【Ⅲ】-2 安堵

 話を終えてランテが外に出ると、夜はすっかり深まっていた。今どのくらいの時間だろう。


 ベイデルハルクの名が出た途端、ハリアルは口を引き締めて黙り込んだ。しばらく考えたいと言い、ランテを帰らせた。ずいぶん深刻そうな顔をしていた。もう一度攻め入られることだって十分に考えられる。おそらくは白軍の中で最も実力のあるだろう人間が、彼なのだろう。そんな相手の侵攻からどうやってエルティを守りきるか。難しい問題だ。


 この時間に迷って歩き回るのは御免だったので、行きと同じく柵沿いに歩いた。外の道に人通りはほぼない。住宅にはまだ明かりが灯っているところが多いから、それほど遅い時間というわけでもなさそうだ。まだ食堂は開いているだろうか。


 しばらく戻ったところで、柵の外に立って支部を見上げる人物を見つけた。ユウラだ。支部の中で姿を見かけなかったから心配していたが、こんな時間にこんなところで何をしているのか。無言のまま建物を仰ぎ続ける様子が気になって、ランテはそっと近づいた。後十歩というところで彼女はランテに気づいて、手にしていたものを隠すように背中へ回した。膨らんだ鞄だ。大きい。


「どこか行くところ?」


 尋ねると、ユウラは困ったように視線と肩とを下げた。それからもう一度支部に目を戻す。


「あんたには関係ないわ」


「やっぱり、中央に?」


 思い切って聞いてみる。しかし、ユウラは即首を振った。


「馬鹿言わないで。こんなこと仕出かした中央に、これ以上あたしが肩入れするわけない」


「じゃあ、どこに?」


 ユウラはランテを見てから、また目を逸らした。そのまま振り返る。今日は髪を後ろで一つにまとめていた。その髪束が、寂しそうにふらふら揺れた。


「あんたには関係ないって言ったでしょ」


「ユウラは、本当は北支部から離れたくない。違う?」


 いい加減また槍で頭を殴られそうな気もしたが、ランテは屈せずに食い下がった。ユウラは歩みだしかけた足を止めて俯く。


「だとしても、あたしがここにいると」


 言葉はそこで止まった。ユウラが頭を振ると、低い位置の短いポニーテールが今度は激しく揺れた。歩みを再開する。ランテはもう一度口を開いた。


「みんな、ユウラがここに残ってくれることを望んでる」


「あんたに何が分かるの?」


 間髪入れず帰ってきた声は、静かだった。再び振り返ったユウラの目は、様々な感情が溢れ出しそうなのを寸でのところで堪えて、震えていた。


「妹が娶られたのは中央貴族の家よ。あの子を使って脅されたら、あたしは逆らえない。いつ内通者になるか寝返るか。そういう人間を抱えることは、今この状況にある支部にとって絶対に避けるべきこと。それくらい分かりなさい、馬鹿」


「でも、じゃあ、支部を出てユウラはどうするつもり? 中央にも行かないとしたら、他には」


「あんたと違ってあたしは有能だから、働き口はどこにだってあるわ」


「そうかもしれないけど、でも」


 行かないで欲しい。考え直して。どれもこれも、まだ正式に支部に入っていないランテには言えない言葉だった。ユウラの言ったことは正しい。反論は出来ない。でもユウラはここを出ればきっと独りになる。もしかしたら北支部の情報を求めた中央軍に追われることもあるかもしれない。追っ手から逃げながら、妹を助けるためのお金を稼ぐ。たった一人で。それがどれだけ辛く孤独なことか、ランテの想像には余った。止めなければならない。でも、ランテの言葉では重みに欠ける。ユウラは納得してくれないだろう。現に、彼女は背中を向けて歩き始めてしまった。待って。それでも声を上げかけたそのときだった。


「待てよ、ユウラ」


 ランテの背後から響いた声に、振り返る。振り返る前から声主は分かっていたけれども。セトだ。彼はもう普通に歩けていたが、ボタンを一つ二つ外したカッターシャツからは包帯が覗いていた。怪我はまだ完治していないらしい。ユウラが息を呑む。


