無人祭祀

亜済公

無人祭祀

 夏の終わりがほど近かった。蝉の鳴き声もめっきり減って、幾らか涼しい風が吹き始めている。遠い山並みには秋の雰囲気が漂って、僕はそれを見る度に、この地に滞在するのもあと僅かだと、少しの哀愁と共に思うのだった。

 故郷の村は、開拓されていく都市部の変化に関わらず、昔とさほど変わらない。強いて言うなら、道路がアスファルトで綺麗に舗装されたくらい。それさえも、道の形自体は何も変わらないというのだから、全く、この地の「時代」に対する抵抗力は、刮目に値すると言えるだろう。

「『おやまさん』に気をつけてな……」

 母親の声を背中に聞きつつ、横開きの戸を開けて外へ出る。数日前に帰郷を出迎えてくれた実家の門を、月が白く照らし出した。敷地の外へ踏み出すと、深く掘られた広大な田畑が目の前にあり、月光の中で泥沼のような底知れなさを醸し出す。遠く、何か虫の鳴く声が響いていた。草木の匂いが、心地良い。

 全く僕は、夜の街を散歩するのが好きであった。けれどもそれは、都会において意味を成さない。ネオンが輝き、喧噪に満ちあふれた大都市では、もはや本当の「夜」には出会えないのだ。それが唯一、大学生活に対する僕の不満と言えそうだった。

 だから今年の帰郷の理由は、結局のところ「散歩」であると、そう表現することも出来るだろう。僕は深い満足感を覚えながら、ゆっくりと歩き出す。

 大抵の場合田舎の道は、不必要なほどに幅が広い。立ち並ぶ家々の細かな明かりは、幾らか増えているようだ。あるいは単に、光源が明るくなったのか。いずれここの静かな夜も、失われてしまうのだろう……と。

 その時だった。

 暗く沈んだ山の方角。

 僕は確かに、美しい神楽の音色を聞いたのだ。

 静かな夜の、ことだった。


  ※


「『まつり』という言葉には、全部で四つの意味がある」

 研究室で、目の下の隈をこすりながら教授は言った。

「コーヒー、ブラックの方が良いですか?」

「よろしく頼む」

 床に散らばった論文の下書きを避けながら、カップを机の上に置く。

「全く、君くらい熱心な学生が多ければ、授業のしがいがあるのだけれど……」

 気持ちよさそうにグビグビ喉をならしながら、彼女はさて、と立ちあがった。

「神や尊に祈る『祀り』。命や霊を慰める『祭り』。公家朝廷、人格神への行為である『奉り』。政治を意味する『政り』、だよ。……君がソレを見た時期は、旧暦の七月辺りかな」

 壁に掛かった旧暦カレンダーをパラパラめくる。

「政治の『政り』は……まあ忘れて構わない。君が見た『まつり』とやらは、祈願、慰霊、行為……一体どれに当たるんだろうね?」

 教授は意味ありげに唇を歪める。

「現代では、行うことそのものが目的となり、形骸化したものも少なくはない。案外君が見たソレは、最も純粋な祭りだったのかも知れないよ」

 時刻はそろそろ、昼時に近くなっている。

 ――これを読んでみると良い。

 教授は、一冊の文庫本を差し出した。


  ※


 害獣よけの電線に注意しつつ、田畑の畦を進んでいく。現れた茂みに足を踏み入れ、いつしか僕は、木々の立ち並ぶ山中を、じりじり歩いているのだった。暗い。静かだ。湿った土と苔の匂いが、都会の空気に毒された鼻を癒やしてくれる。頭上には、高く月が昇っていて、うっそうと茂る枝葉の影から、足下をそっと照らすのだった。

 僅かな疲労感を覚える頃、石段の入り口へとたどり着く。大きさのまちまちな岩石が、不思議な一体感を伴って、遙か高みへ連なっていた。月明かりに見る限りでは、長いこと、人が踏んだ様子はない。目の前には鳥居がそびえ、石造のそれにはびっしりと植物が絡まっていた。

