【Ⅳ】-3 誇り
にわかに騒がしくなる。デリヤの合図を機に、黒獣たちが行動を始めたのだ。しかしランテとデリヤは攻撃目標にはならない。目標は奥で身構える三人だ。しかし彼らにランテの心配は不要だろう。今は自分の戦いに集中すべきだ。ランテはデリヤと対峙した。
「始めようか。手加減はしないよ」
動きにくそうな衣を纏ったまま、デリヤは構え、そして動き出した。速いが、大丈夫、まだ追える。剣を寝かせて最初の一撃を受けとめる。さほどの重さはない。落ち着こう。二度目の攻撃は半歩後退して避ける。流れるような剣捌きから、使い手の力量をうかがい知る。受けられても避けられても乱れることはなく、その後に隙も生まれない。一種の美しささえ感じる。
「僕の攻撃を待つだけじゃあ、勝てないよ」
分かっている。けれども今剣を出したところで、うまく捌かれて逆に隙をつくるだけになろう。実践練習で身に染みて知った。中途半端な攻撃なら、しない方がまだいい。だが、確かにいつまでも待つこともできない。落ち着け、冷静に観察しろ。自分に言い聞かせる。焦るな、必ずどこかにチャンスはあるはずだ。
剣を受けたときに伝わった振動で、手首が痛んだ。だが何度か剣を合わせるうちに、少しずつだがデリヤの癖が見えてきた。左下から切り上げた直後だ。剣を定位置に戻すまで、他の型よりもわずかに間が長い。攻撃を狙えるとしたら、その瞬間しかない。できるだけ小さな動作で避けて、直後だ。辛抱強く待つ。まだ、まだ、まだ。そして。
剣がデリヤの身体の向こうへ消える。来る。短く息を吸って、ランテは柄を強く握りこんだ。剣は応えるように、一度だけ振れる。やれる。確信があった。
斜めに走った一閃を、右肩を後ろへ反らすことで避ける。そのまま利き足で踏み込んで。強く握った剣がぶれることはない。銀の光は狙い通りの軌跡を描いた。破れた黒が宙に舞う。一番高いところに数瞬漂って、ゆらめきながら下降して。
デリヤが漏らした微かな声に、ランテははっとした。敵は黒獣じゃない、人だ。ランテは一片の躊躇いもなく剣を振ったが、もし一歩間違えば今の一撃は命を奪っていたかもしれない。剣の淵を染めた赤い液体に悪寒が走る。次の瞬間だった。
目の端が、翻る銀を見た。あ、と思う。思っただけで、動けはしない。身体を反らすことも、足を引くことも、何もできずに、ランテは煌めく剣の一撃を受けた。肉の内に刃が食い込む感覚をはっきりと感じる。布を乱暴に裂いたような、強引で引きつったあの感覚がした。
「一撃入れたくらいでよそ見してるから、こうなるんだよ」
デリヤの嘲笑を聞きながら、ランテは膝を折った。否、ランテの膝は折れた。切られたのは左肩だ。視線を落とすと、広がった赤の真ん中に一つの裂傷を認めた。デリヤも直前に斬られたばかりで、完全に体勢を立て直すことはできていなかったのだろう、傷は思ったよりは浅い。しかし傷口の生々しさにぞっとする。だが痛みは不思議と遠くて、他人の怪我を眺めているようだ。
「ほら、立って。のろのろしてると次が来る」
上から下への攻撃を、どうにか避けてランテは足を立てた。しかし剣は。迷っていた。迷う余裕などありはしないと知りながら。人を傷つけることを目的として、これを振るいたくはない、そう思ったので。
「今、君が考えていることを当ててあげようか」
一旦剣を下ろして、デリヤが胸の傷に左手をやった。血で濡れた手をランテに見せるようにかざす。
「僕を斬りたくない、そういう顔だ。苛立たしいよ。情けのつもり? ばかばかしい。弱いだけだ。敵を斬る覚悟もないようなやつに、剣を握ってほしくはないね」
