第10話 大青・大礼の巻
その年の十一月、穴穂の兄が帝の座につき世の中は漸く平静を取り戻したが、橘の胸はざわついたままであった。
木梨皇子は大人しく伊余へと送られて行った。姉はそれを見送ることもできず、籠に押し込められたまま僅か数人の供と共に旅立って行った兄の様子を伝えるのは橘の役目であった。それを伝えた時、姉は涙を流す様子もなく、遠くに目を遣っただけだった。
「生きておられるだけで・・・」
やがてそう呟き、橘の顔を見た姉は寂しげに笑った。
「ようございました」
「そうでございますね」
橘が深く頷くと、
「あなたのお陰ですね。それより、朝顔には済まぬ思いでいっぱいです」
姉は嘆いた。朝顔とは兄と姉の関係が疑われた時、捕えられそこから逃げて自死した侍女である。その死に様を目のあたりにしていた橘は、
「本当に哀れな事です」
と頷いた。
「でも・・・どなたが朝顔を逃がしたのでしょうか」
橘の言葉に、
「本当に・・・。私たちの事を問い詰められて話してしまったことの
と姉は表情を曇らせた。
「でも・・・わざわざ逃さなくても。朝顔は何か知っていたのでしょうか?」
橘の問いに
「さあ・・・。でも・・・」
姉が小首を傾げたのを見て、
「なんでございますか?」
と橘は膝を進めて姉に問いかけた。
「一度だけ、朝顔はわたくしに変なことを言いました。兄上さまとお会いになるのを少しの間でよいからお控えられませ。気づいている方がおられるんじゃないかと・・・心配でございますと」
「それは・・・どなた?」
「気づいている人のこと?」
「ええ」
「それは私も気になって問うたのですが、教えてくれませんでした」
橘はあの時穴穂の兄と共に語った男たちの顔を今一度、思い浮かべた。
「そのお方が朝顔を逃がしたのでしょうか?」
「そうかもしれません」
姉は遠い目つきをしてそう言った。
「でもそれならなぜ、その時に・・・怖いことですけど朝顔を・・・」
なぜ、逃がすというような中途半端な事をしたのだろうか、と姉は問うているのだ、と橘は思った。だが、そう考えれば朝顔の死は本当に自死だったのか、と考え直す必要があるのかもしれない。いや、例え自死だったとしても、もし朝顔が自死を選ばなかった場合、逃がした者たちは自死に見せかけて朝顔を殺すつもりであったかもしれない。
「でも、もはやそのようなことを言っても。あのお方は流されてしまったのです。穴穂が世を治めるのでしょう?」
姉が橘に問いかけた。その言い方に穴穂への微かな不信が滲み出ている。姉さまは木梨皇子に代わって帝位についた穴穂の兄をまだ疑っておられるのだろう。そうではないのだ、と告げたかった。だが心の中で
「ふむ」
姉と話したこと、そしてその時の姉の反応を新帝に告げると、兄は少し暗い顔つきになった。
「そうか・・・」
実の妹に疑いを持たれていると聞くのは兄にとってつらいことであろう。
「兄上の方では何か?」
「いや・・・これと言っては」
兄は苦渋の表情を浮かべた。目を配ってはいるものの、相手は兄弟と重臣たちである。大っぴらにすることも出来ず、探り出しにくいのだと兄は語った。
「それはそうでございましょうけれど」
橘は心の中で強まっていく不安を口にした。
「このまま放っておいてはそのうち何か悪いことが起きそうで心配でたまりませぬ」
「うむ」
兄は頷いたが、
「ところで、一つ話がある」
と橘に目を遣った。
「何でございます?」
「大長谷が・・・結婚をしたいと言っておるのだ」
「では、
訶良比売は以前から話のあった都夫良意冨美の娘である。
「いや、そうではないのだ」
帝は首を振った。
「実は、あの大日下王の妹御とな」
「まあ・・・
橘は目を丸くした。波多毗能若郎女は未婚であるが、大長谷の兄よりも七つほど年上である。
「またどうして?・・・訶良比売はどうなさるおつもりなのですか?」
大長谷が申すにはな、と穴穂の兄は