「セト……もう平気なの?」


「お蔭様で。ランテもありがとな。まあ、お前にはちょっと怒っとかなきゃならないんだけど、それは後で」


 ランテに目を移しちょっと笑って、セトが進み出る。視線を受けるとユウラはたじろいだ。


「先にお前だ、ユウラ。この間も言ったよな? 抜けたきゃオレの許可取れって」


「取ったわ。前に」


 ユウラの声が小さくなる。


「一回だけな。その後お前は戻ってきたわけだから、あれはもう無効」


「ならもう一回取るだけよ。どうせさっきの話は聞いてたんでしょ? セトだって支部のためを思うなら、止められないはず」


 息をついて、セトは腕を組んだ。落ち着いた穏やかな声で語りかける。


「例えばお前がここを出たとして、北が安全になるかって言ったらそうでもない。今回のことで、中央が本気になれば北支部程度すぐに壊滅させられるってことが分かった。内通者や裏切り者を用意するような回り道しなくたって、あっちは望めばすぐにでもここを潰しに来る。そういうとき何が必要かって言ったら、敵と同等以上の戦力を用意することだ。つまり、お前が居なくなることで減るリスクより、お前が居ることで得るメリットのほうが大きいってこと」


 少しの間黙って、ユウラは俯いていた。ゆっくり顔を上げて、どうにか搾り出したような苦しげな声で答える。


「だけど、あたしは一度中央に協力した。この町を滅ぼそうとした組織に加担したの。そんな人間を置いてていいはずが」


「その件で一番被害を受けたのはランテだ。ランテがいいって言ってくれてるんだから、問題ないだろ?」


 ユウラが困惑した目でランテを見る。ランテが頷くと、彼女はますます困惑した様子で視線を左右に振った。


「あたし」


「前にも言った通り、妹のことだって出来るだけ協力する。お前が焦ってたことに気づいてやれなくて、悪かった。身内のことがかかってたんだ、誰もお前を責めない。責めさせない」


 セトの声色は優しかった。ユウラはセトを見て、次いでランテを見、もう一度セトに目を戻した。次に支部を見上げて、今度は町を振り返る。


「戻って来いよ、ユウラ」


 答えを出しかねているユウラを、セトがもう一押しする。それでもユウラは、迷って、迷って、迷って。ずいぶん長いこと黙っていた。最後におずおずとセトを見る。彼の頷きを見て、それからようやく。


「支部長のところに、行って来るわ。その……ありがとう」


 消え入りそうなくらい小声で、最後にそう言った。思わず笑んでしまったランテの傍で、セトもほっとしたような顔をしていた。顔色が体調の優れなかった一昨日よりも尚青白いように見えたのは、周囲が暗いせいだけではないだろう。もう大丈夫なのだろうか。


「セト、大丈夫? オレのせいで……本当にごめん」


「いや、お前のせいじゃないって。謝るべきなのはむしろオレの方だ。あ、でも逃げろって言ったのに帰ってきたことは怒っとかないとな。下手したら死んでたんだ。分かるだろ?」


 怒ってはいなかったが、ベイデルハルクを目前にした際有無を言わさずランテを戦線から退避させたあのときと同じ響きを持った声だった。ここだけは譲れないと主張するような、きっぱりとした口調だ。


「でもあのまま逃げてたらセトは」


「オレじゃなくて、じゃあ、あの後ルノアが来てなかったらお前はどうなってた?」


「それは」


 口ごもることしか出来なかった。あのままルノアが来なかったら、ベイデルハルクに二人まとめて殺されていたことは、誰の目から見ても明らかだった。


「時には逃げることも必要。この先白軍に入ってやっていくつもりなら、命は大事にしろよ」


 ランテのためを思って言ってくれた言葉だと分かったが、真っ先に矢面に立ったセトが言えた言葉ではない。完全に自分を棚上げしての言葉だ。少しむっとして、ランテも応じた。


