第11話 小錦・小仁の巻


「ぬぅ・・・」

帝は憤怒の表情で目の前に跪いている隼人の者たちを睨みつけた。

根臣ねのおみはまだ捕まらぬのか?」

根臣とは大長谷の結婚のために大日下王の許に遣わした男である。


三輪の社から帰った長田大郎女と波多毗能郎女は、それぞれの夫であり兄である大日下王が廃墟と化した邸で無残にも誅されたと聞き、卒倒した。捕えられ宮へと連行されてきた時も二人共ども今の自分たちが現実の世界にいるとは思えないとでもいうように、ふらふらとした足取りで脇を支えられながら帝の前へと姿を現したのである。

謀反を知っていたのかと、問い質され、

「いったいなんのことでございましょう」

と呆然とした表情で答えた長田大郎女は、

「夫はどのような罪で誅されたのでございましょうか?」

と弟である帝に尋ねた。その場にいた大長谷と波多毗能郎女を指すと帝は、

「この二人を一緒にさせたいという遣いを送った時に、そなたの夫は言い様のない無礼を働いたのだ」

と帝が根臣から伝えられたままのことを話すと、長田大郎女は

「さようなことがあるはずはございませぬ」

と叫んだ。

「夫はそのお話があると聞いて、子供のように喜んでおりました。妹を嫁がせなかったのもこのようなお話があると信じていたからだと、そのお話が叶うようにと私たちは二人で大神にお参りに参ったのでございます」

「そのような馬鹿なことがあるか」

帝は握った拳で床を叩き、立ち上がった。

「ではあの押木玉鬘は・・・いかがなされたのでございましょう?」

息も絶え絶えと言うような声で波多毗能郎女が尋ねると帝は、

「押木玉鬘?」

と怪訝な顔をした。

「さようでございます。もし遣いが参られた時のためにと、帝にお贈りすると兄は、それは立派な玉鬘を・・・」

帝は立ったまま、近侍きんじの者を差し招いた。

「根臣を呼べ」

そう耳元に囁くと、そのまま去った。その間中、連れておられた二人の女は留め置かれていた。その使いの者が、

「根臣は昨日よりどこかへ妻子を伴って出かけたようでございます。行き先はわからぬと」

と告げた時、帝のびんは怒りに震えた。

「すぐに捕えて参れ。草の根を分けても探し出すのだ」

すぐに帝の兵が根臣を探しに四方八方へと送られたが、ようとしてその行方は知れなかった。捕えられていた二人の女は縄を解かれた。解きに来たのは、大長谷である。

「そなたの父を死なせてしまった。私も帝の軍に従っていたのだ」

と項垂れた様子で波多毗能大郎女の縄を解き、

「お兄さまに申し訳のないことを・・・」

と言いながら姉の縄を解くと、二人の女は声を上げて泣いた。

「君のせいではございませぬ。憎きは根臣・・・」

と涙を浮べ乍ら波多毗能大郎女はすっと大長谷に寄り添ったのである。


橘は兄である帝の傍でじっと控えていた。結局、根臣は見つからぬままである。兄はあの事があって以来、げっそりと痩せ、食事ものどを通らぬようであった。

「お兄さま」

掠れた声で呼んだ橘をゆっくりと振り返ると帝は心もとなさそうに微笑んだ。

「お気をしっかり持ってくださいませ」

あの後、波多毗能大郎女は父との戦いであたとなったにも関わらずそれは大長谷のせいではないと大長谷の妻になり、夫を失った長田大郎女は宮へと戻った。憔悴した様子で二人の女に詫びた帝は、その後

