【Ⅱ】-1 感謝
ちょうど日が暮れ始めた頃、ランテたちは目的地に辿り着いた。黒獣に遭遇したのは例の一回だけで、最近ではまだ運が良かった方らしい。そんな危ない平原の上で無事に寝そべっていた自分は、どれだけ強運だったことか。意識を失ったままの状態であの黒い怪物たちに襲われていたらと思うと身の毛がよだつ。神様とセトたちとに感謝しておこう。そう言えば、どたばたしたせいでセトたちにまだきちんとお礼を言っていなかった。
エルティの町は外から見る限り、かなり大きい町のように見える。町の周囲をぐるりと囲む壁の果ては、ここからでは確認できない。平原からは少し高くなった、ちょうど丘のような場所に町は作られているようで、見上げた壁には上から迫ってくるような威圧感がある。この壁も、あの黒獣から町を守るためのものなのだろうか。
「大きな町だろ? エルティは北の準都市なんだ。北を目指すなら、まずエルティに寄って行け。そう言われるくらいには、
セトの説明を聞いているうちに、大きな門が見えてきた。見張りが、ランテがざっと数えただけでも十人はいる。セトたちのように軽装備ではなくて、白い鎧でがっちりと身を固めて、大きな武器を持っている。近づくにつれ、その鎧の側頭部に描かれているのが紋章で、セトたちのものと同じであると分かった。確か、白軍。白軍は町の警護もするようだ。
ランテたちが門の正面に着くと、見張りの中から一人が進み出た。手にした長槍の刃が、夕焼けの赤い光を鈍く反射している。ランテは目を逸らしたくなって、俯いた。手には剣の柄の冷たさが蘇っていた。
「セト隊長、ユウラさん、テイトさん、イッチェさん、任務お疲れ様です。すぐに支部に戻られますか?」
やはり鎧についた紋章は白軍のものであったらしく、見張りは口調は丁寧だが親しげな声でセトに話しかけている。ランテは槍の先を見ないよう気をつけながら、頭を起こした。鎧に囲まれた顔は存外若く、セトやユウラと変わらない年のころに見える。
「お前もご苦労さん、ダーフ。支部には今日中に顔出すよ。後ろに居るのは、帰りに拾った旅人さんだ。一緒に通してもらえるか?」
「それはもちろん構いませんが、支部に戻るのは明日まで待った方がいいかもしれません。客人がお越しなので」
「客人?」
「ジェノ上級司令官殿です」
ここでセトは、露骨に嫌そうな顔をした。
「何でまた」
「その反応は非常に傷つくなあ、セト隊長」
門の奥、階段の上から新しい声が聞こえてきた。男の声だが、わざとらしい抑揚のついた高い声だ。行き交う人の中から、ひときわ豪華で派手な服を着た男が出てきた。肉付きがよく、髭を生やしている。年は壮年。後ろに白軍たちをずらりと連れていることと、服装などからして、何も知らないランテでも彼が相当地位の高い人物であると推測できた。
「あ、いらっしゃったんですか。これは失礼」
ダーフと話していたときとは大違いの態度と声音で、セトが答える。あからさまに嫌がっているのに、ジェノ上級司令官殿とやらはまったく気にした風もなく続ける。
「罪人護送のついでにね、また君に一目会っておきたいと思ってね。わざわざ北へ回り道をしたんだ。そしたら任務中だと言うではないか。仕方ないと諦めかけたが、やはり来てよかった。実によかった」
満面の笑みだ。人を顔で判断してはいけないとはよく言うが、ランテは早くもこの人があまり好きになれないと思った。笑っているのは顔だけで、心の中ではまったく別のことを考えているような、そんな気がするのだ。他の隊員たちも好ましい人物とは思っていないらしく、ユウラがため息をつき、テイトはセトに同情するような表情をしている。イッチェはやはり無表情だが。
「上級司令官殿の貴重なお時間をいただくような価値、オレにはありませんよ」
「せっかく会えたというのに、君はつれないねえ。では、やはり今回もだめかな?」
「何度も申し上げている通り、オレは今の地位で満足してます。十分すぎるほどに」
「惜しいことだ。君ほどの実力と人望があれば、中央でもすぐに上り詰めることができるだろうに、実に惜しい」
「あなたが何と仰られようと、オレは自分の意思を変えるつもりはありませんので。それではこれで」
