第9話 大青・小礼の巻


その夕べ、皆が再び集まった。席には黒日子王も白日子王の姿もあった。事が解決するのならば、と同席することを諾ったのである。穴穂の兄は相変わらず難し気な顔をしていたが、入ってきた橘を見て幽かに微笑むと頷くような素振りをした。

「いかがであった」

議が始まるなり伯父は穴穂の兄を見つめて、真っ向から切り出した。

「日継の御子を譲るということについては・・・ある条件が叶えられるなら良いと申されております」

「おう、それは良かったではないか」

伯父は機嫌の良い声を上げた。

「で、何だ、その条件とは?」

兄は難しげな声を出した。

「この企みを考え付いた者が明らかになれば、との事でございました」

「なんだ、それでは・・・。お前自身への疑いは解けなかったのか?」

「いえ、兄上はこう申されました。今まではお前・・・これはつまり私の事でございます、がこの企みを考えたのだと疑っておった。今でもその疑いを完全に解いてはおらぬ。だがこの背景には、もしやもっと複雑な企みがあるのやも知れぬと思い始めた。いずれにしろ、私がここで退いてもその企みの大本を断たねばいずれ同じことが起きよう。だからもし退かざるを得ないとしても退く前に事をはっきりとさせておきたいのだと」

「それはそうであろうが・・・」

伯父は嘆息を上げた。

「いったいそのような企みを誰が・・・この中にでもおると言うのか?」

四人の皇子を無遠慮に見回したのは、伯父・甥の気安さからだろうが見られた方はたまったものではない。

「私は・・・父上の前で日継の御子になりたくないと申したのでございますぞ」

境之黒日子王が真っ先に反論した。

「それはそうだが、中途で気持ちが変わったかもしれぬ」

伯父の言葉に憤激したように立ち上がった黒日子王であったが、周りからのとがめるような視線に気づくと居心地の悪そうな表情をして腰を下ろした。

「この中にいるとは限らぬではないですか、伯父上」

冷静な声を出したのは大長谷であった。

「今、我々は疑心暗鬼に陥っている、この状況こそが企みごとの目的とも考えられましょう」

「すると・・・帝の座を狙う別の者か」

「さて・・・」

都夫良意冨美が困惑したような声を上げた。

「このようなことをいつまでも続けておるわけには参りませぬぞ。木梨皇子は病に臥せっていると言ってありますが世はもはや信じておりませぬ。例え、皆さまが今、頭の中に思い描いておられる方々に今、この時謀反の意思がなくてもこの事が知られれば、時に乗じて何かを企てることも考えられましょう。さすれば、真相が分かったとて同じこと。騒乱は避けられますまい」

