少女のホワイトクリスマス
水棲サラマンダー
雪の降る夜
夕方から降り続けた雪は、既に足首の高さまで積もっていた。
止むこともなく、吹雪くこともなく、町の全てを覆い隠していく。
両側に花の咲いた大通りも、クリスマスを祝っている家々も、町の中心の時計塔も。
全てが等しく雪に包まれる。
そして、通りを歩く少女も例外ではない。
降り始めには子供達の歓喜が響いた通りも、この時間となっては、家々から声が微かに聞こえてくるだけ。
少女の周りにだけ、裸足で雪を踏みしめる音が聞こえていた。
もう子供達はベッドに入っていてもおかしくないだろう。
窓から家を覗けば、二人きりで酒を飲む夫婦や、後片付けをする使用人の姿が見える。
少女に帰る場所はない。
彼女の生きている証は、肌に触れて溶ける雪と、後ろに付けてきた足跡、それしかない。
父も母も、家も暖炉もご馳走もない。
暖かいベッドも優しいハグも、なんにもない。
少女が持つものはない。
服の上に羽織ったボロのマントを持ち物と言い張ったとしても、それしかない。
父も母も、靴も手袋も食べ物もない。
マッチの一箱すらもない。
少女はただ歩き続ける。
道と街灯に従って足を動かす。
それだけ。
明日の朝食のメニューも、来週友達と会う約束も、来月の家族旅行のことも、来年産まれる子供のことも、将来なりたい仕事も。
窓から見える人々と違って、少女は考えない。
なぜ理由もないのに歩き続けるのか。
このままでは、明朝に雪の下から見つかることはほぼ決まっているのに。
道の端に腰掛けても、大通りのど真ん中に寝転がっても同じなのに。
家々に恵みを求めても、時計塔から飛び降りても、何も変わらないのに。
答えは少女自身にも分からない。
一時でも長く生きた証でも残したいのか。
この期に及んで奇跡が起こるとでも思っているのだろうか。
少女は鼻で笑った。
おそらく、理由などないのだろう。
今まで歩いていたから、これからも歩こうとしている。
それだけなんだろう。
そして、家の隅の蛾のように、馬車に轢かれたバッタのように、雪の下に埋もれて終わるだけ。
それだけ。
「それだけ…………」
少女には何もないかもしれない。
それでも、二十年に満たない歳月でも、自分の人生を「それだけ」で片付けるのは嫌だった。
今ここに少女が生きた証拠は、雪に残った足跡しかない。
自分の人生が、それだけなんだと思われて死ぬのは我慢がならない。
歩き続けて、どこかで足が動かなくなって、前のめりに倒れて、終わる。
先ほどまではそれでいいと思っていた。
けれど、今は自分が何もなく死ぬのは嫌なのだ。
別に、派手な死に様を見せたいわけじゃない。
時計塔から飛び降りたって舌を噛み切ったって意味はない。
少女は道を曲がった。
コンコン。
少女は見知らぬ人の家を訪れる。これで既に六軒目。
コンコン。
もちろん、表の扉ではなく勝手口。
この時間なら使用人が出るだろうし、物乞いの対応というのは使用人の方が良く分かっている。
コンバンッ。
突然開いた扉は、少女の頭をしたたかに打ちつける。少女の細い右手では勢いを緩めることすらできなかった。
「うるっさいね、なんだい」
出てきたのは使用人と思われる女性だった。おばさんとお姉さんの間くらいの年だ。
少女は使用人の目を見つめる。
「一晩泊めていただけませんか。だめなら、一かけらのパンだけでも」
もちろんくれるとは思ってない。
ただ、できるだけ多くの家に訪れ、人々の記憶に残りたい。
それが少女の思い付いた方法。
「いや、あんたなんかにあげるパンはありゃしないね」
「そうですか。失礼します」
少女は扉を閉めて、次の家へと向かう。
これを終わるまで続ける。
「ちょっと待ちなっ!」
振り返ると、飛び出して来た使用人が手招きをしている。
「ほら寒いんだから早く」
少女は手招きに従って家の中に入った。
瞬く間に毛布をかけられ、椅子に座らせられる。
「あの、どうして?」
「あー……とりあえずこれ」
少女に渡されたカップには、ほんのりと温かい水が入っていた。
飲みな、と言いながら使用人は少女と向かいあって座った。
「ずずずずずー」
「しつこくパンをせがまれるのかと思ったら、スッといなくなるからさ」
「ずずずず、はい」
「思わず昔の自分に重ねたんだよね」
使用人は少女におかわりを出す。
その目は少女を向いているが、別のものを見ているようだった。
「あたしもさ、十二年前かな、あんたみたいに町を彷徨ってた。思ってたよ、今夜自分は死ぬんだってね」
「ごきゅごきゅごきゅ」
「でもさ、一人のメイドさんが水と食べ物をくれて。仕事までもらった。おかげで私はここにいる」
「ぷはっ」
もう一杯おかわりを出して、ついでに自分の分も用意する。
じっと水面を見つめた後に口を付けた。
その様子を見つめていた少女もまた、カップを口に運ぶ。
「普段はこんなことしないんだけどね、なぜか呼び留めずにはいられなかった」
「ごっごっごっ」
「……よく飲むねぇ。そこのパンも食べていいよ」
「ありがとうごさいます」
使用人はチキンとサラダも差し出す。
使用人の夕食は少女の腹に消えることになりそうだ。
「あたしは仕事どころか、一晩の宿も用意できないけどさ」
「もしゃもしゃもしゃ」
少女の目を見つめ、言葉を迷いながら言った。
「諦めるんじゃないよ」
「……はい」
雪はまだ、静かに落ちてくる。
先ほどと違うのは、裸足で通りを歩む少女の腹が膨れているかどうか、それだけ。
少女の頬を一粒の雫が流れた。
さっき別の使用人に追い出されてから、少女は涙が止まらなかった。
「諦めるな」
ポツリと、彼女の言葉を繰り返す。
生きたい者にとっては励ましの言葉でも、終わるつもりの者にとっては何の価値もない言葉。
「諦めるな」
白い吐息。
少女が生きている証拠がまた一つ増えた。
少女は本当に今夜、終わるつもりだったのだ。ただ、一人でも多くの記憶に残りたい一心で扉を叩いただけなのに。
なぜかこの言葉は少女の心に残り、繰り返し口を飛び出している。
「ふふふ」
笑ってみたら、頬が持ち上がった。
触ってみれば、ぷくっとへこむ。
前を見れば、相変わらず街灯が雪に覆われた道を照らしていた。
その光はいつもより明るく見えた。
少女は前に歩き続ける。
雪は降り続ける。
誰もいない、誰もが寝静まった真夜中に、音も立てず。
雪は全てを覆い隠していく。
明け方まで降り続き、大人の膝に届くほどになった。
まもなく、通りには子供の歓喜が響き、大人のため息は空に消えるだろう。
足跡一つない真っ白な道に、日の光が降り注いだ。
少女のホワイトクリスマス 水棲サラマンダー @rupa_witch
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