第16話 大紫の巻


大前小前宿祢は焦っていた。伊余に着いたはいいが、肝心の木梨皇子が逃亡してしまっていたのである。すぐに人を遣って辺りを徹底的に捜索させたのだが木梨皇子の消息せうそこは一向に聞こえてこなかった。

国衙の役人から皇子が時折地元の者ではない美しい女のもとに通っていたと聞き、その女の人相を尋ねるとまさに冬衣その人であった。近くに住んでいたと知り、その場所にも兵を遣わせたのだがこちらも既にもぬけの殻であった。

そこで木梨皇子を世話していたという、勇魚という老人を捕えて二人の居所を問い質したのだが、老人は知らぬ存ぜぬと抗弁するばかりであった。

「いったいどこに逃げたのだ」

宿祢は白いものの混じり始めた口髭を苛立たしげに震わせている。伊余の国は南を山に囲まれ、北の方は穏やかな海に面している。海沿いに開けた土地は道沿いに人を散々遣わして確かめたのだがそれらしい二人連れを見たものはいなかった。おそらくは山へ逃げ込んだか海を渡ったに違いない、と大前小前宿祢は踏んでいる。

「もう一度、あの老人を責めてみるしかないか」

せめて海に逃げたか、山に籠ったかが分からねば居所を探る兵が分散してしまう。海沿いに建てられた国衙の建物から島の点在する海を望みつつ、この島々を伝って逃げたのだろうかと宿祢は眼前の海を睨んでいる。


勇魚老人は後ろ手を縛られていたが、端然とした佇まいで大前小前宿祢の前に座っていた。笞を手にした役人が老人の背に控えている。

わずらわせてくださるな、ご老人」

と大前小前宿祢は猫なで声で老人に語り掛けた。

「せめて、海に逃げたか、山に逃げたか、それだけでも教えてくれぬか?」

老人は無言で目の前の貴人を見つめた。その澄んだ眼差しが大前小前宿祢を苛立たせた。

「笞を打て」

非情な声で大前小前宿祢は命じた。笞役人が容赦なく笞を振るうと痩せた老人の体は右、左とかしぎ、やがて、笞に耐えきれずに、どうと倒れた。その体に近づくと宿祢は、

「体に堪える歳ではないか。無理をするでない」

と再び優し気な声を出した。老人は床にべったりとついていた面を僅かに揚げ、何かを囁いた。

「うん、何じゃ」

ついに居所を吐く気になったかと、大前小前宿祢は耳を老人に近づけた。その耳に

「お主は無法に族を殺し帝についたあの大長谷を助けるために木梨皇子を売った張本人であるな」

と言う声が聞こえた。

「何を言う」

宿祢の声は震え、こやつ、何者?と目を剥いた。だが老人は表情を変えるでもなく淡々と続けた。

「神を偽り、人を殺し、兄弟を追う、そのような者が帝に相応しいわけはない。やがて神の怒りに触れその族は滅びるであろう。お前も同罪じゃ。そのように帝に伝えよ」

大前小前宿祢は目を吊り上げた。頬は怒りで紅潮している。

「無礼者、こやつの頸を斬れ」

怒鳴った宿祢であったが、ふと先ほどまでしなびていた老人の体が少しずつ膨らんでいくように思え、目でもおかしくなったのかと凝然ぎょうぜんと老人を見据えた。

見間違えではなかった。老人が着ていた粗末な服はあっという間にはちきれんばかりに伸びると、ぱつっという音とともに弾けた。

「な、なんだ?」

恐れ慄いた役人たちが我先にと国衙の建物から転びでるように逃げ出したが、大前小前宿祢は足が竦んで身動きさえできなかった。

「わしの頸を斬るか?頸はどこだ」

と大音声で問う姿はもはや老人のそれではない。神の声か天の声か、耳を破らんかとする大音声である。

「大長谷命に申し伝えよ。わしはもも足らず八十垧手やそくまでの隠れ処より常に見ておると。の主の末はたちまち細り、その墓は荒らされるぞ。よく覚えておくがよい、とな」

言うなり鯨は跳ねた。国衙の建物は音を立て崩れ、自由になった鯨は更に二三度と跳ねると大きな飛沫をあげ、海へと隠れた。

「大丈夫でございますか?」

離れた所に逃げていた役人たちが駆け寄り、腰が抜けたままへたり込んでいる大前小前宿祢の手を取ったが、宿祢は声もなく鯨の消えていった方角を虚ろな目で見守っているばかりであった。その先にある海に鯨の姿はもはやない。穏やかな波が岸を洗うだけである。


