第14話 大錦・大徳の巻


大前小前宿祢は苛立っていた。世間は都夫良意冨美が目弱王をかばい最後はその身をなげうって守ったことを喧伝けんでんしている。事件が起きてもはや一年もたつというのにその評判はますます高くなるばかりである。

しかしそれがこの男の耳には取りも直さず木梨皇子を売り渡した自分の身をそしってるように響く。その苛立ちを爆発させるのを抑え、帝位に昇りつめた大長谷命のに呼ばれその許に参内したのは、とりもなおさず木梨皇子を捕縛した功を認められ大臣の位を賜った直後の事であった。

「大臣よ、聞くがよい」

新帝は目の前で膝をつき俯いている大臣を見据えると、後ろに控えている男に声をかけ、

「さきほどの歌をもう一度」

と命じた。は、と男は答えると、

「こもりくの泊瀬はつせの川の 上つ瀬に斎杙いくひを打ち 下つ瀬に真杙まくひを打ち 斎杙には鏡を掛け 真杙には真玉またまを掛け 真玉なす我が思ふ妹 鏡なす我がふ妻 有りと言わばこそよ 家にも行かめ 国をも偲はめ」

と朗々と詠じた。顔を上げ目をぱちくりとさせたまま歌を聴いていた大前小前宿祢は、男が詠じ終えると、

「それは・・・何でございますかな?」

と首を捻った。 

「無粋なもので、詩歌というものに通じてございませぬので」

「これは一の兄上の歌じゃ」

帝は厳かな声で答えた。

「一の兄上?」

大前小前宿祢は眉をひそめた。嫌な相手の事を聞いたという表情である。

「そうよ。そなたにに裏切られ、伊余に流された兄上の歌よ」

帝はにやりと笑みを零した。

「・・・それが何か?」

棒を呑んだような表情の大臣に、分からぬか、と帝は問いかけた。

「この歌は反逆の歌じゃ。或いは呪いの歌と言っても良い。私やそなたに対する・・・な」

「なんですと?」

ほうけたような声を出した大臣に、

「こもりくの泊瀬の川の・・・これは私のことを指す。泊瀬とは地名でなく私の名だ。川は私の子孫を表すのだろう」

泊瀬は初瀬とも長谷とも書く。大長谷を指すのであると言われればそう取れぬこともない。

「上つ瀬に斎杙を打ち 下つ瀬に真杙を打ち・・・、これは呪いの言葉だ。私や私の子孫に杙を打つということを示す、即ち滅ぼすつもりだ」

はあ、と大臣はおぼつかなげに呟いた。

「斎杙には鏡を掛け 真杙には真玉を掛け 真玉なす我が思ふ妹 鏡なす我が思ふ妻・・・鏡と玉は帝のしるし、それを私を呪う杙にかけあのお方の思い人を后と成すとのおつもりであろう」

大臣は帝の顔を見上げた。その額には薄く汗が滲んでいる。

「有りと言わばこそよ 家にも行かめ 国をも思はめ・・・これは、自分はまだ生きてここにおる。生まれた家に、つまり宮に戻られて、自分が国を治めようとお考えということを示しておられる。さようなことになれば、まず大臣など最初に首を斬られような」

帝は冗談でも言っているかのように薄く笑った。しかし、まさか・・・と大臣は呟いた。叛乱を起こそうにも木梨皇子には兵がない。想い人というのは、宮から脱走した冬衣比売のことを指しているのだろうが、その消息は途絶えており、木梨皇子の周辺に目を配らせているものの、今のところ見つかっていないのである。

「それはいささか思い過ごしではございませぬかな」

大臣は率直な感想を述べた。

「今更、木梨の廃皇子が帝位を狙うことなどございませぬでしょう。あのお方にはもはや力がございませぬ」

「大臣よ」

帝は、声を強めた。

「私が帝となるためにどれほどの時間を掛け、どれほど綿密な謀をしたか、そなたには分かっておろう」

「は・・・」

大前小前宿祢は首を垂れた。確かにそれに相違はない。

「それを守るためには僅かな遺漏も許してはならぬ。そして時が来れば果断に行動を起こす。それこそが国を治めるには必要な資質じゃ。呪いを放置しておけば、呪いは成就するかもしれぬ」

