【Ⅳ】-3 岐路
脇で久しぶりにジェノが動いた。頭を抱え、また震えている。
「おお……あの女を逃がしてしまうとは……。なんという失態! これでは中央に戻れぬ」
「しまったって思ったけど、こっちにとっちゃ好都合かもな。これであんたは中央に義理立てする必要がなくなったわけだ」
剣を納め、セトが戻ってくる。
「エルティに戻ってもらうからな。聞きたいことがたくさんある。最近の中央はおかしい。あんたぐらいになると色々知ってるんだろ?」
「北には戻らぬ!」
突如、ジェノが声を張り上げた。悲鳴に似た叫びだった。顔を赤くし、見開いた目を血走らせて、ジェノはやはり震えている。何かにひどく恐怖しているようだ。
「北には、エルティだけには、絶対に戻らぬ。尋問は受けよう。何でも話そう。しかし、エルティ以外の場所でだ。貴様も命が惜しくば、私を他の場所へ連れて行くのだ。エルティだけには、戻らぬ」
立ち止まったセトは、ジェノの両目を睨むように見据えた。問う。
「なぜそこまで拒む? 重罪人を護送中に、遠回りした理由と関係があるのか?」
今度は青ざめ、口を噤んで、ジェノは答えなかった。セトが溜息をつく。
「だんまりか。まあ、いいよ。吐かせる方法なんていくらでもあるし。……それで、ユウラ」
つと、セトが目を流す。縄の端を手にしたまま立ち尽くしていたユウラが、短く肩を上下させた。こちらも怯えているように、ランテには見えた。縄を落として、立ち尽くしたまま、ユウラは小さく答える。
「……何?」
「中央に行くだなんて馬鹿なこと、言い出したりしないよな?」
眉根を下げてユウラは俯いた。かかった髪の奥で、歯をかみ締めるのが見えた。そのまま、しばらくの沈黙があった。そして。
「あたしは中央に行く」
固い意志の感じられる、まっすぐな瞳だ。セトの方も真剣な表情をして、腕を組んだ。
「理由は?」
「セトには関係ない」
「オレが納得できる理由を言えないなら、やっぱり許可はやれないな。多少強引にでも北に戻ってもらうことになる」
「脅したって無駄よ! あたしは絶対に中央へ行く」
「だから、その理由を話せって」
言葉を詰めて、ユウラは目線を斜めに下ろした。長い長い沈黙。セトは根気強く待っている。ずいぶん経ってから、ユウラはか細い声で答えた。
「ユイカを……妹を、助けるの。強引に貴族に召し上げられたあの子を助けたいの。中央に行けば金貨五百枚用意してくれるって言うから、あたしは」
なんでもっと早く言わなかった、と小さく呟いてから、セトは静かな声で言った。
「前にも言ったが、もう少し待てないか? 中央に行ったらどうなるか、知らないわけじゃないんだろ。……【白の洗礼】を、受けたいのか?」
次のユウラの返答は速かった。迷いも躊躇もない。その決意の強固さを物語る速さだ。赤の瞳に彼女らしい光が戻る。
「あの子が助けられるなら、それでも構わないと思ってる」
「冷静になれよ、ユウラ。そんな風に助けられて妹が喜ぶとでも? お前が洗礼を受ければ、その子はひとり残されることになるんじゃないのか?」
セトは、静かな口調で諭すように言う。しかし、ユウラはここで彼をきっと睨んだ。
「うるさい! あの子が苦しんでいるのに、あたしだけのうのうと生きてはいられないのよ。あたしは……あたしは、後悔したくないの。セトみたいには!」
言ってしまってから、ユウラははっと息を呑んだ。足を一歩後ろへ引く。
「ごめん、あたし」
おずおずと切り出したユウラの言葉は、それ以上続かなかった。セトは少しの間黙っていたが、組んでいた腕を解いて、これまでと同じ口調で優しく言った。
「分かった。じゃあ、もう無理に止めたりしない。だけどな、ユウラ、最後に言わせてくれ。オレはお前の仲間として、お前を中央に行かせたくないと思う。ハリアル支部長やテイト、他の皆もきっと同じ思いだ」