早口で言って、セトはダーフに頷きかけた。ダーフも頷き返して、後ろの白軍たちに合図を送る。鉄格子のような門が左右に開かれていく。それが開ききる前にセトはランテたちを振り返って、行こうと短く言った。このジェノという人から早く離れたいらしい。速足で進んでいくセトを、ランテたちは慌てて追う。
「お待ちなさい、セト隊長」
一礼して脇を通り過ぎていこうとしたセトを、ジェノは呼び止めた。セトは顔だけ後ろに傾け、そっけなく聞いた。
「何ですか」
「明日、ちょうど日が一番高くなる時間に我々はここを発つ。考えが変わったら、私のところまで来なさい」
言って、ジェノは口を吊り上げて笑った。その笑みに、ランテはぞっとした。歪んだ底意地の悪い笑みだ。セトの方はジェノの考えを探るような目で一瞥してから、失礼しますと言い残して階段を上る足を進めた。それを追って階段を駆け上るランテに、ジェノが一瞬笑いかけてきたように見えたのは、きっと気のせいだ。
「ユウラ、テイト、イッチェ。お前たちは明日の昼に支部に集合。上級司令官とは顔合わせないように、奴が行ってから来いよ。何か企んでるかもしれないから、くれぐれも気をつけてくれ。それまでに支部の奴に見つかったら、適当にごまかして――ごまかしきれなかったら、オレがそうしろって言ったって答えとけ。で、ランテ、お前はこっち。宿取る金がないだろうから貸してやるよ」
階段を上りきった後、セトの指示にユウラたちがお疲れと声を掛け合い、散っていく。ユウラとイッチェはそのまま行ってしまったが、テイトはランテを振り返ってまたね、と言ってくれた。少し嬉しくなって、ランテもまた今度と答えておく。
「さて、ランテ。宿はどうする? 自分で決めるか、それともオレがおすすめ紹介しようか?」
帰り道で拾っただけのランテにここまでしてくれるなんて、セトは本当に面倒見がいいなあと思う。頼りきってしまって申し訳ないが、町の外で野宿だけは黒獣を見てしまった以上どうしてもできない。ここはお言葉に甘えてしまうことにする。
「隊長にお任せします」
「セトでいい。あと、敬語はやめてくれ。変な気遣う」
「じゃあ、セト。いろいろ本当にありがとう。セトたちが見つけてくれなかったら、オレは今頃あの黒獣の餌になっていたかもしれない」
やっと礼が言えた。聞いて、セトは瞬きを数回してから笑った。
「いきなりなんだよ、改まって。別にいいって。それに、そういう礼ならユウラに言ってやれ。ランテを最初に見つけたのはユウラだよ。あいつ、ああいう物言いするけど、根はいいやつだから」
ランテには終始冷たかったが、それは少し分かる気がする。言葉は辛辣だったが悪い人ではなかった。そう思う。今度会ったら礼を言っておこう。彼女が見つけてくれなければ、ランテはきっと死んでいたのだ。命の恩人だ。
セトに連れられてエルティの町をしばらく歩いた。本当に賑やかな町で、日が暮れようとしている時間帯にもかかわらず人通りが多く、活気があって、立ち並ぶ建物も小綺麗だ。道は複雑に入り組んでいて、門からの道をなんとか覚えようとしたが、一度だけでは不可能な話だった。太陽が沈みきる寸前に、『ノタナの宿』という看板が出された建物の前にたどり着いた。あまり大きくはないが、小洒落た宿だ。レンガ造りの建物で、扉の周りが鉢に植えられた花々で飾られている。セトがその扉を開けた。ランテにもついてくるよう手招きをする。
「おや、セトじゃないか。ずいぶん久しぶりだねえ」
中からの声に久しぶりと答え、セトが宿の中に入る。ランテも続いた。オレンジがかった照明が暖かい。何か美味しそうな匂いが奥から流れてくる。昼過ぎにセトたちから携帯食料を分けてもらってはいたが、腹の虫が鳴いた。
「ノタナさん、空き部屋ある? こいつを何日か泊まらせてやってほしいんだけど」
後ろのランテを指して、セトが聞いた。ノタナは気のよさそうな中年女性だ。ふっくらした頬を緩めて笑う。
「文無し拾ったのかい? あんたもつくづくお人よしだねえ。構わないけどお代はしっかりいただくよ。今は【白女神祭】前で稼ぎ時なんだから」
「分かってるさ。ひとまず三日分な。飯も三食食わせてやってくれ。それ以上必要だったら、支部にオレの名前で請求してくれればいいよ。あと、何か書くもの貸してくれ」
「はいはい。せっかちだね」
