第8話 小青・大信の巻
集められたのは、囚われた二人と一の姉を除いた兄弟と、伯父、そして大前小前宿祢大臣と
一の姉は呼ばれなかった理由は他家に嫁いだというばかりではなく夫の大日下王が父の腹違いの兄弟であるからである。場合によっては帝の位を継ぐ立場にあるその男に繋がる姉をこの場に呼ぶのに強く反対したのは伯父であった。先だって大長谷の兄が日継の皇子を選ぶときに姉に声をかけるなと橘に命じたが、それと同じ理由であった。自らの妹に繋がる兄弟たちと、全く血の繋がらない大日下王の血筋とでは、伯父にとって雲泥の差があるのだろう、と橘は思ったがこの危急の
「お母さまはいかがざれておられますか?」
と橘が尋ねると、
「あの時以来、臥せっておる。声を一応掛けたが、とてもこの席には顔を見せられぬと言っておった」
と伯父は沈痛な声で答えた。
「さようでございますか」
うむ、と頷くと、さて、始めるとするか、と伯父は皆を見渡した。
「本当に兄上は認められたのか?」
最初に声を上げたのは境之黒日子王であった。苛立つような声と共に指で床を叩いている。その指の音が妙に調子があっている。まるで楽を弾いているかのようである。
「何もそのような事を・・・兄上もしらばっくれればこれほど大騒ぎにならなかったであろうに」
「確かに」
受けたのは大前小前宿祢大臣である。
「何もお認めになる必要はございませんでしたな」
「しかし、お認めになられたのはお二人が逢っていたことだけでございます。噂のような濫りがましいことをなさっていたとまでお認めになっているわけではございませぬ」
橘の声に伯父が頷いた。
「確かに。その事をお認めになられたわけではない。それを以て帝の資格を奪うというのも行き過ぎかもしれぬ」
「しかし・・・」
大前小前宿祢大臣は反駁した。
「そのように世間は考えますでしょうか。どうじゃ、意冨美」
そう言って、都夫良意冨美を見ると都夫良意冨美は眉を顰めるようにして、
「私個人としては木梨皇子の仰ることは真実かと思いますが、さて世上がどのように考えますか」
と応じた。
「しかし、世間がなんと言おうとその声を以って軽々しく決めるべきではない」
穴穂が主張した。
「帝の位を決めるものは帝の血筋を引くわれらぞ」
「兄上」
それまで沈黙を守っていた大長谷が静かに声を上げた。
「確かに、これは我等にとって家族のこと、ですが、われらにとって家族の事でも他の者にとっては国の事ですぞ」
その声に沈黙が場に漂った。
「確かに・・・」
伯父が重々しく言った。
「帝が軽々しく掟を侵しては国が成り立たなくなる」
「しかし掟を犯したかどうか、分からぬではございませぬか」
橘は反論した。
「それはそうだが・・・。だが誤解を招くと知った上でそのような行為をなさったこと自体、帝として相応しい行為であったのか」
都夫良意冨美が呟いた。清廉で民の心をよく知っていると評判の臣の言葉だけに、その一言は重かった。
「いいじゃないですか」
突然、白日子王が声を上げた。
「そのような誤解を招いたのなら、それは兄上の責任。責を取って日継の皇子を返上させれば。そして穴穂の兄上がお継ぎになれば宜しい」
言い終えぬうちに腹をくぅと鳴らしたのは腹が減った証拠で、どうやら早々と
「しかし、そのような事・・・やはり軽々に決められぬ。だいたい私が兄から日継の皇子の座を奪ったりすれば、一連の出来事が私の企んだことと世間は思うであろう」
穴穂が抗うように言うと、
「そうなのですか?」
と黒日子王が探るように尋ねた。
「もちろん違う」
穴穂は憤然として立ち上がった。
「だいたいこのような話がどこから出たのか、まずそれを知らんとならぬ」
