落蟲流水

名取有無

落蟲流水


【落花流水】(らっかりゅうすい)

①花が散り、水が流れること。転じて、廃り衰えること。

②男女双方が慕いあい、相思相愛であること。



 深い森の中、雨が激しく降り続く。轟々と鳴る濁流の如き雨水と血に塗れ、背の低い木から儚げな白い花がぽたりと落ちた。真っ赤な地面にまぶされた、白い花と緑の葉。アカネから流れ出る鮮血がだんだんと広がり、世界を赤く染めてゆく。絶え間ない雨音が世界を包み、華奢な四肢がだらんと空間を押し込める。僕の恋人の赤と長い黒髪、生命溢れる植物の白と緑。刻一刻と変化を続ける反対色。もう時刻は朝だというのに、どす黒い雨雲に覆われて薄暗かった。

 ああ、そうだ。アカネは暗闇を嫌がっていた。すっかり日が沈んでしまった部活帰りなどに、アカネがふと見せるあの怯えたような表情が好きだった。

「大丈夫だよ」僕はいつもそう言って、アカネの震える手をとった。アカネの手は小さく、冷たかった。彼女に頼られるのが僕の幸せだった。木の葉がぱらぱらと雨を弾いていた。


「あ…………かね、ちゃん……?」


 僕らの沈黙を破ったのは、アンリだった。雨の降る轟音に混じって隣でびちゃっと音がする。アンリは傘を投げ出し、ぬかるんだ地へ膝をついた。ブツブツ何かをつぶやきながら、ただひたすらにアカネを見ていた。全身が雨と泥と血にまみれてなお、その瞳はアカネしか捉えていなかった。僕とアンリとアカネだけの世界が広がっていた。


「―――――…………」


 傘に突き刺さる鈍い雨音が、ひどく思考を鈍らせる。薄いビニールで世界と僕とが隔てられていた。とめどなく流れてくるくすんだ赤。退屈でありふれたドラマでも見ているかのような、どこか俯瞰した視点。アカネならこんなドラマはチャンネルを変えたいと言うだろう。その遠慮気味な声が聞こえるかのようだ。どこか遠くで雷が鳴った。いつ光ったのか、僕はそんなことも分からなかった。眼の前で織りなされるアートが、僕の心と思考を奪ってゆく。

 木々の深い碧と澱んだ赤を背に、ふとアンリが目の端に映った。アンリは焦点の定まらない目でだらしなく口を開いていた。あんなに気を使っていた化粧は青く無残に流れ落ち、ふわふわしていたアンリの髪の毛は、昔と同じベッタリとした垢抜けない髪型へと変わっていた。出逢った頃のアカネも同じような、いかにも地味といった髪型をしていたのを思い出した。そんなアカネを、高校生らしい彼女に変えてきた軌跡を懐かしく思った。

 その時。低い雨音の間を縫うような、プーンと耳障りな高い羽音とともに、右手に蚊がとまった。顔をしかめ条件反射的に叩き潰した。手に付いた血を払う。小さい頃から繰り返してきたその行為に、しかし、どういうわけか心がざわつくのを感じた。

 アカネは虫が尋常じゃなく嫌いだった。というか、憎んでいた。小さい頃に蟻に噛まれて以来、虫という虫が全て嫌いになったらしいが、詳しくは知らない。だが、アカネの浮かべる微笑が、その話をするときだけひどく強張ってしまうのはよく知っていた。

 初めて一緒にホテルに泊まった日の朝、僕らの枕元に一匹のハエが現れた。今思えば大した大きさではなかった。小さいハエが僕らの枕の隅で手をこすっていた、というだけの話だ。だが、アカネはそれを見るやいなや、短く声にならない声を上げ、鬼か悪魔でも見たかのような形相で、僕に抱きついてきた。一糸まとわぬ姿のまま涙を流して震えながら、両手両足で僕を掴んで離さなかった。

 しばらくして、僕がハエをゴミ箱に捨てた後、アカネは低い声で言った。死んでも虫には触れたくない、と。

 雷鳴が轟いた。僕は手についた朱色を凝視した。何だろう、この違和感は。僕はアカネを見た。そして、また手を見た。こびりついた死と血。アカネの顔が脳裏に浮かぶ。僕の手の上には蚊の死がある。無惨に潰された、惨めだがありふれた死。そしてそれを彩る血。

 今僕らが踏みつけているのは一体誰の……?