ユウラは、泣きそうな顔をしていた。零れ落ちそうな涙を寸前で堪えて、一歩、二歩と下がって止まる。そのとき一瞬の躊躇があった。が、次の瞬間にはユウラは踵を返して駆け出していた。
「ユウラ!」
それが自分の声だと気づいたときには、もう遅かった。大声で名前を呼ばれたユウラが立ち止まる。彼女は町を歩いていたときと同じように半身になって、ランテを見た。
「……何よ」
何を言おうか、全く考えていなかった。昨日の夜の白い部屋とずらりと並んだ白軍たちが眼裏に蘇って、次にあの中に同じように白い鎧を着たユウラが加わっているのが描かれて、ああ、駄目だと。そう思ったときランテは声を発していた。
何も知らない自分が彼女の説得を試みたところで、彼女は肯かないだろう。ユウラをよく知るはずのセトの説得ですら、彼女を止めることができなかったのだから。だとしたら、自分には一体何ができるだろうか。
ユウラは訝しげな顔をしている。早く何かを言わなくては、痺れを切らして行ってしまうかもしれない。ランテは慌てて口を開いた。
「えーと……そう、お礼。お礼を、言わなくちゃと思って」
「礼?」
言ってしまってからひどく場違いだと思ったけれど、一度音にした言葉はもう引っ込められない。再び幾許かの時間が流れたことで、ユウラはますます眉間の皺を深くした。それに少し臆しながらも、ランテは続けた。
「草原で寝そべってたオレを、最初に見つけてくれたのはユウラだって聞いた。ありがとう。今こうしてオレが生きていられるのは、ユウラのおかげだって思ってる」
そんなくだらないことを言うためにわざわざ呼び止めたの。そう言いたげな顔でユウラはランテを一瞥した。
「そんなの、あたしが見つけなくてもそのうち誰かが見つけてたわよ。言いたいことはそれだけ?」
質問を投げかけておきながら、ユウラは返事を一瞬たりとも待たずランテに背を向けた。そのまま歩き始めてしまう。違う、まだ本当に言っておかなければならないことを言っていない。ランテはもう一度、大きく息を吸った。
「ユウラ!」
今度はもう、振り向いてはくれなかった。それでも、遠ざかっていく背中に向けてランテは言葉を送る。
「行っちゃだめだ! 洗礼なんか受けちゃいけない。ユウラ!」
ランテは必死に叫んだ。声の限りに。足を止めたユウラの背中が揺れる。揺れて、けれども。彼女が振り返ることはなかった。
ユウラが行ってしまってから、セトはおもむろにジェノのもとへ歩み寄った。
「な、何かね」
恐る恐る面を上げたジェノの胸ぐらを、掴み上げる。彼の体重の二倍近くはありそうな巨体が宙に浮いた。ジェノが短い悲鳴をあげる。
「ひっ、何をす――」
「あんたか?」
セトの声は行動とは反し、驚くほどに静かだった。
「あんたがユウラを唆したのか?」
荒い息の合間、答えるジェノの声はたいそう苦しげだ。
「わ、私は何も知らぬ。上から言われたことを実行しただけだ」
しばし無言でジェノをねめつけた後、セトは彼を自由にした。ジェノは尻からどさりと落ちる。砂埃が舞い上がった。セトはなおもしばらくジェノを見ていたが、身体を半分返して、今度はランテを見やった。
「オレのせいでこんな目に遭わせて、ほんと悪かった。ごめんな」
申し訳なさそうな顔だ。とんでもない。ランテはふるふると首を振った。すさまじい勢いで動かしたので、骨が鳴いた。
「こっちこそ、ごめん。助けてくれてありがとう。また貸し作っちゃったかな」
「いや、今回はランテの貸しだ。オレといるとこを見られてなければ、お前が連れて行かれることはなかっただろうし。それからユウラにあんな風に言ってくれたことにも感謝してる。オレは、あんな風には止められなかったからさ」