「まずは」
と大長谷が冷静な口調で応じた・
「考えられるのは日継の御子の座を狙う方々」
「誰だ、それは?」
穴穂が唾を飛ばす。
「さて、となれば・・・」
伯父が手に顎を載せて呟いた。
「先の帝に連なる方々でその器量のおありになる方・・・」
恐らく、飯米の事で考えがいっぱいの白日子王を除いて、その場にいた者たちの頭に浮かんでいたのは、姉の嫁ぎ先である大日下王と兄弟の従兄弟にあたる市辺忍歯王の二人の顔であった。
「どうでしょう。誰と決まったわけではないですが、そのような者が成す謀略を防ぐためにはわれわれが衆議一決の上この危難に当たらねばなりませぬ。そのためには疑いを持たれた一の兄上のかわりに穴穂の兄上に日継の御子になって戴き、民心を取り戻すしかないのではないでしょうか?」
大長谷の言葉に何人かの男たちが頷いた。
「でも、それで兄上は納得されましょうか?」
橘の言葉に頷いた男たちが顔を見合わせた。
「しかし、それでご納得いただくしか、ございませぬのでは?」
大前小前宿祢が男たちの思いを代表するように発言した。
「何はともあれ一連の騒動の源と言えば、そのような軽々しいことを成された皇子の科でございますゆえ」
「なるべく早く決めねば、他にも帝の座を奪うものがでてくるやもしれぬ。それは決して許してはならぬ」
伯父が腹を据えたかのように言うと穴穂を見た。
「よろしいですかな、穴穂命」
それでも穴穂はすぐには頷かなかった。
「兄上がお許しになるとは思えぬ。一体どうやって誰が兄上にそれを認めさせるのか」
「それは私がしよう」
伯父が受けた。
「それで宜しいですな」
橘を除く皆が頷いた。
「では大后には私からそのように伝えますぞ」
そう言うとのっそりと伯父が立ち上がった。みな重々し気に頷くとそれぞれ立ち上がった。最初に走るように部屋を出たのは白日子王だった。その後姿を見ながら橘は溜息をつくと、悲しみに暮れている姉の姿を一人思い浮かべていた。
「そのような事を認めるわけにはいかぬ」
口調こそ静かだが、頬に薄く血を上らせて木梨皇子は伯父に向かって明確に拒否をした。
「それでは私と妹が姦淫をしたことを認めるようなものではないか。認めるわけにはいかぬ」
「ですが、皇子。世間の口は押えることはできませぬぞ。認めようと認めまいと、既に皇子は世上の信認を失っておられるのです。これ以上事が大きくなれば、別に謀を構えるものも出て参りましょう」
意冨々杼王は甥を必死に宥めている。
「ならぬ。認めれば私だけではない、冬衣も謗りを受けることになる」
「そのような・・・」
伯父は溜息を吐いた。
「だいたい謗りを招くようなことを成されたのは皇子ではございませぬか」
「妹と二人で話すことがなぜ謗りを招く?」
「ならなぜ公然と成されなかったのか?それに妹御に思いを寄せておられると白状なさったではございませぬか」
「それは事実だからだ。かと言って、非難を受けるようなことはしておらぬ」
これでは堂々巡りだ、と意冨々杼王は溜息を吐いた。
「ですが、これはご兄弟を含めた皆で
「敵?敵とは誰だ?」
鋭い目で甥は意冨々杼王を見返した。
「それは・・・」
「まさか、大日下王とか申すのではなかろうな?」
「あのお方も・・・その一人かもしれませぬ」
「伯父上、伯父上の目は曇っておられるのか?そなたの妹御である母の血を享けたわれら兄弟に帝を継がせたいと考えるのは分からぬでもないが、大日下王がそのような事を考えておられるわけがない」
意冨々杼王はふと、何かを言いたげな顔をしたが、首を振ると
「他にも市辺の皇子とか・・・」
と付け足した。
「ふむ」
