【Ⅰ】-2 歴史

 フィレネはランテを引っ張りながら、遂には支部の門を出てしまった。一体どこに向かっているのか。その背中に揺れる大鎌を見つけて、ランテは恐怖した。ユウラといいフィレネといい、普通の女性と変わらないような細腕でどうしてこんなに重いものが振り回せるのか。


「あ、ランテちゃん?」


 右から聞こえてきた声に光明を得る。揺れる黒髪のポニーテール、リイザだ。彼女はこちらを見てにっこりと笑った後、ランテを引っ張る人物に目を向けた。顔が険しくなる。


「そこにいらっしゃるのは、東の高飛車副長フィレネさんかしら?」


 リイザに呼ばれたフィレネの足が急に止まって、ランテはつんのめった。背中にぶつかったが、彼女は気にせずリイザを睨みつけている。険悪な雰囲気だ。空気が凍る気がした。


「邪魔しないで下さる? お馬鹿リイザさん。わたくし、この殿方に大事な用がありますの」


「大事な用事って何なの? ランテちゃんの顔見てみた? 見るからに迷惑そうだけどー?」


「馬鹿おっしゃい。わたくしはね、半年前にこの方とお会いしていますのよ。黒獣の群れと遭遇したとき、この方がわたくしを救ってくださったの。その時のこの方の剣技は、とても鮮やかでしたわ。見惚れてしまうくらいに。それが、記憶喪失だなんて……」


「えっ」


 どう逃げようか考えるのに必死で、途中まで聞き流していたのだが、フェレネの言葉を後から頭の中で繰り返して、ランテは目を見張った。半年前に会っている? それがもし本当なら、彼女は記憶喪失以前のランテを知っていることになるのではないか。尚も言い争いを続ける二人に、ランテは遠慮しながら割って入る。


「あの、ちょっとごめん。フィレネさんだっけ? 半年前にオレと会ってるって言うのは――」


「今は黙っていらして!」


「……はい、すみません」


 ものすごい形相で一刀両断にされ、ランテは押し黙った。今聞くのは間違っていた。いつの間にかどちらが女性として優れているのかという論争になっていて、ますます激しさが増している。収まるまで大人しく待っていよう。しかし、一体いつまで続くのか。二人があまりに大きな声で話すので、道を行き交う人々が何事かと足を止め視線を送ってくる。どうでもいいから早く終わってくれと祈る。そのとき、今度こそ救世主の姿を見つけた。向こうから歩いてくるあの人は。


「ノタナさん!」


 待ち侘びて、ランテはその名を呼んだ。両脇の二人が同時に振り返る。その動きはとても敏捷で驚いてしまった。ノタナはランテたちに気づくと、足を速めて近づいてくる。


「ランテ、あんたもう平気なのかい?」


 ノタナは心配顔でランテを見てから、女性二人を見る。視線を受けると、二人はそれぞれ一歩ずつ後ろへ下がった。フィレネとリイザは仲が悪いようで実は気が合うのかもしれない。


「それで目を覚ましたばっかりのランテを連れ回して、あんたたち二人は何やってんだい?」


 ちょっとした迫力を持ったノタナの問いに、フィレネが大分怖気づきながら答える。


「う、うるさいですわ。荒療治になってでも、この方には記憶を取り戻していただかないと――」


「おだまり。そんなことばかりしてるとオルジェ支部長に言いつけるよ」


 ノタナにぴしゃりと言われて、フィレネは言葉を飲み込んで、ランテの腕を離した。少し名残惜しそうだ。その横でノタナはリイザも叱りつけている。


「あんたも男にばっか熱を上げてないで、しっかり働きな!」


「や、やだなノタナさん。私はちゃんと働いてるよ? ほら、矢がなくなっちゃって。取りに戻っただけよ」


「なら、さっさと取ってさっさと戻る! 夜までには全部片付けて戻ってくるんだよ、いいね?」


「はーい」


 リイザの方は、ランテに向けてにこりと笑うと支部の方へ帰っていった。ノタナに睨まれ、フィレネもくるりと背を返す。さすがだ。ランテが謝意を述べようとすると、ノタナはランテにも怖い目をしてきた。