下げていた右腕が、跳ね上がる。勢いのまま振り切られたデリヤの剣は、ランテの手に衝撃を残し、握られていた剣を高々と舞わせた。指先が痺れている。落ちていく剣を目で追った。遠く部屋の角に横たわる。
「北は、どいつもこいつも甘すぎるんだ。いつだって交渉、和解、妥協。敵をできるだけ傷つけない、殺さない。中央とだって三年前、すぐに戦いに持ち込んでおけばこんなことにはならなかったのに。僕のことだって、さっさと殺しておけばよかった。まったく、反吐が出る甘さだよ。偽善者の集団、馬鹿の集まりだ」
声は荒ぶっていた、しかし反して瞳は凪いでいて、懐かしむように遠くを見ている。黒い布の下で、剣を握ったままの右腕が左手の甲へ動いた。苦痛を堪えるような、震える息を吐く。
「だけど、居心地は、よかった」
先に剣が滑り落ちる。切っ先から落ちて、緩やかに倒れて、からからと音を立てた。次いでデリヤが両膝をついた。小刻みに震える二つの腕が、ゆらりと伸びて頭を抱える。
「違う、僕は北へ復讐に。違う、母上、僕は、僕は。痛い。ああ、違う。北が憎い。いや、違う、中央は母上を。違う、痛い、僕は。違うんだ、僕は、僕は、僕は」
そこから先は聞き取れない。時折苦しげなうめきを上げながら、デリヤはうわ言を繰り返す。どうすればいいのか。なんとも決めかねて、ランテは後ろを振り返った。黒獣はまだ残っている。火の手が上がって、数匹の黒獣たちの最期の叫びが重なった。どうすればいい。デリヤが苦痛に喘いでいる。抑えているのは胸の傷ではない。左手の甲だ。決めて、かがみこんだ。
「痛むのはここ?」
左手に触れようとすると、伸びてきた右腕に手首を掴まれた。すごい力だ。乱れた息をつきながら、デリヤは顔を上げてランテを見た。汗が輪郭をなぞる。指にさらに力がこもる。痛い。
「母上は正しかった。正しかったんだ」
「母上? いったい」
「王国は、本当に……王国説は、正しい……違う、僕は、復しゅ……違う、違う、違う!」
黒衣の中で何かを探していた腕が、ランテの方へ伸ばされる。何かを握っている。短剣だろうか。優美で精緻な装飾が施されている。柄の部分に描かれているのは、何の紋章だろうか。教会で見たマークを思い出した。似ている。ずっと複雑だが、これをそのまま簡略化すれば罰印に横一線のあの形になりそうだ。頭の奥が呼応する。どこかで、見たような。そっと受け取った。見た目よりもかなり重い。
「違うんだ……母上、僕は、中央を憎んで……北、みんな、僕は、伝える!」
指が食い込んでくる。あまりの力に手首が折れそうだ。しかし、デリヤはおそらくもっと熾烈な痛みに耐えている。どうすれば痛みを緩和させることができるのだろう。短剣を床に置いて、再び、ランテはデリヤの左手に手を延ばした。
紋の刻まれている手の甲へ触れようとした瞬間、見えない力に手のひらを押し返された。もう一度試したが、結果は同じだ。人差し指一本分の距離ほどに近づけるのがやっとだ。しかし、熱い。発熱しているのか? いや、いくらなんでも熱すぎる。この距離でも長く熱を受け続ければ火傷になりそうだ。デリヤの呻きが聞こえてくる。ランテの手首を握りこむ指が、自身の力に耐えかねて震える。なんとかしなくては。なんとか。
「頼みが……ある」
デリヤの顔がちょっと上がって、見えた目がランテの方を向いた。これまでとは違う、しっかり前を見据える目だ。
「僕の左腕を……落として……欲しい」
指が離れる。震えながら動く手が、すぐ傍に落ちていた彼の剣に触れる。剣が床の上を滑って、柄がランテの方を向いた。乱れた呼吸の合間を縫って、途切れ途切れの声が続く。
「殺される……前に……まだ……」
