第12話 小錦・大仁の巻

廃皇子となった木梨はその日、遠く伊余の海で空を眺めていた。視線の先にあるのは余人には雲にしか見えぬが、彼の脳裏に映っているのは遠く宮にいる妹の面差しである。

「冬衣・・・今はどうしているだろうか?」

宮の情勢は遠く、この地になかなかその情報は流れてこない。たとえ流れてきても木梨が知るすべはない。国衙こくがの役人は余計なことを木梨に語ることを固く禁じられている。故に大日下王が誅されたことも知らぬ。だが、なんとなく世の中が落ち着かないことは感じ取ることはできる。

国造たちは宮の情勢に敏感である。彼らの心がそこはかとなく揺らいでいることは、木梨を見張りにやってくる国衙の下級役人たちの様子を見れば分かる。

だが、今となっては木梨にとってそんなことはどうでもよい。一度、軌道から外れたものが再び蘇って頂点を極めるのは無理な話である。それに・・・今の木梨にはそれを企てる気力もなければ、力もなかった。

時折、橘から送られてくる便りの中に冬衣の様子がそれと分からぬように偲ばれることがある。その便りも政に関する記述は禁じられているが、それを貪るように読み返しては冬衣の姿を思い浮かべるそんな日々が続いている。

橘の便りにはこんな風に書かれている。

 こちらの皆さまは健やかでございます。変わり者の方々はそれぞれ更に道を究められ、ますます変わり者に、お美しい方はますます美しくなられ、時折、遠く西の空をお眺めになっておられます。

「せめて生きているうちにもう一度でいいから会いたいものだ」

と呟いた時には、高かったはずの日は海の端に落ちかかっている。暫くそれを眺め、思いを断ち切るかのようにきびすを返すと落魄の皇子は自分にあてがわれた粗末な小屋への路を辿った。


その男は、じっと闇の奥を見ている。部屋の奥に置かれた燭が時折風に揺れて、男の貌の形を浮き上がらせるが、浮かんでいる表情はつぶさには分からぬ。だがやがて、

「帝のあの子に対する思いは尋常ではない」

と、男はぽつりとひとりごちた。

暫く坐したまま、何事かを考えているようであったが、男は不意に唇を歪め、

「手遅れにならぬうちに・・・。なすべきことをせねばならぬ。いずれ血に汚れたこの手であるが故に、し遂げねば死んだ者たちも浮かばれぬ」

男はそう呟くと、立ち上がった。


「あ・・・」

目弱王は自分に覆いかぶさるように被ってきた影に気付くと、幽かな声を上げて振り返った。

まだ十にも届かぬあどけない顔はびっくりしたように口を開けたが、そこにいたのは時折やってきては水菓子をくれたりする馴染みの男である。あどけない顔は驚きの表情から、笑顔へと変じた。

「何をなさっているのです?」

男が尋ねると、

「字を書いている」

と子供は答えた。

「字でございますか」

その頃漸く、韓の国から伝わった文字は帝を始め、皇統にあるものだけが韓の人から習うことのできる技術で、当時は音と字を当て嵌める単純なものである。

「帝が、私も字を習えとおっしゃたんだ」

「そうでございますか・・・字は難しゅうございますな」

そう言うと男は目を上げ、宮の内を見た。そこは静まり返っている。

「帝とお母さまは、いずれにいらっしゃいます?」

「今日は三代先の帝の亡くなられた日だ」

「そうでございましたな」

にこり、と安心させるように子供に笑いかけると、

「今日は良いものをお持ちしました」

男は懐に手を遣った。帝と后が不在のせいで、どことなく気が緩んでいるのだろう。昼下がりの宮は人の気配が感じられない。

「蜜柑かい?」

時折、訪れては水菓子を呉れる男の事を目弱はしっかりと覚えている。

「そうではございませぬ」

そう言うと男は懐のものを取り出した。それはきらりと日に光って、思わず子供は眩しそうに手を翳した。

「それは?」

「剣でございますよ」

「剣?」

「そうですよ。帝の血に連なる者は、邪なものを剣によって成敗する義務を負うのです。目弱王も帝の血に連なる者。いずれこれを以ってよこしまなものを倒す役目を持つのでございますよ」