「お前さま・・・もう少しゆっくりと」

声を上げた女に

「やあ、すまぬ」

と頭をかいて、男は立ち止まった。

「もうすぐ出雲につくかと思うと、気がいてな」

女の手を取ると、

「ここらで少し休むとするか」

「ええ・・・」

女は眩しそうに男を見上げた。

「それにしても驚いたな、鯨が海を渡らせてくれるとは・・・。勇魚という名ではあったがまさか鯨を飼いならしているとは思わなかった」

「不思議なご老人でございましたね」

女は頷いた。

「身寄りの方が出雲におられるとおっしゃっておいででしたけど・・・本当にお世話になって宜しいのでしょうか?」

「なに、構わぬさ」

「でも・・・」

女の目線は、遠く来た道を辿っている。

「赤子の事か・・・」

「ええ」

男は頷いた。

「何、心配することはあるまい。あの男の言うことを聞いておけばきっと丸く収まる」

勇魚と言う老人が若い夫婦に子供を預けるように手配したのは遠い親戚の、子供が産まれぬ若い夫婦という事であった。その夫婦に抱かれた子供は両親との別れに泣くこともなく、旅立つ両親をじっと見つめていた。

それを思い出したのか、うっと、泣き出した妻の肩に手を置くと、

「さように声をたてて泣くではない。人に気付かれてしまうぞ。波佐はざの鳩のようにこらえるがよい」

と夫は言った。波佐の鳩とは、山道を越える途中、その土地で見たつがいの鳩である。互いに咽喉を震わせ啼きあっている鳩を見て、

「互いに見つめ合って泣いている・・・まるで私たちのようでございますね」

呟いた女に、鳩は泣いておらぬ、堪えておるのじゃ、と男は答えたのである。声を上げて泣けばその泣き声で追手に捕えられてしまおう、とも言った。

そうでございますね、と女は脇を通り過ぎたばかりの鳩を振り返ると、番の鳩はそれを待っていたかのように並んで空へと飛び立った。

「さあ、出雲はもう近い」

妻を立たせると、男はその手を取り出雲への路を歩き始めた。その後、この若い夫婦の姿を見た者はいない。


宮へと戻った大前小前宿祢は、帝に二人は伊余の岬から身を投げて死んだと虚偽いつはりの報告を奏上したきり、宮へ参上することを止めた。老人の言った言葉をそのまま帝に告げれば命は危うい。そればかりか、いずれは二人が実際には身など投げていないことを話さねばならぬ。帝を欺き続ける自信はなかった。これでは命がいくらあっても足りぬと考え、宿祢は病と称して邸に籠り続けたのである。

その十日後、宿祢は夢を見た。あの時の老人が同じ姿のまま現れ、

「なぜ帝にわしの言ったことを告げぬ」

と詰ってくる夢である。

「無理だ・・・」

宿祢は必死に抗った。

「さような事を申せば帝はわしに死をたまうに違いない。わしはまだ死にたくない」

そう叫んだ宿祢を半眼でじっと見つめると老人は無言で、まさにあの時と同じように身を膨らませると宿祢にのし掛かって来た。

「やめろ、やめてくれ」

大声を張り上げた宿祢であったが、止めることはできなかった。

その夜、畿内で起きた地震は大きな被害を及ぼしたが、一番の被害は大前小前宿祢の邸が潰れ、宿祢自身が邸の下敷きとなって圧死したことであった。


帝に敵対する者は、もはや一人として残っていない。だが、一方で帝の血筋を引く者の数も多くなかった。大后との間に子は生まれなかった。女の子はいくたりか育ったが、男子は僅かに訶良比売との間に生まれた子が一人いるだけである。何人か宮中に引き入れた女たちとの間にもなかなか子が産まれず、殊に男の子に限っては生まれると直ぐ身罷ってしまうのである。だが、男の子が一人いればその子を日継にすればよいのだと、帝はその子を慈しんでいる。

木梨皇子が死んだという報告と共に、市辺忍歯王を滅ぼしたことで帝位は安泰となったと考えたのか、それともさすがに妹の身を哀れと思ったのか、橘に対する監視は徐々に緩やかなものとなり、やがて外に出ることも許されるようになった。

そうは言っても、もはや、橘が頼ることのできる人はいない。帝の謀を語ってもそれに対抗する勢力などどこにも残っていないのである。下手なことをすれば、他の兄弟たちと同じ目に遭わぬとも限らない。

やがて、宮を出て暮らすことを許された橘は青海郎女のもとで暮らし始めた。青海郎女も兄を失い、その子供である甥たちも逃げた先は分からず一人きりの身の上である。最初に外に出るのを許された時、橘が真っ先に訪れたのは青海郎女であった。会うなり涙を流し、

