第13話 大錦・小徳の巻
かつて恋する二人を隔てた川は、その下流で他の川とまじりあって舟が浮かぶほどの大きな流れを作っている。その川で
笠で顔を隠し腰をかがめたまま、いつまでもこちらを見遣って別れを告げる姉の姿が小さくなっていくのを橘は
その瞼の裏には舟を待つ時の姉の嬉しそうな姿が浮かんでいる。
「まさか、あのお方ともう一度お会いすることができるとは・・・」
姉の言葉に、
「まだお会いできると決まったわけではございませぬよ。もしかしたら追手が来るかもしれませぬ。心を強くして、きっとお逃げくださいませ」
そう諭しながら橘が差し出した手に、分かりましたと呟いた姉は一粒の涙を零した。
「でも、橘・・・。あなたとはもうお別れですのね。あなたがいてくれてどんなに心強かったか。あなたの方が私より今はよほどおとな・・・」
いいえ、とかぶりを強く振り、橘は面を正して暫くの間姉を見つめると、ようやく言葉を絞り出した。
「お姉さま・・・。お気をつけて」
それ以外の言葉は見つからなかった。許されない恋の旅路へと赴く姉に本当の幸せがやってくるのか、はっきり言えば心もとない。だが、宮に残っていては、大長谷の兄は姉を質に木梨皇子を伊余から呼び寄せて死を賜るに違いないと、橘は考えた。大長谷の兄は・・・自分に降りかかる火の粉を決して許そうとなさらない。兄は長い間をかけてこの絵図を描いていたに違いあるまい。そしてやると決めたら、徹底的にやり遂げようとなさるだろう。
白日子王の命ももう失われてしまったかもしれない。そんな気がした。そして姉を逃がしたと知ったなら、この私も・・・。ぞくりと冷たいもので背中を撫でられたような気がした橘は目を見開いた。その先には姉を乗せた舟を運んでいった、滔々と流れる川が見えるだけである。
白日子王の邸では、しかし橘が想像していたのと少し異なる情景が演じられていた。
「それでは話が違う。私の方で、すべきことはしたではないか」
抑えているが、怒りの籠った声で弟を
「この上、目弱王の征討になぜ私自身が出向かねばならぬ?」
「帝となろうとされる方が軍の先頭に立つのは古来、当然のことでございます」
抑揚のない声で答えたのは大長谷である。
「しかし、目弱王に父上を
「既に黒日子王は私の方で始末いたしました。ここは互いに手を取り合っていくべきではございませぬか」
帝が日継に目弱王を考えているのではないか、と兄に囁いたのは大長谷である。それでは、筋が違う、兄上が帝になれば私が補佐をして差し上げましょう。その代わりその後は私が帝になる。
そう申し出られた時、白日子王はしばらく考えた末に頷いた。兄弟がまだ残っているというのに兄が敢えて目弱王を日継にするつもりだと聞いて
そう考えて頷いたのだが、最初から軍に担ぎ出されるのでは話が違うではないか。これでは先行きが思いやられる、と駄々をこねている。
「嫌だ。お前ひとりで片を付けて来い」
そう答えた白日子王を大長谷は睨みつけるようにして、
「どうしても反逆者を成敗なさろうとされぬか?」
と大声を上げた。
「私は行かぬ。お前ひとりでなんとかしろ」
白日子王も思わず大きな声を上げて反論した。外で聞いているものには、その声だけが聞こえた。
「ならば・・・」
大長谷は剣に手をかけた。それを見て白日子王は狼狽した。
「何をする・・・」
だが、手元に防ぐべき武器はない。例えあったとしても、使い様がない。白日子王は剣など持ったためしはないのである。
後ずさって逃げようとした白日子王の胸を剣が貫いた。恐怖のあまり目玉が飛び出んばかりに見開いた兄の死体を見ながら、大長谷は呟いた。
「もともと帝になる器量などないあなたの下に、私がつくとでも思っていたか・・・」
剣の血を死体の血で拭くと、大長谷は外で待ち構えていた自らの手下の前に現れると、