「そうか?」

恭しく捧げられた剣の柄を掴むとそれを二度、三度とひっくり返した。きらきらと光沢を放つ剣は子供心を鷲摑みにしたようだが、不意に子供は不思議そうに男を見た。今まで貰ったものと全く異なる、武器を与えられたことに戸惑っていた。

「貰っても構わないのか?」

「ええ、もちろん」

「どうやって使うのだ?」

「それはですね・・・」

男は子供の手から、剣を取るとそれを両手で握った。

「世の中には人の形をした魔がおります。その魔の首の・・・」

そう言うと、男は自分の首を指して、

「この辺りを斜めから刺し貫くのです」

と教えた。

「ふうん」

「試して御覧なされ」

そう言うと、男は地面に人の姿を描いた。子供が幾度か正確にその首を突き刺すのを見て男は満足げに、

「御子はお上手でございますな、これならば幾千もの兵を率いていくこともできましょう」

そう誉めた。

「そうかな」

汗ばんだ額を袖で拭くと、子供は嬉しそうに男を見た。

「御子にとって人の形をした魔とは、何でございますか?」

「え?」

思いがけない問いに子供は、首を傾げると、

「どうかな・・・分からぬ」

と素直に答えた。

「お父上を殺したものではございませぬか?」

「え?」

今度は本当に驚いたように、子供は問うた男の顔を見た。

「父は病で死んだのであろう?」

「さあて・・・」

男は茫洋とした面持ちで答えると、

「もし万一、父上が殺されたとしたなら、御子はどうお思いですか」

と重ねて尋ねた。

「それは、許せぬ」

子供は目に怒りを浮べた。

「ならば、良いことを教えましょう」

男は子供の耳元へ囁いた。

「今日、宮の床の下に隠れて御覧なされ。そうすれば何が真実か、お分かりになるでしょう」

「え?」

子供は驚いたように男を見上げた。

「父は病で死んだのではないのか?」

「それがお分かりになるのですよ」

男は謎めいた微笑を浮べた。


「疲れた・・・の」

帝が戻ったのは、それから一刻もしてからであった。姉も一緒である。

「儀を司るのは身に堪える・・・」

「まだお若いのに・・・」

姉は笑って答えた。

「姉上は見ておられるだけだから・・・。いや、この頃はそうでもございませぬな」

儀式の主宰者は帝である。しかし、皇祖を祀る儀式には帝と共に皇后が拝礼するのが常である。妻を持たぬ帝は姉を后のかわりに拝礼することを願った。

「いい加減、后をめとっていただき、私を解放していただかねば・・・」

冗談のようにそう呟いた姉に静かに首を振った帝は、

「それはこの間も申し上げた通り・・・」

「まあ・・・このところその話ばかりですわね」

呆れたように弟を見、首を振った姉に、

「しかし・・・もし目弱王が真実を知ったならば・・・私が父を殺したことを知ったならば、あれは私を許してくれるだろうか?私を亡き者にしようとするのではないか」

と問いかけた帝は、ふと床の下で物音がしたように思って、帝は

「誰か、居るのか?」

と厳しい声を上げた。きゃん、と鳴き声が返って来た。

「おお、倭か」

帝は安堵したような声を上げた。

「目弱王はどこにいるのか・・・」

「さあ、庭で遊んでいるのでございましょう。帝、私はこれから石上へ参ります」

「そうだったの・・・」

帝は微笑すると、

「私はここで暫く休むことにする。そう申しておいておくれ」

と言って身を横たえた。


帝ご自身が・・・。

子供は眠っている男の顔をじっと見つめている。

私の父を殺したのだ。子供の表情はまるで白木で作った面のようである。父との記憶は頼りなげだが、まだ残っている。木で作った毬を投げたり蹴ったりして遊んでくれた父は温厚な人だった。いかなる理由があろうともあの優しい父が悪いことをするとは思えなかった。その父を・・・。

この人は殺したのだ。

同時に、宮に引き取られてから目の前に眠っている人が自分のしてくれた数々の事を思い起こしている。母と自分をまるで実の妻と子供の用に遇してくれたこの人を。

犬も飼ってくれた、字も教えて呉れようとなさった。

だが・・・。それは・・・。

父を殺したことへの懺悔ではなかったか?後ろめたさがそうさせたのではなかったか?

