第17話 小繍の巻
それから二十余の年月が橘の上を無為に過ぎていった。誰とも婚わることもなく、兄である帝の目を避け、目立たぬように日々を過ごしていた或る秋の日の事である。橘が庭の菊の手入れをしているとその傍らに青海郎女がすっと近寄って語り掛けてきた。
「立派な菊でございますこと」
声に驚いた橘は危うく枝を断つ刃を取り落とすところであった。
「お褒めに預かるようなものではございませぬけれど」
青海郎女に小さく頭を下げると、橘は菊を見渡した。四。五十ほどの株に白や黄色の花が咲き乱れている。
「菊を育てる方は初めてみましたよ」
「野に咲く花でございますから」
その頃は未だ菊を愛でるという風習はない。ただ野にある花を橘が植え替えて育てているだけである。
「菊の花は盛りのようですけど・・・。帝はそろそろいけないようでございますよ。朝倉の宮から、そう報せがございました」
「そう・・・ですか」
栄耀を極めた帝が病に臥せったのはその年の夏である。その子、
ふと、目の前にある一輪の白菊を手に持った刃で断ち切りたいという激情が心の奥底で蠢き、その衝動を抑えるように橘は刃をそっと土の上に置いた。自分の指が湧きあがった激情にまだ震えているのを見ながら橘は静かに言った。
「私たちも老いてしまいました」
さきほどの断ち切りたいと願った菊花を橘は両の手で包み込んだ。指の震えはそれで収まった。
「そうですね」
橘の心の裡を悟ってか、青海郎女は頷いた。
「帝も齢をお取りになられた・・・そう言う事でございましょう」
「ええ、でもあなたの兄上です。見舞いに行かなくてもよろしいのですか?」
青海郎女の問いに橘はゆっくりと首を横に振った。
「兄はもう私のことなど覚えていないでしょう。それにお会いしても私は兄に殺された他の兄弟の事を思い出すばかりでございます」
「そう・・・」
「市辺の御子さまの事も・・・。今までお話したことはございませんでしたが、私もあのお方を好いておりました」
一昔前であったら、口が裂けても自らの思いを言う筈がなかったのに・・・、と橘はあっさりとそれを口に出した自分を不思議に思った。
「・・・。そうですか。それを聞いて兄は喜んでいましょう」
秋空に浮かぶ薄い雲を見上げると青海郎女は小さく頷いた。
「あなたたちはこの世で結ばれることはなかったけれど・・・。私はあなたのことを妹だと、そう思っておりますよ」
結婚することもなく年老いた二人の女が菊を挟んで思いに浸っている。
帝が崩御して一年後、新帝も病に臥せった。日継の子はおらず、世情は得体のしれない不安に覆われていた。
そんなある日、刺し子をしている最中に急に眠気を覚え、橘は夢を見た。
どことも見知らぬ場所を橘は歩いている。その先に粗末とは言えぬが、こじんまりとした家があり戸が開いている。そこから
「ここはどこかしら?」
「あら、橘ではないですか」
見るとそこにいたのは姉である。
「まあ、お姉さま」
橘の声に、奥にいた男が顔を出した。木梨の兄である。よく見れば先ほどの女の子は兄にそっくりである。男の子でなかったために気付かなかったのだ。
「橘か。会いたかったぞ」
冬衣も木梨の兄も昔の
「お兄さま・・・」
呆気に取られている橘に向かってにこりと微笑みかけると、
「お前とは打ち解けて話す機会もなかったが・・・冬衣が大層世話になったらしいな。妻はいつもその話をしておる」
木梨の兄は寛いだ様子で、ささ、と招き入れると橘に座を勧めた。
「お二人はご一緒に暮らしておられるのですね。いったいここはどこなのでございますか?」
「さあな、どこと聞かれてもよくは知らぬ。出雲の国に来ようとして辿り着いた場所なのだが・・・」
そう言うと昔を懐かしむように目を細めた。
「宮からの追手を避けてここにやってきて、どれほどになるか」
「もう二十五年になりますよ」
橘の言葉に驚いたように、
「そんなになるか・・・」
妻と目を見合わせ、兄は呟いた。
「大長谷の兄は
橘の言葉に、いや、と首を振って
「ここでの暮らしは捨てがたい。もう戻るつもりはないのだよ」
そう言った兄の言葉に姉も頷いている。
「でも・・・今の帝は大長谷の兄さまの子であらせられますが、お体が勝れず子もございません。戻って来られれば・・・」
だが兄は首を振ると
「戻ったとして、何が得られるであろうか。失うものばかりだ」