「兄上の事があってから、どことなく世が乱れている。ここは帝の血筋が一体となっていることを世に示さねばならぬと申すのじゃ。そのためには血が大切と知らしめることが大切ですと言うのだ。と言って訶良比売を捨てるわけではない。いずれその時が来たら迎え入れたいと申しておる」
「そうなのですか・・・」
「考えてみたが悪い話でもない。信じたくはないが、万が一にも大日下王が謀の首謀だとしたならばあのお方を牽制する意味がある」
「そうでございますね」
暫く考えてから橘は頷いた。
「私の方から伝えてくれと頼んできた。まあ、実の弟のいうことであるから私としても進めてみようと考えておる」
「さようでございますか。でもおめでたい話でございます。暗い話よりは数等宜しゅうございます」
「であるな」
兄は微笑んだ。
「近頃、帝の目がますます厳しくなりましてな」
男は愚痴をこぼした。
「信を置いていただいていただけてないと感じております」
「ははは、それは仕方がなかろう、実際裏切っておるのだからな」
「ご冗談を遊ばすな。本当に・・・大丈夫なのでしょうな。必ずあなたさまが天の下をしろ示されると信じてついておりますのですよ」
「良い謀と言うのは時間をかけて整え、いざというときに一挙に始末をつける事よ」
目の前の男は快活そうに笑っている。だがその眼は冷たく、どこか遠い一点を見詰めているかのようだった。
「大丈夫だ、心配するな。手筈は着々と進んで居る」
「さようでございますか?その前に私の首が危うくなるようなことはございませぬでしょうな?」
「万一、そのような事があったとしてもいずれ元通り、いや、元よりも格段に力を持つことができるようにしてやる。大船に乗ったつもりでおればよい」
「はぁ」
「心配するな、新しい帝は誰を信頼してよいか、悩んでおられる。迂闊に動いて敵を作ることを嫌っておられるのじゃ。だからそなたの身が危うくなるようなことはない」
「そうでしょうか」
「間違いない。いずれそなたの倉には米ばかりではなく、数えきれないほどのこがね、しろがねが貯まることになろうよ」
相手の確信めいた口調に男は安心したように頬を緩めた。
「まことか?」
帝は唖然とした表情で、目の前にいる遣いの男を凝視した。
「まことに・・・大日下王がそのようなことを申されたのか?」
「はあっ。その通りでございます。私の大切な妹を同族の、それも大長谷命のような下の者の嫁になどやれるかと、大変お怒りでございまして、刀を取るなり私に向けて、帰れ、うつけものとそれは大変な剣幕でございました」
うーむ、と唸った帝の
「なれば、この度の謀、その裏にいるのが大日下王であることは明白、さっそく軍を差し向けよ」
と命ずると憤然として席を立ったのである。
橘は居所で新たに縫いあがった綾織りをうっとりと眺めていた。
「私が着ても良いのだけど・・・これはお姉さまにぴったり」
とひとりごつと綾を手に取ったが、事実上幽閉されている姉に新たな着物など渡せば、どのような謗りが姉と我が身に降りかかるかもしれないと考え、溜息を吐いた。その時、どこかで
突然慌ただしくなった宮の様子に驚いて引き戸をあけると、
「なにごとです」
と廊を進んでいた者に声をかけた。
「大日下王が叛かれたとのことでございます」
その答えに、
「まさかそのような・・・」
と立ち尽くした。帝から大長谷の兄と大日下王の息女との話を聞かされたのはついこの間の事である。それが、謀反?
「あのお方の妹御を大長谷の兄に頂こうとされていたのに・・・」
「その執り成しを成されている最中に叛意が明らかになったのでございます」
「兄君は・・・帝は?」
「既にご出立なされました」
走り去る男から返ってきた答えに、呆然としながら橘は背筋が震えた。まさか、大日下王が?姉の夫が裏で糸を引いていたのであろうか。善良そうな義兄の顔を思い浮かべ、橘は暗澹とした気持ちになった。一体だれを信用することができるのであろう?