「ここで大后のように振舞ってくださいませ」

と姉に告げ、行き所のなくなった姉をその子と共に引き取ったのである。

「橘・・・私は疲れた。帝というものの難しさ、怖さを、今度の事でいやというほど知らされた」

帝は手を震わせながら宙に何かを描いた。

「何をなさっているのでございますか」

「悔と言う字を描いておるのだ。帝たるもの、一つの過ちが大きな悔いを残す。それを忘れぬようにな・・・」

宙に字を書き終えると帝は溜息を吐いた。

「お気弱なことを。今度の事も、あの一連の出来事とつながりがないとは言えぬでございましょう?しっかりとなさってくださいませ」

橘が言うと、

「いや、もう昔の事は良いのだ」

帝は呟いた。

「どういう事でございますか?」

尋ねた橘に、疲れたように笑いかけると

「私には子がない。もはらこれから子を儲ける気もない。代わりに姉上と大日下王の子を育てようと考えておる」

「では・・・目弱王を日継にと?」

驚いた橘に、

「はっきりと決めたわけではない。だから、このことは決して他に漏らさないでくれ」

と答えた帝の表情は僅かの間に十も余計に年寄ったように橘の目には映った。


「本当に大丈夫なのでございましょうな」

近江坂本にある目の前の男の館で、心配げな顔をしているのは根臣である。

その館は男の別荘のように使われているものであり、人も少なく男の従順な配下を除いては、近所の下男や端女が数人、煮炊きや掃除をするくらいである。ただ一人、異様に目つきの鋭い男が別の部屋でかくまわれている。時折、その男の姿を見ることはあるが男は名も名乗らず、どこかへすっと消えてしまうのが妙に気になった。

「帝は私の事を鵜の目鷹の目で探しておられるとの事でございます」

「大丈夫だ。ここにいれば探索の目が及ぶことはない。それに帝のお気持ちはだいぶ弱っておられる」

「しかし・・・」

「私の世になればお前の一族も間違えなく取り立てる」

「はは・・・」

「そうだ、お前の一族に新たな姓を授けることにしよう。どうだ、この地の名を取って坂本臣ということにしては」

「もったいないことでございます」

頭を下げた男に、

「お前が掠めた押木玉鬘はそのまま持っているがよい。この度の事への褒美だ」

「ありがとうございます」

「但し、その玉鬘、人前でつけることは決してならぬぞ」

男の命令に、分かって居りますとも、と根臣は頷いた。

「あと一押しよ」

そう言って笑った男の笑みに幽かな戦慄を覚えながら、それでも根臣はその男に惹きこまれるような気持ちを抑えることができなかった。

「この御方は、確かに帝に相応しい御器量をお持ちだ」

口には出さず、そう心の中で呟くと、

「それにしても、このような所へお出ましになられていて良いのでございますか?宮中は騒がしいと聞いておりますが」

「大丈夫だ、帝は私に一片の疑いも持っておられぬ」

「はあ・・・。ところで・・・」

「なんだ?」

「妙な男が一人おりますな」

根臣はずっと気になっていたことを問うた。

「ん?」

男は視線を根臣からずらすと、

「ああ、あの男か。わしの部下だ。臣を守るように言いつけてある」

「さようでございますか・・・。なんだか気味が悪い男でございますが」

「気にするな。腕の立つ男よ」

気味の悪いと言われたその男は意冨々杼王や穴穂の寝所に忍び込み二人に向かって讒訴し、冬衣の侍女を逃がすために警固の者を殺し、そして木梨皇子を逃がした者である。もともと隼人に属していた男は夫のいる女を襲い、族の掟で刑に処されるところを邸の主に助けられたのであった。その腕を主は買っている。根臣を守るためにその男をこの邸に置いているというのは本当の事である。

だが、万一根臣やその家族が邸を抜けようとでもしたなら、その時は容赦なく斬っても良いと告げてある。

そのことはおくびにも出さず、

「それよりも、一つ気がかりがある」

と男は根臣を前に呟いた。

「何でございましょう?」

「大日下王の子よ」

そう呟くと男は、じっと目を凝らすように遠くを見つめている。その眼に既に自分の姿が映っていないことを感じながら、根臣は魅入られるようにその男を眺めている。


それから二年の年月が経った。

帝はあの事件以来気の病に悩まされたが、床に臥せることもなく着実に帝としての執務をこなし、世は安定しているかのように見えた。その業を讃えられて後に安康天皇という名を贈られる穴穂命は、その日も姉の子と戯れていた。子供が育つに従って、一度は窶れ切った姿も回復の兆しを見せていた。その子と一緒に、鳴き声を上げている犬がいる。