「お兄上さまは・・・お気の毒な事をいたしました。もう少し早くお伝え出来たなら・・・」

と言った橘の袖を取って、

「いえ、あなたが悪いのではありません」

と青海郎女も涙に暮れた。

「でも、帝は私の兄です。私の兄が・・・市辺の御子さまを・・・」

と口籠った橘に、

「あなたもたくさんの兄弟を失われたのです。私と同じ身の上」

と慰めた青海郎女は、

「もし、宮を出ることができるようになったら私と一緒にお暮しになるがよい。宮では暮らしにくいでしょう」

と誘ってくれた。その言葉に甘えたのである。


「市辺の御子さまのお子さまは・・・まだ見つからないのですか」

橘の問いに青海郎女は力無げに首を振った。

「それと悟られぬように人を遣っているのですが、まだ・・・。おおっぴらにできませぬし、もし見つかったとしても・・・」

その言葉の先に、見つかったとしても帝にそれを知られれば、間違いなく不幸が二人の身に降りかかることを案じている気持ちが言葉の端に滲み出ている。

「そうですか・・・そうですね」

橘は頷いた。

「不思議な話を聞いたのですよ」

青海郎女は話題を変えた。

「先だって、帝は葛城かづらきの山へと行幸なされたのですが、その時に山を登る人々の行列が見えたそうです」

「はい」

橘は頷いた。

「その行列は青摺あをずりの衣に赤い結び紐をして、行幸の行列と全く同じ衣装だったそうです」

「え?」

橘は首を傾げた。帝に向かってそのような行列を組むものなどいるのだろうか?

「帝はたいそう御腹立ちになられたそうです。ご存知でしょう?昔、河内志畿かふちしきの大県主の身に起こったできごとを」

志畿の大県主の出来事と言うのはやはり天皇の行幸の時に、志畿を通った時、その大県主の邸に宮と同じ鰹木かつをぎが渡されているのを見て、帝が大層立腹したという話である。大県主は邸を打ち壊し、賄と一頭の大切にしていた猟犬をあがなうことで漸く許されたという。いかにも兄らしい仕打ちだとその話を聞いた時ため息が出たのを橘は思い出した。

「ご自分のものより良いものや同じものを見るとあのお方は許せないようですね」

青海郎女は溜息を吐いた。

「ええ」

橘は目を伏せた。

「もっとも、民が帝を真似、無駄に贅沢をしてはいけないんでしょうが」

と青海郎女は言ったが、橘は無言で首を横に振った。兄の暴虐は民を諫めるというたぐいのものではない、と、その眼は語っている。橘の頑なな眼を見て青海郎女は、ふっと微笑むと、

「その行列に向かって帝は、『この国に王は私一人、なぜおまえたちは私たちと同じそのようななりで私の目の前に現れた。一体お前たちは何者だ』と怒鳴られたそうでございます。ですが向こうからも同じような返答があり、互いににらみ合っていくさ寸前になったそうでございますよ」

と話を続けた。

「それで・・・?」

橘は先を促した。あの兄に向かって、そのようなことを言い放つ勇気を持つものがいるとは・・・。

「向こうの方々は吉兆も悪い兆しも一言で言い放つ、葛城之一言主大神かづらきのひとことぬしのおほかみと名乗られたそうでございます」

青海郎女はそう続けた。

「葛城之一言主・・・?」

「ええ」

青海郎女は微笑んだ。

「わたくしの母方の家は葛城・・・でも今までそのような神様の名前は聞いたことが御座いません」

青海郎女の曽祖父は葛城之曽都比古かづらきのそつひこという。名臣と謳われた建内宿祢の子である。

「帝から葛城の家にご下問があったそうです。葛城では、確かにその神が実在すると答えたようですけど・・・」

「はい・・・?」

なぜそんな答えをしたのであろう?聞いたことのない神がいるとなど・・・。橘の不思議そうな顔を見て、青海郎女は頷いた。

「そのような神はおらぬなどと申したら、帝がどのようなことをなさるかしれぬでしょう?神ということであれば、穏便にすみます」

「それは・・・そうですね・・・」

橘は頷いた。確かに・・・。もしそれが神のしわざでないとしたら、帝は草の根を分けてでも探ろうとするに違いない。

「ただ・・・、葛城の家ではそれを吉兆と見たようでございますよ」

「吉兆ですか?」

「ええ。一言主大神と名乗られたのは、おそらく事代主神・・・あの大国主命のお子さまであろうと。大国主命が事あらば、もも足らず八十垧やそくまから戻られ、世を糺すという話を聞いたことがございましょう?」

「ええ」

その話は昔、父から聞いたことがある。父はそれを帝が守るべき大切な道標しるべとおっしゃっていた。

「葛城では、そのように考えているようです。やがて、あの時逃がした子供たちが戻ってこの国を正してくれるのではないかと」

「そうでございますか」

「でも本当に生きているのか・・・」

暗闇へと粗末ななりで隠れるように逃げていった甥たちの姿を思い浮かべたのか、青海郎女は急に放心したような表情を浮かべた。

「きっとどこかで・・・生き延びておられましょう」

元気づけるように橘は答えた。

その瞼の裏に浮かんでいるのは兄と姉の姿である。大前小前宿祢大臣は帝に、確かにその二人は死んだと告げたが、橘にはその二人も、また、どこかでまだ生きているような気がしてならなかった。

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