「その通りでございますな」

大臣は肩で息をついた。帝の真意がどこにあるかは既に気付いている。

「大臣よ、汝が兵を率いて叛乱の芽を摘むのだ。良いな」

帝の言葉に大臣は沈黙をもって答えたが、帝は

「私も別の仕事をせねばならぬ。それは私でなければできぬ事じゃ。なので伊余は汝に任せる。己の地位と命を守るためだと思ってしっかりと仕事をせよ」

と命じた。

「承知いたしました」

それ以外に答えはない。既に廃された皇子に言いがかりをつけて滅ぼすとなれば、只でさえ低い己のの評判は地に墜ちるに違いあるまい。とはいえ、帝の命を違えればそれこそいのちはない。それは確実だ、あのお方であれば・・・。そう考えつつ、大前小前宿祢は肩を落としたまま帰路についた。


「お前様・・・」

「どうしたのだ」

仄暗い小屋の隅で男は手に抱えた赤子をあやしながら妻を見た。

「わたくしは幸せにございます。まさかこのような幸せを・・・得ることが出来ようとは思いませんでした」

ふふ、と笑うと男は眠っている子を妻に渡し、

「このような暮らしでもか・・・?本来ならば石根に太柱立つ宮に暮らせるものを」

「そのようなもの・・・」

女は微笑むと、

「子まで授かり、その上このような健やかな」

「まことに」

と男も頷いた。

「これこそは神が授けてくれたもの」

遥か遠方からやってきた妻を迎えた時、男は最後の禁忌を犯して妻を抱いた。その妻が孕んだと聞いた時から男は悩んだ。どのような子が生まれて来るか分からなかったのである。だが産まれてきた子は五体健やかな男の子であった。

「橘に・・・感謝せざるを得ぬな」

「ほんとうに・・・」

脱走を手配したばかりか危険を冒して舟まで見送ってくれた時の橘の思い詰めたような表情を思い出し、冬衣は手をそっと合わせた。

「あの子は無事でございましょうか?」

「まさか、妹までは・・・」

と木梨は言いさしてやめた。大長谷は妻が逃げるときに黒日子を殺したのは間違いない。白日子の命もないだろうと妻は言っていた。となれば、橘も無事かどうかわからぬ。

そもそも穴穂を目弱王に殺させたのもあの者の仕業に違いあるまい・・・。もちろん自分を誣告ぶこくしたのも・・・、と更に考えて首をゆすり、苦い思いを振り落とした。

それまで見えなかった敵が実の弟だと知って改めて激しい怒りと憎悪が湧いてきたのは確かであった。突き詰めると叫びだしそうな思いも湧きあがる。しかしそれを癒してくれるのは妻である。妻がここに来なければ、実の弟が自分を裏切ったと知ることもなかったが、妻と共に暮らす喜びも得られなかった。それに伊余で暮らした歳月と知己との長い別れが皇子に現実を教えていた。もはや、もとの宮に戻ることなどできぬ。

「そろそろ戻らねばならぬ」

思いをささやかな生活に戻すと木梨は小さな声で妻に囁いた。

「そうでございますね。でももう少し、日がさしてからにされたら・・あひねの浜の牡蠣かきの殻をお踏みにならぬよう・・・」

「うむ・・・。だがあまり遅くなると目が厳しい」

そう言ってゆっくりと立ち上がると、男は眠っている赤子の頬を撫でた。

茜色に雲が染まり、波打ち際が金色に輝き始めた浜辺を急ぎ足で戻りつつ、はて、この浜をあひねの浜と呼ぶのはなぜだろうと男は考えている。あひねとは合寝ではなかろうか・・・。とつい思った自分は今となっては迂闊な幸せ者であろうか?