「ううむ」

唸った意冨々杼王であったが、ふと橘に目を遣ると、

「どうだ、お前の姉は何か申しておらなかったか?」

と尋ねた。橘は一瞬、逡巡したが

「お姉さまは相当の御覚悟を持っておられます」

と言ってから姉の言ったことを話し始めた。皆、目を細めてその話を聞いていたが、さすがに眉を顰めたものが多かった。

「それは確かに・・・」

そう言ったのはは穴穂命である。

「そうすれば無実かどうかわかる。無実ならば兄を日継の皇子のままにしても良いのではないか」

「どうであろうか・・・?」

意冨々杼王が呻いた。

「事がここまで大きくなっておらねば、それでも何とかなったかもしれないが・・・」

「それに・・・」

首を捻ったのは都夫良意冨美である。

「どのように説明をすれば宜しいのでしょうか?濫りがましいことはない、それは比売の体を見て確かめた、とでも?」

「いくらなんでも・・・それはなかろう」

意冨々杼王が困惑した声を上げた。

「しかし、それで兄の潔白が証明されるならば」

と黒日子王が反論した。

「日継の皇子をどうするかは別として、一つの決着ではないですか?」

「うーむ」

と意冨々杼王は唸った。

「ともかく、その事は別に議論せざるを得まい」

「・・・なんだ、今日決まるんじゃなかったのか」

呆けたような声を出したのは白日子王である。

「では、私は戻ることにしよう」

「待ちなされ、皇子」

袖を取って引き留めたのは意冨々杼王である。

「なぜだ?ここに留まっても物事は決まる様子はない。それどころかあらぬ疑いをかけられるだけだ。面白くない」

口をへの字に曲げたが、握られた袖を振り払うこともなく、白日子王は伯父を見た。

「念のため、もう一度だけ皆に確かめたい。この中に謀をしたものはおらぬな?冬衣の話は置くとして日継の皇子は穴穂命ということで宜しいのだな」

「だからそれで構わぬと言っているじゃないか」

ぶつぶつと呟いたのは白日子王であったが、意冨々杼王はその袖を固く握ったまま皆を見渡した。誰もが頷いた。

「では、明日より私が心当たりの者を順次問い詰めることにしよう。ともかくこの中に謀をしたものがいないということだけは確かめておきたい。その上で公然と疑いのある者を追及するつもりだ。容赦はせぬ。とはいえ、ここまでこじれた以上、囚われの御子を帝につけるのには障りがある。日継の位を譲ることについては、謀反をしたものを捕らえると約束したうえで何とか納得してもらうこととしよう」

確固とした意志を見せた意冨々杼王の言葉に、

「そうなさりませ」

と頷いたのは都夫良意冨美である。一人娘が大長谷王に嫁ぐ事になっているこの簾臣はだからと言ってそれをもとに大長谷王を担ぎ出そうという野心などは欠片も持っていないようであった。


その夜の事である。人の気配に木梨皇子は目を醒ました。

「何者だ」

闇の中に向けて皇子は誰何すいかした。

「私の命を狙いに来たか?」

囚われの身になってからというもの、木梨皇子の神経は研ぎ澄まされている。いつ自分の命を狙う者が出てきてもおかしくないと考えていた。

「ふふふ・・・逆でございます」

闇の中から声がした。くぐもった男の声である。

「誰か、誰かおらぬか?」

叫ぼうとした皇子は背後から口を塞がれ、身悶えた。

「お静かになされ。私は味方でございます。警固する者たちは既に縛っております」

振り向こうとした皇子は巧みに身を束縛され、動くこともままならない。

「ですからお静かに。あらぬ疑いをかけられ、囚われているあなたを救いにまいったのですぞ」

それを聞いた木梨皇子は、塞がれた口の奥からくぐもった声で、

「分かった、騒がぬ。手をどけよ」

と伝えた。

「お分かりになれば・・・」

手はどけられたが、身は頑丈な腕に捕えられたままである。

「いったい誰だ、なぜこのようなことをする」

「申しましたでしょう。私は皇子の味方でございます」

「味方?」

「ええ」

「味方なら姿を見せよ」

「そう言うわけには参りませぬ。この争い、御子が勝つとは限りませぬ故」

「争い?」

「まだお気づきになりませぬか?これは次の帝の地位を狙う者の謀反でございます」

「む・・・」

昼間の弟との話し合いを思い出し、木梨皇子は、

「だが・・・穴穂がそのような事を考えるとは思えぬ。他の弟たちにしても・・・ならば市辺の御子か?」

と呟いた。

「さて・・・どうでしょう」

思わせぶりに、

「どうやら御子の潔白が証明されるかもしれませぬな。ですが、だからと言って妹御との噂が晴れ、御子が帝を継げるかは別の話」

と言った男に、

「潔白が証明される?どうやってだ」

と木梨皇子は問うた。

「冬衣の姫様が、体を使ってお示しになるようでございますよ、自らの身は潔白であると。そうすればあなた様の潔白も証明されましょう。橘の姫がご説得なされたようでございます。そのような恥ずかしい事を、と止める方もいらっしゃったようですが、明日にも決まりましょう。皆様の前で潔白を証明なさるそうでございます」

