【Ⅵ】-2 断罪者

 まただ。セトは大きく息を吸って、吐いた。先程ジェノを止めたときと同じだ。呪を使った後に、異様なまでの負荷が掛かる。きっと、この空気のせいなのだろう。言葉を探すならば、踏み入ることを禁じられた聖地に侵入したかのような、とでも言えばよいか。恐ろしいほどの清浄さの中に、確かな拒絶が棲んでいる。ここにただこうして立っているだけで狂ってしまいそうだ。ワグレでの記憶が蘇る。あの空気の濃度を高めたならば、こうなるのだろう。


「ここで呪を使うのはやめておいたほうが良い。光を宿らせない者は、精神を蝕まれる」


 ベイデルハルクが迫ってくる。敵が一つ歩を進めるだけで、天に全身を押さえつけられたような威圧感がのしかかってくる。それだけで、セトは膝を折りそうになった。堪えて、数歩後退する。動けない皆を巻き添えにするわけにはいかない。ほどよく離れたところで、右足を半歩踏み出して腰を落とした。いつどこから向かってこられても、対処できる自信がある構えだった。けれども今日の相手は、常日頃剣を交える者たちとは次元が違う。恐怖がないと言えば嘘になる。何度も死線を潜り抜けてきたが、こんなにも強く死を意識したのは初めてだった。天と地ほどの力の差を感じる。刃を交わした後、立っていられる気がまるでしない。


「死ぬと分かって、なぜ立ち向かう? 君を殺せば、私は次に君が背中に庇った彼を手にかける。君が死のうとも死なずとも結果は同じだ。それならば何故生の道を選ばない? 理解に苦しむが」


「正論です……が、オレはそういうの、すんなり納得できない性質たちなんで」


「そのような理由のために、命を捨てるか。やはり理解できない」


「でしょうね」


 虚勢を張って、敵が近づくたび高まる恐怖に気づかない振りをする。硬直しかける筋を、背に庇う者の存在を思うことで叱咤する。引くわけにはいかない。簡単にたおれるわけにもいかない。今日ここで死ぬとしても、最低限の役目を果たしてから死ななくては。セトは剣を握り締めた。手に馴染んだ剣に、励まされる気がした。


 大聖者が足を止めた。風に塵が舞い上がる。その距離は三歩だ。どう来る? 呪か、それとも長杖での打撃か。ランテはどのくらい逃げられただろう。なんでもいい、時間を稼ぐことが出来れば。


「集中しなさい。さもなければ、それと分からぬまま死を迎えることになる。わずかでも長く生きなさい。そうすれば、それだけ長く私の記憶に残ることとなろう」


 空気が締まった。張りつめた刹那の静寂。来る。背に氷塊が滑ったような戦慄を感じた。駄目だ、集中しろ。思考を閉ざしてすべての意識を戦いに委ねる。敵が消えた。何処に。背後だ。身を返し、剣を振り上げた。空気を裂いただけだ。速い。見失った。動揺する。次は何処に? また背後か。呪の気配がする。光が迸った。地面を蹴る。失策だ。浮いた身体に、敵の次の攻撃が狙いを定めている。【白光】。直撃なら待つのは死でしかない。何か手立てを。風を呼ぶ。苦肉の策。光と風がぶつかった。が、じきに光は風の守りを貫通する。焦げる服、焼ける肌、遅れての痛み。遥かな差を痛感する。くるりと一度身を返してから、セトは着地した。もう、息が苦しい。


「【風守】か。この威力、【大精霊】との契約かな? 中々の腕だ。純粋な呪使いとしてでもやっていけるほどではないか。癒しの呪に、風呪に、剣。多才なものだ」


「……それはどうも、ありがとうございます」


「だが、悪手ではあったな。よく間に合わせたが、呪での勝負は選ぶべきではなかろう。こちらは光呪、無論白女神との契約だ。術者自身の能力が互角だったとしても、【べるもの】側の能力差で分が悪い勝負になる。知らない訳ではないだろう?」