「兄上は怖気つかれて、軍へ参らぬと申した。そのような臆病者は皇統に必要ないと成敗してきた。これから帝を弑した憎きものを討ちに参るぞ」
と声を張りあげたのである。外で待っていた者たちにとって、先ほど漏れ聞こえてきた声は大長谷の宣言の正しさの
「おう」
と上がった歓声は、毅然とした自分たちの将への賛美の声である。
目弱王が頼った先は都夫良意冨美であった。人を見る目を養うのは宮廷における大切な資質の一つである。幼いながらも目弱王は宮廷の臣で信を置けるのはその男しかいないと見抜いていたのであろう。
目弱王の行き先が分かる前に、その母は既に大長谷の手で捕らえられた。弟の前に引き出された姉は、子が帝を弑したと聞いて唖然とした。
「何かの間違えです」
毅然と言い放った姉に、
「だが、姉上。目弱王が帝を弑したのは厳然とした事実です。どこに逃げ込んだか、知っておらぬか?」
大長谷は言った。
「存じませぬ。だいたいそんなことが起こるわけがありません。帝は常々、あの子を日継の御子にせぬかと仰っていたくらいです。あの子がその帝を弑するようなわけがありません」
「ほほう?」
と大長谷は姉を鋭い目で見た。
「その事を目弱王は知っていたのですか?」
「私の口からは・・・。でも帝の立居振る舞いであの子は気づいていたかもしれません」
「そうですか・・・」
冷静な口調で答えると、
「ならば、帝が自分の父を殺したと初めて知って父の恨みを晴らす一方で、そもそも約束されていた帝の地位を惜しんで自ら帝となろうとした、そう考えることもできますね」
大長谷は語気を強めた。
「まさか、そのような・・・」
姉は弟の鋭い
「あの齢で、そのような事を企むはずがございませぬ」
「だが、帝を弑されたことは紛れもない事実、血の付いた剣を持って逃げて行く王を人が見ております」
「ああ・・・」
膝から崩れ落ち、泣き叫ぶ姉を冷徹な眼差しで見ていた大長谷のもとに目弱王を探していた者たちからの使者がやってきた。ひそひそ声で話す使者の言葉を聞いていた大長谷は、目を細めると頷いた。
「目弱王の逃げた先がわかりました」
と姉に告げた。
「それはどこです?私もお連れくださいませ。私からあの子に言って聞かせましょう。すぐに投降をするように・・・」
縋るような眼で自分を見てそう言った姉に向かい、冷たい口調で、
「反逆者の母をどこかに繋いでおけ、逃がすなよ」
言い放つと大長谷は立ち上がった。
「待って、待ってください」
姉の叫ぶ声を後ろに聞きながら、
「逃げ込んだ先は都夫良意冨美の邸か・・・いささか面倒な所だ」
と大長谷は呟いた。
大長谷は波毗能大郎女を妻としているが、二人の間に子はない。もともと大長谷の思い人は都夫良意冨美の娘である訶良比売であり、子がないことを理由に訶良比売を新たに妻に迎えようと画策をしていた。だが都夫良意冨美の娘は波毗能大郎女を
「さて、どうしたものか・・・」
大長谷は腕を組みつつ馬を進めたが良い考えも浮かばぬまま邸の前に到着した。邸の門は固く閉じられている。門が閉じられているだけではなく、堅い守りに入っていることは邸の雰囲気から察せられた。襲えば、邸の中から雨あられと矢が降ってくるであろうことが予感できる、そんな
邸の周りを取り囲んでいた軍は、馬に乗った大長谷の姿を認めると一斉に武器を手に取った。いつでも打ち込めるという
「吾が
大長谷の問いに、暫くすると、答えが返って来た。
「聞こえますぞ、大長谷命。わが邸を取り巻いているのは
「その通りでございます。帝を弑した者をお引き渡し下され。そうすれば囲いをすぐに解きましょう」
大長谷の言葉に再びの沈黙があった。だが、返ってきた答えは大長谷の望むようなものではなかった。
「さような訳には参りませぬ。古来、臣が何らかの理由で王に
