第15話 小紫の巻


その日、事実上幽閉されていた橘を初めて訪れた人があった。事実上というのは、橘が宮の奥深くにある建物に一人、周りに帝の命を受けた屈強の者ばかりを配して監視されていたからである。鍵をしたというのではないが、彼らの目をぬすんで外に出ることは不可能であった。

帝は橘を外に出さぬだけではなく、外部からの訪問も許さなかった。理由は心の病である。実際は病気ではないのだが、あの一連の出来事で心を病んだという名目を付ければ皆、そんなものかと納得した。

今まで開いたことがない戸が、そっと開けられ中に入って来たのは青海郎女あをみのいらつめである。又の名で飯豊郎女いひどよのいらつめとも呼ばれるこの姫は市辺忍歯命の妹である。

「橘比売さま・・・?」

そっと声を掛けたのはやはりあたりをはばかっているようであった。

「青海さま?」

かねてよりそれほど親しいというわけでもないその訪問者に橘は目を見開いた。

「そうでございますよ・・・。あら、良かった。帝のお話ではとても具合が悪いというお話でしたのに・・・やはりそれほどでもないのですね」

微笑みながら入って来た人に、

「どうやってこちらに?」

と尋ねた橘の目がきらきらと大きく見えるのは以前より痩せたからだろうと青海郎女は思った。

「どうして・・・?とお聞きにならないのですか」

笑って青海郎女は尋ねた。

「・・・どうして?」

橘は鸚鵡返おうむかえしのように聞いた。

「兄に頼まれたのですよ」

「市辺の御子様に?」

「ええ、そういえば橘比売はどうしていらっしゃるか、と兄は心配なされて・・・。兄は今、独り身ですから」

市辺忍歯には子供が二人いるが、その妻は二人目の子供を産んだ後に病死している。

「でも・・・どうやって」

思わせぶりな青海郎女の言葉よりも橘にはその方が知りたかった。兄の帝の監視はこの一年、緩まることはなかったのである。

「帝は今、淡海に行幸なされているのです。その隙をついて見舞って来いと兄に言われたのですよ。貴女を見張っている者の中に私の子供の頃の知り合いがおりまして。その人があなたに密かに同情されていたのです。あなたが病とはとても思えぬと・・・」

「行幸・・・」

「ええ、初めての・・・・帝はこの一年、ずっと宮で国を御纏めになるようにたいそうお働きでいらしたから」

「そうですか」

「といってもなかなか大変でしたのよ。目を潜り抜けてここまで来るのは、まいないやらも。市辺の兄も無茶をおっしゃいます」

青海郎女は悪戯っぽくそう言った。おそらく、それなりの財を使ったに違いない。

「市辺の御子さまがですか・・・」

かつて心を寄せたことのある人の名前を久しぶりに聞いた橘の心はようやくときめいた。

「ええ、本当なら兄が忍んでまいりたいところだったのでしょうが、お会いするように私が言いつかったのですよ。行幸のついでに狩りということで兄も一緒に参りましたから」

「ご一緒に?」

一瞬で橘は蒼ざめた。

「大長谷の兄と・・・帝とご一緒に、狩へと?」

橘の様子に青海郎女は狼狽したように橘を見つめた。心の病という言葉が脳裏をかすめたに違いない。

「それでは、市辺の御子の御命が危のうございます」

袖をつかんで、低い声と共に向けてくる橘の眼差しを、呆気にとられたように青海郎女は見つめている。


「それは本当の事なのですか」

聞き終えた青海郎女の顔は蒼ざめ、唇は戦慄わなないている。

「ええ」

橘は頷いた。

「その事に私が気づいていると思っているからこそ兄は、帝は私の事を幽閉しているのです」

青海郎女はもう一度橘の目を見つめた。その眼差しは澄んでいて力強い。とても心を病んでいる人のものとは思えなかった。

「どうしたらいいのでしょう・・・」

途方に暮れたように青海郎女は呟いた。橘はその耳に囁いた。

「何はともあれ、御子のお子さまたちを逃がしなされませ。兄は容赦ございませぬ。御子たちにも害が及ばないとは限りません・・・いえ、間違いなく」

青海郎女は震えながら頷いた。

「でも・・・どこへ」

「まずは早くお戻りになられて支度なされませ。兄は果断でございます。そして誰か心の利いたものに狩りの先へ追わせ、できれば市辺の御子もお逃がしなされませ。命さえあれば何とか次の方策もございましょう」

先帝が崩御したその日のうちに、たちまち黒日子王、白日子王を滅ぼし目弱王までも征伐した兄の事を思い、橘は青海郎女を強く促した。

「わかりました」

急いで帰って行く青海郎女の後ろ姿を眺めながら橘は、

「間に合うと良いけれど・・・」

と呟いた。その時になって青海郎女がやって来たその理由を思い返し、橘の頬に血が昇った。昔、姉とお似合いだと思った市辺の御子であるが、それはとりもなおさずその頃市辺の御子を自分自身が憧れの目で見ていたことに他ならない。その人が自分を妻の候補の一人と考えていたというだけで、血が沸き上がるような思いがしたのである。