含み笑いをした男に、

「ばかな」

と皇子は悲鳴にも似た声を上げた。

「そのような事をして、冬衣が生きていけるはずがない」

「たいしたことではございませぬよ。あの天宇受売命は女陰ほとを見せて踊り、天照大御神を岩戸からお出しになられたのです」

「冬衣にさようなことをさせてまで私は皇位に執着するつもりはない」

叫んだ木梨皇子に向かって男は、

 「声が大きいですぞ」

と不機嫌そうに恫喝すると、平坦な声で続けた。

「ですが、問題はそこではない。例え羞恥にまみれ姫がそのような事を成されてもこの謀を企んだものが諦めるとは思えませぬ。冬衣命がさようなことをなさるのに反対した方々のうちにいらっしゃるのでしょうが」

「誰だ、反対したのは」

「さあ、そこまでは」

ふふふ、と笑うと

「ですが、その考えに賛成した者ならお一人。早く決着をつけねばならぬとお考えの方が」

「誰だ、それは?」

「大前小前宿祢でございます」

「大臣か・・・」

木梨皇子の知る限りにおいて、大前小前宿祢は忠臣である。

「ここは御子にお任せしましょう。今なら逃げることもできます。私がどこへなりとも守って連れて行って差し上げましょう。いかがなさいます?」

闇の中で木梨皇子の目はめまぐるしく瞬きをした。


橘は遠くから聞こえてくる喧騒に目を醒ました。日はさんの透きから差していたが横に長く、いつもの起床より早い時間である。

騒ぎははじめのうち遥か彼方で聞こえるだけのものであったがやがて、一つの足音が急ぎ足に近づいてくると、隣の戸が開いて戸と戸がぶつかる音がした。ひそひそ声で話す声が聞こえたかと思うと、暫くして隣とを隔てている戸が開き、老女が慌てたように橘の枕元に来ると

「ひめ、お着替えを。お呼びでございます」

と囁いた。

「なにごとです?」

軽く伸びをして、橘は答えた。

「騒々しい」

「たいへんでございます。御子が、木梨皇子がいなくなられた由にございます」

「なんですって」

残っていた眠気は消し飛んだ。

「穴穂命が姫様にも参られよと」

いつもなら、丁寧に顔を洗い、化粧をして髪を丹念に梳いてから人前に姿を現す習わしであるが、その殆どをすっ飛ばして橘は穴穂命の許へと急いだ。

駆けつけると、既に穴穂命は戦装束に着替えていた。その周りを慌ただしく軍衆が動いて、次々と報告を齎している。

「橘か・・・」

穴穂の兄は駆けつけてきた妹を見ると微笑んだが、その表情は強張っていた。

「どうなさったのです」

「伝えた通りだ。今朝、早番の者が交代に行ったら既に兄上はここを出られていたとのことだ」

「警固の者は?」

「隙を襲われたらしい。生きてはおる」

「兄上はどちらへ?」

「それがどうも大臣の邸らしい・・・」

「では、これは大前小前宿祢大臣が企んだこと?」

という橘の問いに、穴穂の兄は

「どうも、それほど事は単純ではないようだ」

と答えて眉間にしわを寄せた。その時、どたどたと大きい足音が近づいてきた。目を向けるとそこには顔を真っ赤にした伯父が腰に手を当てて立っていた。衣装は戦いのもので、左手には弓を右手には箭筒やづつを持っている。

「いったいどうしたのだ。木梨が逃げたと?」

既に呼び捨てである。

「ええ」

兄は頷いた。

「大臣の邸に逃げたと聞いておる。それではこの事は大臣の謀だったのか?」

「いえ、それが・・・」

そう言うと兄は橘の方をちらりと見遣って、

「お聞きください」

と話し始めた。

「兄上が逃げたとの知らせの後すぐに、実は大臣からの至急の使者が参りました。その口上によれば、今度の事に大臣は一切かかわっておらぬ、夜分突然押し掛けるようにして兄上が訪れたとのことでございます。仕方なく、取り敢えず匿っておりますが、大臣には謀反の意図など欠片もない、その証拠にもしもご命令があれば即刻御子の首を取って届けましょう、との事でございます」

