【Ⅱ】   間違い

 ヨーダの町に着いたのは、日が西の空に落ちかけた頃だった。森の外れにある小さな町で、木や草やら緑が多い。子供が四人、ランテたちを物珍しそうに眺めながら駆けていった。


「変わらないわね、ここは」


「そういえば久しぶりだね」


 ユウラとテイトが懐かしそうに町並みを見ている。


「こんなにエルティに近いのに、久しぶりなんだ?」


「こっちの方角は別部隊の担当だから、あんまり来ないんだ」


 テイトが答え、ユウラが頷く。


「日が落ちる前に、宿取るわよ」


 そうして先に歩き始めた彼女をテイトと追った。


「確かこの辺りに」


 目当ての宿があったらしく、ユウラの足は迷わなかった。だが、目的地らしい場所に着いても、それらしき建物は見当たらない。


「迷った?」


「あんたと一緒にしないでよね」


 ランテに答えながらも、ユウラが視線をさまよわせる。見つからないようだ。


「宿、探してるの?」


 幼い声がした。三人そろって振り返る。さっき門近くで走り回っていた子どもたちの中の一人が、小さな影を伸ばしながら立っていた。まだ五歳ほどの男の子だ。ユウラが一歩、寄った。


「そうなの。この辺りになかったかな?」


 直前のランテに向けての発言とは大違いの、優しい口調だ。男の子は首を前へ傾けた。悲しげな表情になった。


「セーラさんの宿でしょ? 少し前まで、ここにあったんだ。ほら、この建物」


 少年が指差したのは、ちょうどユウラが最初に立ち止まった場所の建物だった。記憶は間違っていなかったらしい。夕日に照らされた煉瓦造りの建屋は、確かに宿ができそうなくらいに大きいが、ひっそり静まり返って全く人気がない。


「セーラさん、中央の白軍に連れていかれたんだ」


「中央の? どうして?」


「食物渡すの嫌だって逆らったから。僕たちいつもお腹減ってて。それなのに渡せ渡せって言ってくるから、セーラさん、止めてくださいって言ったんだ。そしたら」


「そう……」


 よく見れば、少年はずいぶん痩せている。服は上等だがぶかぶかで、袖の部分が肩から落ちてしまっている。鎖骨の形が痛々しいほど浮かび上がっていた。


「泊まる場所ないなら、僕の家にくる?」


「気持ちは有り難いけど、でも」


「宿はどこもやってないよ。セーラさんのところが最後だったから」


 困り顔のユウラがランテとテイトを振り返った。どうしたものか。同じく困ったランテの横で、テイトが静かに首を横に振る。受けて、ユウラがちょっと頷いた。


「ありがとう。でも、やっぱり遠慮しとくわ。町の外でも休めるし」


 ユウラの断りを聞いた途端、男の子が彼女の手首を両腕で掴んだ。身体が揺れるくらいに、強く引っ張っる。


「来て欲しいんだ!」


「どうして?」


「今日、中央軍が来るから。お姉さんたち、北支部の人でしょ?」


 片腕を男の子に預けたまま、もう一度、険しい顔でユウラがこちらを見た。三人で目を見交わす。ランテが小声で聞いた。


「こんなところに、中央軍が?」


「きっとワグレの部隊よ。確かに中央から食糧を運ばせるより、付近の町や村を漁る方が速いわ。でもどうして今まで支部に情報が来なかったのかしら」


 テイトが視線を下げて、男の子を見やった。


「口止めされてるんだよ、きっと。ワグレの中央軍だけでも、北支部の全戦力に匹敵する数だ。強硬手段に出られたら、支部から兵を動員しても……」


「黒獣のせいで、今はどこにも余裕なんてないのに」


 顔を上げて、ユウラがもう一度口を開く。


「黙って見過ごすことはできないわ」


「でも、今中央と事を構えるのは」


「支部にとってはよくないわね。でも、あたしたち、これからそういうことをするようになると思うわ」


 テイトが首を傾げた。


「どうして?」


「勘よ」


 自信たっぷりに根拠にならない根拠を言い残して、ユウラが男の子に向き直った。確か前にもこんなことがあったなあと思う。思い当たって、ランテはちょっと笑んでしまった。ユウラは結局泊めてもらうことに決めたらしい。テイトが困ったような顔で、喜ぶ男の子に微笑みかけるユウラを見ている。