「ランテ! あんたも何こんなとこうろついてるんだい。せめてもう一日は安静にしときな」


「あ、でもオレはもう平気――」


「一日寝ただけで治るんじゃ、この世に癒し手はいらないよ! つべこべ言わず部屋に戻りな」


 口答えは一切許さないと、無言の圧力で迫られる。ランテは仕方なく首を上下に振った。ノタナはそれでもまだ信じられないと言いたげな目でランテを一瞥し、それからぼそりと言う。


「男はどうしてこうも無茶したがるのかね……全く、これじゃ命がいくつあっても足りやしない」


 言葉には憂いが多分に含まれていて、ランテは何も答えることが出来なかった。ノタナは戦士ではないから、待つことしか出来ないのだ。その辛さを身に染みて知っている憂いだった。心配を掛けてしまったことを申し訳なく思う。


「ごめんなさい」


 言うと、ノタナは驚いたように眉を上げて、それから微笑んだ。


「いいや、悪かったね。独り言さ。気にするこたぁないよ。でも休むときはしっかり休む! いいね? ……いや、待ちな。どうせ何も食べてないんだろう? おいで。厨房で何か作ってあげるよ」


 頷いて答える。まだそれほど空腹ではなかったが、ノタナの作る食事ならいついかなる状況下であっても、いくらでも食べることができそうだ。彼女は時々怖いけれど、傍にいてくれると安心する。歩き出したノタナを追って、ランテも食堂へ向かった。






 食事を終えた後、ランテはノタナによって強制的に部屋へ送還された。二度出て行こうと試みたが、ノタナは時間を掛けて周囲の部屋を一つ一つ回っているらしく、断念せざるを得なかった。窓から飛び降りられるかと階下を見てみたが、同じ二階でもノタナの宿と比べたらかなり高い。下手を打てばまた部屋に閉じ込められることになりそうだったので、大人しくやめておく。しばらく時間を潰してからもう一度支部長室に行こう。


 部屋の中を見渡してみる。もとは誰の部屋だったのだろう。ベッドが一つ、窓と扉が一つずつ、机と椅子が一セット、物入れが一つ――中をのぞくとちょうど良さそうな着替えが入っていた。おそらくノタナが用意してくれたのだろう――と、隅に本棚が一つ、そして小さいがバススペースもあった。バスタブの中には湯が張ってある。これもきっとノタナだろう。ありがたく使わせていただくことにする。記憶を失ってからは初めての風呂だ。たぶん久しぶりになるのだろう風呂は、温かくて心地よかった。着替えは上着の袖もズボンの裾もやはりランテの背丈にちょうど良い。さすがの見立てだ。着替ると脱いだ服の処置に困ったが、ひとまず畳んで置いておくことにした。


 手持ち無沙汰になった。ベッドに腰かける。まだ外からノタナの声が聞こえてくる。誰かに怒っているらしかった。ここは支部の宿舎だと聞いていたが、怪我人もここにいるのだろうか。セトは大丈夫だろうか。見舞いに行きたい。彼が目を覚ましてからになるが、礼も言わなくては。また助けられてしまった。何度目になるだろう。今度はランテのせいで彼の命を危険に晒すことになってしまった。その事態を招いた自分の無力が悔しい。ここに残るならもっと強くならなければならない。剣が怖いだなんて言っていられない。


