【Ⅱ】 始まりの女神
気がつくと眩しくて暗い場所に居た。ランテはそこを漂いながら、何かを探していた。光と闇は四肢にまとわりついて、ランテの動きを制限する。動悸が激しい。酸素が足りない。苦しみに耐えながら、それでももがき続ける。何を求めているのかも分からないのに。
「————」
遠くで誰かが何かを言っている。見えない、聞こえない。近づかなければ。手足をばたつかせようとするけれど、重みを増した光と闇はそれを許さない。急がなければ。ランテは必死に抗った。けれども苦しいばかりで少しも届かない。待って、と呼びかけようと口を開いたが、声は出なかった。四方からさらなる敵が迫ってくる。逃げることが出来ない。行かなくてはならないのに。待っているのに。ああ、駄目だ、飲まれる――
はっとランテは目を開いた。膝から本が滑り落ちる。座ったまま寝ていたらしい。心臓がうるさい。息切れしていた。そして身体が動かない。意識を右腕に集中する。動け動けと何度も念じると、ようやく指の先がぴくりと動いた。途端全身が自由になる。大きく息を吐いてから、ランテはどさりと寝そべった。ベッドが体重を支えてくれる。見上げたカーテンは薄明かりを孕んでいた。今はどの時間帯だろう。またもやかなり眠ってしまった感覚がある。変な体勢で眠ったせいか、腰と首とが痛んだ。
それにしても、嫌な夢だった。よく分からなかったけれども、とにかく苦しかった。ゆっくり呼吸をして平静を取り戻す。あれは一体なんだったのか。互いに争うように目の前で増幅していった光と闇に、今さらながら恐怖する。あの白と黒には殺意があった。明らかに息の根を止める目的を持って、ランテに迫っていた。夢は所詮夢、その意味を考えることは無意味なのかもしれないが、どうしようもなく気に掛かる。夢にしてははっきりした映像だったのが原因かもしれない。
扉の向こうで音がした。誰かの足音だ。ランテの部屋の前を何度か行き来して、止まる。
「この部屋だったっけか。おーい、ランテつったよな? 起きてねえか? 暇ならちょっと手伝ってくれ」
この声、アージェだろう。慌てて起き上がってドアへ急ぐ。そう言えば中央と争ったあの日にあれだけ走ったのに、どこも筋肉痛にはなっていない。なぜだろうか。記憶喪失以前のランテは何か特別な鍛錬を積んでいたのかもしれない。名入りの剣を携えるくらいだから、どこかの兵士だったということも考えられる。
扉を開けると、やはりアージェが立っていた。両手に提げている布袋には、いったい何が入っているのだろう。かなり重そうだ。
「おう、もう平気みたいだな? 悪いがこれ持って広場まで行ってくれ。その後そこで色々直すの手伝ってやってくれるか?」
「了解。中に何が?」
「釘とか金具とか道具とか色々。面倒だから全部一緒に突っ込んでやったぜ。文句があるなら相手してやるって、俺様が言ってたって伝えとけ。そしたら誰も何も言わねえ。重いから気をつけろ」
「分かった、ありがとう」
「ああ、それから先に朝飯済ませろよ。こんなもの誰も取りゃしねえから、ここに置いてけ。昼にも一旦戻って来ねえとばばあにどやされるから気ぃつけろ。んじゃ、俺は黒獣相手しに行って来らあ。一段落ついたら手合わせしような」
「気をつけて」
「ありがとさん。おめえも怪我すんなよ」
始めは怖い人かと思ってしまったが、アージェもとても優しい人だ。片手をひらひらさせながら背中を向けて行ってしまうアージェの背を見送る。
一通りの身支度と食事を終えて、ランテは頼まれごとを片付けるために布袋を持ち上げた。いや、正確には持ち上げようとした。布袋は床に固定されたみたいに、ランテに持ち上げられるのを拒んでくる。尋常な重さではない。三度目の挑戦に失敗してようやく、ランテは二つの荷を一度に運ぼうとしたのが間違っていたことに気づいた。仕方ない、二回に分けて持ち運ぼう。両腕で持ち上げると、床から少しだけ浮かせることに成功した。広場まで運ぶのにはかなり疲れそうだ。しかもそれを二回繰り返さないとならない。ぞっとする。これを平気な顔で二つ提げていたアージェの腕力の恐ろしさを、ランテは身をもって思い知った。
汗だくになりながら一つ目の荷物を運び終えて支部に戻ってくると、ロビーの窓際でぼんやりと外を眺める人影を発見した。周りの白軍たちとは違った、裾の長い白い服を着ている。おそらくマーイだろう。なんとなく見覚えもある。物憂げな様子で何度も何度も溜め息を吐いているが、一体どうしたのだろうか。暇なら荷運びを手伝ってもらえるよう頼みたいなとそんなことも考えながら、ランテはマーイに近寄った。
「マーイさんですよね? どうかしたんですか?」