「―――――――…………!」

 ふいに全身に冷気が流れた。思わず手を強く払った。こすってもこすっても、組織まで侵される感覚が消えない。気づくと僕の体はびしょ濡れで、皮膚の奥までどろどろとなにかが染み込んでいた。ビニールの安っぽい傘は滝のような雨に耐えられなかったようだ。ぶるりと身震いをした。体の熱がどんどん奪われてゆく。傘を放り捨てた。同時に、今の現実がじっくりと、だんだん速度を増してなだれ込んできた。僕の体はどんどん冷えてゆく。呼吸が苦しい。心臓が潰れそうだ。僕はそらしていた目をアカネに向けた。寒くて仕方がない。彼女を前に、現実が、心臓まで達した。

「っ―――――――――‼」

 こらえきれず僕は膝をついた。荒い呼吸と心拍と共に、僕の心の脆い部分が鷲掴まれていた。

 絶えることなく雨は降り続ける。僕らは雨が体中を冷やしていくのも気にせず、地に膝をつけていた。僕たちは、ただ呆然とアカネを見つめていた。血と雨と木々の香りが僕の精神をざわつかせる。また、世界が薄皮一枚で隔てられているように感じた。どこか遠くで蛙が鳴いている気がした。

「―――――どうして…………」 

 ぽつり。僕はそうつぶやいた。

「アカネが、どうして…………」

 ざわめく森の片隅で、僕は遠くを――本当に遠くへ過ぎ去ったものを――見つめていた。


 アカネと僕が出会ったのは今年の春、高校の入学しばらくしてからだった。とても高校生らしくない、つまらない日々のある朝。学校の廊下をため息がちに歩いていた僕は、ふと偶然アカネを見かけたのだ。名前くらいは知っていたが、小柄で黒髪の、あまり目立たない女子。アカネに対して石ころ程度のそういった印象しか抱いていなかった。だが、なぜだろう。僕はアカネを見て、胸が踊るのをありありと感じた。俗に言う一目惚れってやつだろうか。僕はアカネに声をかけた。

「君は……アカネさん、だったよね」

「え?うん。どうしたの?■■■くん。」

「あ、名前、知っててくれたんだ。目立たないタイプだと思ってたのに」

「そんなの当たり前じゃない。■■■くんの名前くらい皆知ってるよ」

「ハハハ、それもそっか。ところでさ。昨日のドラマ面白くなかった?」

「え?あれ見てたんだ!ちょっと意外。■■■くんってあんまりそういうイメージがなくて」

「それは酷いな〜。僕だってドラマくらいは見るよ。昨日は主人公役の俳優の名演に惚れたね。なぜか僕までドキドキしちゃってさ」

「え〜。■■■くんああいうのが好きなんだ?あんな行動しといてそれは意外すぎるな。私の友達にも彼が好きな、アンリって娘がいるんだけど、じゃあアンリの恋敵だね。三角関係だ」

「頼むから変な誤解しないで……。僕が好きなのは可愛い女の子。そこは譲らないよ」

「ふふふ、そっか。まあ知ってたけどね」

 ほぼ初対面の僕らは、他愛のない会話を続けた。女子と話すのが不慣れな僕は、自分の思いを裏切らないために、はやる気持ちを押さえつけた。だが、限界というのはやって来る。僕らが出会ってしばらくの談笑もしないうちに、僕の口からこぼれ出た。

「好きです」

 しばらく沈黙が流れた。ああ、やってしまった。僕は後悔で埋め尽くされた。もう少し仲良くなってからのつもりで取っておいたその言葉を、何度繰り返しても学習なく衝動的に口に出す自分の悪癖にほとほと嫌気が差した。永遠のような一瞬。僕は脳内で頭を抱えていた。しかし、アカネは頬を赤らめ、小さな口を開いた。

「………いいよ」

「え!?」

「付き合っても、いいよ」

 今でも、あの時のアカネの言葉が信じられない。そしてあの時の幸せも、僕は今でも忘れられない。高校生らしい青春の1ページ。あの時から僕の生活は変わった。高校生らしい、バラ色の日々をアカネと過ごしていた。アカネは少し内向的だったけど、付き合っていくうちにだんだん他人にも心を開くようになっていった。僕自身も、アカネの紹介で色々な人に出会った。アンリもその一人だ。女友達なんて全く居なかった僕に機会を与えてくれたアカネは、いろいろな意味で僕の救世主だった。