「なら、すぐに命令するがよい」

吐き捨てるように伯父は言った。

「これは明白な反乱じゃ」

「ですが・・・ならば、なぜ兄上は大前小前宿祢を頼ったのでしょうか」

橘が尋ねると、伯父は一瞬、目を宙に浮かせたが、

「知らぬ。だが、大前小前宿祢の言葉は本心かどうか分からぬ。いずれにしろ軍を遣わすべきじゃ。そのために特別な矢を備えた者どもを集めて参った」

その矢とは矢先が黒鉄くろがねで出来たものである。伯父の一党は息長氏で、近江で鉄を鍛造する族である。遡れば倭建命に連なる族で、伯父自身も弓矢の腕は目を瞠るものがある。矢先が柔らかく加工しやすい銅と違い、作るのは難しいが破壊力は数等上であった。

「取り敢えず軍は遣わすつもりです。ですが、兄上は生きて戻って戴こうと」

「なぜじゃ?ここまで来たら攻め殺してもお前を謗る者など誰もおらぬ」

伯父の言葉に少し首を傾げると兄は、

「どうも兄上のやり方に平仄ひょうそくが整っておりませぬ。ここは兄上にきちんと話を聞かぬと」

と弁明した。

「ふん、手ぬるいの」

と伯父は鼻から荒い息を吐きだしたが、

「まあ、それも良かろう。わしとて御子をむやみに殺したいと考えておるわけではないわ」

と言うと、どかりと腰を下ろした。その間にも続々と人が集まり、その中には兄弟たちもいた。中で年若の大長谷だけは戦支度であったが、黒日子王と白日子王は普段と変わらぬいで立ちである。

「なんだ、その恰好は?」

伯父は無理やり収めた怒りを今度はその二人にぶつけた。

「危急の時ぞ、戦支度をしてまいれ」

二人は怯えたような眼をして後ずさったが穴穂が、

「伯父上、兵は足りております。時を待たずにここは・・・」

と助け船を出した。あからさまにほっとした表情の二人と橘たちを残して残りの者たちが宮を出ると、穴穂の後ろに控えていた大長谷が、穴穂に追いつきざま、

「このまま打ち込むのでございますか?」

と尋ねてきた。

「いや、大前小前宿祢大臣の所存を聞くつもりだ」

「なぜでございます?」

大長谷は首を傾げた。

「大臣は謀反に加担するつもりはないと言ってきておる。兄上の首を差し出しても良いと」

「・・・それならばなぜ?」

「なぜ、大前小前宿祢大臣の申し出たことを受けぬというか?」

穴穂は大長谷を振り向いた。

「ええ、まあ・・・」

「お前はどう思う?兄上のなさりようを。わざわざ味方をするかどうか知れぬ大臣の家になぜ逃げ込んだりしたのであろうか?大臣はその首を取っても構わぬと言っておるのだ。なぜそのような所へ?」

「さあ、それは」

首を傾げた弟に穴穂は、

「それを尋ねてみるのよ」

と答えた。

「さようでございますか。さらば兄上の申される通りのまま」

そう言うと、大長谷は馬をもとの位置へと戻した。進む一行にたつみの方角から風が吹きつけ、やがてそれは冷たい雨を運んできた。


大前小前宿祢大臣の邸から程なくのところに陣を置き、邸を取り囲むように兵をめぐらせると穴穂は注意深く様子を眺めた。動きはない。風はみ、沛然はいぜんと降る雨の向こうで邸は静かに佇んでいる。

