【Ⅳ】-2 代わり

 息が切れる。肩に受けた傷から血が流れて、腕を伝った。気にかける余裕はない。なんとか動くから大丈夫だ。ユウラは顔を上げた。


 数は分からない。五体以上であることは確かだ。どれも並みのレベルではない。しかも、連携している。武器があっても一人では辛い。近づいてきた一匹がつるりと滑らかな皮膚の腕を振り上げた。どちらへ逃げるのが吉か。左だ。別の一匹に即回り込まれる。次も左へ。また。呪どころか、一息つく暇さえ与えてくれない。檻の取り払われた部屋は広く、逃げ場所の選択肢が多いのが唯一の救いだった。それでも、苦しい。一撃もらってしまった。このままでは二度目三度目もすぐになるだろう。深手を負って、倒れることも。どうにかしなくてはならない。


 後ろを確認する。壁だ。これ以上引くことはできない。黒獣たちがじりじりと迫ってくる。せめて、武器があれば。


 そのとき、ふいに空気が流れた。ユウラはもう一度壁を振り返る。気のせいか。いや、そうではなかった。壁に線が走る。縦横無尽に、多数。髪がなびいた。風の呪だ。黒獣たちの動きが止まる。デリヤの高笑いが響き渡った。


「ごきげんよう、セト。相変わらずみたいで安心したよ」


「どうもごきげんよう。お前も相変わらず——でもないか」


 セトはデリヤから黒獣の群れに目を移した。動く気配はない。次にユウラの顔を見て、その次に傷を負った左肩に目が留まる。


「槍はテイトが持ってる。すぐ来るから、それまでに減らそう」


 青い光が満ちた。痛みが薄れ消えた。息がつける。礼を言う前に、セトは剣を抜いてくるりと回し、柄をユウラの方へ差し出した。


「あんたは?」


「これと、呪で」


 取り出した短剣を逆手に握って、セトは黒獣を見上げた。あの硬そうな皮膚に、短い刃は通用するだろうか。ユウラも剣を握って、一度、振ってみた。剣を持つのは久しぶりだ。上手く扱えるか。そんな悠長なことは言っていられないが。


「仲睦まじいね。やっぱり相変わらずだ。あのときも二人で仲良く僕を嵌めてくれたっけ」


「その件に関しては」


 一瞬、セトは言葉を探すように視線を彷徨わせた。


「悪かった。今さら謝ったところでお前の気が済むとは思えないし、許されるとも思わないけど……本当に悪かったと思ってる」


「本当に今さらだよ。僕は言葉だけの謝罪なんて望んでは」


「ああ、分かってる。だけどこのやり方は間違ってるよ、デリヤ。止めるのはオレの役目だよな」


「綺麗事を」


 声が怒りにわなないた。合図を送られた黒獣たちが一斉に向かってくる。標的はユウラからセトに変わっている。


「怪我するなよ」


「あんたもね」


 ユウラが動き出す前に、セトが跳躍した。一番左の黒獣の右肩に乗る。叩き落そうと持ち上げた左腕を狙って、ユウラは剣を振り下ろした。軽い。刃は途中で止まる。槍のようにはいかない。両腕に力をこめて、無理に引き抜いた。生命力の感じられない、黒々とした液体が刃をしとどに濡らす。見慣れた光景とはいえ不気味なことに変わりはない。払うと、床に散ったそれがさあっと靄に戻った。瞬間、鼓膜を突く叫声が上がる。一匹目が鋭い風に両断されて、消え入った。やはり短剣で黒獣の皮膚に傷を負わせるのは難しいのだろう。あまりセトに呪を使わせるわけにはいかない。後にはデリヤも控えているのだ。とはいえ、剣では決定力に欠ける。槍が欲しい。セトが開けた風穴を振り返るが、まだテイトの気配はない。二匹目が向かってくる。後何体いるのか。




 戦い続けて、しばらく経った。流石に息が切れてきた。駆けつけたテイトから受け取った槍を、上から下へ斜めに走らせる。やはり使い慣れた武器の方が戦いやすい。五匹目が霧散した。残り三体になった。再び黒獣が動きを止める。黒い鏡の前に立つデリヤが、不敵に笑んだ。


「お疲れさま。よくここまで減らしたね」


 テイトを加え、こちらは三人になった。三人いれば十に満たない数くらいどうにかできる。それでも常の戦いよりかは消耗している。黒獣がどうしてこんなに統制された動きができるのか。


「だけど、残念。今のは準備運動だよ。ここからが本番」


 デリヤが鏡に手を延ばす。新たな黒獣を作り出す気だ。止めようと駆け出したユウラの前に、残っていた黒獣のうちの一匹が立ち塞がる。進めない。黒の面が揺らぐ。そこから靄が生まれ始める。これではきりがない。


「うわっ」


 そのとき、別の方向から、もう一人の声がした。閃光が走る。一直線に鏡へ向かって。交差の瞬間、鈍い音がした。鏡が大きく湾曲する。耐え切れず、中央に大きな穴が開いた。その部分から亀裂が入って、やがて全体へ広がる。まるで蜘蛛の巣のように。