 ノタナが去るまでにはまだしばらく掛かりそうだったので、ランテは本でも眺めていることにした。見える背表紙はどれも小難しそうだったが、一番下段の右端にあった真っ白な背表紙の本が気になった。手に取ってみる。ちょうど指の関節一つ分ほどの厚さで、この本棚の中ではまだ薄い方だ。表紙には白軍の紋章が銀の線で彫られるようにして描かれている。タイトルは無い。ランテはベッドまで戻って腰かけてから、表紙を捲った。紙は茶色く変色していたが、文字はまだしっかりと読める。最初のページはやはり目次だ。項目は全部で五つある。白女神の啓示、規律と祭礼、白軍の歴史、歴代大聖者、光呪の変遷。白軍に関する知識を詰め合わせたような本らしい。知識不足のランテにとって、ぜひ読んでおくべき本であるだろう。ぱらぱらページを捲るとその膨大な文字の量にやる気を削がれたが、他にやることはない。ランテは腹を括って隙間無く黒に埋め尽くされたページに挑んだ。


 最初の方は本当に退屈で、あんなに眠ったのにも関わらずまた眠気が襲ってきた。三つ目の項目まで飛ばし飛ばしに読み進めて分かったのは、白女神と黒女神は同時にこの大陸――ラフェンティアルン大陸というらしい――に降り立ち、その瞬間から互いに競い合うようにして万物を生み出していったこと、やがて女神は人を生み出し女神同士の競い合いは人の戦争に代わっていったこと、今までずっと戦争は――戦争のことをどうやら【聖戦】と呼んでいるらしいが――続いてきたということ。これが白軍の主張する“歴史”なのだろう。では、対する王国説というのは一体どんな歴史を語ってきたのだろう。集まってくる眠気を蹴散らすために欠伸を一つこぼして、ランテはまだ全く知らない説の中身を予想だけで思い描いてみた。中央にとって困るのはきっと、白女神と黒女神がずっと衝突してきたことを否定されることなのだろう。セトの口ぶりからしてそれは間違いないと思われた。ということは王国説はそれを真っ向から否定していた、だから消された。つまり、白女神と黒女神が争わなかった時代があったと語っていたということ? そして、ここで王国説という名前だ。その時代にあったのは王国であった――つまり人の長が王となり治める国であった――ということ? 現状ではここまでの推測がやっとだ。


 もう一度欠伸をしてから、ランテは指を組んで伸びをした。ノタナの声はもう聞こえないが、念には念を入れておくのがよいだろう。もう少しだけ読んでから部屋を出よう。次のページを捲る。歴代大聖者の項目になるはずだが、上手く捲れない。ページ同士がぴったり貼りついていた。その狭い隙間に爪を立てる。ぺり、という音がして角が少しめくれた。後は簡単だ。ここからゆっくり剥がしていくだけだ。だが、あらわになっていくページにランテは瞠目した。赤黒い色、これはおそらく古い血だ。見開き全体に大きな罰印を描いているそれが、ページを接着してしまっていたのだろう。しかし、なぜこのページだけ? そしてなぜこんなことを? 理由を見つけるために、ランテは読みにくくなった本に目を落とした。


『大聖者は白女神の預言者となり、全ての白の使徒を導く存在である』


 文章はその言葉から始まり、いかに大聖者が気高く有り難い存在であるかが長々とつづられている。次のページを見てみると、歴代の大聖者の名前が書き連ねられていた。ベイデルハルクを探してみると、一番後ろにきっちり書かれていた。第十三代目の大聖者らしい。


 ランテはもう一度前のページに戻った。とにかく今はこの大きな罰印の意味を考えなければ。見たものを率直に解釈するとしたら、大聖者を否定しているということになるが。ここは中央と冷戦状態にある北支部であることを考えれば、さほどおかしいことには思えない。しかし気になるのは、どうして本に――それも血文字で大きく――罰を書くということまでしなければならなかったのかということだ。それからこの本にはそれなりに年季が入っていそうであるということもある。最後に、今現在この部屋が空き部屋――ランテの使用が許可されたということはつまりそういうことだろう――であるということだ。仮説を立てるには分からないことが多すぎる。もう少し情報を集めなければならない。


 考えるのをやめて、ランテは次のページへ進んだ。

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