けられたのだと理解した。

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