倭と名付けられた犬の子は、わざわざ帝が姉の子のために取り寄せた犬である。その犬の子とじゃれ合っていた姉の子はいつしか遊び疲れたのか軒先で犬と一緒に眠っている。

帝が優し気な顔でその眠り顔を眺めていると子の実の母である長田大郎女が、傍にやってきた。

「帝・・・」

その声に穴穂は振り向くと、

「姉上・・・ここでは穴穂と呼んでくださって構わぬのですよ」

と言った。

「そういうわけには参りませぬ」

姉は眠っているわが子を見遣ると、

「このような安らかな顔で・・・」

愛おしそうに呟いた。

「でも、いつまでも甘えているわけにはいきませぬ。そろそろ帝も后をお持ちになって・・・あの大長谷でさえ后を娶ったのですから」

「姉上」

突然、帝は思い詰めたように襟を正すと、

「実は姉上にだけ、申し上げたいことがあるのです」

「なんですの、改まって」

長田大郎女は首を傾げた。

「姉上が大日下王に嫁いで後、様々な奇怪な出来事が宮で起きたことはご存じでございましょう」

「ええ、・・・」

木梨皇子と冬衣の許されない恋とその告発に始まり、冬衣の侍女の死、そして大日下王に関する讒言と続く一連の出来事が、相互にどのようなつながりを持っているかは誰にも分からない。しかし立て続けに起こっている事件は宮の雰囲気を重いものにしている。

「帝としての私の力が至らぬせいでございましょう」

古来、天災・人災を鎮め、世を平穏に保つことが帝の一番の仕事である。

「そんなことはありませぬ。思い過ごしというものでございましょう」

若い頃、母に似て気の強かった長田大郎女は大日下王という夫を得たことによって気象きしょうが丸くなった。その夫を失った今も、弟の庇護のもとで子を育てている生活に、気象を元に戻すことはなかった。

「いえ・・・。もともと私には帝位を継ぐ気持ちなどいささかもございませなんだ。そのための努めも怠っていたのでございましょう。父上も何度も帝をお受けすることを拒んだそうでございますが・・・。その血が私にも流れているのに違いありません」

「何を、気弱なことを・・・」

姉は優し気に弟を見つめている。

「ここだけの話ですが、私は世継ぎを持っておりませぬ。であれば、あの・・・」

眠っている姉の子にちらりと眼差しを向けると、

「目弱に日継をさせたいと・・・。大日下王はおじい様の実子でございます。日継の資格をお持ちの方でございました。そして姉上の子でございます」

呆気に取られたように弟の言葉を聞いていた姉は

「戯れをおっしゃいますな」

と言うと、激しく首を振った。

「すぐに、と申すわけではございません。奇怪な出来事の続くその理由を解くのも必要です。それがなければまだまだ変事が続くのではないかとも思えます。ですが、それさえ取り除けば・・・」

「私は聞かなかったことにいたしましょう」

姉はしばらく間を置くと今度は静かに首を振った。

「そのようなことをなさったら、他の者がどう考えるか・・・。黒日子や白日子、大長谷もおるのですよ。子に恨みを担わせる母がおりましょうか」

穴穂は姉の言葉にゆっくりと首を振った。

「いずれにしろ、奇怪な出来事の大本はこの宮の近くにあります。伊耶本和気命、或いは水歯別命の御血筋か、或いは私たちの兄弟のいずれか・・・。どちらにしても謀の疑いを持つ者たちに帝を継がせるわけには参りませぬ。となれば、そのどれでもないあの子こそが日継を継ぐ資格があるのです。いたいけな子に謀ができましょうか?その父御も罪なき人でございました」

姉は穴穂を見つめ、それからほっと息を吐くと、

「恐ろしいこと・・・同族ばかりでなく兄弟さえも疑わねばならぬとは」

心底、恐ろしいという表情をして姉は空を仰ぐと、呟いた。

「木梨の兄上は今、どうなさっているのでしょう」

「今頃はのんびりと伊余の湯にでも浸かっておられるのではございませぬか・・・。今となっては羨ましい」

帝は目をすがめると遠く、西南の空を眺めた。

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