「それ、セトもちゃんと守らなきゃ」


「オレは副長だから別。支部の皆を守る役目がある」


「そんなことない。じゃあ、セトが死んだら誰が皆を守る?」


「ランテの言うとおりよ、セト。あんたは自分を軽んじすぎる」


 ユウラが柵を飛び越えて戻ってきてから、ランテに加勢した。形勢悪化を受けてセトは少しだけ狼狽する。


「そんなことないって。オレだって逃げられるときは逃げて」


「その『逃げられるとき』が極端に少ないのよ」


「そうでもない」


「そうでもあるの! 今だって何? 二日前に死にかけておいてどうしてこんなところほっつき歩いてるの。ノタナさんに言いつけるわよ。あんたもなんとか言ってやりなさい、ランテ」


 視線を飛ばされる。ランテはユウラにどことなくノタナの雰囲気を感じた。ランテが叱られているわけではないのに、気圧されてしまう。元気が戻ったことについては、喜ばしいのだが。


「セト、もう少し休んだ方が」


「いや、これから支部長のところに」


「問答無用! なんなら気絶させてから部屋まで連れてってもいいのよ? そんなふらふらであたしに勝てる?」


 セトの言葉を遮って、ユウラが言い放った。荷物を足元に置き、脅すように背中の槍に手を回す。セトは観念して肩を竦めると、小さく言った。


「さっきまでのしおらしさはどこへやら」


「なんか言った?」


「いーえ。いつも一昨日くらい優しかったらいいのにって話。な、ランテ?」


 同意を求められるがどうしたものか。ランテが恐る恐るユウラを見てみると、鋭い目で睨まれた。これは頷けない。


「いや、その」


「ランテ、あんた頷いたら分かってんでしょうね」


「あー、えーと」


 困りきった様子のランテを見て軽く笑ってから、セトがユウラを煽る。


「『死んだら許さない』とか言ってくれてたっけ?」


「うるさい! って、あんた覚えて」


 ユウラがいよいよ槍を手に取ろうとした瞬間、セトはくるりと踵を返した。ランテに視線を寄越して、さらりと言う。


「ランテ、後は頼んだ。上手くやってくれ。悪いな」


「え? ちょ、セト!」


 制止しようとしたがもちろん間に合わない。セトはあっという間に去ってしまい、ランテは不機嫌を極めたユウラの目の前に一人、取り残されてしまった。次に何が来るかと身構えたが、意外にもユウラは小さく馬鹿と言っただけで、足元の荷物を持ち上げた。


「あの馬鹿見つけたら休めって言っといて。あたし、今から支部長のところに行って来るから。前にも言ったけど……その、ごめん。あんたには本当に悪かったと思ってる。謝ったところで済まないほどのことをしたとも、思ってるわ」


 ランテからは目を逸らしたままでそう言って、ユウラはランテの進行方向とは逆の方を向いた。ハリアルが北棟にいることを知っているらしい。ユウラの言葉を聞いて、セトが「根はいいやつだから」と言っていたことを思い出した。今回のことは不可抗力のようなものであって、彼女に責はない。それなのにこうして何度も謝ってくれる。確かにいい人だと今さらながら思う。


「オレも前にも言ったけど、ユウラは悪くないと思う」


「あんた騙されやすいタイプね。もっとしっかりしなさい。気をつけないと、あっけないくらい簡単に死ぬわよ」


 ユウラはランテに背中を向けたまま言って、歩き始めてしまった。分かりにくいけれど、きっとユウラはユウラなりにランテを気遣ってくれたのだろう。心の中でそっとありがとうと言っておく。


 重い怪我を負ったセトとテイトも復帰できたし、ユウラも戻ってきた。町の復興活動も順調に進んでいる。中央軍が残した爪跡は大きかったが、きっともう大丈夫だ。中央のことも、自分のことも、これから先の懸念はたくさんある。けれども今はひとまずの安息を喜ぼう。ランテは帰路を急いだ。

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