腕を斬り落とせというのか。しかしそんなことをすれば、それこそ命に危険が及ぶのではないか。差し出された柄を握ることを、ランテは躊躇う。いったいどうすれば。
「時間が……もう……頼む……僕はまだ……殺される……わけには」
その先は苦痛の声に変わった。痛みを耐えかねて、デリヤの身体が捩れた。痙攣が始まる。駄目だ、このままでは死んでしまう。今、できることといえば。気付けばランテは、デリヤの剣の柄を握って立ち上がっていた。両腕で振りかぶると左肩の傷が疼いた。歯を食いしばる。やるしかない。
ランテが剣を振り下ろすのと、デリヤの左手の甲から突如白い炎が上がったのは同時だった。炎は瞬く間に手首、肘、二の腕と這い上ってくる。急がなくては。刃が肉に食い込んで裂き、骨にぶつかる。それをも断って進んでいく感触は残酷なほど鮮明に指に残った。頬に生温かいものが飛ぶ。叫び出しそうになるのを堪える。知らない間に瞼を落としていた。剣がかつんと鳴る。刃が床に触れたらしい。もう一度、かつん。剣がランテの指を離れて、床にぶつかったのだ。終わった。薄っすらと目を開く。切り離された腕が白い炎に炙られて、白い灰に変わっていく。手のひら、指、手首、肘、そして二の腕。あっという間だった。
デリヤを見ることを、ランテの目は拒んだ。自分の今しがたの行為を、それがもたらした結果を、認めることを厭った。目を背けてしまえれば、きっと、楽だ。首を振る。今考えるべきはそんなことではない。ランテは再びかがみこむ。強引に首をデリヤに向け、目を傷口に向けた。真っ赤だった。血が。夥しい量の血が、流れて。両腕を伸ばした。抑える。力を強くしても、止まらない。指の合間から流れて、流れて、止まらない。
止まって。止まれ。止まらないと、死んでしまう。止まれ止まれ止まれ。頼むから、止まってくれ。指にますます力をこめる。止まらない。なぜ。止まって。早く止まれ。早く。
左肩に何かが載る。驚いて、びくりとした。そろりと目を遣る。手だ。恐る恐る振り返る。見上げた。ああ。
「セト……」
「ごめんな。後は、オレが」
腕を離す。手のひらは余すところなく赤く濡れていた。震えると、雫があちこちに飛んだ。この血は、オレが。オレが、斬って、そのせいで。ああ。
ひらりと、上から何かが落ちてきた。布だった。四角い綺麗な白布だ。ランテの手のひらの上に着陸して、血を吸った。
「あんたのせいじゃない」
声も降ってきた。もう一度見上げる。ユウラがいた。肩で息をしながら、彼女は袖で額の汗を拭った。目はデリヤのほうを向いている。
「遅くなって、ごめん」
やはりランテに目を向けないままそう言って、ユウラは槍を背中に戻した。目を戻せば、布が赤く染まっていく。
「あんたが気に病むことはないわ。そうすべきは、あたしたちの方よ」
もうひとつ、言い添える。正面からやってきたテイトはランテの剣を持っていた。差し出しかけて、やめる。気遣ってくれたらしかった。
「ありがとう」
やっと、息がつける。でも指にはまだ残っていた。血と、あの感覚が。ユウラのハンカチごと握り締めて顔を上げる。ちょうどデリヤが身じろいだのが見えた。ほっとする。やがて彼は右腕を立て、上半身を起こした。
「デリヤ」
癒しの呪を止めて、セトが静かに呼んだ。上げた顔で彼を見てデリヤはかすかに口角を上げる。前髪と横髪がぐっしょり濡れていた。
「礼は、言わないよ。君には。謝ることもしない」
無言の頷きが返るのを見届けてから、デリヤはランテに視線を向けた。
「だけど、君には。ありがとう」
首を振る。礼を言われるようなことは何もしていない。無くなった左腕と、一塊の灰を見て、デリヤは音を立てずに笑った。
「相変わらず、白女神は容赦がない」
