【Ⅲ】-2 定め
先刻は上った階段を降り、玄関扉とは反対側の廊下を進んで、突き当たりの階段をまた降りた。目指す部屋は地下らしい。ランテは何度か抵抗に挑戦したが、三度目に身をよじったとき腕をねじ上げられ、それから先は断念した。本当に、ついているのかついていないのか良く分からない一日だ。いや、もう日付が変わっているかもしれない。だとすれば今日はついてない一日になりそうだ。
ランテの腕をつかんで連行している者が一人、その両脇に一人ずつの計三人の白軍が並んで歩いていたが、その姿にランテは違和感を覚えていた。行進をしているわけでもないのに足音がぴったり揃うくらい歩調が同じだし、腕の振り方も同じ。さっきまでどれだけランテが抵抗しようと誰も表情を変えなかったし、声を発することもしなかった。腕をねじ上げることはしたが、それはランテが逃げ出すのを阻むためだけの行動であり、ランテが大人しくなればすぐに力を抜いてくれた。奇妙だ、と思う。普通なら抵抗されるのは面倒だろうから、怒鳴るなり睨むなりして黙らせてしまいたくなるものではないのか。ユウラのように。それなのに、三人は全員がずっと無表情のままだ。
廊下を、また突き当たりまで進んだ。今度の行き止まりには階段ではなく扉がひとつあった。その前には白軍の兵士が一人立っている。彼も無表情だ。見張りはランテを連行中の仲間たちが足を止めたのを確認すると、扉を開き始めた。よく見ると扉の持ち手の部分に白い鎖と錠がかけられている。時間がかかっているのは、それを外しているからだろう。
暫く時間がかかったが、錠が外され、扉が開かれた。中に連れ込まれる。一番最初に目に飛び込んできたのは、白軍の集団だった。部屋の壁際にびっしりと隙間なく並んでいる。二十、いやもっとだ。三十はいるだろうか。そして、壁の四隅の床と天井部分から部屋の中央へ向けて計八本の白い鎖が伸びている。部屋の中央には、黒い柵――いや、檻が設えてあった。その中に、人影がある。
美しい色だ、とランテは最初に思った。温かみのある白、乳白色というのだろうか、その色に銀を足したような色合い。光の加減によって、さらにさまざまな色に輝く。艶めくその髪は紫紺のリボンで結われていて、ゆるくウェーブのかかった残り髪が腹の上辺りまで流れている。服もまた白い。淡い紫と桃の刺繍が踊っている。長袖のワンピースで、広がった袖口からのぞく鎖のかけられた腕の白く細いこと。座り込んでいる上俯いていて顔は分からなかったが、ずいぶんと育ちのよさそうな娘だ。
ランテが声をかけようとしたそのとき、娘が顔を上げた。瞬間、ランテは息を呑んだ。そのまま少しも動けなくなる。それはその娘の顔がひどく美しかったからではなく――彼女はこの世のものとは思えないほどに美しかったのだが――もっと他の理由のせいに思われた。何か、胸の辺りをぐっと締めつけられるような。もしくは身体の芯をぐいっと引き寄せられるような。そんな感覚に襲われる。
立ち尽くしたまま、どれだけの時間を過ごしたか分からない。ずいぶん長い時間だったように思う。声が聞こえた。か弱く、今にも壊れてしまいそうな、声が。
「どうして?」
彼女は、すぐにでも泣き出しそうな顔をしていた。潤んだ瞳に寄せた眉、きゅっと結んだ唇。涙がこぼれるのではと思われたそのとき、彼女はぎゅっと目を閉じた。そのまま、しばし。次に目を開いたときには、彼女はまるで何事もなかったかのように綺麗な微笑を作っていた。とても自然な微笑みだったが、ランテにははっきり“作っている”と分かった。なぜそう思ったのかは、分からないけれど。
「なぜ、こんなところへ?」
努めて静かに言おうとした、そういう声にランテには聞こえた。さっきの微笑を維持したまま、彼女はランテを見上げている。違和感があった。初対面の者に最初に向ける質問としてこの場に在る理由を尋ねるのは、ちょっと珍しいことではないか。わざわざ微笑みを作る意味も分からない。それに、初めの表情もだ。あれは一体何だったのか。そしてランテ自身が感じたもの。形容しがたい感覚。不思議なことが、多すぎる。
彼女は何か、ランテのことを知っている。直感だった。
「よく分からないんだけど、どうやら上級司令官の釣りの餌にされるみたいだ」
ランテはひとまず彼女の問いに答えておいた。檻の中で鎖に巻かれている美女は、無言のままランテを見上げている。微笑はそのままだったが、沈黙はしばし続いた。何かを考えているらしかった。
「運が悪かったのですね」
ずいぶん間を置いてから、彼女はやっぱり静かな声で答えを寄越した。これだけの答えのために、あれだけの長考が必要だったのか。違うだろう。彼女は何を考えていたのか。
会話が一段落して、ランテは自分がすでに自由になっていたことに気がついた。先ほどまでランテを締め上げていた白軍は、扉の前に他の白軍たちにまぎれて並んでいた。壁際に綺麗に整列した白軍たちの顔を見ていると、寒気がする。顔のつくりは一人ひとり違うのに、表情はみな揃いも揃って同じ無表情なのだ。視線もずっと一点を見たまま動かない。身動きもしない。まるで人形を並べたかのような。それはとても奇妙な光景で、異常なまでに恐怖を煽った。