声をかけると、マーイは肩を跳ねるように上下させてから、ランテを振り返った。よく見れば足元に白い布の袋が置かれている。マーイも誰かに何かの配達を頼まれたのかもしれない。虚ろな目で力なくランテを見てから、マーイは再三ため息を吐いた。
「もういいんだ……オレの人生は終わった……放っておいてくれ……」
この世の終わりに瀕したような絶望的な声音だった。一体何があったのだろう。このまま立ち去ってしまうのは心が痛む。ランテはもう一度聞いてみることにした。
「どうしたんですか? オレで良かったら話聞きますけど」
マーイは魂の抜け切った目のままランテを凝視して、それから突然頭を抱え始めた。どうしたらいいのか分からなくて右往左往していると、マーイは動きを止めてぽつぽつと語り始めた。
「ああ……彼女の前で倒れてしまったんだ……なんて失態を……情けない男と見放されたに違いない……恥ずかしい……もう二度と彼女には会えない……」
「彼女?」
「とても美しい女性だ。白女神でも彼女には敵うまい。教会の神僕女で今回も多くの命を救ってくれた。ああ、そうだ、これを届けないと……でもあんな醜態を晒しておいて今さら顔を合わすなんて」
マーイの足元の白い袋に目を遣った。小さい。悪い考えがランテの頭を過ぎった。いや、これは人助けだ。緩やかに微笑んでから提案する。
「じゃあ、オレがそれを教会に届けてこようか? 代わりに宿舎の廊下にある荷物を、広場まで届けてくれると助かるんだけど」
マーイは一瞬きょとんとしてから、ばっとランテの腕を掴み取った。ぶんぶん振り回される。
「ありがとう、君は神のように寛大だ! あ、だけど彼女をかどわかそうとしたら」
最後にきっと鋭い目で睨まれた。ランテは急いで頷く。
「分かってる分かってる。教会はどこに?」
「支部長の屋敷のすぐ傍だ。広場から真っ直ぐ北側に上がったところにある。頼むよ」
「分かった」
「ついでに……その……いや、なんでもない」
言いたいことはなんとなく伝わってきた。マーイから荷物を受け取る。ほんのりと薬品の匂いがした。さっきの荷物の四分の一の重さもない。ここでさすがに罪悪感を感じた。償いとして、彼女とやらに上手くとりなしておこう。行ってくるよと言って顔を見ると、マーイの目は少しだけ生気を取り戻していた。ちくりと胸が痛む。ランテは心の中でそっと謝っておいた。
広場から北へ続く道は、大きな通りだが並んでいるのは住宅ばかりだ。他の通りと比べるとかなり静かで人通りも少なく、時間がゆっくり流れているような気がする。平原で目覚めてからずっと慌しい時間を過ごしてきたから、和やかな雰囲気はとても新鮮に感じられた。この辺りはさほど破壊されていない。窓枠や門に飾られた色とりどりの花や植物を眺めて楽しみながら、歩を進める。小さい子どもたちの騒ぎ声が聞こえてきた。一本向こうの通りだろう。平和の文字の意味を体感しているようだ。大きな被害がないまま中央を退けることができたことに、今さらながらランテは安堵した。とは言っても、ランテは何もしていない。ベイデルハルクを足止めしたのはセトであり、最終的に彼が退いたのはルノアのお陰だ。ランテは人に頼ることしか出来なかった。情けない。腰に挿した剣に目を下ろす。北支部のみんなはとても優しくて良い人揃いだ。みんなの力になりたいと、強くそう思う。
住宅街を抜けた行き止まりに、大きな屋敷があった。これがハリアルの屋敷なのだろう。これだけ大きな家を持っているということは、ハリアルは貴族なのだろうか。それにしては質素な服装だったし、貴族特有の傲慢さは持っていなかった。考えながら屋敷の付近を行ったり来たりしていると、数軒離れたところに他のものとは造りの違う建造物を発見した。ハリアルの屋敷ほどには至らないが、それでもかなり大きい。まばらに蔦が絡んだ長い円柱型の建物だ。天辺には背の低い円錐が乗っかっており、正面の壁ではステンドグラスが不思議な紋様を織り成している。あちこちに罰印の中央に長い横線を一つ足した形のマークがあしらわれていた。宗教的な建物といったらこの建物ぐらいだから、きっとここが教会なのだろう。ランテは短い階段を上って大きな両開きの扉を開けてみる。重い音が現れた礼拝堂に響いた。蝋の匂いがする。
「すみません」
無人だ。とても静かで、燭台の蝋燭の芯が燃える音がよく聞こえてきた。ランテの上げた声も響き渡る。しばらくは何の反応もなかったが、少し待つと上から足音が降りてきた。見上げる。円の形の壁をなぞる様に造られた螺旋階段の頂上近くに、薄い橙の衣を纏った女性がいた。
「少しお待ちくださいね。どうぞ、お掛けになって」
静かで穏やかな声音は、聞く者を無条件に安心させる力を持っていた。ランテは言われたとおり最後尾の長椅子に腰を下ろした。ちょうど正面の位置に設えられた祭壇には例のマークがついた布が掛けられていて、その上には何か不思議なものが載っていた。あれはなんだろう。ガラスの球体の中に、女性が身に纏っていた衣と同色の光の靄が渦を巻いていた。なぜか目を奪われる。
