3:語らぬ白砂

【Ⅰ】   勝手

 ノックの前に、ゆっくり確かめるようにセトは一呼吸した。部屋主にはもう誰であるか悟られているだろう。もしかしたら何の用であるかまでも既に。右手を持ち上げる。直前に再び、息を落とした。躊躇を誤魔化すためかもしれなかった。


「失礼します」


 返答は常よりも遅れた。


「ああ」


 扉がいつもより重く感じられる。一度、瞼を下ろした。もう迷うまい。


「戻ったか、セト。被害は?」


「……隊員に関しては、特には」


「そうか」


 ハリアルは心なしか疲れて見えた。目元にひとつ、深く刻まれた皺に老いを感じる。まだ四十路にも至らないだろうに。知らず、セトは指を握り込んでいた。


「ハリアル支部長」


 名を呼んだのは、たぶん数年ぶりだ。支部長は表情を動かさないで答えた。いつだってこの長は冷静で、賢く、そして正しかった。そう信じていた。


「どうした」


「オレはあなたを尊敬しています」


 ハリアルの瞳がわずかに揺れた。


「……どうした」


「感謝もしています。心から。だから」


 左の上腕に、おもむろに指を延ばす。白軍北支部副支部長の証である群青の腕章が、そこにはあった。


「オレのせいで、あなたに迷惑を掛けるわけにはいきません」


 留め具を外すと、腕章は腕を順に辿って落ちていった。少しだけ残った体温が空気にさらわれていく。セトは進み出て、机上にそっと載せた。腕章は萎れたように草臥れて折れる。それを見て、顔を上げると、言った。決意は揺らがない。


「ワグレに行きます」


 ハリアルの視線が落ちた。寂しく影を落とす腕章を暫時見つめて、面を上げる。


「ワグレは、中央の管理下となっている。クレイド聖者とモナーダ上級司令官の管轄地だ」


「分かっています」


「それでも行くのか」


「はい」


 ハリアルはずっとセトの目を見ていた。机の上で組んだ指は、それでも腕章を受け取ろうとはしない。声色は平静だ。


「父親か?」


「それも……理由のひとつではあるかもしれません」


「他には」


「デリヤに会いました」


「……そうか」


 ハリアルの顔に、今まで一度も見たことがないような、弱々しい笑みが滲んだ。


「お前は聡い。もう分かっているのだろう」


「そうでなければいいと思っていました。今も」


「私は間違っていると思うか」


 静かに項垂れた。腕章を見る。セトは首を振った。この長の選択は、正しくはなかったのかもしれない。それでも、間違ってはいなかった。いや、もしかしたら正しかったのかもしれない。否定することはできない、無論。


「あなたとオレでは、負うものの大きさも重さも、違いすぎますから」


「お前ならどうしていただろうな」


「分かりません。どちらを採るにしても、悩んだと思います。あなたのように」


「いいや、私は迷わなかった。迷うことができなかったのかもしれないがな」


 遠い目をして、ハリアルはひとり、微かな笑みを漏らした。自嘲だった。胸が痛む。まるで自分が傷つけられたような気がした。


「そんな顔をしないでください。さっきも言いました。オレはあなたを尊敬しています。今でもです」


 微笑だけを湛え、ハリアルは何も答えない。


「……敵は多い。どう立ち向かうつもりだ」


「これから考えます。ひとまずは、白軍の偽りの証拠を探るつもりです。いくつか手がかりがあるので」


「四人でか」


 思わず、セトは沈黙した。言葉の選択に惑う。後ろめたいような気持ちになった。


「……できれば、オレ一人で行ければいいと思っています」


「ユウラもテイトも、お前を慕っている。そしてランテ君……ランテは、立場上中央と戦うことは避けられない」


「死なせたくないんです」


 ハリアルの微笑みが、いつもの穏やかなそれに変わった。息をついていた。ひどく緊張していたことを自覚する。


「皆、同じことを考えているだろう。そして、一人でできることは限られている。お前の悪い癖だ、セト。他人の命が関わると、途端に視野が狭くなる。ユウラがいつも零していた。『あの馬鹿をなんとかしてください』と、任務から戻るたびに言われたものだ」