「あの白軍たちって、人?」
当たり前のことなのに、気づけばランテは声にしていた。疑問に思うほどにおよそ彼らは人間らしくなかった。檻の中の彼女は、その格子越しに白軍たちの顔を眺めた。一人ひとりの顔を。その目が陰っていくのを、ランテは見逃さなかった。同情と、哀憐と、そして痛みを堪えるような、そんな眼差しだった。
「……まだ人であると、私は信じたいわ。でもそう思うことは、単に事実から目を背けているだけなのかもしれない。これも私の咎への報い、ね……」
まったく意味が分からない。ランテは首を傾げて檻の中を見たが、彼女は正面の白軍――先ほどランテの腕を締めあげてきた者だ――をあの陰った瞳でみつめていた。その口元がかすかに動く。多分、ごめんなさい。彼女は音のない声でそう言った。
「白軍たちの鎧の【白の紋章】の下についている黄色い印、あれは【洗礼の証】といって、白女神ルテルアーノからの洗礼を受けた証なんです。本当は左腕に現れる刻印ことをそう呼ぶのですけど、鎧を着ていれば見えないので。“喜”と“楽”を愛する彼女からの洗礼は、“怒”と“哀”を完全に排斥し、やがて均衡を失った心は……虚ろになる」
彼女の言葉は難しくて、ランテには理解しきれなかった。理解できたのは、黄色い印は洗礼の証と呼ばれるもので、それをつけている者は『心が虚ろ』であるという二点だけだ。
「元に戻す方法は?」
「え?」
「心が虚ろになった白軍たちを、元に戻す方法は?」
彼女は目を大きくしてランテを見た。宵の空を思わせる、深い紫の瞳だ。そんなに驚くようなことを聞いただろうか。彼女の一挙一動すべてが、ランテには謎めいて見えた。
「それは、分かりません」
「分からない?」
「ええ……変わらないのね、あなたは」
そう言って、彼女はまた微笑んだ。今度は陰りのない微笑だ。変わらないのね。まるでランテを知っているような台詞だ。聞いてみることにする。
「オレのこと、知ってたりする?」
微笑に、刹那、ほのかに、陰が差した。ひとつ瞬きをしてから、彼女は答える。
「いいえ。あなたとは……初めて会いました」
「本当に?」
「本当に」
矛盾した二つの台詞で、彼女は嘘をついているとランテはすぐに分かった。彼女の真実の言葉は、おそらく前者だろう。しかしこれ以上追及しても答えてくれないだろうことは明らかだった。彼女は笑みを湛えたまま、強い意志を感じさせるまなざしでランテを見据えていたから。仕方なく、折れることにする。
「名前を聞いてもいい?」
「ルノア。あなたは?」
「ランテ。多分、だけど」
「そう……素敵な名前ですね」
会話が途切れる。立っているのに疲れて、ランテはその場に腰を下ろした。白い床は固くて冷たい。ランテはもう一度部屋を見渡してみた。地下だから窓はない。出口はランテが入ってきた場所一箇所だけだ。それにしても、壁、天井、扉、見張りの鎧と、何から何まで真っ白で気味が悪い。その中で唯一黒いルノアの檻はやけに目立った。そういえば、彼女はなぜ捕らえられているのだろうか。檻に加えて鎖でがんじがらめにするなんて、ずいぶんと厳重な捕縛だ。ルノアは女性で、しかもユウラと比べても華奢に見えるくらいだ。そんな彼女を捕まえておくのに、こうまでする必要があったのだろうか。
「あなたは、この後どうするんですか?」
「え?」
質問の意味を図りかねて、ランテは思わず聞き直した。ルノアはランテから後ろの白軍たちに視線を移して、続ける。
「このまま中央までついて行きたいのか、それとも早く自由になりたいのか、どっちですか?」
「それはもちろん、ここから出られるのなら出たいけど」
ランテは檻どころか手枷足枷もつけられていないが、これだけの見張りの数だ、逃げ出すことは難しい。それが分かっているから、白軍たちもランテの自由を奪うことはしなかったのだろう。ルノアはひとつ頷いた。
「分かりました。それならあなたを逃がします。時期が来たら、ですが」
ルノアは真面目な顔をしている。本気で言っているのだろう。白軍の前で声を潜めることもしないでこんなことを言ってしまうなんて。ランテは周囲を窺ってみたが、白軍たちは何の反応もしていない。これも心が虚ろになっているがゆえ、なのだろうか。ランテがルノアに顔を戻すと、ルノアもまた白軍たちを眺めていた。
「彼らを傷つけることはしたくないから、明日の正午過ぎまで待ってください。街道に出た辺りであなたを解放します。だから、今は眠っていても大丈夫ですよ。疲れているでしょう?」
言葉の最後の方でランテの方に向けられたルノアの微笑みを見ていたが、その間にランテの瞼はどんどん重さを増していた。身体が傾いでいくのが分かる。ついさっきまでは眠気など微塵も感じていなかったのに、彼女の言葉を聞き終えた途端、ランテは真っ暗闇に放り出された。なぜ。思考はそれ以上続かなかった。おやすみなさいと言う声が、最後に遠くで聞こえて、ランテの意識は睡魔に奪われた。
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