「ええ、もちろん」


 セトは剣を持ち上げ、構え直した。自分より速い敵とはずいぶん長い間戦っていなかった。それだけではない。呪の威力も発動のスピードも、人に可能な範疇を優に超えている。今ですら圧倒されているのに、ベイデルハルクは、まだ本気からは程遠いほどの力しか出していないはずだ。こちらがどう出るかを楽しみながら動いているのが分かる。まったく底の見えない強さに、臆する。まるで神と対峙しているかのような。時間を稼ぐつもりでいた自分が、いかに愚かであったかをセトは悟った。これでは、とても。振り払っても振り払っても、自分の死に様が、その予感が、追いかけてくる。


「私の力を知って、尚立ちはだかる君を称えよう。久方ぶりの勇士だ。逸材を失うことになるな。非常に惜しい」


 間近で金属のきらめきを捕らえた。悪寒が走る。反射的に剣を持ち上げた。ぶつかり合った銀の高鳴りが骨を揺らす。なんという力だ。敵は片腕だというのに、こちらは両腕で支えても押されている。敵の自由な左腕が持ち上がった。白い衣の豪奢な袖口が、ふわりと揺れている。指は眉間の位置で止まった。銀の指輪がはめられた長い人差し指の先に、光が灯る。焦燥、飛びのく、浮遊感。


 すぐ傍で炸裂した光の熱を感じる。地面が縦に大きく振動して、瓦礫が豪快に散らばった。間一髪だった。助かりはしたが、またもや敵の姿を見失った。流れてきた血が左目の視界を赤く奪う。距離を取らなければならない。しかし、左膝が地面に縛り付けられたように離れない。セトが目を落とすと、血染めになった裾がぱっくりと割れていて、そこから切り裂かれた脹脛ふくらはぎが覗いていた。筋を寸断されている。いつの間に。負傷を自覚した瞬間、痛覚が覚醒した。歯を噛み締めることで堪える。このままでは的同然だ、立ち上がらなければ。剣を支えにと突き立てた瞬間、右肩を光線が刺し貫いた。既に狙われていた。体勢を崩す。地面が近づいてきた。最初に身体が、次に剣が横たわった。虚しい音が虚空に響き渡る。穏やかに微笑むベイデルハルクを、ただ仰いだ。そうすることしか最早できなかった。その右手は爛々と輝き、処刑執行の準備を終えている。


「そろそろ諦めるといい。いたぶる趣味はないのでな」


 光が弾けた。地面を転がる。呪の被弾は辛うじて避けることができたが、吹き飛ばされた先で背中を強打した。咳き込みながら腕一つで上半身だけを起こす。右腕と左足はすっかり動かない。剣も指を離れている。まず足を殺し、次に腕を奪う。あまりに鮮やかな制圧だった。


 腕を伝った血が白い舗装を汚していた。そこに影が落ちてくる。見上げた。月光を背に受けて立つその姿に、いっそ神々しさを感じる。今度こそ、セトは終わりを悟った。ランテはどこまで戻れただろう。


「よく戦った」


 ベイデルハルクは長杖を捧げ持つようにかざした。真っ直ぐ伸びた柄に、優美な聖文字が刻まれている。白女神への祈りの言霊だ。生ける者全てを祝福し、死せる者全てを導く、慈愛に満ちた神を讃える一節らしい。この美しい祈りの杖に、一体いくつの命が奪われてきたのだろう。そしてこれからどれだけの血が吸われるのだろう。杖は黙している。黙して、ただ輝く。闇を駆逐する陽の如く燦然と。


「戦地に散る勇士に、慈悲深き白女神のお導きを」


 世界が色と音とを失った。声を上げることすら敵わない。銀の聖杖がじとりと濡れる。血は流れ出すのに、痛みはずっと遠い。眼前に白い月が浮かび上がっている。それで自分が倒れたことを知った。月は満ちているはずなのに、楕円に歪んで見えた。咳き込むとまた血が零れる。息が出来ない、身体が石にでもなったようだ。蔓延はびこる黒に歪な形の月が溶けていく、呑まれていく。その下で佇む白衣の断罪者が踵を返し、一歩また一歩と遠ざかっていく。次の裁きを与えようとして。まだ、行かせる訳には。延ばした腕は衣に少しのにじみを残しただけで、あえなく力尽きた。行かせる、訳には。全て、蝕まれていく。混ざって滲んで埋もれて、着実に、無に近づいていく。