 雷鳴。かなり近くで落ちた。僕は驚きで少し震えた。

 その時だった。ぽんと僕の肩に何かが乗った。反射で体が震えた。知らず知らずのうちに雨風の寒さで微動していた体が、何かと共鳴したかのように震えを抑えきれなくなった。

「逃げないで」

 背後から無機質な声がした。声そのものに聞き覚えこそあれ、冷える体を忘れさせるほど冷たいその声は、彼女のイメージからはかけ離れすぎていた。震えを堪え、僕は振り返った。

「現実をみて」

 僕の肩は手が置かれていた。ガタガタと歯がなる。視線を上に向けていった。ベッタリとした長い黒髪。完全に流れ落ちた化粧。水が滴る前髪の間から垣間見える鋭い視線が、僕の目をしっかりと捉えていた。そこには、アンリが立っていた。

 かっと数多の雨粒が一斉に燦めく。雷鳴が遅れて鳴り響いた。

 アンリは肩に乗っていた手をどけ、そのまま前方を指した。僕はゆっくりとアンリが指す方へ目を向けた。

「アカネは、もう死んでる」

 指の先は、濁流に呑み込まれかけているアカネを指していた。

「■■■は、アカネをどう思ってた?」

 感情が著しく欠けた、微かだが響く声。それに対し、僕は何も言葉を発せなかった。感情の乗らない、純粋な意志のエネルギーを凝縮したような声に、僕は怯えていた。

「想ってた?」

「好きだった?」

「愛してた?」

 アンリはクスリと笑った。

「でも――――」

 ここまで言うと、俄にアンリは僕の頭を掴み―――――ひどく冷たい手だった――――がっしりと鷲掴みにすると、無理やり半回転させ、己の顔を近づけてきた。アンリは僕の目を覗き込んだ。混乱の中で、僕はゾッとした。彼女の目は、深淵のようにどす黒い色だった。

「それは、■■■自身が本当の本当に思ってること?」

 どこかでまた雷が落ちた。雷鳴が耳をつんざく。

 アンリは手を離した。

「……」

 僕はアンリから目をそらした。本当の本当に思っている。そんなことを他人に決められるはずがない。僕は拳を握りしめた。段々と大きく心臓が鳴っていくのを感じる。自らが生やしたはずの薔薇が、心に棘を刺していた。

 「―――――――」

 アンリは何か言ったようだが、土砂降りの轟音にかき消されてよく聞こえなかった。

 しばらくの間アンリは黙っていた。視線を動かさず、雨に打たれても動かず、人形のように黙っていた。僕は激しくなる動悸を抑えつけていた。線のような雨が木々の葉に弾かれ、あたり一面に散らばっていた。しばらく、雨音が一面を覆っていた。

 突如、稲光が世界を包む。一瞬の後、轟音が僕とアンリの間の沈黙を破った。

 アンリが口を開いた。

「違う」

 ぽつり。アンリは薄暗い虚空を見上げながら、呟くような声で言った。

「■■■のそれは、愛とは言わないよ」

 今度は轟音の中でもはっきりと聞こえた。

「――――っ!?」

 くしゃりと、心の脆い部分を握り潰されたような気がした。躰が熱くなるのを感じる。雨のせいなのか、呼吸が苦しい。短く息を吸い、吐いた。何度もそれを繰り返した。そして僕は地面を殴りつけ、立ち上がった。

「愛って……アカネへの愛だろ」

「…………」アンリは表情のないまま沈黙を守る。その沈黙が何を指すのか、ひたすら声を限りにアンリに怒りをぶつけた。

「それは!それだけは違う!僕はアカネのことを愛している!」雨音に負けじと叫び、雨に歪められる視界を超え、アンリを睨みつけた。アンリの皮膚はひどく雨に濡れていたが、僕の目を引きつける黒い瞳の奥底には乾いた世界が広がっていた。