「ときどき、ユウラって分からないんだ。今の、ランテは分かった?」


「全然。でもなんか、前にセトもおんなじように言ってたの思い出した」


「ああ、そっか、確かにそうかもしれない。セトっぽいね」


「中央と戦うことになるのかな」


「ユウラはそのつもりだね。まあ、ただの荷運び係ならそんなに数はいないだろうし、苦戦はしないだろうけど」


「支部の隊員のしわざだってばれたくないなら、オレが?」


 剣を見下ろす。少しばかり場数を踏んで——もちろん、みんなに比べたらまだまだだが——少しずつ、剣の扱い方が分かってきた気がする。力になれるかもしれない。そして何より、中央の横暴は許せない。


「やる気だね、ランテ。だけど確かに、ランテならバレないで済むかも」


「じゃあ、オレがやってみる。あ、でも、危ないときは助けて欲しいんだけど」


 不安なのは今でも変わりない。情けないが、頭から血濡れた刃が離れないのだ。中央軍でも、人は人であることに変わりはない。傷つけなくても無力にできるくらい、有利に戦えればいいのだけれど。もしくはほんの少しだけの怪我で済めば、その方がいい。例えば武器を手放させるために腕の端を斬ったり、武器だけを弾き飛ばしたり。そういう器用なことが、自分にできるだろうか。疑問だ。疑問だけれど、足手まといにはなりたくない。できるならみんなを助けられるくらいになりたい。そのためには、もっと鍛錬と経験を積んで、しっかり戦えるようにならなくては。


「大丈夫だよ、ランテの腕があれば」


「え、いや」


「きっとユウラ、びっくりするよ。ふふ、楽しみだな」


 ランテの不安に気づかないはずがないのに、テイトは笑いながら歩き出す。男の子がユウラの手を引っ張って、道案内を始めていた。喉まで出てきていた言葉を飲み込んで、ひとまず後を追う。だが、ふと、視界の隅に過ぎったものにランテは足を止めた。


「ランテ?」


 ふわりふわりと漂うそれに、手を延ばす。むろん掴むことはできず、ほのかな温もりを残して指の合間から逃げていった。そうして、それが、動き始める。進行方向とは逆の方へ。ランテもくるりと踵を返した。迷わなかった。


「どうしかした?」


「ごめん、先に行ってて! 後ですぐ行く!」


 肩越しにテイトに叫んで、駆ける。それ——ルノアの闇を、追って。今度こそ手が届くだろうか。歯がゆくて、もどかしくて、だからランテはさらに足を速めた。




 闇が消えた。すうっと、空気に紛れるようにして。立ち止まり、ランテは肩で呼吸する。いつの間に門をくぐったのだろう。森まで戻っている。


 傍にいる。そういう“感じ”がする。初めて会った——もしかしたら、いや、たぶん初めてではないのだろうけれど——あのとき以来、ずっとだ。だから館で助けられたときも驚かなかったのだと思う。そこにいるのを、知っていたから。


 目を閉じる。闇を見た。彼女の姿を呼び起こす。白と銀の髪、透き通る肌、紫紺のリボン、白いワンピース、そしてあの紫の双眸。ひとつも忘れていない。なぜこんなにも鮮明に思い出せるのか。答えに届くのは、いつになるだろう。