と辺りを見回した。その視線の先には子供と妻とのささやかながら豊かな暮らしがある。物一つ、置き方一つ、何をとっても行き届いた心が滲み出ている風情である。
「今は何をなされているのですか?」
「日が昇れば畑に出て耕す、日が落ちれば家で妻と子供たちと一緒におる。幸せな暮らしだよ」
快活に答えた兄はしかし、ふと眉を顰めると
「だが、気がかりなことが一つあってな。もしかしたらその気持ちがお前に伝わって、ここにお前を招いたのかもしれぬ」
と口にした。
「なんでございましょう」
尋ねた橘に兄は少し言い難そうに答えた。
「・・・残してきた子のことだ」
「え?」
「伊余の国で・・・。実は私たちはひとり子を儲けたのですよ」
冬衣が話を引き取った。
「まあ」
橘は驚きの声を上げた。その頃の兄と姉は心で結ばれているだけだと思っていたのである。だが、よく考えてみればもはや身寄りのない惹かれ合っていた二人が苦しい暮らしの中で身を寄せ合ったとして、それを非難するほど橘も子供ではなかった。姉は寂しげに微笑み、
「宮の追手が来ると告げられて、勇魚という国衙のお役人に紹介して頂いた人に預けたのですが・・・。あの子も今は二十五の年となっているのですね」
しんみりと呟いた。
「願いがあるとすれば、その子がどうなっているのか知りたいのだ。幼名は鶴と言うのだが・・・」
兄が訴えかけるような眼で橘を見た。
「分かりました。できる限りの事をしてみましょう」
橘が請け合うと兄は嬉しそうに白い歯を見せた。
「もし、見つけたらその子に伝えておくれ。
「ヲホド・・・でございますか?」
うむ、と兄は頷くと、近くにあった筆で木の札に意本杼と字を書いた。
「伯父上の名を偲ぶ・・・そのような名が良い」
大冨杼王の事を兄は言っているのだ、と橘は気づいた。あんなことがあったにも関わらず兄は伯父のことを悪くは思っていないのか?
「本当にその名でよいのですか?伯父さまは・・・兄上を捕えたお方ですよ」
橘の問いに兄は苦しそうに頷いた。
「伯父上は・・・。いや、何でもない。とにかくそう伝えてくれ」
「分かりました。ではそのように致しましょう」
「頼むぞ。もしや、その子は体を継ぐ子になるかもしれぬ、そうこの国の
「体を継ぐ?この国の命?」
橘の問うような言葉に、うむ、と曖昧に頷くと兄は
「さあ、もうお帰り。あまり長くこの場所に留まるのは良くない」
夫の言葉に冬衣も頷くと、
「あなたには本当に世話になりました。もっとお話をしたかったのですけど」
と寂しげな表情をした。その寂しげな表情がすっと溶けるように闇に隠れ行くのを目の当たりにしながら、橘は何かを叫んだような気がする。
橘は目を醒ました。辺りが騒がしい。
「帝がおかくれになられたそうだぞ」
どこかで声がして、橘は床から飛び跳ねるように立ち上がった。
宮は
「いずれの王を帝にするべきか」
というのが宮人の今や大きな関心事である。
「大雀命の血筋はもうどこにもいないのです」
青海郎女は宮人たちが帰って行くと疲れたような表情で橘に語り掛けた。
「もっとも兄の子供たちが生きていれば別ですが」
「まだ御子たちは見つかりませぬのですか?」
橘の問いに青海郎女郎女は黙ったまま首を振った。
「生きているのか死んでいるのかそれさえ分からぬのです。どちらか分かればそれでもしようがあるのでしょうが・・・」
万一、新しい帝を選んだ後に生きていることが分かれば、それはそれで禍根を残す。それに必死に逃がした甥がどこかで野垂れ死にしていると認めたくない青海郎女の心の
「万一、どこかでお亡くなりになっていたとして・・・」
それでも青海郎女はその時の事を考えているようであった。
「さらに一代前の
直接の血筋を辿ったとしても既に四代、五代を経た王は帝として相応しい血筋と教育を受けてはいない。それどころか、その血筋もいささかあやふやになる。
「寧ろ、その人柄を基に血筋が薄くても帝を選ぶべきではないかという声もあります」
「例えば・・・?」
「
静かにそう答えた青海郎女の声は張りがなかった。
「そうなのですか?」
志毗臣は
「宮人は周りに集まっているようですが・・・」
帝が不在となった伊波礼の宮では宮人たちは列を成して志毗臣の門に集うのだという。だが、その状況を苦々しく思っている人も少なくないとも聞く。人柄と言うよりその権勢に、火に集う虫のように群がっているとの噂も絶えぬ。