 迫る死に負けていく世界の中、その姿を確かに見た。


「ラン……テ……?」






 ランテは、腕を掴んでいた。艶やかな白絹から覗く腕を。心には憤怒が満ちる。満ちて溢れて止め処なく流れ出す。指に力がみなぎった。このまま、手首をくびり切ってやろうかと思う。


「ラン……テ……?」


 明確な音を伴わない言葉だった。セトは今、ランテの足元に倒れている。血の海は、ランテの両足を飲み込んでなお広がっていく。腹部を貫く聖杖は冷酷に煌めいていて。


「今のは【光速】だな? 君は光呪使いか。なるほど、得心した」


 かなりの力で握り込んでいるはずなのに、ベイデルハルクは顔色一つ変えない。むしろ興味深いものを見つけたと言いたげな、好奇の目をランテに向けてくる。また、腹が煮えた。


「馬鹿……逃げ、ろ……って…………言っ……」


 辛うじて耳に届く細い細いセトの声は、最後まで続かなかった。血が聖杖を伝い落ちて海は広がっていく。助けたい。けれどもランテはその術を持たない。


「どうすれば、どうすればいい?」


 ランテは思わず声に出して問うた。誰でもいい、誰か。助けを求めて視線を振るが、無論誰もいない。混乱と焦燥が降り積もる。ベイデルハルクがつと目を流して、何度も咳き込みながら浅く息を繋ぐセトを見、同情するかのような表情を浮かべた。


「可哀想に。下手に避けようとしなければ、すぐに楽になれていたものを。どれ、もう一撃」


「やめろっ!」


 叫びが反響する。跳ね返ってくる自分の叫びを聞きながら、ランテは剣を抜き放った。力任せに大きく振る。反動で肩が抜けそうになった。滑るように後退して、ベイデルハルクは何やら笑んでいる。こんなことをしていてもセトは助からない。分かっているのに止まらない。目の前に立つ男が憎くて憎くてたまらない。湧き上がる憎悪が、ランテに何度も何度も剣を振るわせる。渾身の力で切り上げ、振り下ろし、薙ぐ。一度も当たらない。敵は手を延ばせば届くほど近くにいるのに、かすりすらしない。己の無力が悔しく、そして苛立たしくて、また剣を振る。振って、振って、振って、振って、振って。


「ふむ。怒りで我を忘れたか、それとも技が未熟なのか、どちらか。そんな振り方では当たらぬぞ」


「うるさい!」


 身体の回転を乗せた一閃も、やはりたやすく避けられる。足を引いた先でベイデルハルクは左手を突き出した。掌の光の塊が一直線に走り、ランテの胸元に飛び込んでくる。衝撃。目の前が闇一色に変わり、吹き飛ばされて腰から落下した。まだだ。立ち上がろうと突いた手に生温い温度が触れる。顔の前まで持ち上げると、手首を伝って血が垂れた。セトの傍まで戻されたらしい。とんでもない出血量だ。気が動転した。どうすれば、どうすれば。後ろから裾を引っ張られる。振り向くと、おそらくもうほとんど見えていないだろう目で、セトがランテを見上げていた。


