【Ⅵ】-3 救済者
響く靴音が月夜の静寂を妨げる。見紛うはずがない。ルノアだ。白のような銀のような柔らかな長髪は、月の光を受けるといっそう美しく映えた。彼女はベイデルハルクまで十数歩のところまで近づいて立ち止まる。
「彼から離れなさい。私とここで戦うことを厭うなら」
感情を抑えた静かな声は、緊迫した状況に反して耳に心地良い音を響かせる。ベイデルハルクはルノアをしばし凝視して、それからゆるりと腕を下ろした。
「おお、わが妻よ。久方ぶりだな。今はルノアと名乗っているらしいが?」
「あなたを夫と思ったことは一度もないわ。もう一度言います。彼から離れて。話はそれからよ。白女神の加護が及ばないここで私と戦うのは、あなたも望むところではないでしょう?」
ベイデルハルクは微笑んだまま息を吐くと、ランテから三歩離れた。ルノアがランテを見る。その瞳はやはり寂しげだった。
「こちらに」
言われた通りに駆け出す。ベイデルハルクの横を通り過ぎたが彼は何もしなかった。ただ、笑みを寄越しただけで。口角を不自然に上げただけの、感情を伴わない微笑をしていた。
「あなたはどうしていつも、自ら危険に飛び込むの」
ルノアの傍までたどり着くと、彼女はランテから少し目を逸らしたところでそう呟いた。視線を下げると長い睫が影を落とす。物憂げな表情は艶やかでとても似合うけれど、見ているだけでランテを悲しくさせた。胸が締め付けられる。理由なんて何処を探したって見つからないのに。彼女は敵に向き直った。長い髪の先が揺れた。ベイデルハルクは眉を顰めている。
「解せぬ。これまで何があろうと干渉しなかったそなたが、なぜ今になって? やはりその男は」
「この人は無関係よ。いまや白女神は正義ではない。白軍中央本部の暴走は、誰かが止めなくてはならない」
ベイデルハルクは尚も理解しがたいと言いたげな表情を浮かべていた。ルノアの横顔は毅然とベイデルハルクを見据えていたが、それでもやはり瞳には何やら憂鬱な光が棲んでいる。なぜ彼女はこんなにも悲しそうな目をしているのだろうか。
「あの男を求めて止まないのは、そなたも私も同じ。いずれにしても、またすぐにまみえることとなろう」
ルノアを見ていたベイデルハルクの目が、ランテに戻ってきた。色素の失せた瞳の奥で欲望が渦を宿す。まるで飢えた猛獣のように貪欲な渦だ。今にも喉を引き裂いて鮮血を啜わんとするようで、ランテは守るように首を押さえた。
「おそらく君ともな。拾った命、それまでせいぜい大切にすることだ」
地面に浮かび上がった紋章が、再び闇夜を照らした。ベイデルハルクの姿が徐々に薄れていく。彼が光を連れて完全に消え去ったとき、押し寄せるような安堵に足が折れた。広場を覆っていた緊迫した空気が一気に緩まる。今になって痛みが増幅した。あちこち痛んで、どこに怪我をしたのか分からない。でも今はそれどころではなくて。弾かれたように振り返った。
「セト!」
叫ぶように呼んで立ち上がり、ランテは彼のところへ急いだ。まだ息はあるが先ほどよりもさらに弱まっている。誰か。また振り向いて、見つけた希望に縋る。情けないけれどそうすることしかできない。
「ルノア……」
ランテの視線を受けた彼女は戸惑ったように目を伏せて、それから少しの間躊躇し、そうして足を踏み出した。ランテから大人一人分ほどの距離を取って立ち止まり、静かにセトを見下ろした。流れ続ける血の中に、濁った月が映っていた。
「私は、人を癒す術を持たない」
告げられた言葉に、希望を絶たれる。いや、それなら支部に戻ろう。マーイという人を探さなければ。ランテが駆け出そうとしたとき、ルノアが次の言葉を紡いだ。
「私が出来るのは、少しの間惑わせることだけ。それでも構わないのなら」
「惑わせる? どういう意味?」
