【Ⅳ】-2 予言

 白いレンガで舗装された道を進んでいく。ランテは途中何度かユウラに声をかけたが、彼女が答えてくれることはなかった。黙々と歩いている。やはり、俯いて、だ。

 異変は、唐突だった。背後に見えるエルティの町がかなり小さくなったとき、ランテの左手側で急に光が弾けたのだ。白軍の行列が止まる。ユウラが息を呑んだ。


「光の【呪】だと? 君、女の籠がきちんと閉じられているか確認しなさい! 後の者は私の護衛をするように!」


 ジェノが、慌てた様子で馬車から顔を出しているのが見えた。指示を出された白軍がルノアが捕まっているだろう籠に接近すると、白い鳥が緩やかに下降して籠を地面につけた。白軍の兵がそれに手を伸ばした瞬間、次の異変が起こった。前方から強い風が吹き付けたのだ。そのあまりの強さにランテは身を屈めてしまったので、上級司令官の馬車がばらばらに解体されたことにしばし気づかなかった。残骸と化した木片が散らばる中で尻餅をついたジェノが、事態を把握しかねて目を何度も瞬かせているのがおかしくて、ランテは状況にそぐわぬ笑みを浮かべてしまう。しかしさっきの閃光といい、一体何が起こっているのだろうか。周囲を見渡してみる。白軍の兵士たちは相変わらず無反応だ。かと思ったら、刹那、白軍全員が一斉に手にした槍の切っ先をジェノへと向けた。


「おっと、動くなよ? 大事な大事な上級司令官殿の首を飛ばしたくなかったら、さ」


 いや、白軍たちはジェノを威嚇したのではなくて、その背後から太い首に短剣を添えていた男を警戒したのだ。明けたばかりの空のような淡い空色の髪。すらりと高い身。彼のことは、知っている。


「セト!」


 ランテとユウラの声が重なった。直後ユウラは戸惑ったように視線を下げたが。呼ばれた男――セトは短剣はそのままに、二人の方に目をやった。そしてちょっと笑む。


「よう、ランテ、ユウラ。ちょっと待ってろよ」


「き、貴様、私が誰だか分かって――」


 今にも食い込みそうな短剣に怯えながらも、ジェノは叫ぶように言った。セトは彼に目を戻すと、呆れたように答える。


「あーはいはい、分かってますよ、上級司令官ジェノ殿。だけど、今この状況下でそのお偉い地位が役に立つとは思えませんが?」


「た、単身でこの数の兵と戦うつもりかね?」


 ジェノの声は震えている。


「いや、いくらオレでもこの数はちょっと。だからあんたを人質に取ったんだよ、司令官さん。これなら兵たちは手出しできないだろ? あんたもろとも貫けって指示が出されてるわけでもあるまいし」


 対して、セトは飄々とした口調だ。だが彼は白軍の兵たち、つまり敵陣の中央にいる。人質を取っているとはいえ、あんなに余裕でいて大丈夫だろうか。ランテは心配になった。


 ジェノはすっかり青白くなっている。身を震わせているのは、怒りゆえかそれとも恐怖ゆえか。


「私にこのような狼藉を働けば、中央が黙ってはおらんぞ! 一兵卒ならともかく、副支部長のお前がこのようなことをしたと伝われば、北はただでは済まぬ!」


「支部長も承知の上なんで、ご心配なく。まあでも、ここであんたの口を封じておくってのもありなんですが? 中央にはなんて伝えましょうか」


「き、貴様!」


「そう怒らないでくださいよ。元はといえば、あんたがランテとユウラを連れてったのが悪いんだ。さて、オレの要求は三つ。ランテとユウラを即刻解放すること、あんたが尋問に応じること、その間罪人とやらは北に拘置すること。どうする? って言っても、選択の余地はなさそうだな、あんたの性格からすると。大事な自分の命を犠牲にするほど、中央に忠誠心があるとは思えないし」


 ジェノが何か言おうとして口をぱくぱく開閉したが、声にはならなかった。代わりにユウラが意を決したように顔を上げる。


「セト、あたしは北へは戻らない!」


 セトがユウラを見た。笑みを引っ込めて、しばらくの間無言でじっと見つめる。ユウラが喉を上下させたのが、ランテの位置からでも見えた。セトは無表情のまま――心なしか少し怒っているようにも見える――答えた。