木梨皇子は顎に手を遣った。
「まだその方が分かる。あの方は闊達だが、まだ若い。野心もお持ちであろう。だが、この事を謀ったのはおそらくあのお方ではあるまい。あのお方は直情だ。謀を考えれば必ず面に出る」
「ではどなたが?」
無言で木梨皇子は伯父の目を見つめた。その眸に奇妙な色が浮かんでいる。
「まさか?ご兄弟のうちの誰かが、とお考えになっておられるのではないでしょうな?」
上ずった声で確かめた伯父に、
「私の口からは申したくない」
と木梨皇子は言うと、つっと視線を逸らした。
「だが、誰がそなたたちに謗りをしたのか、そもそも謗りなどあったのか、確かめる事が先であろう。それが分かった上でなら、私も身の処し方を考えようではないか」
伯父と兄の会談の様子を聞くほどに、穴穂の兄の顔色は沈痛の色に染まっていった。
黒日子王と白日子王の姿はその席にはない。二人とも既に自分たちの考えは元の通り、これ以上相談されても困ると言って部屋に引き籠っている。遠くから聞こえて来る笙の音色は黒日子王の吹いているものに違いあるまい。白日子王はたぶんどこかで水菓子を頬張ってでもいるのだろう。
あのお二方が席に居ても物の役に立ちはすまい、却って良かったのだと思いつつも橘は物足りなさを覚えている。兄たちを初めて見た時、覚えた心強さは今度の出来事でどこかへと雲散霧消している。今一番頼りになるのは、穴穂の兄であるが、その肝心の兄は当事者となったことでうろたえ悩んでいるようであった。
「やはり兄上は私をお疑いなのか」
掠れた声に生気はない。
「そうとも申せませんが・・・。確かに讒訴はござったのでしょうな?」
都夫良意冨美の問いに、
「そなたまで私を疑うのか?確かにあった。聞いたことのない低い陰鬱な声であった」
「それは・・・確かに私の聞いた声と似通っておる」
意冨々杼の伯父は頷くと、
「さて、どうしたものか」
と腕を組んだ。
「その、讒訴をした者が見つかればよいですが、見つからなかったときはどのようになるのでございましょうかな?」
大前小前宿祢が問うた。
「おそらく、日継の御子をお譲りになることはあるまい。なにせ、その企みごとをした者、つまりは私が次の帝になるのだとお考えなのだからな」
自嘲するように言った穴穂の兄に、
「だが放置もできないでしょう」
と大長谷の兄が鋭く切り込んだ。
「この際、誰が讒言したかなどと言うことを調べ、時間を潰すことなどできませぬ。民の心は既に離れ始めておりますぞ」
「それは残念ながら事実でございますな」
都夫良意冨美が頷いた。
「世では木梨皇子は、軽々しいことをしたと、
「失敬な」
橘は思わず叫んだ。
「そのようなものたちは捕えなさい」
「そのような事をすればますます軽んじられます。ことは慎重に運ばれた方が良い」
都夫良意冨美の言葉に皆が頷いた。
「兄上、おつらい気持ちは分かりますが、こうなってしまった以上この国の将来は兄上の肩に掛っていると申して差し支えありますまい。どうかご決断を」
大長谷の言葉に穴穂は俯いていたが、やがて、
「その時はみな私の味方になってくれるのか?」
と座を見渡した。
「もちろんだ」
と伯父が頷き、男たちも皆倣った。
「橘はどうだ?」
一人頷かなかった橘に兄は優し気な微笑を浮かべた。
「私は・・・」
橘は暫し目を瞑ると、沈黙した。
「お姉さまの仰ることを信じております。でも、穴穂の兄上が謀をするとも思っておりませぬ。だからあることを守って戴ければ・・・、兄上が帝となられるのが良いと」
「それはなんだ?」
「木梨のお兄様にも、冬衣の姉さまにも罪を与えないでくださいませ。お二人の事をお許しくださいませ。せめて命だけでも」