ランテの問いには答えず、ルノアは膝をついて座り込んだ。細い右腕を緩やかに翳しながら問う。
「この町に、彼以外に【癒し手】は?」
癒し手という単語にランテは一瞬困惑したが、おそらく癒しの呪を使う者のことだろうと見当を立てて頷いた。ルノアも頷き返すと、掌に瞳の色と同じ色の光を纏わせた。美しい宵の空の色だ。その腕で触れると、血塗れの聖杖は形を崩して、風にさらわれるように消えた。傷を塞ぐものがなくなってしまえば、血が。しかしランテの懸念は杞憂に終わった。どうやら新しい血は流れてこないみたいだ。それどころか足や肩の傷の血も治ってはいないが止血されたように見える。一体何をしたのか。
「……今、【幻惑の呪】をかけました。あなたの意識が続く限り、夜明けまでなら命を保つことが出来るでしょう。致命傷になりかねない怪我だけれど、治療が間に合えば助かるかもしれない。だからもう少し耐えて」
穏やかな声でセトに語りかけて、ルノアは立ち上がった。石となった人に埋め尽くされた広場を一周見渡した後、ランテの方を向く。しかしその瞳は遠い場所にあって、しかとランテを見ることはしない。
「過ぎた光は人を壊してしまう。光と闇は対で人を生かす。どうして分からないのかしらね」
憂いを含んだ眼差しを残して、ルノアは広場の中央まで進み出た。すれ違いざまに、彼女のワンピースの広がった袖が腕に触れた。その感触の余韻に切なさを覚えた。喉の奥に何かが閊えたような痛みを感じる。ルノアはゆっくりと片腕を天へ翳した。そこから夜の闇が降りてきて、彼女を中心として水面に風紋を描くようにして広がった。闇は闇でも、優しい闇だ。穏やかでなだらかな闇。ほのかな温かささえ感じる。厳格な静寂がふっと弱まり、物言わぬ石へと変えられた兵士たちが一人、また一人と命を取り戻す。各々何が起こったのかと戸惑いの視線を上下左右に振っている。広場の中央に視線を戻すと、ルノアの姿は既になかった。また消えてしまった。腕には滑らかな布の記憶がいまだ残っている。切なさの訳が分からない。分からないから、余計に切ない。
「セト副長!」
傍にいた兵士の一人がセトに気付いて声を上げながら駆け寄ると、全員の視線が集まってきた。それぞれ口々に彼の名を呼ぶ。答えの代わりにセトはゆっくり瞳だけ動かして、周囲一帯を見た。皆が元に戻ったことを確認したのかもしれない。しかと見えているかは分からないけれども、まだどうにか意識を保っているようだ。こういう状況下で意識を失うことは死に直結するのを、彼は知っているのだろう。
「どいてっ!」
戦士たちの群れを乱暴にかき分けて近づいて来る者がいた。ユウラだ。彼女は血塗れのセトを見つけると、目を見張って息を飲んだ。握っていた槍が滑り落ちる。そのまま駆け寄ってきた。
「セト、セト!」
呼ぶ声はほぼ悲鳴だった。連呼しながら、彼女はセトのすぐ傍に座り込む。右足の包帯に新しい血が滲んだが、そんなことは気にも止めずに。
「ユウラ、癒し手を呼んでこないといけない。支部に行けばいい?」
「そう……そうね、ならあたしが」
混乱しきった様子で立ち上がったユウラを、ランテは急いで止めた。
「ユウラは足を怪我してる。オレが行ってくるよ。ユウラはセトを」
ユウラはしばし悩み、ランテをじっと見た後、頷いた。一言、言い添える。
「頼むわ」
ランテも頷き返した。道は、来た道を帰ればいい。大丈夫だ。
「セト、ランテがもうすぐマーイを呼んできてくれる。あと少しよ。頑張って。……死んだら許さないから」
振り返る間際に、ユウラがセトの手を取って励ますように優しく語り掛けたのを見た。急がなくては。大きく息を吸ってから、ランテは再び支部を目指して駆け出した。
広場にはルノアの残した闇がまだ淡く残っていた。
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