やがて、冷たい雨は勢いが増してきた。陣の馬たちは雨に濡れた体を盛んに胴震いをしている。兵たちの中には寒さのせいかくさめをする者たちがでてきた。

「どうも、歯向かってくる様子ではございませぬな」

大長谷が言うと、

「うむ」

と穴穂は頷いた。

「使者を差し向けることにするか」

「それが宜しゅうございましょう。大臣に背くつもりがないならうまく行くに違いございません」

使者を差し向けると、それに付き従って来たのはなんと大臣その人であった。

「軍を引きませ。戦いをしかけるような事を成されれば、後世の物笑いの種になりますぞ」

そう言いながら踊るような足取りで向かって来て穴穂と大長谷の前にぺったりと膝をつくと、泥が跳ねた。その泥が顔についているのも構わず、

「これは、これは、日継の御子御自らのお出ましとは」

と二度三度と拝礼をすると、

「どうもとんでもないことになりました。まさか木梨皇子が私めを頼って来られるなどと思いもよりませなんだ」

と言う。

「そなたに心当たりはないのか?」

穴穂の問いに、ぶるぶると首を振ると、顔の端々から飛沫しぶきがはねた。

「とんでもございませぬ」

と大前小前宿祢が答え、

「ですが、追い返すのもどうかと思い、と言って味方になるとも約束できず曖昧なことを言って引き留めております。如何いたしましょうか、なんなら口上で伝えました通り・・・」

「いや、そなたが敵でなければそれで良い。兵はひこう。だが兄は生かしたまま連れ戻してくれ」

「それで宜しゅうございますか?」

「良い」

大前小前宿祢は顔を上げると、穴穂と大長谷を交互に見遣った。そして、

「さようでございますな。兄上に戦を仕掛けたり、或いは弑されたりなされては、世間がどう申しますやら」

と言うと、

「では御意のまま、宮でお待ちくださいませ」

と言うと邸へ戻っていった。

その日の午、大前小前宿祢かが付き添って宮まで兄が送られてくると、穴穂は他の者を入れず一人で兄と会った。

意冨々杼王は反対したが、兄の決意は固かった。兄同士の話し合いは昼から始まり夕方、陽の落ちる刻限まで続いた。

そして、話が終わるなり穴穂は皆を集めて、

「兄上は私が日継であることをお認めになった。ご自身はどのような罪にも服すと仰せであったが、一存で伊余(伊予)へ流すと決めた」

と告げた。

「それで良いのか、一度は戦を構えようとなさったのだぞ。後に悔いを残さぬか」

と意冨々杼王は声を荒らげた。他の者たちはどちらに与することもなく二人を見守っている。意冨々杼王は再度忠告したが、兄の意見は変わらなかった。

穴穂は一同を見渡し、ねめつけるように

「皆もそれでよいか」

と確かめた。

「それは余りにおかわいそうでございます」

橘は減刑を嘆願した。意冨々杼王はいつもの優しい伯父とは人が違ったように橘を睨んできたが一向に気にしなかった。

「それもならぬ」

穴穂の兄は厳しい声を出した。

「事ここに至った以上、畿内からは退いてもらわねばならぬ」

他に発言する者はない。

穴穂はもう一度、一同を見渡した。それでも誰も何も言わなかった。

「では、さっそく準備をさせる、それでよいな」

「流刑の手配はどうなされます」

と尋ねたのは大前小前宿祢である。

「それはこちらで手配する。皆も大変だったであろう、休め」

と言うと穴穂の兄は、

「橘、お前には冬衣の事で話がある。ここで待て」

と言い残して席を立ったのであった。


兄が戻って来たのはそれから程なくであった。その表情に事を収めた晴れがましさはない。橘を座らせたままじっと考えに沈んでいる。

「お兄さま、穴穂の兄さま」

橘が声をかけると漸く顔を上げたが、表情は曇ったままである。

「どうなされたのです?」

「うむ・・・。実はな。お前だけを残したのは、先ほど集まってもらった者の中でお前だけが信じられるからだ」

穴穂の兄はじっと橘を見つめている。

「どういうことでございましょう?」

「先ほどはああ言ったがな。兄上は最初のうちひどく強硬であられた。これは陰謀である、例え流されたとしても自分はきっと帰ってくる、殺されたとしても魂として戻ってきてたたりをなそう、とな」