感情の乗らない声だった。彼は床に置いてあった短剣を拾い上げる。そしてもう一度、ランテを見た。
「やっぱり、君に託すよ」
再び差し出される。迷って、ハンカチでしっかりと血を拭って、それからランテは手を延ばした。受け取る。指に重みが伝わる。
「ようやく見つけたんだ。二年半かけて、ようやく」
「これは、いったい?」
「証拠だよ。古代王国の存在の、王国説の真実の、白軍の偽りの」
「古代王国?」
「母上は、僕に何も教えてはくださらなかった。きっと僕を危険にさらさないように。だけど、僕は母上を、母上の故郷を……ああした中央を許さない。ずっとそう思っていたのに」
悲しい自嘲の笑みを浮かべて、デリヤはふらふらと立ち上がった。剣を拾って、自分の血を払い落とし、鞘に収める。
「どこへ?」
セトの問いに、デリヤはまたも笑んだ。やはり、どこか悲しい笑みだった。
「どこかな。どこかへ」
何かを言いかけたセトを制して、彼は続けた。
「君たちとは、行かないよ」
左の肩口を抑えて、顔を俯ける。
「君たちのこと、許したわけじゃない」
そして、歩き始める。
「知ってるよ。なぜ僕は死罪にならなかったか。知ってる、だけど、いや、だから一緒には行けない」
出口に向かって、彼は往く。黒い衣に残った血が、転々と軌跡を刻む。
「言葉だけの謝罪はいらない。そんなものに意味なんてない。だから、もっと意味あることをしてよ。僕の代わりに」
ゆらりゆらりと歩くやつれた身体は、闇に呑まれて今にも消えてしまいそうだ。
「デリヤ」
呼ぶ声にも彼は立ち止まらない。立ち上がり、背中を見て、セトは少し躊躇ってからもう一度口を開いた。
「中央のことは、引き受けた。必ず止めてみせる。……だけど、お前は」
「ほら、そういうところだよ」
ようやく振り返ったデリヤは、唇だけで笑った。
「お前は? そうだね、きっと殺される。中央には僕以上の、いや、セト、君を遥かに凌ぐ強さの者だって山ほどいる。だから今君が続けようとした言葉は、とても愚かな言葉だ」
「オレがあのとき……間違わなければ、お前は」
「自惚れるのもたいがいにしたら」
一瞬だけ声が乱れた。一息ついて、デリヤは唇を結んだ。
「僕は自分で望んで中央へ行った。もとから一人でどうこうできるなんて思ってない。僕は君たちと違って馬鹿じゃないからね。いつかはこうなると分かっていた。それでも行った。僕自身の意志で。僕の生き方を決めたのは僕自身だ。君じゃない」
すっとデリヤの右腕が持ち上がって、ランテを指した。たぶんランテではなくランテの握る短剣を。
「そうして僕は、求めていたものを見つけ出した。託すことも今した。これでいい。利用されはしたけど、僕は僕の望みを果たした。今なら僕は僕に誇りを持って死ねる。だけど、他人を巻き込んで死ねば台無しだ」
しばらく、両者とも黙っていた。デリヤがおもむろに踵を返す。
「死にたがりは、相変わらずだね。僕の二年半を無駄にしたらそれこそ恨んでやる」
小声で言って、再び歩き出す。その背中を、最後にもう一度、セトが呼んだ。
「デリヤ」
歩みは止まったが、彼が再び振り返ることはなかった。セトはおそらく言いたい言葉のほとんどを飲み込んで、目を伏せる。ユウラもテイトも、俯けた顔に彼と似た表情を湛えていた。痛みと、自責と、それから。言葉にできない、あらゆる感情を内包した。
「ありがとう」
選んだ一言は、広間によく響いた。デリヤは答えなかった。代わりに、闇の向こうに姿を消した。彼の纏っていた黒衣の切れ端が、ひとひら残って、舞った。
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