男の戻った先には夜が明けたばかりだというのに一人の老人が待っていた。老人の名を勇魚いさなという。

勇魚は伊余の国衙こくがの役人であるが、出自は出雲であると本人は言っている。男に家族はなく独り身であり、皇子がここに流されてきて以来、ずっと身に周りの世話と共に監視をしている役の男であった。しかし木梨の身の上話を聞き、その人柄を知ってからというもの、何かと便宜を図って来たのはこの勇魚である。男の思い人が都からやって来た時、浜を隔てた小屋に住むように手配したのもこの男なら、毎夜その妻の許へと男が出かけるのを見逃しているのも勇魚であった。

「おそうございましたな」

と勇魚は男にぶっきらぼうな口調で責めた。相手の位がどれほど高かろうとその口調ははじめの時から少しも変わらない。

「子がな・・・かわゆくてつい時を忘れたのだ。済まぬな、待たせて・・・何かあったのか?」

皇子は神妙な口調で答えた。

「悪い知らせがございます」

勇魚は鋭い視線で男を見つめた。

「今よりも悪いことがこの身に起こるというか?」

驚いたように見つめ返した男に向かって勇魚は小さく首を縦に振った

「宮の大臣が常々、こちらの動向に探りを入れて来られているのは以前に申しあげたとおりです。帝の姉御がこちらに逃げてきたのではないか、と・・・。そのたびにそのようなことはございませぬと国衙では答えて参りましたが、遂にその大臣その人がこちらに参られるそうです」

「なに?」

木梨は目をいた。

「大前小前の宿祢が・・・ここへ?」

大前小前宿祢は男を裏切って帝に差し出したその人である。男の目は瞋恚に燃えた。

「それだけではございませぬ。それにあたって軍備えを命じて参りました。あなた様を討つおつもりでございましょう」

男の体は雷に打たれたように硬直した。

「なぜだ・・・なぜ、今更」

皇子は呻いた。今の自分は妻とささやかな生活をただ送っているだけである。それを今更・・・。自分一人ならともかく今は家族がいる。己一人の覚悟でどうなるわけでもない。

男の苦悶している様子に勇魚は憐れみの視線を注いでいる。

「帝が御変わりになってから、宮のなされ方は少しずつ変わってまいりました。国衙の者共もそれを敏感に悟って、先の帝の時まではあなた様に寛容であった者たちも少しずつ風向きが変わっております」

「そうか・・・」

新しく帝についた弟の幼い頃の姿を思い浮かべながら男は、呟いた。子供の頃は素直で可愛い弟であったが・・・。

「いち早くお逃げくださいませ」

勇魚の言葉に木梨は目を上げた。

「しかし・・・」

「これから、すぐに。行き先の方にも遣いを出します」

「だが、お前は?」

もし逃がしたと知られたら、勇魚の身に何が起こるとも知れぬ、と木梨は躊躇ったがその表情を見た勇魚は微笑んだ。

「私は十分に生きました。子供もない、未練もない。名の通り勇魚として食い止めましょうぞ、大臣の軍を」

男は老人に頭を下げた。

「ですが・・・おふたりも御子は連れていけますまい。しばらくは気の利いたものに預けなさるが宜しい。私に心当たりのものがございます」


同じ頃、淡海(近江)の韓帒からふくろという者から遣いの者が宮へ参上している。遣いの者は、主人から、

「淡海の久多綿くたわたにある蚊屋野かやのというところに、猪と鹿がさわにおります。一度、狩りにおいでなさいませ」

という誘いを帝に奏上したのであった。だが・・・、その奏上をするようにと、韓帒にはかったのは帝その人である。

「良かろう」

もちろん帝は即断した。

「狩りであれば、市辺忍歯王と共に参ろう。あのお方は狩りが殊の外お好きでいらっしゃるからな」

市辺忍歯王は帝の伯父である伊耶本和気命、後に履中天皇と呼ばれた帝の息子であり今の帝にとって従兄弟にあたる。一時は日継の御子にも模された王は今でこそ有力な支持者を失ってはいたが、その男らしい振舞いに未だに密かな信奉者を持っている。年は帝よりも年長であった。帝の継承に纏わるごたごたの外にあって、いつの間にか末の弟のような齢の大長谷が台頭したのを、興味深げに、だが多少苦々しい思いで見守っていたのがこの人である。

帝からの狩りの誘いを受け取ると、

「ふむ」

と首を傾げたこの男は、単に大長谷は運よく帝の座に昇りつめたのだと考えている。昔、この人に仄かな思いを寄せた橘とて、兄の謀をこの人に告げることはなかった。そのため、新帝が巧みに兄たちを蹴落として帝の座についたことにまでは考えが及んでいない。この男のみならず、宮中で大長谷に加担した者以外、それに気づいた者はごく僅かであり、その一人である意冨々杼王は黒日子王が殺された日の夜、心の臓に発作を起こして死んでしまっていた。あの清廉な都夫良意冨美でさえ、大長谷の事を評価し、娘を嫁がせたのである。

