【Ⅳ】-2 救援
夢中で走ったので、男が追ってこなかったらしいことに気付いたのはしばらく後になってからだった。路地裏に入り込んでしまったらしく、ランテは焦った。来た道を戻ろうと踵を返したそのとき、女の声が耳に入ってきて思わず立ち止まる。
「え、だって、そんなこといきなり言われても。もう夜よ?」
潜めるような声が気になった。踵を返し直して耳をそばだてながら、ランテは声の出所を探った。路地の奥、道を折れたその先のようだ。忍び足で近づく。揺れて音を立てた剣をそっと押さえて黙らせた。
「頼む。言うことを聞いてくれ。詳しいことは言えない。言ったらお前が」
今度の声は男だ。注意深い小声で、焦ったような早口でもある。何か尋常ならざる雰囲気をランテは感じた。女もそれを感じ取ったのか、声が動揺した。
「何? 何なの? 急に帰ってきたと思ったらこんな話」
「ほら、これ。ここに金貨三十枚ある。これを使って、妹を連れて北の方へ逃げるんだ。どこかの村でしばらく過ごしたら、今度は中央へ向かえ。その後は、オレの親を頼ってくれたらいい。いいか、即出発するんだ。夜には——」
ランテは息を呑んだ。これは、もしかしたらもしかするかもしれない。身を乗り出した、そのときだった。
「ぐっ」
男の呻き声がして、何か重いものが地面とぶつかった音がした。次いで、耳をつんざくような女の悲鳴が上がる。
「いやあああ! キリス! キリスっ」
一体何が? 出て行ってもいいのだろうか。一瞬の躊躇のあと、ランテは剣の柄に手をやって足を踏み出した。矢に脇腹を貫かれて膝を突き俯く男と、彼に縋りつくようにして泣く女の姿がまず見える。そして、その二人の奥にあった姿にランテは驚愕した。足を動かしかけた不自然な状態のままで固まる。
「だから嫌なんだ。洗礼を受けていない部下を持つのは」
矢を番えた弓を構える、イッチェの姿がそこにはあった。彼は無表情で弓の弦を引く。
「イッ……チェさん」
顔を上げて肩越しに後ろを見て、重傷を負った男はその名を呼んだ。苦痛を堪える声は呼吸に紛れてしまうくらいに、細い。イッチェはあらゆる感情を排除した目で男と女を順番に凝視してから、ランテに目を移した。
「お前、確か」
鋭い視線を飛ばされて、思わず後ずさりしてしまう。しかし、二歩で踏みとどまったランテは、剣の柄を握りこんで身構えた。背中を見せて逃げれば、きっと貫かれてしまう。イッチェの弓には矢が番えられているのだ。しなった弓幹、一杯に引かれた弦、そして尖った鏃は鈍く輝いている。矢はいつ放たれてもおかしくない。頭の中に負傷したテイトの姿が浮かんだ。戦慄する。
「テイトに怪我をさせたのは」
「オレだ」
眉ひとつ動かさず、イッチェはランテの問いに答えた。竦みそうな足を気力で立たせて、ランテは彼と対峙する。負傷した男——女はキリスと呼んでいたか——が、ランテを見つけると、女の両肩を押さえゆっくりと己の身体から引き離した。
「お前……頼みが……ある。レナを……彼女を……」
レナは頬を涙でぐっしょりと濡らし、それでも首を激しく振った。絶対に動かない。振り返った目はランテにそう言った。ランテは短く深呼吸して、剣を抜いた。途端、右手に負荷がかかる。重い。でも、やらなくては。
「いえ、あなたこそ、その人を連れて支部に。途中、見張りの白軍がたくさんいるはずです。彼らに助けを求めてください」
自分の声かと疑いたくなるくらいに、頼りない声だった。それでも、伝えなければならないことは伝えた。聞いて、キリスは目を見開き、レナは慌てて彼の腕を己の肩に回した。懸命に立ち上がり、よろよろと歩き出した二人をイッチェが冷めた目で追っている。しかし矢の切っ先はぴたりとランテを狙っていた。緊張に、胃がよじれるような痛みが走る。両手で構えた剣の先が、小刻みに揺れている。耳は遠くで鳴る鎧の音を拾った。白軍が駆けつけてくる。あと少し。少しだけ耐えられれば。
「構えてるくせに隙だらけだな。戦えるのか?」
「た、戦える」
震える声が情けない。剣先が揺れに揺れた。戦える、戦うんだ。暗示をかけるように、自分に言い聞かせる。イッチェが鼻で笑ってから、もう一度ゆっくり弦を引いて、そして。放たれた一矢は一直線にランテに向かってきた。矢は唸る。空気を裂いて。避けなくては、避けなくては。足を動かすんだ。ようやく動いたランテの体は、すんでのところで矢をかわした。しかし。
「まるで話にならない」
背中の向こうで、嘲笑う声を聴く。イッチェの姿は元の位置から消えていた。悪寒。背後から凶刃が迫っているというのに、足はまるで動かない。死ぬかもしれない。眼裏に鮮紅色の予感が過ぎる。と、刹那、腰が勝手にくるりと回った。腕を掠めた短刀が、浅く皮膚を裂く。その痛みでランテは我に返った。足を引いてイッチェから距離をとる。腰が抜けそうになるが、耐える。大して動いていないのに呼吸はひどく荒れた。
「少しはやるのか?」
「待て!」
イッチェの声に被さって聞こえてきたのは、白軍たちの足音と鎧の音、そして声だ。駆けつけてくれたらしい。ランテを引っ張って後退させ、代わりに戦線に立った白い鎧の数は五だ。三人は槍、二人は剣を手にしている。足の力が抜けてしまいそうになったが、ランテは辛うじて持ちこたえた。イッチェの笑声が響く。