「本当に・・・間に合ってくれればいいのだけど」


だが、橘の恐れていた以上に兄は素早かった。青海郎女が橘を訪れたその日の朝、既に事態は進展していたのである。

狩りに出た帝一行は、前日淡海に着くと、其々それぞれ仮宮を設けて夜営をした。夜が明け、いち早く目覚めた市辺忍歯命は狩りの衣装に着替え仮宮を出た。待ち切れなかったのである。前日、帝の仮宮を訪れた時、それでは翌朝、と別れ際に言った時、帝はうむ、と確かに頷いた。

意気揚々と馬を率いて帝の仮宮につけたが、しかしそこはひっそりと静まったままであった。

狩を行うのは朝か夕のどちらかである。まだ寝ているとしたら朝の狩に間に合わぬであろうと、市辺忍歯命は腹を立てた。見ると、衛兵が仮宮の前で休んでいる。その男たちを叩き起こし、

「せっかく狩に来たのに何をなされている。獲物がいなくなってしまうぞ、と伝えなされ。私はもう行くぞ」

と言い放つと、馬を走らせ野へと駆けだしたのである。その言い様が多少、ぶっきらぼうであったのはすっぽかされた腹立ちが納まっていなかったからであろう。叱咤された男たちはぶつくさ不平を零しながら起き上がった。彼らは、狩は夕刻にするので朝は起こすなと命じられていたからである。

傍に控える者たちを通してその話を聞くと、帝は目を伏せ、

「で・・・市辺の御子の様子はどうであった?」

と尋ねさせた。衛兵たちは、

「たいそう御腹立ちの様子で、このように申されておりました」

と市辺忍歯命が言ったそのままを伝えた。ふむ、と帝は頷くと、

あや無き様子であったか?」

と重ねて尋ねた。男たちは曖昧に頷いた。それを見るなり、帝は

「いかに先帝の御子とはいえ、帝に対して無礼な口のきき様は許されぬ。よし、皇子の申された通り狩をしようぞ。但し、狩の獲物は猪でもない、鹿でもない。市辺忍歯命自身ぞ」

と号令した。衛兵たちは自分たちの言葉がそのような事態を招くと思ってもいなかったので呆気に取られたが、帝の部下たちは忽ちのうちに狩の支度を整えた。まるで朝の狩があらかじめ決まっていたの如くである。呆気に取られたままの衛兵たちが、

「市辺忍歯命はどちらへと向かった」

と尋ねられたままに指を指すと、その方向へと帝を先頭に兵たちは馬を速駆けさせていく。


狩の獲物を探しつつ、ゆっくりと馬を走らせていた市辺忍歯命は後方から近付いてきた馬の足音ににやりと笑った。

「漸く起きてきなさったか。だが最初の獲物は私が戴くことにしよう」

と呟いたがふと不審を感じて後ろを振り向いた。狩にしては、ずいぶんと大勢ではないか、これでは獲物が逃げてしまうぞ、と思ったのである。そして背後からもうもうと砂を巻き上げながら近づいてくる集団を見、

「これは狩ではない。まるで戦ではないか」

と慌てると、市辺忍歯命は馬の腹を蹴った。だが、時は既に遅かった。駆け始めた馬の速度はまだ遅く、後ろの馬のひづめの音はどんどんと近づいてくる。

「気がおかしくなったのか?」

叫びながらさらに懸命に馬の腹を蹴る市辺忍歯命に次々と矢が襲い掛かった。その一つが頸の真ん中を貫いて、走り続ける馬の背からどう、と音を立てて体が落ちた。その上を次々と馬が駆け抜けていった。


青海郎女が発した使者が転げるようにして戻ったのは、その日の夕刻であった。市辺忍歯命の二人の息子を念のため、自らの邸に引き取っておいた青海郎女はその様子を見ただけで何が起きたのかを悟った。

「帝の・・・帝の兵が命の御邸を取り囲んでおります。市辺の皇子様は帝のお怒りを買って薨じられたとのこと・・・」

息も絶え絶えでそう報せた使者に水を与えると、すぐに二人の甥を呼んで、

「そなたたちの父は帝に討たれました。悲しんでいる間はありませぬ。どこか良い隠れ場所を手配してあげればよかったのですが、もうそんなことをしている時もないのです。すぐにここからお逃げなさい」

さかしげな眼をくるりと見合わせると、兄の方が、

「では叔母さま、衣装を変えさせてください。このようななりではすぐに見つかってしまいます」

と答えた。

「そうですね・・・」

うまやいぬの衣装が良いな。私がもらってきます」

弟がそう言うと駆けだした。戌というのは馬養うまかいの息子で、二人がやって来た時にすぐに馴染んだ子供である。

「その間に、叔母さま。何か当座に食べるものを用意していただけますか?」

「おお、そうですね」

青海郎女はすぐに膳の者たちに命じて握り飯を拵えさせた。厩の子供の衣装を着て、顔に墨の粉を塗った子供たちを裏の戸から逃がした時は、すでに日は暮れていた。

闇の中に消えていく甥たちの後ろ姿を見ながら、さめざめと涙を流していた青海郎女の邸に帝配下の兵が訪れたのはそれから間もなくの事であった。

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