「そうでございましたか・・・」

「死を望んではおらぬ、せめて伊余に下ってくださいませ、とお願いしたが、暫く黙っておられた後、歌を歌われた。

大君を島に放らば 船あまり い帰りこむぞ

我が畳 ゆめ 言をこそ 畳と言はめ 我が妻はゆめ

・・・とな」

自分を島になど流したら船と共に戻ってくるぞ、この場所に、場所とは言ったがそれは妻のもとにと言うことだ。分かったな。

そう歌った兄の気持ちは地位に固執しているのではなく、愛しい人と別れることを拒んでいるのだ、と橘には思えた。

「さようでございますか・・・」

沈痛な面持ちで答えた橘に向かって

「そうだ。だが、私は諦めなかった。私自身どうもこれまでの一連の出来事が兄上を陥れようと何者かが策略を施したようにしか思えぬ。そうも申し上げた。もっともそう考えれば一番疑わしいのは私自身だがな。兄上には一番疑わしいのは私自身である、と告げた上でそれでもそうではない、どうしても事の真偽を知りたい、逃げられたわけをお教え願いたいと申し上げて迫ったのだ。すると兄上はゆっくりと目を上げ、昨夜何者かが寝室に訪れて兄上を唆したのだと教えてくれた」

と兄は告げた。

「え?」

橘が目を丸くすると、

「私もそうではないかと疑っていた。何より兄上の警固を任されていた者たちは強固な者たち。たとえ不意を突かれたとしても兄上一人で敵う相手ではない。それも四人もいたのだぞ・・・」

「さようでございましたか」

姉の部屋の見張りも強固だったことを思い合わせて橘は頷いた。

「その者が兄上に語ったことがな・・・」

穴穂は顎に手を当てた。

「なんでございましょう?」

「冬衣が体を見せて無実を証明されようとなさった、という話じゃ。あの時橘は、女同士で、と言っておったがその者はそうは言っておらなかったという事であった。その上、例え冬衣が無実を証明なされようとしてもそれで物事が変わるわけでもないとな。兄上は冬衣がそのような恥辱を受けたら必ず死んでしまうだろうとお考えになったとの事だ。ならば男のいう通り賭けてみようと、そうお考えになったそうだ」

「まあ・・・」

橘は嘆息を漏らした。

「さようなことが・・・」

「そう申された後、兄上は私に向かってこうおっしゃった。お前は私を愚かだと考えるであろう。女、それも実の妹に恋をして帝の座をなげうとうとする私の事を・・・。だがな、私はずっと恋をしておったのだ。その相手が実の妹だと知っても、その気持ちを変えることはできなんだ。冬衣も同じであった。私たちは愚かなのかもしれぬが、それだけ幸せだったのだよ、と自嘲なされるようにな」

「はい、それは姉上様も・・・」

橘は俯いた。

「私は兄上に申し上げた。そのような恋をするのは羨ましゅうございます。ですが、事ここに至っては、物事のおさまりがつきませぬ、とな。すると兄上は、分かっておる、と頷かれた。どのような処置でもするがよい。私はやはりお前を一番に疑っておった。だが、どうやらお前が仕組んだことではなかったようだ。ただ、二つだけお前に頼みたいことがある。一つは、この企みを仕組んだものをいつかあぶりだしてほしい。そしてもう一つは冬衣には罪を与えぬことだ、その二つが叶うなら私はどのような罪でも受けようと、な」