 傾斜は三十度程度だろうか。段の一つ一つが膝よりも高い位置にあるせいで、疲労はつのるばかりだった。石段の上は開けていて、天の川が綺麗に見える。後ろを向けば、点々と輝く家々の明かりが、まだ所々についていた。

 一歩、また一歩と踏み出すごとに、神楽の音色は近づいてきた。人々の話し声、笑い声、そして気配が強くなる。夏祭りだろうか、と僕は思った。夏祭りだろうな、と僕は思った。ただそれにしては、時間が遅すぎやしないだろうか? ……何しろ僕が家を出た時、もう深夜を過ぎていたのだ。

 石段の終わりが来た。小さな円形の広場があった。枯れ葉や小枝のような不純物は、何一つ転がっていなかった。そして……そしてそこには、無数の屋台がずらりと並んでいるのだった。仮面を売るもの、たこ焼きを売るもの、金魚すくい、射的、その他ありとあらゆる看板が、明々と照らし出されて立っている。

 人々の熱気が溢れていた。神楽の音が、はち切れんばかりに大きくなった。カタカタ、トントン、カタトントン、トンカタ、トントン、トントントントン……。

 僕は暫くの間そこに呆然と立ち尽くし、それから屋台の一つに近づいてみた。子供向けの小さな玩具が、所狭しと陳列してある。赤、青、黄色、緑、紫、白、臙脂色……色彩の渦に巻き込まれ、鋭いめまいに襲われた。何かが、強く胸を打った。僕は慌てて、そこを離れる。

 夏祭りだ、と僕は思った。しかしながらただ一つ、それは決定的なものを欠いている。

 そこは、全くの無人なのだ。

 ただ、賑やかさだけが充満していた。

 屋台も、熱気も、喧噪さえも、何もかもが、空っぽだった。


   ※


 ――正式名称を省略し「さん」「様」などの敬称、愛称をつけた祭りの通り名は多く見られる……。

 講義を終えて、満員電車の座席に座り、例の文庫本を読み始める。内容は、教授の話と概ね同じようなものだった。

 カラカラトントン、トントントン……。僕は無意識のうちに口ずさむ。何となく、あの夜の神楽の音色が頭にしがみついて離れない。トンカラトントン、トカトントン……。違う、と僕は否定した。もう少し、重みがあったように思われる。

 シャラシャラカンカン、トンカラトン。

 カラカラカンカン、トントントン。

 思い出そうとする度に、記憶は鮮明さを欠いていく。

 電車はやがて目的の駅に滑り込んだ。生ぬるい風に、排気ガスの臭いが染みついている。人混みの中を歩きながら、僕はつい先日まで目の前にあった、故郷の夜を思い出す。全く、都会の夜は五月蠅すぎた。これではまるで、太陽への冒涜だ……。

 自宅は、駅から三十分ほど歩いた先に位置している。人気の少ない、小さな古いアパートだった。鉄製の階段を登っていく。表面の塗料が浮いていて、一歩一歩を踏み出すごとに、パキパキ鳴きながらひび割れた。

 自室の扉は酷く重い。飲みさしのビール。読みかけの本。敷きっぱなしの布団は冷えて、朝との連続性を中途半端に失っていた。まるで、ここが自分の居場所ではないような……自分の世界とは、決定的に異なっているような……そんな違和感。

 ――カタカタ、トントン、カタトントン、トンカタ、トントン、トントントントン……。

 不意に、脳裏に件の神楽が響き渡った。これだ! と僕は叫ぶ。それこそが、僕の聞いた音色だった。軽やかに、単純で、心に響く明るい調べ。一体これを、どうして忘れることが出来たのだろう?

