【Ⅳ】-1 酒場

 一軒目の酒場は、人通りの多い市街地からすぐの場所にあった。時は黄昏。ちょうど昨日の同じ頃、エルティに到着したときのことをランテは思い出した。色んな事が起こりすぎたせいか、その記憶は霧がかかったように霞んでしまっていて、とても前日のこととは思えないくらいに遠く感じる。


 酒場の入り口付近には見張りの白軍が二人いる。ハリアル支部長があらかじめ話を通していてくれたらしく、ランテに目配せをしてきた。頷き返してからランテは酒場の看板を見上げた。酒瓶の絵とジョッキが描かれただけのシンプルな看板だ。埃で薄く汚れているのは、年季が入っている証だろう。ランテは傾きかけた扉の前で一息深呼吸してから、取っ手に指をかけた。指先に力をこめて扉を開く。


 ジョッキが触れ合う音と女の高い笑い声が聞こえ、酒の匂いが鼻を突いた。店内の人間の視線が一挙にランテに集まる。店主と思しき年配の男性が、カウンターの奥から声をかけてきた。


「何人?」


「あ、一人です」


「空いてる席に座りな。注文は?」


 酒、はまずいだろう。酔ってしまったら支部の皆に合わせる顔がない。そもそもランテは自分が酒を飲める年なのかどうかも分からないのだ。ランテは頭を悩ませて、そして最も単純な答えに行き着いた。


「ホットミルクを」


 ノンアルコール、そしてほとんどの店にあるだろうメニューだ。店主は一瞬不満げな顔をしたが、無言でひとつ頷いた。了承してくれたのだろう。ほっとして、ランテはセトに言われたとおり最も扉に近い席に腰を下ろした。椅子は足の部分が擦り切れていてがたがた揺れたが、座り心地は悪くない。扉を背にする向きで座ったので、顔を上げれば店内が一望できた。それほど客は多くない。さっきまで皆ランテに注目していたが、早くも興味が失せたらしく、それぞれの世界に戻っている。ランテの左前の席に男女のカップルが一組、少し離れた席に男三人組が座り、カウンター席には三人がそれぞれ離れて腰掛け一人酒を楽しんでいる。それほど大きい店ではないから、一番遠いカウンター席の客の声も耳を澄ませば何とか拾えそうだ。最も、その三人が喋り出しそうな気配は皆目なかったが。


「だからさー、私は言ってんの。早くこの町からは離れた方がいいって」


 初っ端から、何やら耳を傾けていた方がよさそうな声が飛んできた。カップルの席からだ。もうかなり飲んだらしい女が、頬を真っ赤にしながら喋っている。ランテは聴覚に意識を集中した。


「あのね、いくら北は田舎だっていってもね、準都市は準都市よ。こんなところじゃ人目が多くて身を隠せたものじゃないわ。もっともっと北まで逃げないと。いい? 明日にでも発つのよ!」


 ランテは落胆して肩を落とした。借金取りからでも逃げているのだろうか。タイミングよく近づいてきた店主が、そっけない態度でテーブルにホットミルクを載せた。マグカップから湯気が立ち上っている。せっかくなので頂くことにした。一口啜ったとき、またテーブルに何かが載せられた。透明な液体――泡が浮いてるからおそらく酒だろう――の入ったジョッキだ。持ち主を見上げた。白髪交じりの男だ。


「兄ちゃん、酒は飲まねえのかい?」


「あ、いえ、今日は」


「ちょっと失礼するよ」


 ランテの答えを遮りながら言い、同じテーブルの向かいの席に、男は腰を下ろした。店の中を確認すると、さっき埋まっていたはずのカウンター席がひとつ空いていた。男はジョッキを飲み干すと店主に次の酒を要求し、そしてランテを指差して「こいつにも同じものを」と言い添えた。ランテは慌てた。


「いえ、結構です。今日はそんな気分じゃないので」


 男は喉を鳴らして笑う。


「硬いこと言うなよ。奢ってやるって言ってんだから。そんで、兄ちゃん。ちょっくら聞かせてほしいことがあるんだが、構わないかい?」


 こっちも知りたいことがあるから酒場に来たんだけど。そう言いたいのを我慢して、ランテは慎重に頷いた。


「何ですか?」


「兄ちゃん、今日の昼くらいだったかな、中央の白軍にお縄にされて引っ張られてったろ? なのに昼過ぎには、縄を解かれて北支部へ戻ってった。何があったのかって思ったわけよ」


 また店主が来て、男とランテの前にそれぞれジョッキをひとつずつ置いていった。やはり透明の液体で、ぶくぶく泡が舞っている。強い酒の匂いがした。無礼かもしれないが、飲まないでおこうとランテは決めた。


「答えなくてはいけませんか?」


 答えるのは面倒だし、説明の途中で喋ってはいけないことまで喋ってしまうかもしれない。第一ランテはここに喋りに来たのではなく、情報収集へ来たのだ。男は少し気分を害したようなそぶりを見せたが、すぐに笑顔を載せるとジョッキを持ち上げた。


「さあ、乾杯しようぜ」


 気が進まないまま、ランテもジョッキを持ち上げた。ジョッキを鳴らして口元へ寄せる。傾けて飲む振りはしたが、実際には一滴も飲みはしなかった。知ってか知らずか、男はにんまり笑って言った。


「酒をおごってもらったなら、礼として何か面白い話をしてくれねえとな?」


 こんな風に絡まれるのは苦手だ。ランテはちょっと考えて、聞き返すことにした。


「なら、オレが酒をおごれば、あなたも面白い話をしてくれますか?」


 ランテには、悪気は一切なかった。本当に純粋に尋ねただけだったのだが。男の頬が一気に上気する。どん、とテーブルに腕を突いた。激昂している。


「生意気なガキだな! 嘗めてんじゃねえよ! おめえは大人しく俺の質問に答えてりゃいいんだ」


 どうして怒鳴られなければならないのか、分からない。それでもここにこれ以上いても仕方ないだろうことは分かった。店主を始め、店内の者全員がランテと男に注目している。袋からそっと銅貨一枚を取り出して、ランテはテーブルの上に載せた。ホットミルク一杯の値段はこれより安いといいのだけれど。


「ごちそうさまでした」


 意外と美味しかったホットミルクを残していくのには後ろ髪が引かれる思いだったが、ひどい目に遭う前に逃げなくては。ランテはすばやく扉から外へ飛び出した。

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