「しかし・・・。先の帝が薨ぜられたときの振舞いは見事であったが、どうも近頃の帝は少し調子に乗られている」

というのが、帝に対する市辺忍歯王の評価である。黒日子王や白日子王を殺すまではなかっただろう、とは思うが果断に反乱者を罰したことについては悪いことではない。兄たちがその手枷、足枷になったならそれを滅ぼすのも仕方ない。

だが・・・。

帝の座に就かれて以来、自分を見る目が変わったように思える。昔は本当の弟のように従順で素直な子であったのだが、と思いを馳せる。だが今、時折自分を見る目はどこかよそよそしく冷たいものを感じる。それに妹御を幽閉されている。冬衣比売はどうやら逃げたらしいが、そのかわりに橘大郎女が心を病んだと蟄居させられているのはなぜであろう。あの娘は明るく聡明であった。今となって惜しいお方を見逃していたものだ。一度お会いしたいものだが・・・。

「しかし、まあ・・・」

旅をしながらの狩りの誘いにわざわざ呼んでくれたのを断るのも大人げない。ついでに日頃の不満を一言、二言言ってやるのもよかろうと、誘いを受けたのであった。


橘は独り逼塞ひっそくしていた。味方が周りから一人残らず消えてしまったのである。その最後の味方であった伯父の意冨々杼王の喪にやってきた大長谷は橘を冷ややかな視線で見ていたが、野辺の送りが済み宮へ戻ると近づいてきて、

「話がある」

と半ば強引に橘を率い自らの居所に連れ込むと、

「伯父上はなんと言っていた?」

と尋ねた。橘は伯父から最後に聞いた言葉をそのまま伝えた。大長谷が狂った・・・と。だが、その言葉を聞いても大長谷は皮肉そうに唇を歪め、

「伯父上も耄碌もうろくしたものだ。もしも狂ったというならこの世に生をうけたその時からだ。だが男に生まれて一の位を目指すことのどこが狂っておろう」

と呟いた。

やはり兄はずっと長い間、練りに練ってこの行動を起こしたのだ。既に宮中では次の帝に大長谷が就くという前提で全てが動きつつあった。目弱王の母である長田大郎女は弟の手の者に捕えられた。夫も、夫の死後庇護者であった先の帝ももういない。長田の姉も自分もこれからは兄の監視の下で生きていくしかないのだ。

「ところで、お前は冬衣の姉の行方を知らぬか?姉をずっと世話をしてきたのはお前であろう」

と兄は話を転じた。橘はかぶりをふった。冬衣の行方が分からぬと皆が気づいたのは事件がおきた翌々日の事であった。帝の死、目弱王の叛乱に始まり、二人の王の死と意冨々杼王の卒去しゅっきょという立て続けに起きた一連の出来事に宮中はてんやわんやの騒ぎであったのだ。その外でひっそりと暮らしていた冬衣の不在に誰も気づかなかったのも仕方がないといえよう。

帝の喪の際も冬衣に声をかけるものはいなかった。その不在に気付いたのは何を隠そう、大長谷その人である。

「ふむ・・・ならば一人で逃げたか・・・」

兄はひとりごちた。

「一人で逃げたならば、この辺りにいようものだが・・・あるいは伊余に兄上を追っていったか」

と言うと大長谷は鋭い視線を橘に送った。まるで心の中を読もうとするかのような視線に橘の心は激しく震えたが、何とか外に思いを出すことなく耐えた。やがて、ほっと息を吐くと

「お前はしばらく、宮を出るな」

兄はそう言って従者に橘を引き渡した。

それから一年、大喪たいもが明けても橘は自由に外に出してもらえない。姉とのことを疑われているのは明らかであった。そして自らが即位する前に橘が余計なことを喋らないようにするためであったのであろう。だが、即位した後も橘は解き放たれることはなかった。

「姉さまは兄さまのもとへ無事におつきになったであろうか?」

と思いつつ、それが叶ったに違いないと心を励まして橘は耐え忍んでいる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る