「時に乗じて帝の位を
そう言うと、青海郎女は天を仰いだ。
「でもそんなに長くは待てませんわね」
「お姉さま、お話があるのですけれど・・・」
橘は夢で見た兄と姉の話を青海郎女にした。
「まぁ」
目を瞠るようにしてしげしげと橘を見つめた青海郎女は、少し考えると、
「それでは、あなたはそのお子をお探しなさい」
と命じ、突然刺すような眼になると、
「もし見つけたなら、品陀和気命の末ということにしてあなたがお匿いなさい」
と厳しい声で言った。
「それは・・・?」
橘の問いに青海郎女は口を引き結んだまま、
「今は帝の血を引く者は私やあなたのような女しかおりませぬ。その女たちが考えねばならぬ時でございますよ。とにかく今、伊波礼で勝手に考えておるようなことを許してはなりませぬ」
と言葉を続けたのであった。
橘は密やかに伊余へ人を遣り兄たちの子を探す作業に取り掛かった。あからさまに調べることはできないので、まずは気の利いた者を国衙に送り、大前小前宿祢の生前の仕事の調査という形で役人たちを調べをさせることとしたのである。
伊余の 役人たちの口は重かったのは大前小前宿祢に賂と共に口を封じられていたからであるが、やがてそのうちの一人が遣わされた者に勇魚という下役の男の話をぽつりぽつりと語り始めた。当時の帝も大前小前宿祢が既にこの世にいないという事がその口を開かせたのである。
だが、それは聞けば聞くほど不思議な話で、その話を持ち帰った者に橘は何度となく聞き返したくらいである。
「それではそのご老人は鯨の化身であったということですか」
「さて・・・それは。ただ宿祢が笞打ちのあと、男の申したことに腹を立て斬れと命ずると突然鯨に変じたというのは、事実だそうでございます。鯨の化身であったのか、或いは神が鯨の姿を借りたのか、そこまでは・・・」
「さようですか」
息を呑むと、
「で、宿祢は兄たちが死んだと申していたようですが、それは事実なのですか?」
と橘は問い続けた。
「宿祢の申し立てでは岬より身を投げたとの事でございますが、御子の姿を見たものはこの国衙には誰一人ございません。正直なところ分からぬというのが真相でございましょう」
「そうですか・・・」
やはり兄たちは生き延びているに違いないと思い青海郎女に相談をして、更に葛城の家の者を遣わして子供の捜索をさせることとし、橘自身は
その願掛けから戻ったその日、青海郎女が紅潮した顔で橘のもとを訪れた。
「兄の子たちが見つかったやもしれませぬ」
「まあ」
旅の疲れも忘れ、橘は青海郎女の手を取った。
「どちらで?」
「新たに任じた
「そうなのでございますか・・・」
「さっそく、人を遣ってこの宮へ迎えることにしました。あなたもぜひ会ってやってくださいな」
「ええ、もちろんでございます」
橘の思い出にある市辺忍歯王の子供たちはまだほんの小さな男の子である。長い歳月と貧しい暮らしが、その子供たちをどのように変えたのか想像もつかない。だが、報せでは二人とも健やかで、堂々と自分たちは市辺忍歯王の息子だと堂々と名乗ったという事であった。
「別れ際に私が持たせた太刀も隠し持っていたそうです。きっとあの子たちに相違ありません」
「良かったですこと」
「もちろん、気を抜くことはできません。伊波礼の宮ではどう思うか・・・」
伊波礼の
それを押しとどめてきたのは葛城の家と青海郎女の存在と、帝に近しい血筋を引く者がまだ生きているかもしれないという事実である。亡くなった帝の叔母である橘が先の帝の血筋として高木角刺宮に留まっているのも、本人の思いは別として、重しになっている
しかし、より近い血筋が生きているからと言って、今まで策動してきた者たちが一気に市辺忍歯命の子供を帝として快く認めるかは分からない。日継の者はいずれ帝になることを前提に宮のうちで人間関係を築く。針間で馬を養っていたという素性も不利であった。
だが、戻って来た二人を見て青海郎女も橘も胸を撫でおろした。長い間賤しい身分に身を落としていたにも関わらず二人の兄弟は互いを庇い合いながら辛い日々を耐え忍んできただけあって、忍耐の心と謙譲の美徳を兼ね備えていた。
伊波礼の
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