【Ⅵ】-1 憎悪

 風が駆けていった方角を追う。無論、セトの姿はもう見えない。何故か落ち着かない。妙な胸騒ぎがした。頭で警鐘が鳴っている。このままここに居てはいけない。行かなくては。思ったのではなく、分かった。疲れていたはずの足が、脳の指令を待たずして動き出す。建物を回りこんで、門へ。紫の空のあちこちが赤く染まっている。火の色を映して。人の悲鳴と逃げ惑う足音、そして燃え上がる火の音に、町は平穏を失っていく。


 支部の敷地内に白軍の姿は少ない。出払っているのだろう。ハリアルも見当たらなかった。まばらに立つ白い鎧たちと、避難してきたのだろう町人たちの間を縫って、ランテはただ足を前へ前へと動かす。途中さっき案内してくれた男に呼ばれたが、止まる暇はない。道は血痕を辿らずとも分かった。理由なんて今はどうだっていい。この道を、と言う声に従って進んでいく。


 ランテの進む道は、どんどん町の中心部に向かっているようだった。もうかなり走ったはずなのに、疲労を忘れた足は一切スピードを緩めずに動く。不思議なことに息も上がらなかった。町に人通りはない。皆、家の戸も窓も閉め切って閉じこもっている。角を曲がって大通りに出た。道の先は何やら広場のようになっていて、金属のぶつかる音と人の叫ぶ声が響いてくる。戦地となっているようだ。


 ランテの足も、そこを目的地としていたらしい。辿り着くと足は止まった。今駆けてきた道も含めて、三本の大きな道が広場には繋がっている。そのどれもから、北支部の軍勢が押し寄せていた。広場の中央部分には球形の白い膜が張られていて、その中心でジェノが背を伸ばして立っていた。神妙な面持ちで、やはり左肩に触れている。その彼を守るように五人の戦士が佇んでいた。いずれも白一色の衣を身に着けている。深く被ったフードに顔を隠しているが、時折彼らが手を上げると雷鳴が轟いたり炎が生まれたりしているから、呪使いたちなのだろう。北の軍勢と刃を合わせて戦っているのは、膜の外側にいる数十の兵たちだ。中央にとっては多勢に無勢で、既にかなりの数の兵が倒れている。戦況は圧倒的に北に有利に見えたが、どうして中央軍はわざわざこんな開けた地で戦っているのだろう。少数である弱点を晒す戦い方ではないか。


「何であんたがここに居るのよ?」


 戦の音を割って耳に飛び込んできた声に、ランテは顔を上げた。傍にユウラが座り込んでいる。気づかなかった。足に怪我をしているようだ。右の大腿、裂傷らしい。彼女は茶色い皮のポーチを物色して、中から包帯を取り出した。傷口に巻きつけ始める。慣れた手つきだ。真新しい白に血が滲んでいく。傷口はかなり深そうに見える。


「大丈夫?」


「心配しなくてもイッチェは片付けたわ。だけど最後に一撃もらっちゃってね。何ともないからここへ駆けつけたんだけど、セトが下がれってうるさいから。でも……よし、これでいいわ」


 包帯を結び終えて、ユウラが槍を杖代わりにして立ち上がった。右足には血の筋が残っている。数歩戦地に近づいてから、彼女はランテを振り返った。


「あんたは居ても足手まといにしかならないんだから、大人しく支部に戻ってなさい。ここ、敵の武器は届かなくても呪は飛んでくる。今はまだ結界を破れてないからこの程度で済んでるけど、あれを破ったら飛んでくる呪の数は倍増するわ。死ぬ前に帰ってなさいよ」


 不機嫌そうな顔で親切な言葉を残し、戦線へ戻っていったユウラを見送る。わずかに右足を引きずっていた。彼女の言うとおりランテがここに居ても、足手まといにしかならない。それでもここを去ってはならないという声が、ランテを留める。


 巨大な椀型の白い膜が、大きく揺らいだ。さっきユウラが結界と呼んでいたのはきっとあれのことだ。結界はやがて歪んで形を崩し、煙に変わるとゆらりと消えた。結界の中に居た呪使いたちが騒ぎ出す。ただ一人、ジェノを除いて。さっきからずっと俯き加減で口を動かし続けているが、何をしているのか。