「あいつ、心配性ですから」


「それならテイトも心配性だということになるな。そして私も」


「支部長……」


「お前は無茶をしすぎる。昔からずっとな。一人で行かせるのは心配だ。支部長としてではなく、親代わりとしてそう思う」


 いつもこうして諭された。たくさんの記憶の断片が、眼裏に順繰りに蘇る。目を伏せてしばし追憶にふけった。どれもが優しくて温かい。そのまま浸っていられたらどんなにいいか。頭を振って全てを追い出す。どれほど懐かしんでも、戻れはしない。


「ユウラたちはどこに?」


「三人とも、ヨーダで待機させてます」


 指を解いて、ハリアルは腕章に手を延ばした。取り上げて、無言で見下ろす。瞳がすっと時を遡って、彼方へ。短い旅の後、戻ってきた目は侘しかった。


「なあ、セト。時を待つことはできないか」


 願い、もしくは祈りと呼ぶべき響きを、確かに持つ言葉だった。気づいても肯うことはできない。


「待っても悪化の一方で、好転することはないと考えます」


「危険だ」


「はい」


「何も成せないままに命を落とすかもしれない」


「そうだったとしても、立ち向かうことで何かを変えられるかもしれない。今のまま中央に服従するよりは可能性があります」


「いくら止めても、無駄なのだろうな」


「……申し訳なくは、思っています。まだもらった恩に報いられてはいないので。でも、すみません。もう決めましたから」


 後継者にと思われていることは理解していた。応えたいともずっと思っていた。そのためにより励んだのも確かだった。これは、裏切りだ。申し訳なく思う、なんて言葉では足りないくらい、心は痛んでいる。翻してしまいたい気持ちと戦いながら、セトはそこで言葉を切った。


 目を閉じて、ハリアルは返事を遅らせる。迷いと、そして、後悔のようなものがちらついた。


「分かった。行ってくるといい。ただし」


 静かに述べて、立ち上がり、ハリアルはセトに右手を差し出した。腕章が載っている。意味を解しかねて、見上げた。


「腕章は持って行け。そして、ヨーダにいる三人のうち望む者がいれば同行させること。これが条件だ」


 目を見開く。慌ててセトは口を開いた。


「支部長、これはオレの勝手で」


「ならば、これは私の勝手だ。そしてお前について行くか行かないかは三人の勝手、そうだろう」


「それは」


「私にはエルティの民を守る責務がある。だが、部下たちを守るのも私の役目だ。……今度は、違えまい」


 こうなれば、拒むわけにはいかなかった。持ち上げた手を延ばす。受け取って、握り締めた。指の中で硬い布が不自然に折れ曲がる。


「必ず戻って来ること。誰一人欠けることなく」


 結局、迷惑をかけることになるのか。いや、できない。長年積み上げてきた支部長の苦難の成果を、全て無に還すことになってしまう。ならばどうすれば。


「……分かりました」


 答えが出せないまま、頷くしかなかった。


「お前もだ、セト」


「はい」


 顔を上げる。言っておきたいことは、言うべきことは、山のようにあった。けれども言葉にしようとしたら、どれも形にできなくて。黙ったまま、尊敬すべき長を、目標である師を、そして感謝の尽きない養父を、見上げる。腕章がまた、折れた。


「行きます」


「ああ」


 最後に腰を折った。深く頭を下げる。不器用な言葉よりも、上手く伝わると思ったので。頭を起こして、最後にもう一目。尽きない名残を断つように、背中を返した。歩く。扉に手を延ばす。指が届いた瞬間、声も届いた。


「大きくなったな、セト」


 揺れなかったと言ったら嘘になる。だからつい、振り返ってしまった。そっと笑んで。


「今年で七年目です」


 決別のつもりで来たのに、やはりこの人には敵わない。向こうからも笑みが返るのを見届けてから、セトは扉を押した。戻れないかもしれない。ただそれよりも、またここへ帰って来たいと望む思いの方が強くて、だからこれ以上の言葉は必要ない。扉が閉まる音を背中に聞きながら、一歩ずつ、セトは先へと進んだ。

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