「ルノア」


 確かめるように呼んで、瞼を上げる。葉の合間から射しこむ朱を浴びて、彼女は、ルノアは、佇んでいた。


「どうして?」


 三度目だ。牢で会ったとき、ベイデルハルクと対峙したとき、そして今。いつもルノアはそう言う。ランテも聞きたい。どうしてそんなに寂しそうな目をしているのか。


「私はあなたを戦わせたくない。あなたが血を流すのを、見たくないの。もう二度と」


 今分かった。ルノアの瞳はランテを通して、別の誰かを見ている。こちらを向いていながら、彼女の瞳がはるか遠くにあるのはそのせいだ。


「それ、オレに言ってる?」


 ルノアは僅かに首を傾げた。艶やかな髪が胸元で揺れる。


「『あなた』って誰?」


 答える代わりに、ルノアは瞳の憂いの色を強くした。夕日の朱に宵の紫が混ざり始める。微風に揺られた葉がひとつ、ランテの足元に落ちた。


「あなたは、あなた。ずっと待っていたの。本当に長い間。でも、今度は会わないでいられれば良かった。そう思うわ」


「今度?」


「そう。『あなた』には会わないでいたかった。もう二度も出会ってしまったけれど」


 分からない。ルノアの言葉はいつも謎めいている。まるで形のない闇のように、そこに意味を掬おうとすれば、指の間から流れ出てしまう。息苦しいような気がして、ランテは喉に触れた。指の腹に熱と脈を感じる。


「でもオレはルノアに会えてよかったと思う。何も分からないけど、そう思うんだ。絶対に、会えてよかった」


 唇だけで、彼女は寂しい微笑を浮かべた。日が落ちた。薄闇に紛れてしまいそうな姿を見失わないために、三歩寄る。ルノアは動かなかった。微笑を残したまま、目を伏せて。宵の森に声はよく響く。


「あなたの記憶を奪ったのが、私だと知っても?」


 目を上げた彼女は、やはり笑んでいた。とてもとても綺麗で、だからこそ悲しいのだろう。言葉に衝撃を受けるよりも先に、やめて欲しいと思った。そんな顔で笑っても辛いだけだ。


「あなたを戦わせないためなら、私はどんな手段でも用いるわ。あなたを苦しめても、そうして恨まれても、あなたが戦の地にあることを私は私に許すわけにはいかない。私があなたを引き込んでしまった。だから、私が帰さなくてはならない。あなたが本来あるべき場所へ」


「本来あるべき場所?」


「ええ。温かくて、穏やかな場所」


 刹那、紫の瞳が凪いだ。安らかな追懐の瞳だ。そのまま手の届かない場所へ行ってしまうような気がして、ランテはまた近づいた。彼女は、今度は後ずさる。拒否が、確かに示された。


「ごめんなさい」


 痛みを堪えるような顔をして、ルノアは贖罪の言葉を口にした。もう一度。


「ごめんなさい……」


 また、無知が辛くなる。謝られる理由を知りたい。


「私に出会わなければ、あなたはもっと」


「もっと、何?」


 滑り出た声に、ルノアの目が大きくなった。しかし、焦点は僅かに合わない。


「私があなたの……たくさんのものを奪った。私に会わなければ、あなたは何一つ失うことがなかったの。だから」


「オレが何を失ったのかは分からない。全然覚えてないから。だけどオレはさっき、そうすればルノアに会えると分かってあの闇を追いかけた。会いたいと思った。だからここにいるんだ」


 しばし言葉を失って、ルノアは瞳の紫をゆるがせた。瞼を落とし、唇を結んで、指を握り、何かに耐えて。再び上げた目は、もう静かだった。空虚ゆえに。


「それでも、私は、『あなた』に会うわけにはいかないの」


 今度はルノアがランテに近づいた。手を延ばせば触れられるくらいにまで歩み寄って、緩やかに片腕を持ち上げる。指先が闇を纏う。美しくて優しくて、寂しい闇だった。でも違う。これは違う。ランテも腕を持ち上げた。細い手首に触れる。ルノアがほのかに肩を上下させた。闇が霧に変わって、夜に溶けた。