都夫良意冨美の答えに大長谷は舌打ちをした。その見事な忠誠を誓う先がなぜ自分ではなく目弱王なのだ、と苛立っている。だがそのような大長谷の気持ちを忖度することなく、都夫良意冨美は続けた。
「それに、私は逃げて参られた王から話を聞いたのでございます。目弱王の父君、大日下王を誤って亡き者にしたのは帝ご自身、帝もそれを大層悔やんでおられましたことは周知の事実。それが故に帝はそのことを目弱王に決して漏らすな、話すべき時が来たら帝ご自身がお話になると固く皆に誓わせたのでございます。その誓約を破って目弱王にお話になり、さらに剣を渡して帝の弑逆を
「・・・」
大長谷は平然とした表情でその話を聞いていたが
その場の誰一人として、この件を画策したのが大長谷自身なのだとは思ってもいない。
都夫良意冨美は毅然とした声で言い放った。
「目弱王を責める前に先ず、白日子王を御責めになりませ」
「白日子の兄は既に亡ぼした」
大長谷は間髪を入れずに応じた。
「なんと・・・」
門の中は一瞬、沈黙した。
「では、その経緯をご存じで・・・?」
幽かに希望を含んだ声に大長谷は、
「いや、白日子の兄は帝を弑した者を征伐するのを拒絶したのだ。だからその罪を得た」
「ああ、なんということ」
門の中の声は失望に溢れていた。
「それでは目弱王は申し開きもできませぬではないですか」
「舅殿、勘違いをしてもらっては困る。例え白日子王が目弱王に使嗾したことが事実だとしたとしても、目弱王の罪が消えるわけではない」
「それはごもっとも。しかし罪にも種類がございます」
朗々とした声で都夫良意冨美は答えた。
「父の仇を討つというのは
「ならば致し方ない。個人の恨みで国を揺るがすことは許せぬ」
そう言うと大長谷は剣を掲げた。
「矢を空に放て」
その声と共に邸を取り囲んだ兵から一斉に矢が射られた。空に放たれた矢は殺しの矢ではなく脅しの矢である。だが弓弦の弾かれた音はあたりの空気を震わせるほどであり、宙に放たれた矢は邸を針山のように変じた。
邸の中からも応戦があったが、放たれた矢はごく僅かであった。補給に事欠かない外の兵たちと、籠って戦う都夫良意冨美とでは、戦い方にも差が出る。都夫良意冨美は
「面倒な」
思わず罵倒した大長谷に向かって
「命、火をお放ちになれば・・・」
と進言してきた者がいたが、それに向かって、
「ならぬ」
と大長谷が大声で制したのは、中に訶良比売がいるからである。
邸の中は静かであった。
先ほどまで、雨あられと降って来た矢も、今は止まっている。中では男も女も
「申し訳ございませぬ。自分が逃げ込んだばかりに」
幼い王の言葉ににっこりと笑うと邸の主は、
「とんでもございませぬ。窮地に陥った時に助けを求められることは男としての誇りでございます。よくぞ頼ってきてくださった」
と答えた。
「しかし事がここに至った以上、私を外に出せば・・・。まさか弁明もできぬまま殺そうとはなさるまい。私は父を殺されたのです」
そう訴えた目弱王に、
「さて、それは・・・」
と都夫良意冨美は首を傾げた。目弱王から最初に話を聞いた時には自分もそう考えないではなかった。目弱王にも言い分があるのは、あの出来事の背景を知っている者には十分理解できる。根臣は未だに捕えられることなくどこかに姿を隠したままである。帝は根臣を捕えた上で目弱王に嘗ての過ちを償い、その告白と共に根臣を罰しようとされていた。それ都夫良意冨美は知っている。もし根臣を先に捕えておれば、このような事にはならずに済んであろうに・・・。
しかし帝を討ったのは稚拙とはいえ、それを使嗾したものが最も罪が重い。ならば白日子王の言い分によっては目弱王にも救いの道があるかもしれない、と考えた。だが、白日子王はもうこの世にいない。となれば帝の死にはそれなりの
そう噛んで含めるように稚い王に言い聞かせると、