 守られていた領域に刃を手にした北の軍が傾れ込んだ。その瞬間を待っていたように空気が熱を帯びる。罠だ。彼らの行く手に火柱が上がった。天を貫くように伸びた三本の赤い灼熱の塔に、巻き込まれた白い鎧たちが吹き飛ばされる。舞い落ちた火の粉が、ランテの左足の近くに落ちて燃え尽きた。鎧は耳を射るような音を立てて墜落する。兵士の手を離れた剣が、くるくると回転しながら放物線を描いた。


「呪に免疫がない奴は下がってろ!」


 セトの声だ。人が多くて姿は見えないが、ここに居るらしい。と、急に足元が光った。ランテは慌てて飛び退く。これは一体何だろう。見渡すと、広場全体に円形の光が何重にも広がっていた。最初は線に見えたがどうやら違う。文字だ。白軍たちが付ける紋章、白の紋章だったか、あれと同じ種類の文字に見える。顔を正面に戻すと、ジェノが天を仰いで両腕を広げていた。その口元は満足気に笑んでいる上、よく見れば全身に光をまとっている。護衛のように周りにいた者たちはもうほとんど取り押さえられるか、倒れているというのに、それには一瞥すらくれず天上だけを見つめ続ける。何かを待つように。


 斬り掛かっていった白軍の兵士が、ジェノに触れる寸前で弾き飛んだ。続いた兵士も同様に。ジェノが纏う光によって阻まれているらしい。光の鎧だ。そうこうするうち、ランテの足元の光の陣は輝きを増し、ジェノの頭上には白い靄のようなものが集まっていく。それは徐々に膨らんで、大人三人分ほどの大きさになると成長を止めた。


 瞬間、空気が温度を失った。冴え冴えと冷え渡った空間の中、そこにいる者は動くことを、否、呼吸をすることさえ忘れた。ただ白い靄に目を奪われる。魅せられたように。靄がゆらりと風に揺れた。内側から光が差す。雲間から覗いた斜光のよう。ふいに、そこから何かが現れた。白く輝く獣の腕だった。艶やかで滑らかな毛並み。そこからひとつ、すらりと伸びた爪は白銀。それは自ら光を放ちながら、宵闇に覆われる世界に降り立とうとしている。ひどく優美であるけれども、ひどく恐ろしい。震えが全身に走った。あれが完全に姿を現す前に、止めなくてはならない。分かる。止めなければ、壊れる。全部壊れてしまう。でも、どうすれば? ここからでは間に合わない。届かない。腕がもう一本現れようとしている。艶めく長い爪が見えてきた。誰か。声が出ない。でも。ジェノのすぐ近くに、その姿を見つける。


「セトっ!」


 振り絞った声は、張り詰めた空気を割って、よく響いた。はっとしたセトが一瞬ランテに目を向け、そしてジェノを見た。彼の瞳に光が戻る。その左腕に、風が集った。


 裂けた白布の切れ端と一緒に、血の雫が舞った。両腕を広げたままジェノが両膝を突いてくずおれる。途端、白い獣の腕がすうっと透けて、消え入った。それでも、誰も何も言わず、動きもしない。まるで全ての生者が息絶えたかのような、痛ましい沈黙が続いた。






 いくら待てど、ランテとセト以外には誰も動かない。みんな石と化したように立ち竦み続ける。この奇妙で空恐ろしい光景の中に、一人取り残されることを厭って、ランテはセトのところへ急いだ。途中ユウラを追い抜いたが、彼女もやはり微動だにしない。風が吹いても髪一本として動かないのだ。どうして。流れる汗が、ひどく冷たい。


 セトはずいぶん息を乱していた。片膝を突いて、肩を上下させている。駆け寄って声を掛けると、セトはしゃがみこんだままランテを見上げた。


「どうかした?」


「いや……何か……ランテは平気なのか?」


「何が?」


「……そっか」


 ランテは全く訳が分からなかったが、セトは自己解決したらしい。そのまま手を突いて立ち上がると、周囲をぐるりと見渡した。皆、なおも動かない。ある者は武器を構えて、ある者は倒れ伏せた状態で、その一瞬を維持したまままるで石像のごとく。