 甲虫の羽音が聞こえてくる。雨足がさらに強まったようだ。アンリは大きくため息をつき、冷ややかな視線を僕に向けた。

「―――その態度は、醜いよ」そう言って首を振った。

「―――なんのことだ」

 アンリはまた大きなため息をついた。心の底から溢れるようなため息だった。そして、僕を憐れむかのように目を伏せた。

「その欲望を―――愛とは呼んじゃいけない」

―――――アンリが何を言っているのか。僕には全く分からなかった。分からない。そう、分からないはずだった。

「は……?」

 一瞬の狼狽を抑えて拳を握った。強く握ったつもりだったが、指が冷えているせいか握っている気がしなかった。

 アンリはなおも続ける。

「■■■は、本当の愛を知らない。自己顕示欲、承認欲。なんとでも呼べばいいと思う。なぜ彼女を作ったかというと―――」

「うるさい黙れ!!お前に僕の何がわかる!!」思わず大声で叫んだ。だが、アンリは眉一つ動かさなかった。

「――――全て」アンリは冷淡に言いはなった。

「………」言葉が、出なかった。興奮した脳が反論を試みていたが、口から出る前にシャットアウトされていた。僕の心が嘘はつけないと震えていた。



 今年の春。僕は高校生という甘美な響きに心踊らせていた。いじめ、不登校、成績不良、親の離婚……。暗黒の中学時代を送ってきた僕にとって、高校生ほど待ち望んだものはなかった。自宅から離れた高校に通い、人間関係をリセットした。高校生であれば、全部解決する。そんな気がしていた。

 だが、その一方で、重い看板を背負う圧迫感を感じていた。〜が許されるのは中学まで。そんな言葉を腐るほど聞いた。友達がいなかった僕は、人一倍高校生になるために勤しんでいた。当然、中学時代のことは嘘で塗り固めた。

 入学して数日たち、高校生としての生活が送れていると思っていた頃だった。

「そういや、お前今彼女いんの?」

 いつもの放課後の雑談。唐突に振られた話題に、僕は固まった。女子と話すのすらまだままならないのに、彼女などいるはずも、いたはずもない。だが、高校生としてそんなことが許されるだろうか。僕の中には、否という答えしか存在しなかった。

 結果、僕はいつものように嘘をついた。

「い、いるよ!」

 曖昧な作り笑いを浮かべた。これも、いつものように。

「てか高校生にもなっていないわけ……」

 だが、僕の喋りはそこで止まった。

「―――――え?」

「――――なあ」冷たい声がした。

「それ、嘘だろ。そういうのやめろよ」

 僕は気づいてしまった。周りの視線がひどく冷めていることに。冷や汗が額を流れる。

「黙ってたけど、全部分かるからな」

 グループのトップが言った。その目は明らかに軽蔑に嗤っていた。

「……え?なんのこと?わかんないんだけど、なあ?」

 僕は引きつった愛想笑いを浮かべて隣の友人を見た。親友のこいつなら、僕を助けてくれると信じていた。心拍数の増大を全身に感じた。

「―――お前さあ」だが、期待は届かなかった。

「その――――いつも嘘つくよな。」彼もまた、他の奴らと同じ目をしていた。

「彼女なんていないんだろ?恥ずかしくないのかよ、高校生の癖にさ」

 嘲笑が教室内に響く。僕は背に氷の刃を突きつけられたように感じた。ごまかすこともできたはずだが、僕はそうしなかった。できなかった。逃げるように教室から駆け出した。彼らから、ではなく、現実から。

 高校生が出来ていると思っていた僕は、自分が所詮偽物にすぎない事を痛感させられた。順風満帆な高校生活は、その終わりを告げた。僕はその日は誰とも話さなかった。一人で泣いていた。

 翌日。僕は腫らした目で一人学校へ自転車を漕いだ。傍らに誰もいない登校は少し前までは当たり前だったのに、なぜか痛いほど惨めだった。いつもよりずっと早い時間。教室へ上り、鞄を置いて廊下に立った。

 階段を誰かが歩いてくるのが見えた。隣のクラスの話したこともない女子だった。名前も知らないその女子に、僕は大声で言った。恥じらいよりも焦りが勝っていた。

「僕と付き合って下さい!」

 僕は気づいたのだ。嘘で塗り固めた「高校生」は失敗した。ならば、自分で引き寄せる他ない。彼女さえ作れれば僕は高校生になれる。ならば、手段など選んでいられなかった。女は恐怖でも感じているかのような顔を浮かべ、走り去っていった。

 要するに僕はもう誰でも良かったのだ。彼女になれる、つまり女性でさえあれば人間を問わなかった。

 それを始めて数日。クラスの中でも、僕のことは噂になっていた。誰彼かまわず告白する男がいると。あのときと同じで、僕はクラスの中で浮いていた。だが、なんとしてでも彼女を作りたかった僕は、周囲の評価など一切気にせずそれを続けた。彼女が出来て「高校生」になればみんな僕を認めてくれるから。