「駄目だ。お前はオレの隊なんだから、抜けたきゃオレの許可取ってからだ。それで、オレは絶対に許可はやらないからな。とにかくランテ連れて列から抜けろ」


 ユウラがまた何か言い返そうと口を開いたが、結局何も言わないまま閉じた。困ったような目をランテに向けて、それからランテの縄とそれを握った自分の手を見、また迷って、そしておずおずと歩き始めて列から抜けた。見届けて、セトは再び縮こまったジェノに目を落とした。


「さ、どうします、司令官?」


 わなわなと震えながら、ジェノはまず左肩を触り、次いで短剣を見て、セトを見上げ、最後にもう一度左肩に触れた。俯いて、小声で何か言ったようだ。距離があるランテには聞き取れなかったが、口を小さく動かしていた。聞こえたらしいセトは、目を見開いた。驚いたようだ。ジェノがぱっと顔を上げる。顔は相変わらず青白かったが、意志を固めた目は見違えるほどに強く。


「お前たち! この背教の異端者に制裁を! 聖なる白女神ルテルアーノの怒りを思い知らせるのだ!」


 ジェノが高らかに叫んだ。瞬間、セトは焦った表情を見せ、白軍の兵士たちは槍を突き出した。ジェノと、セトに向けて。思わずランテは叫ぶ。顔と手足からさあっと血の気が失せた。


「セト!」


 一瞬、最悪の事態を覚悟してランテは白軍の輪から目を逸らした。次に目を戻すのには相当勇気が要った。脈拍が上がっている。と、ユウラが隣で溜息をついた。ずっと詰めていた息を吐き出したような。きっと、安堵だ。ランテも顔を上げる。それと同時に白軍の輪から離れたところ、ランテたちの傍で声がした。


「重いんだよ、あんた。一体何食ったらそんなになるんだ?」


 左手で持っていたジェノの豪華な襟を乱暴に離して、代わりに右足で重そうなマントを踏みつけ、さらに右腕は短剣を戻し普通の長さの剣を鞘から抜きながら、セトが言った。ジェノは緊張の糸が切れたのか、目を見開きながら激しい息で肩を上下させている。セトがこちらを向いた。


「ユウラ、ちょっとこいつ持っててくれるか? 持ってるだけでいいから」


 呼びかけられて、ユウラは一瞬足を踏み出しかけたが、そのまま留まる。視線を左右に振って、それからセトに目を戻した。


「あ、あたしは……」


 迷いのある声だ。セトはまた少しユウラを凝視して、それから白軍の軍団に目をやった。セトの方へ向かってきている。まだ距離はあるが、そう悠長に構えていられるほどの距離でもない。


「分かった。じゃあランテの縄ほどいてやれ。それくらいならいいだろ? で、ランテ。巻き込んでばっかで悪いが、自由になったらちょっとこいつが動かないよう見張っててくれ。頼むな」


 ユウラがランテの縄を解き始めたのを見てから、セトは左手を天へ掲げた。瞬きひとつ分の静寂の後、セトを中心に風が巻き起こる。空気の渦だ。それは徐々に大きさを増して、途端、弾けた。一瞬遅れて、白軍たちの握っていた武器が宙を舞った。たくさんの槍や剣、弓。日の光に煌めきながら、緩やかに放物線を描く。それから遠い場所に墜落していった。丸腰になっても尚、一直線に向かってこようとする白軍たちを見て、セトは肩を下げながら溜息をつくと、剣を構えた。そのとき。


 ランテの視界の隅で黒いものが蠢いた。ルノアの籠の方だ。目を移す。籠の隙間という隙間から、墨のような黒があふれ出ているのだ。黒はあっという間に膨らむと、白軍の軍勢たちを飲み込んで止まった。立ち止まったセトが、黒い塊を見たまま数歩下がってランテたちの前まで戻ってくる。誰もが動かないまましばらく経って、黒の空間が揺らいだ。その中から出てきたのは――