「……離して」


「離したら、やめる?」


 ルノアが触られた手首を見た。目が潤む。けれども溢れはしなかった。


「今私が何をしようとしたのか」


「大体分かる」


 会うわけにはいかないと言った。だから、会わなかったことにしようとしたんだ。多分、今度“も”。受け入れるわけにはいかない。


「離して」


「離さない」


 瞬間、握っていたはずの手首が形を失った。空を握りこむことになる。虚しさだけが残った指を、ランテは引き戻した。さっきまで、確かに触れている感覚があったのに。顔を上げると、同じく虚しくなった目とかち合う。冷え切った闇が、ランテを覆い始めた。


「あなたを守る。あなたに……全てを返す。それが私の“誓い”」


 足元から立ち上る黒がランテを囲んで巡る。まるで咲いた花が、蕾に戻るように、ランテを飲み込んでいく。


「あなたはもう、失ってはならない」


 ルノアが闇の向こうに消える。黒が迫ってくる。冷えているが、なぜか温かい。委ねてしまえば楽になれる。そう思った。でも。首を振りながら、ランテは目を閉じた。描くは、光だ。なかったことになんてできない。そんなことにはさせない。目を開く。同時に溢れた光が一閃、闇を割いて迸った。強い閃光は夜までも照らして、森が白く浮かび上がった。


「どうして」


 震えた問いに、答える。


「戦いたいから。みんなも、ルノアもそこにいるなら、オレだけ逃げ出せない」


「戦うのは、私一人でいい。そのためにここにいる。あなたも、みんなも、剣を取る必要はないわ」


「一人で?」


「ええ」


「一緒に戦うことはできない?」


「あなたを、あなたたちを巻き込むことはできない」


「オレたちが戦いたいと望んでも?」


「私の過ちが招いた戦いだから」


「分からない」


「分からなくていいの。何も知らなくていい」


「もう、何も知らないふりなんてできない」


「だから」


 遮って、ランテは言った。


「間違ってる」


「……私は」


 もう一度。


「ルノア、間違ってる」


 継ごうとした言葉を飲み込んで、ルノアがランテを見上げた。迷いを引く目だ。


「オレはほとんど何も知らないけど、中央がたった一人で立ち向かえる相手でないことくらいは分かる。いくらルノアでも」


 逸らした視線をしばし彷徨わせて、その後、ルノアはゆるりと首を振った。


「だからこそ私が戦うの。これ以上、罪のない血が流れるのは耐えられない」


「だから、一人だけ犠牲になればいい?」


 肯定の沈黙。


「やっぱり間違ってる」


「ワグレは、戦おうとしたわ。他にも、過去に、多くの人が戦った。だけど……ひとたび中央に立ち向かえば、無事ではいられない」


「それでもオレは戦いたいと思うから、戦う。これまではぼんやりしてて、ただ流されるままだったけど、今は確かにそう思うんだ。だからやめないし、やめさせない」


 久しぶりに、紫の瞳が帰ってきた。


「変わらないのね、あなたは。本当に……辛くなるくらいに」


 悲しい目で懐かしそうに述べる。さらに何か続けようとして、しかし、止めた。ふいに視線を後方へやる。しばらく一点を見つめた後、ぽつりと言う。


「それなら、また会うことになるのでしょうね」


 静かな言葉は、痛みを孕んでいた。別れの言葉だと分かった。


「どこに?」


「無理に戦わないで。そうなれば、力ずくでもやめさせることになるわ」


 ランテの質問には答えないままに、ルノアの姿が薄れていく。行ってしまう。手を延ばしかけて、やめた。本当は止めたい。けれども、彼女はランテといるとひどく傷ついてしまうような気がした。だから、代わりに言う。


「ルノアも」


 陰のない微笑みが、最後の一刹那、見えた気がした。


「……ありがとう」


 更けていく夜の空の下に、声だけが残った。

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