 そして、更に数日後。ある雨の日のことだった。

「………いいよ」

 頬を赤く染めながら、そう言ってきた女子生徒がいた。驚いて彼女の顔を見た。道で歩いていても直ぐに忘れてしまいそうな個性のない顔をしていた。だが、それでも良かった。女であることが何より大切だった。それが僕とアカネの出会いだった。今考えればアカネも同じだったのだろう。アカネにとって僕は、高校生になるために彼氏が欲しかったところに丁度飛び込んできた一匹の虫だった訳だ。彼氏彼女は、いて楽しいものではなく、いないといけないものだったのだ。人権の証明証であり、マストアクセサリーだった。そして、名字を知らぬまま付き合い始めた。僕は彼女を失わないように一生懸命いい彼氏を演じた。幻滅させないよう、予習に予習を重ねた。僕にとって一番怖いのは、彼女がいない状況に成り下がってしまうことでしかなかった。


「――――黙れ黙れ黙れ!」硬直を破り、僕は大声で怒鳴った。

「お前に僕の何が分かる!」地面を雨粒が駆け回る。風も吹いてきて、体の芯から凍えていく。

「僕はアカネを愛してるんだ!誰がなんと言おうと!」

「.........」アンリは黙っていた。目を伏せ、ポツリと何か呟いた。雨風で聞こえるはずのない大きさなのに、僕の耳にははっきり届いた。

「―――かわいそうに……」

 それきり、アンリは黙って目を伏せた。

「―――……ざ……っけるな!」

 僕はアンリを全力で殴りつけた。高校生にあるまじき、女に手をあげるという行為。だがそこになんの手応えもなく、ただ僕の拳を痛めただけだった。アンリは微動だにしなかった。

「――おい、なんとか言えよ!」僕はアンリを睨んで叫んだ。その声は、木霊も残さず木々の間へと虚しく消えていった。土砂降りの雨の音だけが、変わることなく響いていた。

 ――――――ぼとり。

 突然異質な音が聞こえた。

「え……?」声が零れる。

 微かだが、何かが落ちるような……

 ――――――ぼとり。

 気づいた。その音は、アカネから出ている。アカネから、何かが落ちている。

 また出てきた。止まらない。

 ――――――ぼとり。

 溢れ出たのは、赤い虫。雨に濡れ、色が落ちる。白い虫。アカネのめくれた服の中の、ちぎれた皮膚。水滴で隠しきれないほどの存在感がある傷口。その間から見える、赤く染まった物体。黄色いブヨブヨした物体。硬そうな白い物体。そして、蠢く無数の虫。アカネが見たら卒倒してしまうだろう数の新たな生命が、アカネの身体で息づいていた。

 ゴトリ、と何かが倒れたような音がした。今度はなんの音かすぐに気づいた。僕は息を呑んだ。

――――アカネの首が、もげていた。水に濡れて溶ける紙のように、体がふやけ、虫に食われ、重さを支えきれなくなっていた。頭はゴロゴロと転がり、僕の足の横で止まった。輪郭はぐじゃぐじゃとして、目は外れ、鼻は欠け、口からは汚水が流れ出ていた。首元から蛆虫が這い出した。もはや人間の顔の形をしていなかった。人間というより、汚物。触るのすら躊躇するもの。それが人間だとは、愛する彼女だとは思えなかった。

 いや、そもそも最初から――――

 いきなり、ドサッとアカネの体が転がった。傷口から、うじゃうじゃと赤い小虫が這い出していた。羽が生え、足があり、さっきとは違う虫だった。僕の体にも登ってきた。足へ不快にまとわりつく。

 眩い閃光が走った。数秒後、全てを蹴散らすような音。

「―――■■■は、どうする?」アンリはやっと口を開いた。アンリの周りにも虫が飛び交っていたが、まるでそれが見えていないかのようだった。

 死体の背中の傷は広がり、体の中身が雨で濡れていた。決して他人に見せることのない全てをさらけ出していた。死体の中でカサカサと動くなにかも、すぐに姿を消した。

「――――――……」

 僕は自分が悲しみを感じていないことに気づいた。感じているのは、悲しまなきゃという脅迫感。悲しむべきという思考に圧迫される苦しさ。そうして自分を騙すなんとも言えない不快感。全て、自分の中で完結していた。

「……」黙って首を横に振った。

「……そう」アンリはまた黙った。空を見た。僕も釣られて空を見た。一面暗雲に覆われていた。激しい雨粒が目に入りそうで、目を瞑った。遠くで雷の音がする。光って、落ちて、消える。頭に何かが浮かんだ気がしたが、轟音で打ち消された。

 傍らには死骸が一つ。雨でどんどん崩れていく。足に羽虫が登ってくる。その虫を払った。払った手に何匹かついてきた。無意識にその虫を潰し、殺した。中から大量の血液が流れ出した。