「みんな、どうしちゃったんだろう?」


 セトは次に建物を見上げた。三階建ての最上階、手前側に目が引きつけられる。閉められた窓の向こうでカーテンが揺れていたのだ。人がいたのか。


「こうなったのは、この広場にいた者たちだけか、もしくは外に居た者だけみたいだな」


 いまだ整わない呼吸の中、いつもより言葉を短く切りながらセトが考察する。ランテも頭を働かせた。しかし、出てくるのは疑問ばかりだ。


「なら、どうしてオレたちは無事で済んだんだろ?」


 聞いてみた途端、首を振られた。


「オレたちは、じゃない。オレは、だ。ランテ。お前が呼んでくれなかったら、オレもこうなってた」


「何で?」


「勘……になるか。でも、たぶん間違ってない」


 即答だったわりには根拠に乏しい気もするが、セトはほとんど確信している風だったので、ランテもとりあえずそう信じておくことにした。しかし、だとすれば、なぜ自分だけが? 謎は深まるばかりだ。


「とにかく、これを何とかしないと。白獣の仕業だろうけど、どうやったら解けるんだ?」


 自問して、セトは足元のジェノを見下ろした。目を最大限に広げた驚愕の表情で、白獣を呼び出した張本人である彼でさえもまた、硬直している。風の呪に右肩から左腰辺りまで刻まれた切り傷は、血を流しかけた状態で時間が止められている。傷には長さがあったが、深さはさほどではないようだ。白獣の仕掛けた石化の呪いが解ければ、彼もまた命を取り戻すことができるだろう。


 何か力になれないかとランテも手近な白軍に歩み寄ったとき、再び、あの不穏な予感が胸中を満たした。何か恐れるべき存在が、すぐ傍まで近づいている。身の毛のよだつような悪寒が走った。


 刹那、地面が淡く光り始めた。浮かび上がったのは、広場一杯に広がる円の紋だ。そこへ新たに光の文字が刻まれていく。円を外側から囲うように文字は増殖し、すさまじい速度で紋章は複雑化していく。全ての文字が刻まれると紋の中央に光が集い始めた。さっきの白獣召喚のときとは違って濃密な光だ。その光の奥には人型の影が現れる。目にした瞬間、ランテの心を支配したのは畏怖だった。否、それだけではない。畏怖と、そして憎悪。理由は分からない。しかし湧き出る憎しみが激しく胸を焼く。ランテは胸元の布を握りしめた。


 纏っていた光の衣をするりと脱ぐように、足が現れる。次は腰、胸、顔――そうして出てきた男は、暗闇の坐す夜の世界に降り立ってもなお、光を従わせていた。長身、端正過ぎるほどの顔立ちが、恐ろしさをさらに掻き立てる。まだ三十路手前ほどの年の外見であるにもかかわらず、ずしりとした威圧感を放っている。彼は現れただけで場の空気を一新させてしまった。白獣と同じように、いや、白獣の数百倍もの力で。光と同色の瞳は見るものを射抜くような鋭さを持っている。オレは、この男を知っている。頭のどこかに答えがある気がしたけれど、手が届かない。もどかしい。


「ベイデルハルク【大聖者】……あなたのようなお方が、いかなる御用でおでましに?」


 取り繕った余裕だと分かった。中には警戒と緊張と恐怖が含まれている。セトが怖じている。半歩下げられた左足がその証だ。その事実はランテが目の前に立つ男に抱く畏怖の念を、さらに強めた。光色の瞳による視線がセトを貫く。セトは利き手を剣の柄に近づけた。彼らしくない、ひどく緩慢とした動きだ。


「ほう。この場にいてまだ意識を保っているか。感心なことだ、セト白軍北支部副長。ところで、そこの青年は何者かな?」


 目が合う。動けなくなる。それはもう恐れでもなく、憎しみでもなく。ランテはルノアに会ったときのことを思い出した。感情の種類は違ったけれど、感覚の種類は同じだ。今日ここでこの人物とこうして向かい合うことは、あらかじめ定められていたような、そんな気がした。直感よりも、確信に近いような、そんな感覚がある。