「はい」

橘は思わず目頭が熱くなった。兄は自分の身より冬衣の姉の身を案じていなさる・・・。

「兄上は伊余への流罪を受けてくださった。冬衣は罪に問わぬつもりじゃ。と言っても冬衣がここに留まっても謗りを受けるに違いあるまい。橘、そなたには冬衣の面倒を見てほしい」

「分かりました、お兄さま」

「だが、気がかりなことはある。あの夜兄上に告げた者は必ず、その日のわれらの話し合いに出た者たちに繋がっておる」

「そうでございましょうか?」

「冬衣が・・・あのとりわけおとなしい冬衣がそこまで言うと思う者は他所におらぬであろう。だとしたら、あの席に居た者のうちの誰かがそれを知って慌てて策を弄したに違いない」

穴穂はじっと考え込んでいる。だとしたら、あの場にいたもの、意冨々杼王とその甥、つまり橘の兄たちである黒日子王と白日子王、そして大長谷王、そして臣下の大前小前宿祢大臣と都夫良意冨美、そのうちの誰かが犯人もしくはそれと繋がっているのだということである。

一人一人の顔を浮かべると、橘はおそるおそる

「でも伯父さまは違うと存じます」

と言った。

「だって、伯父さまにとってそのような事をなさる意味がございませんもの」

「その通りだ。私も同じ意見だ」

「では伯父さまを味方につけては?」

「それは私も考えた。だが今はまずい」

「なぜですの?」

「伯父上は取り敢えず事が片付いたと思っておられるだろう。だが、もし今のようなことを申せばますます騒ぎたてるに違いない。それが吉と出るかがわからぬ。今はそっとしておいていずれそのうちの誰かが尻尾を出すのを待つのが良かろう」

「そうですわね」

橘は頷くと、

「でもそうすると残りの者たちの誰か・・・。兄上たちでしょうか?」

「そうは思いたくない。臣たちにも疑いは残る。と言って・・・臣がそのような事をするということは次の帝に恩を売りたいという気持ちがさせるのが常。ということは私が黒幕ということになってしまうがな」

と穴穂は苦々しそうな声を出した。

「黒日子の兄さまと白日子の兄さまはそんな企てをするとは思えませぬ」

「確かに・・・だが無関心を装ったり、愚を装ったりということはないとは言えぬ。もっとも黒日子は日継の御子を辞退したくらいだからな・・・可能性は低い。白日子王は分からぬ」

「大長谷の兄さまは?」

橘は恐る恐るその名を出した。橘の目には、得体のしれないところのあるその兄を穴穂がどう見ているのだろう。だが穴穂は首を傾げると

「あの三人のうちではもっとも可能性はあるが、あれはまだ童男をぐなだ。一人でそのような企みを考えるとは思えぬ。それに私を帝にする意味がない。あれとは格別に仲がいいわけでもない」

と答えた。穴穂にとって大長谷はただの年若の兄弟にしか思えぬらしい。

「だとするとやはり大臣か都夫良意冨美でしょうか」

議論は元に戻る。

「都夫良意冨美の娘は大長谷王と一緒になる事になっておる。だからこの二人が組むということはあり得るが・・・しかし都夫良意冨美に限って・・・なあ」

都夫良意冨美が簾臣であることは世に知られている。

「では大臣でしょうか・・・?」

「あの中で一番可能性がある。戦いになりそうな時こそ、兄を殺せば世間の物笑いになるなどと申していたが、自分の身を守るためにとはいえ、兄を殺しても構わないと言ってきたくらいだからな」

大臣自体は帝になる血を持っているわけではない。木梨皇子を排除しても穴穂の兄と予め通じておかねば、大臣に何の得もない。かと言って、その相手は穴穂の兄を帝に仕立てて何の得があるのであろう?

「そういうわけでな。決めつけるわけにはいかぬ。暫くは様子を見ることにしよう」

「ええ」

「お前は冬衣をしっかりと頼む」

分かりました、と橘は答え長かったその日は漸く終わりを告げた

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