手に握りしめた剣の柄はまるで炎を握っているかのように熱かった。

帝の首には微かな皺が寄っていた。ひくひくと時折動くその皺を見ているとそれは人のものとは思えぬ、奇妙な別の生き物のようにも思えてきた。

ふと、帝が気配を感じたのか目を見開いた、その瞬間、子供はその生き物めがけて剣を振り下ろした。


どたどたと音を立てて走る騒がしさに橘は眉を顰めた。粗相な音を立てるのは近頃宮に入った者に違いあるまい。誰か注意をするであろう。

だがその音は止むどころか、ますます大きくなっていった。そして戸を強く叩く音が続いた。

「姫さま、橘のひめ様・・・」

裏返った声が緊急の事態を示していた。このような騒ぎを橘はこれまで何度か経験してきた。良くないことの兆しである。

「なにごとですか?」

返した橘の声も緊張していた。

「帝が崩御なされました」

「なんと?」

さっき橘も帝と共に先帝の霊に参ったばかりである。帝は少しお疲れの様子だったが、突然身罷るような様子には見えなかった。

「何があったのです?」

「目弱王が謀反を・・・・」

「まさか?」

即座に否定した橘だったが、

「事実でございます。剣を持ったまま、逃げていくのを見たものがございます」

まさか・・・あんな幼い子供が?と思いつつ橘は問い返した。

「それで、今は?」

「大長谷命が兄上たちの許へ」

「わかりました。私も参ります。一の姉さまは?」

尋ねた姉とは目弱の母である長田大郎女の事である。

「ただいま探しております」

何かとんでもないことが起こっている、と橘は直感した。だが、それが何であるのか、まだよくわからない。とにかく宮中で帝が殺されるなど、前代未聞の出来事である。すぐに支度をすると橘は大長谷の後を追うように境之黒日子王の許へと急いだ。

あたりはしんと静まっていた。しかし門を潜ると思いもかけない情景がそこに広がっていた。すべての戸は引き倒され、あちらこちらに家人らしい者たちが地に伏して死んでいる。邸の中の調度も壊され、見る影もなく散らばっている。

「どうしたことでしょう?」

ついてきた数人の男たちは、怯えたように首を振った。

「まさか・・・」

大長谷がここまでするということは、もしかしたら黒日子王が目弱王を匿ってでもいたのだろうか、と考えて橘は首を振った。黒日子王は滅多に宮中へ参内することもなく、目弱王と親しい間柄ではない。

その時、邸の奥から呻き声が聞こえてきた。あれは・・・。伯父の声ではなかろうか、そう言えば伯父は行事の後、楽を聴くと言って黒日子王と連れ立って行ったのだった。怯えている男たちを促して邸の奥まで進むと声がしてくるのは黒日子王の部屋かららしい。急いで向かうと開け放した戸の向こうの薄暗い奥から声がしている。

「伯父さま?」

囁くように声をかけると、呻き声が止んだ。

「橘か・・・?」

弱弱しい声で答えがあった。

「どうしたのですか?」

「大長谷は・・・大長谷はそのあたりにはおるのか?」

声はひそひそと辺りを憚るようである。

「いえ、お兄さまはいらっしゃいません」

あたりを見回してから、橘は答えた。伯父の声には怯えが混じっていた。

「そうか」

安心したような答えと共に、伯父が奥から這い出してきた。

「どうなされたのです。お怪我は?」

「怪我はない。だが胸が苦しい・・・」

そういうと這いだしたままの姿で、ごろりと突っ伏して、

「大長谷が・・・狂いよった」

と思いもかけぬことを言ったのである。

「お兄さま、黒日子のお兄さまは?」

と尋ねた橘に伯父は首を振って這い出てきた方と逆の方向を指さした。目を向けた橘の視界に映ったのは、座った姿で首を断斬られ虚ろに宙を見据えた兄の姿であった。思わず口を両手で抑え叫び声を抑えると、気丈にも橘はそのまま伯父の許へ座り込み、