「……ただの新入りです。直々にいらっしゃったということは、あなたがこの計画を先導されていたんですか」


 セトが、ベイデルハルクと呼んだ男の視線を遮るように足を引いた。ランテを守るように。そして。


 逃げろ、ランテ。


 ランテだけに聞こえるよう抑制された小さな声だったが、ランテに背を向けたままでセトは確かにそう言った。この男は、そんなにも恐ろしい存在なのか。でも、と心中で呟いて首を振る。そんなことはできない。この男は今までの者たちとは違いすぎる。きっと、セトでも遥かに敵わない。ランテがこのまま逃げれば、セトはきっとランテが逃げ切るまでの時間を稼ごうとするだろう。自分の身は顧みず。そんなことをさせるわけにはいかない。ランテは動かなかった。


「白獣に支配されたこの気の中で、顔色一つ変えず立っている者がただの新人とは思えんな。興味深い。セト副長、君は立っているのがやっとであろう?」


「オレの質問に答えてください」


 ベイデルハルクはおもむろに笑みを浮かべた。ただ笑っているだけなのに、ものすごい重量を感じる。セトの左足がわずかに揺れた。ベイデルハルクは手に持っている長杖を寝かせて、左手を二度叩く。


「君は、若いがそう愚かではないと聞く。今ここでどうすることが最も正しい判断か、分かるだろう?」


 ランテの頭の中では、頭痛を引き起こしそうなほどけたたましい警鐘が鳴っている。そのとき、脳裏に悪夢のような光景が広がった。血の色。血の海。その中に皆が沈んでいる。セトも、ユウラも、テイトも、ハリアルも、ノタナも、ダーフも、皆。幻覚にしては、やけに生々しくて。駄目だ、このままでは。焦りが募る。


 セトは答える前に、剣を鞘から抜いた。ゆっくりと。そして、言う。


「考えるまでもありません」


「駄目だ、セト!」


 どうしたらいいのか分からない。だけど、戦ってはいけない。それだけははっきりと分かった。ベイデルハルクが、今度は声を出して笑う。低く染み渡るように響く感情を持たない笑い声は、悍ましさを感じさせた。


「顔はよく似ているのに、中身は母親と全く違うのだな。そう言えば君を祭り上げて利用しようと企む者がいたが、神の申し子とは何たる皮肉。その正体は許しがたい罪に塗れて生まれた子であるというのに」


 ぎり、と歯を噛み締めるその音がランテの場所にまで届いた。だが、それでもセトはその場を動かなかった。堪えた剣先が、ゆらりと揺れた。


「挑発には乗らない、か。ふむ、このまま殺してしまうのは惜しいが……そこを退く気は?」


「ご覧の通り」


「残念だ」


 ベイデルハルクが前進を始める。一歩一歩ゆっくりと間を詰めてくる。そのたび地面が揺れるかのような錯覚がした。身構えて、敵からは目を離さず、セトがもう一度、今度ははっきりと言う。


「ランテ、行け」


 ランテも、もう一度首を振った。


「でも、あいつが狙ってるのはオレだ。オレが残ればセトは無事に」


「いいから行け。何があっても、何を聞いても、絶対に振り返るな。支部までひたすら走れ。いいな?」


 有無は言わせない。初めて聞く、反論を受け付けない口調だった。しかし、それならこちらだって同じだ。


「そんなことはできない。逃げるならセトも一緒に――」


 身体が宙に浮く感覚に、ランテは言葉を止めた。見れば本当に中空に浮いていた。足の離れた地面から、ふわりとつむじ風が吹いてくる。悟って、ランテは顔を上げた。振り返っていたセトと視線がぶつかる。初対面のランテを安心させた、あの親しみやすい笑みを見た。


「受身は自分で取れよ?」


 セトの声が耳に届いたその瞬間、一気に強まった風はランテの身体を押し流した。セトの姿がどんどん遠くなる。腕を伸ばせど、もう遥かに届かない場所へ。彼を呼んだその声も、風に呑まれて。


 そうして降り立った場所は大通りの端だった。手は届かず、すぐに近づくこともできない、その残酷な場所で。ランテは悪夢の再現を見た。

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