【Ⅳ】-1 匂い
館に足を踏み入れた瞬間、ランテはあまたの声の波に襲われた。臓腑が煮えたぎるような怒声と、魂が千々に裂けてしまうような嘆声——それらは耳から次々入ってくると、頭で大きく響き合い、心の中にまで侵攻してくる。耐えられない。ランテはまるで夢遊するようにふらふらと歩いた。四歩目で突如、がくんと身体が上下に振れる。足元を確認する間もなく、ランテは宙に投げ出された。耳元で風が鳴る。落ちていく。
「ランテ!」
誰の声か聞き分ける余裕はなかった。視界の隅にちらついたものを握るが、駄目だ、傾ぐ、落ちる。衝撃に備えて、ランテは身体を硬くし目を閉じた。直前、道連れにしてしまった誰かが、器用に宙返りしたのが映った。
打ちつけた腰をさする。しばらく下半身が麻痺して立ち上がれなかったが、どうやら大事には至らなかったらしい。ランテは頭上を仰いだ。落ちているときは老朽の進んだ床が抜けたのかと思ったが、そうではないようだ。空気は上には流れていないし、明かりも射してこない。密閉されている。ということは、罠か。
「まったく、いい迷惑だよ。なんでこんな単純な罠に引っ掛かって、しかも人を道連れにしてしまうわけ?」
声に顔を向けると、道連れにしたのは少年だったことが判明した。けれども彼のほうはどこも打ちつけなかったらしく、もう立ち上がって伸びまでしている。感心した。
「すごいね」
「は?」
「結構落ちたのに、怪我一つないなんて」
目を細められる。呆れ顔だ。
「お兄さ……ああ、ランテって呼ばれてたっけ? ランテさん、本当に白軍?」
「一応。最近入ったばかりだけど」
「なるほどねー。すぐ死にそうだなあ。ドジだし馬鹿だし……それに」
意味ありげな瞬きをして、少年はランテに寄った。
「ねえ、なんで白軍に入ったの?」
「なんでって?」
「それはとぼけてる? 言っとくけど、オレはごまかせないよ。あなたからは黒の匂いがする」
「黒の匂い?」
「まだとぼける気? ランテさん、黒の使徒でしょ」
黒の使徒? 黒軍のことだろうか。そう言えば、ルノアがそう呼ばれてはいなかったか。考え込むランテの目を、少年は覗き込んだ。
「あれ? 本当に分からないって顔だなあ。中央軍に連行されてたのは、それが原因じゃないの?」
「違うけど」
「そうなんだ。誰かに同じようなこと聞かれたりは?」
「ないよ。たぶん」
言ってから、ランテは最初にセトに言われたことを思い出した。
——お前は何か大きな鍵を握っているような気がするんだ。
あれはもしかして? いや、でも、もしランテが敵だったとしたら、あんなに親切にしてくれるだろうか。首を振る。きっと、違う。
「心当たりがありそうだけど?」
「いや……」
「ふうん。まあ、オレには関係ないんだけど」
痺れが引いた。立ち上がる。頭の中に響く声は、いつの間にか消えていた。周囲を探る。光源はどこにあるのか、ほんのりとした明るさがある。がらんとした空間が広がっていた。どこか、上へ上がれる階段やら梯子やらが見つかればいいのだけれど。
「で、どうすんの?」
「どうするって?」
聞き返すと、少年は苛立ったように頭を掻いた。
「だから、来てくれるの待つのか、それとも動くのか」
こういうときは、どうするべきなのだろうか。下手に動かない方がいいのかもしれない。ちらりと思ったが、これ以上迷惑をかけるわけにもいかない。
「動こう」
「大丈夫かなー。ランテさん弱そうだしな。いざと言うときは逃げさせてもらうよ」
「うん、分かった」
セトとテイトに合流するか、もしくは捕らえられたらしいユウラを探し出すか。セトとテイトは上階にいることは分かるが、ユウラはもしかしたらこの地下階にいるかもしれない。ひとまずこのフロアを虱潰しに探してみよう。足を一歩踏み出した瞬間だった。
「うわっ」
大きな音がして、床が激しく揺れる。また罠に引っかかってしまったかと思ったが、そうではないらしい。どうやら、建物全体が揺れたようだ。上からの音だったように思うが、地下にいても揺れるなんて相当な振動だ。一体何があったのだろうか。
「やばいね」
「え?」