 携帯電話が着信を知らせたのは、その時だった。


 ――君の故郷の伝承について、少しこちらで調べてみたんだ。

 開口一番、教授はそんな風なことを口にした。

「大したものはないでしょう。ありふれた田舎に過ぎませんよ」

 トンカタトン、カタトントン……。

 ところがそうでもないんだよ、と、彼女はやや緊迫した声で僕に告げる。

 ――あの辺りは昔から、呪術関連の伝承が多くてね。土地そのものの伝説に関して、確かに先行研究は見当たらなかった。その一方、周辺地域の文献の中で、触れられることが多いのさ。

「呪術と言いますと、卑弥呼みたいなやつですか」

 カタカタカンカン、トントンカタトン……。

 ――そういう感じ。……この辺りになると、学者としてではなく一人の人間として話さなければならないが……君の体験した「おまつり」が、本物だと仮定すると、一体、誰が何の目的で……そして「どこで」開いたのかが問題になる。こちらで確認した限り、君の村には本来神社が存在しない。寺もだよ。信じがたいことだがね、現在の村民が初詣に通っているのは、明治に統合された隣村のものなんだ。これは駅のすぐ近く、平地にある平凡な奴さ。……しかし、君は確かに山の中でソレを見た。その上、周辺地域の伝承を見ても、何か特別な霊地があったことは確実だ。……とすれば、君が見たのは大昔に忘れられた信仰の場所だと、そう言う以外に方法はない。地図にさえ載らなかった太古のソレは……下手をすれば、古神道まで遡るぞ。もはや神社と呼ぶのが妥当であるかどうかすら、怪しくなってくるだろう。

 トントントンカタ、カタカタトントン……。

 さて、と教授は、より一層の緊迫感を伴って、こんな言葉を口にする。

 ――ところで、だ。さっきから聞こえているこの神楽の音は一体何だ? ……よもや魅入られたのでは、あるまいな?

 突然、ぶつりと電話が切れた。

 扉の鍵が独りでに開く。

 神楽の音色と喧噪と、熱気が室内に充満している。


  ※


 あの夜。僕は広場の中央に、巨大な岩倉を発見した。小さな石でぐるりと囲まれ、何か神聖なものである、と言った雰囲気を漂わせる巨岩の姿は、まさに古神道のソレだろう。……では、一体僕はなぜ、教授にそれを語らなかったか? 僕はいつから、アレに魅入られていたのだろうか?

 ゆらりと扉が独りでに開く。そこに、見知ったアパートの廊下は存在しない。遠く隔てた故郷の地の……あの広場がたたずんでいた。賑やかな、そして無人の円形が、そこには横たわっているのだった。

 中央の岩をぐるりと囲い、人の気配が感じられる。踊っている。歌っている。笑っている。祈っている……。ただ、そこには誰もいない。

 ふと、教授の本を想起した。

 ――村落のような共同体の崩壊の後、祭礼は、都市民の統合の儀礼としての機能を強化した。宗教的意味は建前となり、山車の曳行や芸能の披露といった娯楽性が重視される。このとき、「まつり」を行う者と鑑賞する者とが分化した……。

 そして一方この祭りでは、行う者が信仰の対象と同一化したと……つまりはそういうことなのだろうか。あるいはこれが、本来のあり方だったのかも分からない。

 兎にも角にも、信仰される対象が、それとして力を維持していくには、信者の存在が不可欠だ。ただ祭祀を行うだけでは十分ではない。あの岩倉は、自ら開いた夏祭りの内側に、僕を必要としているのだろう。

 一体どうして僕だったのか? 偶然か、あるいは何かの必然なのか……。答えはどこにもありはしない。それともあの巨岩なら、何か教えてくれるのだろうか。

 部屋を出る。

 広場に出る。

 無数の屋台が、まばゆい輝きを向けている。喧噪が、熱気が、僕の存在によって意味を持つ……。

 携帯電話が着信を知らせる。

 電源を切って投げ捨てた。

 神楽の音色が大きくなって、頭の中を一杯に満たす。衝動が、強く内側から溢れ出た。抗うことは許されない、僕はあの岩倉を、強く信仰しなければならない……。

 ――これが果たして、本当に自分の意志なのかは分からないが。

 僕は静かに、誰も知らない太古の舞を、巨岩のために踊り始めた。


 ばたん。


 アパートの扉の、鍵が閉まった。

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