「【神光】をご覧になるのは初めてですか?」
球体の中のものに集中していた所為で、女性が階段を降り切ってランテの付近まで来ていたのに気付かなかった。見上げると、整った顔立ちの女性が微笑みながらランテを見ていた。色白でパーツが全体的に小作りなせいか病弱そうに見えるが、マーイの言っていた通り美しい女性だ。ベールのように被った布から零れている橙の髪が、纏う衣によく似合っている。
「あれ、神光って言うんですか?」
「ええ、これは模造品になりますけれど美しいでしょう? 真の神光は中央の大聖堂にございます。機会があればぜひご覧になってください」
「本物と模造品は、何か違うところがあるんですか?」
ランテが浮かんだ疑問を率直に口にすると、女性は少し瞬きを繰り返してから頷いた。
「形はよく似ていますが、これは人が呪で作り上げたもの。神自らによって作られた真の神光とは似ても似つきません。癒し手を生み出す力も、もちろん、真の神光にしかございません」
「神光が……えーっと、そう、癒しの呪の統べる者なんですか?」
覚えたばかりの単語を頑張って使ってみると、女性はほんのりと笑んで頷いた。
「そうですね、理論上はそれで問題ありません。厳密に言うと神光を作り出したのは神でいらっしゃいますから、統べる者は神であると言うべきなのかもしれませんが」
「その神と呼ばれているものは、白女神とは別の存在なんですか?」
こんなにも質問攻めにしてしまって大丈夫だろうかとランテは言ってしまってから思ったが、女性の方は気分を害するどころかどこか嬉しそうに話してくれる。会う人会う人みんなが心優しい人で驚く。
「私たちが神とお呼びするのはすべての属性の頂点に立たれる神――命の神です。始まりの女神とも呼ばれていますね。白女神も黒女神も、すべての統べる者は元を辿れば命の神から生み出されたのだと、そう教えられました」
そこまで話すと、女性はちょっと顔を俯けた。間を取ってから、再度語り出す。今度はいくらか潜めた声だった。
「しかし白女神の支配は徐々に強まって、特に三年前のワグレで痛ましい事件があった直後からは、神の教えを広めることを中央から禁じられました。お陰で今はここを訪問される方もほとんどおらず……この有様です。大聖堂の皆さんも神の教えを忘れ、最近では中央におもねる始末。これも神の与えたもうた試練なのでしょうか……」
ランテ以外には人一人いない礼拝堂を眺め、女性は暗い顔をした。しかしすぐに首を振って笑顔を作ると、ランテに向き直った。
「ごめんなさい。神の教えを説くのはずいぶん久しぶりだったものですから。ところで、あなたは支部の方ですよね。お加減はもうよろしいのですか?」
一方的に初対面だと思い込んでいたが、そうではなかったらしい。ということはランテが倒れてから、彼女はランテを見ていたのだろう。マーイの気持ちが分かる気がした。恥ずかしいような情けないような。頭を掻く。
「もう平気です。ありがとうございます」
「他のみなさんももうよろしいのですか? 特に副長さん……あの方の負傷は重篤でした」
「セトは……大丈夫だって聞きました。まだ目覚めてはいないみたいですけど」
「そうですか。普通癒し手は格段に癒しの呪を受け付けやすいはずなんですけれど、それでも私とマーイさんとでやっとなんとか出来たというほどでしたから、心配で。あ、そう言えばマーイさんは?」
口ごもる。沈み切った様子のマーイが頭を過ぎった。なんとか上手く言わなくては。ランテは逡巡した。
「大丈夫です。えっと……あなたに迷惑をかけていないかと気にしてました」
「まあ。気になさらないでくださいとお伝えしてくださいますか? 癒しの呪は負担が大きいですから、ゆっくり休んでくださいと」
女性は笑顔だ。これはマーイに良い報告が出来るかもしれない。ほっとして包みに手を遣った。
「分かりました。それから、これ、教会に届けるようにって言づけられてて」
「ありがとうございます」
あまり長居するのはマーイにも申し訳ない。ランテが立ち上がると、女性は悲しそうな顔をした。こんな広い建物に一人きりだとしたら、さぞや寂しいことだろう。
「ここには、いつもあなた一人なんですか?」
「いいえ。普段はあと二人神僕がいます。お気遣いありがとうございます。よろしければ、いつでも祈りにいらしてください」
女性に見送られて、ランテは教会を後にした。空を見上げれば、陽は一番高いところから少し西側へ傾き始めていた。
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