「いいの? 早く行かなくて。あのお姉さん、武器持ってないんでしょ。危ないんじゃないの?」
「今の音、ユウラがいる場所で?」
「どう考えたってそうでしょ。副長さんやチビのお兄さんたちがいた場所からは、だいぶ遠かった」
やはりユウラも上階か。戦闘が始まってるのだとしたらどれだけ役に立てるかは分からないが、いれば囮でも何でも、いないよりは力になれるだろう。早く上階へ。でも階段はどこに? 暗くて見えない。行かなくてはならないのに、何も、見えない。なんだっていい、灯りを。灯りを——
ランテが望んだそのとき、突如、光が走った。地下フロア一帯から、全ての闇が消える。一体何が? おそらく呪を使えたのだろう、ということくらいしか分からなかったが、離れた壁に梯子がかけられているのが見えた。あそこから上階へ行けそうだ。急ごう。
「黒の使徒が、光呪?」
少年が潜めた声でそう言ったのが聞こえたが、今は構っていられない。ランテは梯子に向かって駆け出した。
どれだけの負荷を与えても、罠は二度とは開かなかった。床を蹴って音を確認する。鈍い音がした。先に空間が広がっていることは分かるが、かなり厚い。破壊することはできなくはなさそうだが、もしすぐ下でランテが気を失いでもしていれば、怪我をさせてしまいかねない。地道に地下を目指した方がよさそうだ。
「呪は使われてないね。どんな造りになってるんだろう。すごい技術だ」
テイトが呟き、その後見上げてきた。
「どうする、セト。ランテ大丈夫かな?」
「早目に合流したいな。敵がデリヤだったとしたら、なおさら」
テイトが俯く。セトも項垂れたいのを堪える。身体の奥が鈍く疼いた。
「ねえ、セト。デリヤは本当に中央と繋がってたのかな」
テイトの問いは、あれから繰り返し自分に問うてきたものだ。そのたび答えを出すことを躊躇って、先延ばしにしてきた。だが、もう逃げることはできない。息を吸う。閉ざされた空間に立ち込める空気は、埃に汚れて、重い。
「デリヤはたぶん……嵌められただけだ」
息を呑む音がする。
「本物の内通者に嵌められて、濡れ衣を着せられた。中央貴族の出のあいつが適役だったんだ」
しばしの沈黙。テイトが身じろいで、それから立ち上がる。
「本物の内通者?」
誰だろうか。一時であったとしても、支部内の者を納得させて思惑通りデリヤを追放させた人物だ。支部長でさえも出し抜いたほどの。そのとき過ぎった自問に、鼓動が速まる。
支部長は、本当に、出し抜かれたのか?
あの慎重で賢明な支部長が、後からとはいえオレたちでも分かるような罠に、気付かなかった?
「セト?」
息をつく。ただの憶測だ。支部長だって人、万能ではない。中央と距離を取るよう決めたのは支部長だ。どうかしている。馬鹿げている。
「セト、どうかした?」
「悪い、何でもない」
答え、呼吸を緩めて鼓動を落ち着かせる。今はユウラとランテだ。と、テイトがあ、と呟いた。
「呪。ユウラの呪だ」
「ユウラの?」
セトも集中してみるが、あちこちに点在する黒獣の気に邪魔されて中々たどり着けない。先に走り出したテイトを追う。特に黒獣が多いだろう方角だ。方向が分かれば、セトにもユウラの呪の気配を拾うことができた。二度目の気配がある。戦っている? 黒獣の数は多い、武器なしのユウラ一人では荷が重い。急がなくては。思った瞬間、床が大きく揺れて、館一杯に音が轟いた。
どんな石を使っているのか、戦闘の音は壁を伝ってよく届いた。急く。最初の二度以降、ユウラが呪を使う気配はない。そんな間がないのは、頻繁に音が轟くことから明らかだった。追い詰められている。
「セト、先に。僕なら大丈夫」
躊躇うが、敵の数は多い、テイトとてこの状況で呪を使うのは易くはないだろう。先に向かって減らしておくべきかもしれない。
「分かった」
セトは頷いて、風に身を任せた。それから槍を受け取っておけばよかったと後悔したが、今はとにかく早く駆けつけるべきだ。急ぎながら、剣の柄を握った。
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