「ランテ、離れろ!」


 セトの声が飛ぶ。光が薄れて、中から現れたのは新しい仲間の姿だった。頭をさする彼の前でひび割れた鏡がきしむ。駄目だ、割れる。呪を使いかけたセトを、黒獣が邪魔する。間に合わない。


 鏡の上げた断末魔が、張り詰めた空気を裂いた。




 音が響いてくる。戦いの音だ。幾重にも幾重にも重なって、ランテを焦らせる。焦るほどに廊下は長くなっていく気がした。音はこの先から聞こえてくるのに、ちっとも近づいている気がしない。


「急ぐんなら呪、使えばいいじゃん」


 少年がぼそりと零した。そうか、呪か。使えるだろうか。ランテは立ち止まった。乱れた息を落ち着けるために、深い呼吸を一つ。目を閉じる。行きたい。行かなくちゃならない。この先へ、行きたいんだ。


 身体の中央で何かが膨張した。一瞬息が詰まる。閉じた瞼の向こうで、光が溢れた。何かに引っ張られる感覚がする。自分が移動しているのが分かる。成功したようだ。ゆっくりと目を開いた。ものすごいスピードで、何かが近づいてくる。黒くて、四角くて、硬そうで、大きな——壁?


「うわっ」


 腕を上げる以外の行動を、時間は許さなかった。それも頭を庇いきることはできず、腕と一緒にぶつける。着地と同時に膝を突いた。痛い。頭をさすっていると、雛が殻を破るような音が届いた。同時に建物に足を踏み入れたときと同じ声の波も聞こえてくる。意味を成さない、感情だけを孕んだ悲しい声たちだ。


「ランテ、離れろ!」


 忠告に、ランテは顔を上げた。きらきらと輝く花びらのようなものが、ゆっくりゆっくり散ってくる。最初の一枚が膝に載った。小さな痛みと一緒に、艶めく赤斑点がぷくりと膨らむ。違う、これは花びらなんかじゃない。落ちてくるのはもっと鋭利なものだ。人の皮膚を裂いて、赤を撒き散らしながら、命を刈り取る無数の凶刃——


 せめてと、持ち上げた右手で首を、左手で頭を覆った。もうすぐにでも襲ってくるだろう痛みを堪えるために、ランテは歯を食いしばる。


 そのまま、しばらく待った。何も起こらない。ほのかな温かさを感じて、ランテは細く目を開いた。そうして自分が穏やかな闇に包まれていることを悟った。これは、知っている。冷たさも無情さも持たない、優しい、けれども孤独なこの闇は。ああ、また。歓喜と切望と、少しの息苦しさが胸の内で溢れる。あの悲しい夜の瞳を探す。名を、呼ぶ。


「ルノア」


 答えはない。そうだろうな、と思った。彼女はランテには応えない。迷いながら、それでもしかと拒む。だけど分からない。それならどうしてこうして助けてくれる? 答えが欲しい。見つからない。思い出そうとすればするほど、闇が記憶をさらっていく。ちょうど彼女の姿と同じように、いつだって手が届く前に薄れてしまう。


「ランテ、平気?」


 テイトの呼びかけに応じようと立ち上がったとき、目前に人影を認めて、ランテは身を硬くした。黒づくめの服、だが、そこから覗いた手の甲に何やら紋章が刻まれている。白軍? しかし、味方とは思えない。彼の手は剣柄に延びている。


「見ない顔だね。光呪使いみたいだけれど、中央の人間じゃないのかな」


「たぶん、違う」


「君が僕の代わりにこの隊に入ったのかい」


 ハリアルとセトとの会話を思い出す。ということは、この男がデリヤだろうか? 随分とやつれて血色が悪い。まだ若かろうがまるで生気が感じられないのだ。目だけは爛々とぎらついているが、それだけに狂気を感じた。牢の中のジェノを連想させたが、それ以上だ。ランテは一歩後ずさった。こちらも剣を握る。ランテの前で、ルノアの闇が消えていく。


「僕の後にこんなのが入ったんだね。知能が足りてなさそうだ。苦労するね、セト」


「どっちかって言うと苦労かけてる」


「……ふうん」


 ランテに戻ってきた目には、新しい感情が加わっていた。敵意だ。その中にランテを羨んでいるような、そして悲しそうな色が見えたのは、気のせいだろうか。瞬いた後には消えていて、敵意だけが残った今となっては分からない。もう一歩、足を引く。黒の衣から現れたのは、一振りの剣だった。


「君と僕、どっちが優秀かな」


「デリヤ」


「僕に決まってるよね。証明してあげるよ、今から」


「……デリヤ」


「邪魔はしないでね」


 寄ろうとしたセトたち三人の前で、巨大な黒獣三体が形を失って、それから分裂するようにして新たな個体を生み出していく。小さくなったが、二十近くには増えた。これを全て捌ききるにはかなりの時間を要するだろう。


「それで、君は僕と。さあ、剣を構えて」


 デリヤがランテを見て微笑む。品のある笑みだったが、背が冷えた。目が笑っていない、それゆえだろう。


「落ち着けよ、ランテ。お前なら大丈夫だ。こっち、すぐ片付けるから」


 セトの声を聞きながら、ランテはおもむろに剣を抜いた。息を吐く。速まった鼓動を鎮めるために。

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