言い終えるとセトはランテの足元に落ちていた縄を拾い上げ、それでジェノを縛った。素早い所作だったが結び目は固そうだ。ずいぶんきつく縛り上げられたジェノは忌々しそうにセトを見上げたが、もう何も言わなかった。
「さて、と。ランテ、悪いが一度支部に来てくれるか? 今回の件の侘びと、それからルノアって女の情報が知りたい。朝飯や昼飯がまだだと思うから、そっちの方も用意するよ。必要なら、その間に旅支度もしてもらえるよう手配しとくけど?」
旅支度? 首を傾げて、それからランテはついさっき聞いたばかりのルノアの言葉を思い出した。できるだけ中央から離れるように。彼女はそう言った。どういう理由でそう述べたのかは分からない。けれども、とても真剣な顔をしていたのは覚えている。少なくとも彼女は冗談のつもりで言ったのではなさそうだ。セトの方もランテにこう尋ねるということは、冗談と受け取ってはいないのだろう。
しかしここまで世話になっておいて、何の礼もしないままこの町を後にしてよいのだろうか? 思えば、ルノアはエルティでこれから惨劇が起こるとか何とか言っていなかったか。それを知っておきながら、自分だけ逃げるように出て行くのはどうにも心苦しい。
「ルノアはさっき、これからエルティで惨劇が起こるって言ってたけど」
「ああ。三年前、ワグレって町で会ったときも、あいつは似たようなことを言って……そのとおりになった。今回も起こるって思ってた方がよさそうだ。これから戻って色々調べてみるけど、あのときと同じような敵だとしたら」
瞳を暗くして、セトはここで言葉を切った。その奥で大きく身を揺らしながら、ジェノが震えている。
「ワグレの惨事を知っておきながら、そしてこれからエルティでも同じことが起きると知っていながら、あの町に戻るというのか! 正気の沙汰とは思えん。悪いことは言わぬ。今すぐ別の町へ――」
ジェノの声は、途中でセトによって遮られた。
「はいはい、あんたの話は後でゆっくり聞かせてもらうから。エルティを見捨てて逃げろって? あんたほんとに上級司令官か? まさにそれこそ正気の沙汰とは思えない。ここが崩れれば北一帯が全て崩壊する。どんな手を使っても防がないとな」
自分に言い聞かせるような口調だった。それを聞いたとき、ランテは決意した。危険は嫌いだ。昨日の昼間の黒獣に襲われたときのことを思い出すと、今でも足が震えそうになる。けれども、目の前で何か巨大な危機に立ち向かおうとしている恩人がいるのに、自分だけ尻尾を巻いて逃げ出すようなことはしたくない。
「セト」
「ん?」
「例えばオレがいたら、その惨劇を防ぐのに少しは役に立てるかな?」
セトが目を瞠った。
「いや、こっちとしては願ってもないことだけど、今回は結構危ないかもしれない。それにさっきお前が言われたことはいいのか?」
「親切にしてくれたセトやノタナさんたちに恩返しがしたいんだ」
ランテはありのままの気持ちを吐露した。簡単に返しきれる恩ではないけれども、少しでも恩に報いたい。セトは軽く笑ってから応じた。
「こっちが勝手に世話焼いただけだから、気にすることないんだけどな。ま、そう焦らなくたって向こうに戻ってからゆっくり決めればいいさ。一旦戻ろう」
そのとき、ふと黒い塊が視界の隅に留まった。指で示す。
「あの中にいる白軍たちは放っておいて大丈夫?」
「呪が解けたら中央に戻るだろうよ。大丈夫さ」
セトはジェノにも来いよと言ったが、彼の身体は頑として動かない。溜息ひとつの後セトが力ずくで縄を引っ張ると、観念したように動き出したが、その目は親の敵でも見るようにセトを見上げている。どこ吹く風で進んでいくセトを、ランテも追った。このときの決断が彼の運命を大きく左右したことを、知る由もなく。
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