「今、人を呼びに行かせましょう。きっと大丈夫でございますよ。でもその間に、何があったのか教えてくださいませ」

と問いかけたのである。宮へ人を呼びに行かせると、橘は喘ぎながら話す伯父の言葉を少しずつ拾っていった。

その言葉を辿ると、大長谷が来たのは帝が崩御されて間もない頃であったらしい。楽を奏している最中に物々しいいで立ちで闖入してきた弟に、黒日子王は不快気に、

「なんだ、騒々しい」

と叱りつけた。大長谷は立ったまま、

「今、帝が崩御なされました。目弱王に首を斬られたのでございます」

と告げた。に驚いた二人は立ちあがって、

「なんと」

と絶句した。青ざめた黒日子王に向かい、大長谷は

「殺した者の行き先は分かっております。兄上も支度を・・・」

「支度?」

問い返した黒日子王に、

「軍の支度でございます」

と大長谷は言い切った。

「しかし・・・ここには兵はない。それに軍を仕掛けるなら宮の兵を率いるのが筋であろう」

と黒日子王はただした。確かに大長谷が率いているのは自らの手勢である。

「その通りじゃ、わしも宮へ赴こう」

と言った意冨本杼王の言葉に頷きつつ手にした笛を弄びながら再び腰を下ろした黒日子王に、

「何を悠長なことを。帝が弑されたというのに笛など」

と言うなり、大長谷は兄の首を叩き切ったというのである。

「わしは腰を抜かした・・・。」

伯父は戦慄わななく声で語った。

「わしも殺されるかと思った。腰を抜かした時のあの男の目は、まるで人とは思えなかった・・・。だが、一睨みしただけであの男は去っていった。この家のものはみな殺されたのであろう?」

頷くと、橘は伯父に問うた。

「それで・・・大長谷の兄は、どちらへ?」

「おおかた、白日子王の所であろう。おそらくもう間に合わぬ」

言い終えた伯父はがっくりと首を折った。宮からやってきた人々に伯父を預けると橘は別の場所へと急いだ。だが、その行き先は白日子王の許ではなかった。


「お姉さま」

橘が息せき切って戻ったのは宮の一室である。

「どうしたのですか、外が騒がしいようですけど・・・」

蟄居させられている間にもますますろうたけていく姉の姿を見るたびに、橘は女というものが必ずしも男の存在だけによって美しくなるものではないと考えさせられる。恋していればその男の不在によってさえ女は美しくなるのだといつもなら思うのだが、今度ばかりはそんな悠長なことを考えている暇はなかった。

「今すぐ、お逃げください。兄上の許へ・・・」

「え?」

橘の言っている兄がどの兄を指すのか一瞬、分からなかったようで冬衣は眸を瞬かせた。

「帝がお亡くなりになられたのです」

「どういうことです?」

姉はいつもの儚げな表情を捨てて、真正面から橘を見つめた。

「お亡くなりになられたのは、目弱王が父の仇と討ったことによるのですが・・・」

「あの目弱王が?」

姉は悲鳴にも似た声を上げた。目弱王は二人にとっての甥であり、産まれたばかりの頃は姉も橘も変わりばんこに抱いたことがある。

「まだ幼いあの子が?」

「でも、姉さま。それにはきっと裏がございます」

橘は声を引き締めた。

「裏・・・?」

「大長谷の兄さまが・・・境之黒日子王をお討ちになられました。帝の仇をすぐに討とうとしないというだけの理由で・・・」

「まあ」

美しい眉を顰めた冬衣に、

「そればかりか白日子王のところへ・・・おそらく白日子の兄さまも同じ目に」

「いったい・・・どういうことです?」

「大長谷の兄は帝となろうとなさっているんだ、私はそう思います」

「なんですって」

姉は戸惑ったような表情を浮かべた。

「帝は目弱王に一度は帝位を譲ろうかとお考えになられておられました。私は帝からその事を聞いたことがございます。きっとそのことを察知なさって・・・」

冬衣は漸く筋が読めたかのように、では、大長谷が裏で糸を引いていたとあなたは思っているのですね、と呟いた。

「でも・・・どうしてそれで私を?逃そうとなさるのです」

冬衣は皇位の継承の埒外らちがいにいる。わざわざ手を汚す必要はない。だが橘はかぶりを振った。

「嫌な予感がするのです」

「嫌な予感・・・」

と呟くと、冬衣は唇を引き結んだ。

「それは・・・あのお方のお命に係わる事ですね?」

「ええ」

とだけ答えると、橘は姉の手を取った。

「でもどうやって・・・?逃げると言っても」

手を取られて立ち上がった姉に、

「もしかしてこんな日が来るのではないかと、ずっと私は手を配って来たのでございますよ。伊余までの道のりの算段はついております」

そう言うと、橘は姉を促した。


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