「ルノア……」


 ルノアの紫の目はランテの方を向いていたが、ランテを見てはいなかったと思う。そのままで儚げに笑み、目を伏せて、それからセトを見上げた。


「ありがとう、助かりました」


「助かったのは、こっちの方。初っ端の【閃光】と今の【暗黒】、両方ともあんたの仕業だろ?」


「あなたが乱入したおかげで私も楽に逃れることができたから、お互い様です」


 言って、ルノアは綺麗に笑う。しかし、ランテはその笑顔に違和感を感じた。美しい。けれども、緻密に計算されつくしたような。わずかに細められた瞳、上げられた口角の角度、それらすべてが妙にバランスがいいのだ。


「野暮なことを聞いても?」


「何でしょう」


「オレと会ったことがあるよな」


「さあ」


「三年前、港町ワグレで」


「そうだったかしら」


 ランテたちに背を向けているセトの表情は分からないが、ルノアはずっと笑みを維持している。吹いた風が、長い髪とワンピースの裾をさらった。


「どうして中央軍に追われてる? あんたが黒女神の僕なんて、そんな冗談」


「あながち、間違ってもいないんです。正しくもないけれど」


「どういう意味だ?」


 微笑みだけを浮かべ、ルノアは答えなかった。次の風が吹いたとき、静かに言った。


「……私は、もう行きます」


 セトが身じろいだ。身構えたようにも見えた。


「このまま黙っていかせるわけにはいかないな。あんたが敵である可能性が、少しでも残ってるなら」


 ルノアは、やはり微笑むだけだ。静かにセトを見上げて、それから一瞬だけランテを見やった。セトのときと同じように笑ってはいるけれど、目の奥にはなにか、寂寞とした光が宿っている。危ういところで均衡は保っているが、今にも決壊してしまいそうに見えた。かすかに震えているように思えたのは、ランテの気のせいかもしれないけれど。とにかくその美しい紫の瞳は、彼女が文字通り視界から消えた後にもランテの目からは離れなかった。焼きついたように、刻まれたように。


「待てって」


 今度は背後からセトの声が聞こえてきた。同時に鋭い風がランテの頬を掠める。慌てて振り返ると、セトに腕をつかまれたルノアが、目を大きく見開いて彼を見上げていた。セトもセトで、何か訝しげに眉を顰めている。


「驚いた。速いのね」


「そりゃまあ、あのときと比べてもらっちゃ困る。三年経ったんだ」


 口調は軽やかだったが、セトの目は真剣そのものだった。一瞬たりとも逃す隙を与えまいとする、警戒心たっぷりの翡翠の双眸。悟って、ルノアは肩を下ろして微笑した。


「北が真っ先に狙われた、その理由が分かった気がするわ」


「もっと分かりやすく言ってもらえないか? さっきから何を言ってるのかさっぱりでさ」


 セトもルノアの言葉を完全には理解できていないらしい。ルノアは静かに目を閉じると、その要望に対して左右に小さく首を振って拒絶を示した。


「私が言えるのは、あなたはこれからすぐにエルティに戻るべきだということ、そこで一早くあなたたちの本当の敵を見出して、これから起こるだろう惨劇を防ぐように動くこと、それだけです」


「本当の敵?」


「ええ」


「ってことは、その敵ってのはミゼリローザやその配下じゃないってことか」


 ルノアは肯定も否定もせず、女神像のように微笑む。そしてもう一度、ランテに視線を移した。何かを躊躇って、それから口を開く。


「……それから、あなたはできるだけ中央から離れるように。北でも、東でも、西でも南でも構わない。とにかく全力で中央から離れるの。一刻も早く」


「どういうこと?」


 首を傾げたランテに最後の一瞥をくれて、ルノアはそっと瞼を落とした。その姿が徐々に薄れ、草原に、空に、森に、まぎれていく。


「待――」


 届くはずもないのに、ランテは無我に手を延ばしていた。緩んでいた縄が解けて落下する。それが足の上に落ちたとき、ルノアの姿は完全に景色に溶け込んでしまった。


 空をつかむことになってしまった腕を、ランテは引き戻した。なぜか、無性に、切ない気持ちになった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る