ノタナがペンと紙一枚をセトに渡す。それと引き換えに、セトは金貨二枚をノタナに渡した。そこまでランテは手持ち無沙汰に眺めていたが、その間にセトが三日分もの食事と宿を用意してくれたということにようやく気づいて、途端に申し訳なくなった。
「セト、ここまでしてもらうのは申し訳ない。お金もいつ返せるか分からないし、今日一日宿が取れればそれで十分だから」
「いいっていいって。正直言うと金は余ってるんだ。気にするな」
「でも」
「もっと正直に言うと、ほら、ここで恩を売っとけば、お前がうちに入ろうって思ってくれるかもしれない……なんてな。まあ、この先どうするか決めるまでは面倒みるよ。野垂れ死にでもされたら後味悪いし」
ペンを走らせながら、セトは淡々と答える。なおも食い下がろうとしたランテを止めたのは、ノタナだった。
「兄ちゃん、やめときな。セトのやつは言い出したら聞かないからね。この際セトの
こう言われてしまえば、もう断れない。
「はあ。……じゃあ、お言葉に甘えて。本当にありがとう、セト。なるべく早く決めて、返せるようにがんばるよ」
「はいよ」
ここまで親切な人も珍しいだろう。ランテは心の底からセトに感謝した。本当にありがたい。
ずっと手を動かしていたセトが、「よし」という一声の後顔を上げた。ありがとうと言ってノタナにペンを返し、紙はランテの方へ差し出す。何かと思って見てみれば、地図のようだ。
「字は読めるな? 印のところが支部だ。気が向いたら顔出してくれ。話聞くだけでも構わないから。裏に紹介状も書いといたから、オレが任務に出てても支部長が上手く取り計らってくれるはずだ」
分かりやすそうな地図だ。これならあの入り組んだ道も迷わずに済む。支部のほかにも町の外へ繋がる門やら、あとは情報の集まりそうな場所までちゃんと記してくれている。気が利きすぎている地図だ。ランテが地図に目を落としている間、セトはノタナと話している。
「で、ノタナさん。聞きたいことがあるんだけど」
「なんだい?」
「なんであの大馬鹿司令官がここに? 罪人護送って聞いたけど」
「本当みたいだねえ。支部に入る前に見たけど、ずいぶん厳重な護送だったよ。馬鹿みたいに兵士を引き連れて、護送用の籠はちゃんと息ができてるのか心配なくらいがちがちだったね。なんでも【黒女神の使徒】だとか。噂によると、まだ若い女らしいけどね。ハルベで捕まえたらしいよ」
「ハルベ? だったら何で北支部なんかに寄ったんだ? どうせ護送先はティッキンケムだろ? だったら東支部経由でそのまま東街道沿いに進むのが普通だよな」
「さてねえ。ご執心のセト副長に会いに来たんじゃないかい?」
「やめてくれ。吐き気がする。……しっかし、重罪人護送中に寄り道なんて、いくらあの馬鹿でもしないと思うけどな」
「私が知ってるのはここまでさ。後は自分で調べるこったね。だけど気をつけたほうがいいよ。ここのところ負けがこんでいて、中央はずいぶん人手不足らしいからね。案外本気であんたを引き抜きに来たのかもしれない」
「分かった、気をつける。ありがとうノタナさん。また来るよ」
ここでセトは扉の方を向いた。行ってしまうのか。まだ礼を言い足りない気がする。
「もう帰るのかい? こうも働きづめだと身体壊さないかい? 夕食くらい出すよ、食べて行きな」
ノタナの声にセトは足を止め、困ったように笑った。
「そうしたいのは山々なんだけど、色々気になることがあるからさ。支部長と話がしたいんだけど、無理かな?」
「今日はやめといた方が賢明だね。止めやしないけど」
「了解。じゃ、行くよ。ランテも機会があれば、またな」
扉の取っ手に手をかけて、セトがランテを振り返る。
「うん、また。いろいろありがとう、セト。本当に感謝してる。気をつけて」
何度礼を述べても、きっと足りないだろう。行き倒れのランテを見つけ、起こし、黒獣から守ってくれて、食料を分け与え、町まで連れてきて、宿と食事の手配をし、気の利いた地図までくれた。初対面の人間にここまでしてくれるなんて。本当にありがたい。一人だったら、どれだけ心細かったか。礼を言いそびれてしまった隊員のみんなにも、きちんと礼がしたい。
「ああ。じゃあな」
扉の向こうに消えていくセトを見ていると、ランテは白軍とやらに入る話も真剣に考えてみようかなという気になった。
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