時を同じくして、大日下王の邸に案内も請わずに密かに訪れたものがある。
「帝が軍を挙げ、大日下王を討つと申されておりますぞ」
大日下王は目を瞠った。
「何故じゃ・・・・?」
「大長谷命が王の妹御を求められたのはまことでございますか?」
男は問うた。
「その通りじゃ。わしは喜んでお受け申したのだぞ」
大日下王は瞬きもせずに男を見つめた。
「その時に、お贈りになられたものは?」
男は尋ねた。
「
「されば・・・それがご不興を買ったのでございましょう」
「なぜじゃ・・・あれは・・・」
言いさした大日下王をとどめるように男は囁いた。
「押木は、木梨の皇子を推す、帝の下には降らぬと、そう受け取られたのでございましょう」
唖然とした表情となると大日下王は、
「ばかな、下らぬ言いがかりだ。妻よ、妻よ」
と大声で呼ばわった。帝の姉である妻に帝との間をとりなしてもらおうと考えたのである。しかし肝心の長田大郎女は不在であった。その不在を家の者から聞かされ、妻が三輪に出かけると聞いた事を思い出した大日下王は自分の不運に
「もう遅くございます、帝の軍はすぐにやってまいります。売られた喧嘩は買わねば・・・。勝てばあなた様が帝となり、もはやこのような目に遭うこともございませぬでしょう」
「ああ・・・」
呻いた大日下王に残された選択肢はなかった。
「私もお助けしますぞ。帝の軍を後ろから攻めましょう」
「そうしてくれるか」
救いを請うように手を差し伸べた大日下王の掌を握ると、男は力強く頷き、
「では、これから軍を整えて参りますぞ。私も先の事で帝の御不興を買った上、世に裏切り者と密かに謗られている身。御味方いたします」
と邸を去ったのである。大前小前宿祢の姿が邸から消えたのは帝の軍が大日下王を取り囲むほんの僅か前の事であった。
「兄上」
帝を先頭に速足で進んでいた軍に追いついたのは大長谷であった。
「おお、大長谷」
「御味方をいたしますぞ」
「話は聞いたか」
「はい」
「そなたの義理の父上になるかもしれなかったお方だぞ」
「いえ、例えそうでも、礼を欠いたのは大日下王の方でございます」
そうか、と穴穂は満足げに頷いた。
「あちらの邸には姉も、そなたが迎えたいと申している姫もおるのだが・・・この期に及んで裏切り者の姫を迎える必要もなかろう」
「皇族を一つにしようと思ったのですが、わたくしの短慮でこのような事に・・・ですが姫には罪はございませぬ。やはり話は進めたいと・・・」
そうか、と帝は呟くと、
「では姉上と姫をどう救い出すか、考えねばならぬな」
と眉を顰めた。大長谷はにっこりと笑うと
「いえ、本日は二人とも三輪の大社へ行っている筈でございます」
「おお、そうか」
帝の顔が
「姉上に弓を向けるのは気が重かったのだが、ならば一挙に攻め滅ぼせば良い」
「私が先陣を務めましょう」
そう言うと馬の綱を曳き、大長谷は前にずいと出た。
「それは心強い。しかし、大日下王の言い分を聞かずとも良いのか?」
「それは相手次第、邸に籠って戦の準備をしているようであれば言い分など聞いても無駄でございましょう。自ら謀反と言っているようなものでございます」
「それもそうであるな」
帝は大長谷と並んで馬の腹を蹴ると、
「これで漸く・・・」
と呟いた。
「漸く・・・何でございますか?」
問いかけた大長谷に笑みを浮かべ、
「いや、なんでもない。そちの働きを期待しておるぞ」
と帝は答えたのであった。
大日下王の邸は森閑としていた。だが、門は固く閉ざされ、どことなく緊張が漂っていた。
「大日下王」
声を張り上げたのは大長谷である。
「王に謀反の疑いがございます。門をお開けなさいませ」
中では大日下王がうろうろと惑うように歩き回っていた。
「婿殿の声ではないか・・・」
大日下王は絶望の呻き声を上げた。
「婿殿までがあのような・・・。早く味方が来ぬものか」
「何の返答もございませぬな・・・」
大長谷が呟いた。
「他の者が味方をするようなことはないのか?」
「いえ、宮を出るとき王たち、臣たち
「そうか・・・」
「もはや、これ以上待てませぬな。・・・礼無き者にはみせしめをせねば」
「うむ」
帝が頷くのを見て、大長谷は声を張り上げた。
「者ども、かかれ。一兵たりとも逃さずに屠るのだ」
おう、という声と共に
やがて、
「主を誅したぞ」
との声が上がった。
「まことか?」
大長谷が駆け寄ると、集まっていた者たちがさっと割れるように道を開けた。そこに斃れていたのは胸に深く矢を突き刺された大日下王の姿であった。
恐怖に見開かれたその眼をそっとひとさし指で閉じると、大長谷は
「皆の者、たしかに謀反は制したぞ」
と声を張り上げた。
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