 僕は目を閉じた。何を考えていた訳ではない。ただ消し去りたかった。僕の心に巣食うこれを。受け入れるにはあまりに歪な、押し殺すにはあまりに自然な、これを。


「…ァ……」


 どこかから、微かに声が聞こえた。僕はぱっと目を開け、辺りを見回した。誰もいない。鬱蒼と茂る森の中、何も動かず、喋ない。ここにいるのは、僕だけだった。そう、僕だけだった。

「――――アンリ…………………!?」

 僕は地を見下ろし、息を呑んだ。アンリは、彼女のいた場所にそのまま仰向けに倒れていた。周囲で鮮血が濁流と化し、折れた枝が目から喉にかけて貫通していた。苦痛に歪む暇もなかったのだろう、その顔は、全くの無表情であった。頭にカマキリが乗っていた。アンリの長い髪を引っ掛けて遊んでいるかのようだった。そのカマキリも、雨が嫌いなのかすぐに去っていった。アンリは、死んでいた。

 僕は何もせず、ただ立っていた。どうしてか、心中は不気味な穏やかさに満ちていた。雷鳴が鳴り響き、豪風大雨の中で、僕は一人、また目を閉じた。


 アンリは、アカネの友達だった。僕らが付き合い始めた頃、アカネの紹介で出会った。女友達というアクセサリーが欲しかった。初対面は駅前の喫茶店。明らかに異性なれしていない僕を前に、アカネがどうにか場を持たせている状態だった。

 苦心した甲斐ありなんとか女友達を獲得できた。一緒にいて楽しい人だからとか、話が合って面白いとか、そういうことじゃない。アンリが女であるというただそれだけでアンリを友達に据えた。

 アンリの顔が伏せられた今、アンリの顔、体、全てまるでどうでもいいことだったかのように、もう全く思い出すことができなかった。


 僕はまた足元の死骸を見た。生きていないことは明らかだった。早くもその中でゴソゴソと動き出すものがあった。生きていくため必死で蠢いていた。ここに転がっているのは、もうただの死骸で、肉塊だった。決して、アンリではなかった。

 

 僕は少し笑うと、一つ伸びをした。体がとてつもなく冷えて、今にも死にそうであった。しかし、心は軽かった。何か抱えていた重荷を下ろせたような、そんな軽さをしていた。手の血や泥を払い、 僕は死骸2つを尻目に歩みを進めた。一歩一歩、水たまりを跳ね上がらせながら進んでいく。ふと足元を見た。すると、赤と茶色に塗れた靴に、白い花びらが付いているのに気づいた。アカネと一緒に雨に流されていたのを足が堰き止めていたのだろう。僕は反対の靴で擦って落とした。ぐちゃぐちゃになった花びらは、水の流れに沿って下っていった。

 しばらく歩いていると、雨に身をさらす事が急にひどく不快になった。僕は自分の傘を捨ててしまった事をひどく後悔した。死骸のそばに傘が転がっていたのを思い出し、踵を返して先程の場所に戻った。果たして、傘は仰向けの死骸のそばに転がっていた。僕は少しかがんでそれを拾い上げる。死骸の上で、無数の虫たちが雨に逆らい羽ばたき蠢いていた。大部分は流されていたが、一部は雨に負けず、死骸の下に潜り込んでいた。すぐに傘を開き、帰りの道へと足を進めた。傘ごしの雨音が、ざわついた心を少し落ち着かせてくれる気がした。

 山の半ば辺りで、ふと足につく小虫が気になった。見ると、ズボンの折り曲げた裾にも赤く染まった蛆虫が這いずりまわっている。おそらく必死に雨から逃れてきた虫たちなのだろう。僕は傘を放り、少しかがんで、虫を一匹残さず全部叩き潰した。僕の手で全て殺した。すると、虫の体液と一緒に溢れ出るものがあった。見慣れた赤い液体。ブヨブヨの黄色いもの。僕の手にこびりついてきた。

 「――――――――……」

 僕は滝のように降る雨に手をかざした。神に祈るような姿勢で、雨に任せ、手の汚物を流していた。

 しばらくそうした後、傘を拾ってまた歩きだした。汚れた手は降り続く大雨が全て洗い流してくれた。何も考えず、ただ歩いていた。水たまりを踏みしめ、僕は下へ下へと進み続ける。水の流れはどんどん速くなっていく。僕の手から流れ落ちた全てが、もう二度と取り戻せないどこかへと消えていった。

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