「何かと思えば雑魚ばかりか」
「嘗めるな!」
真ん中の白軍が、一番に飛び出した。槍で大きく薙いだが、空に半弧を描いただけで、掠りもしない。身を引いていたイッチェは次の瞬間、ぱっと間合いを詰めて短刀を振り下ろした。赤い斑点が、地面に勢いよく散った。遅れて、白い鎧が横たわる。
「このっ」
残る四人は一斉にかかっていったが、イッチェは二度短刀を振っただけで勝負を決した。一振りで二人ずつ。気づけば、なす術なく倒れた鎧が五つあった。白い鎧に赤い血は不気味なほどよく映えた。小さな呻き声が聞こえてくる。皆、まだ生きている。
手近な鎧を踏みつけて、イッチェが冷笑をランテに向けた。途端、ランテの体中から戦意が抜けた。垂らしていた剣を持ち上げる力はもう残っていない。
「邪魔をしないなら見逃してやろう。支部に伝えに行くがいい。中央が動き始めたと」
逃げてしまえるのなら、もちろん、逃げたい。しかし、目の前で倒れた五つの鎧がそれを阻む。ランテを助けに来てくれた彼らを見捨てて逃げるだなんて、そんなことはとてもできない。自分に彼らを助けられるかどうかは別として、だ。答えを返す代わりに、ランテは己を奮い立たせどうにか剣を持ち上げて、構え直した。それを確認すると、イッチェは短刀を染める血を払った。ぱたぱたと音を立てて、血が撒き散った。
「北には死にたがりが多いな」
かかってこいと言わんばかりに両腕を広げたイッチェに向かって、ランテは駆け出した。剣はどう振ればいいのか。夕方までした訓練のことなんて、もう何も覚えていやしない。がむしゃらに振りかぶって、そのまま振り下ろす。むろん当たるはずなどなく、舗装された地面に当たった剣が、かつんと虚しい音を立てた。イッチェはすぐ脇に立っている。その左手に握られた刃は、まだ赤く濁っていて。
もう駄目だと、今度こそ本当に観念して瞼を落としかけたそのとき、視界を横切ったのは夕日の赤より尚赤い紅だった。不協和音が響くと同時に、ランテは蹴り飛ばされていた。耳元で風が鳴る。そのままかなり飛ばされて、建物の壁に背中からぶつかった。痛い。それでも、助かった。助けてもらった。命の恩人の姿を仰ぎ見る。その姿に息を呑んだ。
「ろくに戦えもしないくせに」
肩を撫でるようにして赤い髪が揺れた。斜めに寝かせた槍は、暮れかけた陽の色に染まっている。受け止めた短刀を弾き返して、勝気だが優しい女戦士は、こうして再びランテの命を救った。
「ユウラ!」
「あんたがうるさいから、戻ってきちゃったじゃない。そしたらこれよ。どうなってるの?」
ランテに背中を見せたままユウラはそう言って、手にした槍をくるくると二回回転させた。構える。槍の構え方なんて少しも知らないランテでも、それが美しい構えであることが分かった。背筋を伸ばして、足を肩幅に開いて、腰を落とし、横一線に構えた槍の切っ先をわずかに下げて。十くらいの歩幅を取って下がったイッチェが、眉を顰める。
「戻ってきたのか」
「ただの偵察員かと思いきや、あんた何やってんの? 北に喧嘩売るなんて、中央はついに発狂した?」
ユウラは、彼女の後ろで倒れ伏した五つの鎧を振り返った。うち一人が顔を上げる。その目がふと緩んだ。安堵だと分かる。ユウラは彼に頷き返すとイッチェに視線を戻す。槍を握り直して。
「あたしが相手になるわ。慈悲なんて期待しないでよ」
ランテの場所からでは、ユウラの顔を見ることは出来ない。しかし沈むゆく日を真正面から受けて凛と立つその姿には、一片の脅えも怯みも見えない。イッチェの方はというと、先ほどまでの無表情とは打って変わって、明らかに煩わしそうな顔をしている。握った短刀にはまだ血が残っていて、青白い顔のテイトが再びランテの頭を過ぎった。自分は戦力にならないけれども、このままユウラ一人に任せて大丈夫だろうか。もし、テイトと同じようなことになったら。増援を呼ぶべきだろうか。
「そこの馬鹿! 何ぼさっと突っ立ってんの? さっさと支部に戻ってセトかマーイを呼んできて。支部長に報告もして来なさいよ」
一瞬だけユウラはランテに視線を寄越して、そう言い放った。隙を狙って襲い掛かってきたイッチェの短刀を槍の柄で華麗に捌いて、くるりと身体を反転させるついでに蹴り飛ばす。避けられず腹に一撃を受けたイッチェが、飛ばされて離れたところに膝を突いた。強い。あれほど強く見えたイッチェを圧倒する動きだ。これなら大丈夫だろうか。倒れている白軍たちがまた呻く。網膜に焼きつくほどに、血の赤は濃い。早く手当てをしなければ。ユウラの背中を見て、ランテは決めた。
「ごめん、ユウラ、ありがとう! 行って来る」
返事は返ってこなかったが、ランテは駆け出した。マーイというのはきっとあの神僕のことだろう。重傷の白軍たちのためにも、一刻も速く支部へ。そして出来るなら支部から増援を呼んでこよう。全ての力を足に結集させて、ランテは支部へと続く道を急いだ。
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