「セト……。どうしよう。これ抜いた方が……いや、駄目だ、抜いたら血が」


 セトは微かに首を横に振った。何かを言おうとして、声が出ず、代わりに目線を大通りの方へ遣った。再びランテに目を戻して、口を動かす。に、げ、ろ。逃げろ。


「なら、セトも一緒に」


 肩を貸そうと延ばした手の袖を掴まれて阻まれる。今度はランテが首を振った。


「できない。そんなことは絶対にできない。一緒に逃げよう。オレが必ず支部まで連れて行くから」


 ほんの少し笑んで、セトはやはり同じ返事を繰り返す。ランテの袖を掴んでいた指が離された。指の形に血のあとが滲んでいる。ゆっくり動かされた口は、行けと、そう言った。ランテは指を握りこんだ。できるはずがない。担いででも連れて行く。決めて再び腕を延ばしたとき、背後に感じた人の気配に振り返った。ベイデルハルクがこちらを見下ろしている。


「まだ息があったか。瀕死の己を顧みず部下を思うその心には感心するが、いささかしぶとすぎる。勇士は美しく散ってこそ。そろそろ死んでおきなさい」


 両手を胸の前に構えて、ベイデルハルクは光を集め始めた。両掌の合間に集う光が球体を成す。やがて膨らんだそれは、まるで太陽をそのまま小さくしたかのような強い熱を放った。くらむ目を必死に開きながら、ランテはセトとベイデルハルクとの間に立ちはだかる。


「共に死すか? それもよかろう」


 小さな太陽が放たれる。ごく至近距離で発射されたそれが手元に届くまでの時間が、ランテにはひどくゆっくりと感じられた。その間に、無意識に剣を振りかぶっていた。眩い光の球体を真っ二つにするように振り下ろす。ひゅっと風が唸った。剣に斬られた光の弾丸は無形ゆえ二つに割れることはなかったが、跳ね返されて術者に牙を剥いた。自分の放った呪を胸で受け止めることとなったベイデルハルクは、弾みで遠くまで飛ばされる。炸裂した光が目に痛い。


 何でこんなことが起こったのか、全く分からない。けれども時間が出来た。今の間にセトを連れて逃げよう。しかし、敵はすぐに立ち直った。落ちてきた影に、振り返る。佇んだベイデルハルクの胸元の痛んだ布から白い煙が上がっていた。その表情から感情を読み取ることは出来ない。彼は彫像のように佇んで、ランテを見下ろしていた。


「君は何をした?」


 口の筋肉だけを動かして、ベイデルハルクがそう尋ねた。凝り固まった表情が余計に恐怖を煽る。だが絶対に動くことは出来ない。握った剣を持ち上げようとすると、腕を掴まれた。ベイデルハルクの指は氷のように冷たい。その指に力が入った。白い関節が浮きあがる。すさまじい力だ。剣がランテの腕を離れた。落ちた剣が煉瓦れんがにぶつかった音は、静かな町によく響いた。


「今、昔会った男のことを思い出したよ。何百年も前の話だがね。もう顔も思い出せないが……なぜかな、君は彼によく似ていると感じる」


 瞬きの後、目には悪意が宿った。強い強い怒りと憎しみとがない交ぜになった悪意。視線が今にも鋭い刃と代わって、肉の内へ食い込んできそうだ。掴まれた腕から全身が緩やかに凍っていく気さえした。


「私は彼が憎くて憎くて堪らなかった。だから殺した。しかしね、彼の屍を見ても憎しみは癒えなかった。それは何年経っても癒えることはなく、今でもこの胸をさいなみ続けている。私はきっと彼を」


 じわりと滲むように広がった笑みに、戦慄する。狂気を具現したかのような笑みだ。目を見開き、全ての歯を見せてベイデルハルクは高らかに言った。


「永遠に殺し続けたいのだ」


 瞬間、身体が浮く。世界が反転して空が下に見えた。直後、ランテは背から民家へ突っ込んだ。激痛。骨を伝って痛みが全身を駆け巡る。視界がくらくら揺れた。滲んだ黒い斑点が目の邪魔をする。頭を抱えながら起き上がると、ベイデルハルクは既に目の前まで迫っていた。


「死ぬがいい」


 ベイデルハルクが右腕を天に突き上げる。光の一線が天に昇って。ランテが死を意識したそのとき、声が、ひどく懐かしい声が、凛と響いた。


「やめなさい、ベイデルハルク」

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