「ならば、罪を咎められ、殺されてもしかたございません。私を犠牲になされませ」
と目弱王は呟いた。
「それはなりませぬ。私にも覚悟がございます。一旦匿った以上、それを裏切るような真似をすれば・・・」
と答えた都夫良意冨美の脳裏に浮かんでいるのは、以前自分の邸に逃げ込んだ木梨皇子を差し出した大前小前宿祢の事である。その行為で大臣にまで出世をしたが、宮中での評判は
「いずれにしろ、一度楯突いた私が許されるわけはございませぬ。逃げて来られた王を守るのは男としての意地。とはいえ・・・」
と凛々しい姿の娘に目を遣り、
「大長谷命の仰せも理がないとは言えぬ。国、ということを考えた場合、私が命の立場であったなら同じことをするでありましょう」
と呟いた。そんな父を真正面から見据え、
「どうなされるのでございますか?」
娘が尋ねた。
「私は父上の申される通り、致します」
「うむ」
都夫良意冨美は頷くと、
「大長谷命がそなたを望んでおられることは存じておるな」
と娘に目を向けた。父の視線に娘は目を伏せた。
「ええ、でも・・・」
あのお方には血筋も申し分ない御后がおられるではないですか、というのが訶良比売の逡巡の理由であることは父も知っている。それにもともと言い寄って来たのは大長谷の方であったにも関わらず先に波多毗能若郎女と婚わい、大后としたのである。それには理由があり、いずれお前も迎えると言われたとはいえ、若く真っ直ぐな気性の娘は男に裏切られたような気がしていた。
「だが、御子が産まれぬとお嘆きであった。そなたのことは宮へ入ってすぐ見初めたとも申されていた。父の意地につきあってそなたまで命を落とすのは私の本意ではない」
そう言うと、まっすぐに娘を見据えると、
「もし大長谷命がそなたを本当に望むなら、そなたが命を落とすことをお望みになるまい。どうだ、もし大長谷命がそなたの命乞いをなされたら、そなたはここから出ていき大長谷命と添い遂げる、そうなさらねば父と一緒にここで戦って死ぬというのは・・・」
「いえ、今すぐにでも・・・お逃げになられた方が宜しい」
目弱王が言った。
「ここに居ればいつまた矢を仕掛けられぬとも限らない。火を放つかもしれません」
訶良比売は少し考えると軽く首を振った。
「私はお父様の申される通りにいたしましょう。今もしこちらの方から出て、例え大長谷命に許されても、それが私への愛情からかどうかはわかりません。ならばせめてお父様の言う通り・・・」
そう言うと、
「大長谷命が私の命乞いをなさらなければ、すっきりと戦う気持ちになれましょう」
「うむ、それが良い。王もそれで宜しゅうございますな?」
「もちろんです。あなたまで巻き込んで・・・本当にもうしわけない」
目弱王は弱弱しく頷いた。
大長谷命から、せめて訶良比売だけは逃してほしいという遣いがあったのはそれからまもなくの事であった。その遣いに、
「お受けいたしましょう。あわせて、
と都夫良意冨美は即答した。だが、ならばあなたも投降を、と勧めた使者に首を振ると、
「先ほども申した通り、王が配下の者に助けを請うて配下がそれを助けぬという法はございませぬ。
と断った。そして、軍装束を解いて女の姿に戻った娘を見ると、
「うむ、はれの日をみるようじゃ」
と満足そうに頷き、遣いの者と共に門まで出て見送った。
再び火蓋を切った戦いが始まり、やがて都夫良意冨美が、
「傷だらけのこの手でもはや放つ矢もございませぬ。いかが致しましょうか」
と尋ねたのは目弱王の覚悟を最後に聞く為であった。目弱王は小さく頷くと、
「為すべきことは成しました。もはや、悔いはない。私を刺し殺してくださいませ」
と言った。目弱王と都夫良意冨美が
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