「分かった」
「それと・・・・私にお姉さまと逢わせてくださいませ」
「うむ、良かろう」
橘の言葉を聞いて穴穂の兄は漸く、決意の色を浮かべて立ち上がった。
「いずれにしろ、兄上に誤解を持たれたままでは私も気が染まぬ。兄上と話し合い私が説得する積りだ」
「お姉さま・・・」
暗く狭い部屋であった。燭の炎がゆらりと揺れて、はっとしたように目を上げた姉の白い貌が目に映った。
穴穂の兄が木梨の兄と会うのに合わせ、橘は姉の閉じ込められている座敷牢のような部屋を訪れていた。建物の周りには隼人らしき男たちが固め、部屋の前には女二人が袴をたくし上げて守っていた。姉を閉じ込めておくには聊か大仰すぎる設えだ、と橘は思っている。姉には女二人で十分すぎる。いや一人でもいいくらいだ。
むしろ心配なのは姉の自死であろう。
だが、姉は生きていた。
「橘・・・」
掠れるような声で姉は名を呼んだ。
「来てくださったのね」
「ええ、お姉さま。もう大丈夫でございますよ」
精一杯の笑顔を見せて橘は言うと、
「こちらへ」
手で差招くと怯えた動物のように部屋の隅に
「お
頬の辺りが痩せ、目に隈が浮いている姉に向かってそう言ってはみたが、
「なんとお美しい」
と橘は目を瞠っている。普通の女なら、窶れて生気を失えば艶は失せ萎れた花のよう になるのだろうけど、姉はそうではなかった。もともと色白の姉は更に白く、眼はますますきらきらと輝いて凄みを帯びた美しさを纏っている。
「兄上が惹かれるのも無理はない」
と橘は思っている。もともと兄妹と知っていればそのような事はなかったのだろうが、最初に出会った時、兄も姉もそうと知らずに恋に落ちたのだ。
「疑いは・・・晴れたのですか」
姉の問いに橘は黙ってゆっくりと首を振った。
「いいえ、そうとは申せません」
そう答えると橘は伯父や兄、大臣たちとの話をあらまし伝えた。
「もちろん、私は疑っておりませぬ。お兄様たちもそうであられましょう。ですが・・・」
既に噂が広まり、兄から人心は離れてしまった、この隙に乗じてどのような不測の事態が起こらぬとも限らぬ、これでは帝の座に就いても世の中は収まりがつかないでしょう、と言うと、
「今、穴穂の兄さまがお話になっております」
日継の御子を譲るという解決策を直に二人で話し合っているのだと伝えると、姉は放心したように彼方を見つめるような目つきをした。
「私のために・・・そのような事に。でもあのお方はそれを
「分かりませぬ、でも・・・」
自分への疑いは、この姉への疑いでもあると言ったという兄が穴穂の兄の説得に直ぐに納得するかは良くは分からない。だが穴穂の兄の決意も
「きっと二人のお兄さまが良く話し合って、事を納めてくださいますでしょう」
「でも・・・」
眸を揺らしながら姉は呟いた。そして暫く俯くと意を決したかのように
「疑いを晴らすためなら、私の体を見せてもよろしいのです。橘、あなたならそれをできましょう?」
と言った。
「お姉さま・・・」
橘は絶句した。姉は生娘であることを証明するなら何をしてもかまわないと言っているのだ。それは姉のような人にとって、どのような屈辱的な事かは橘には一瞬で理解できた。
「そのような・・・。木梨のお兄さまがそのような事をお望みになるとは思えませぬ」
「いいえ、私はどうなっても構わないのです。あのお方が無実であることが分かれば」
「でもお姉さま・・・」
そんなことをしても、お二人は決して一緒になれませぬのよ、と言いさして橘は後が続けられなかった。そんなことを言えば、ますます姉を追い詰めることになる。
「ええ、そうですね。お姉さまがそうおっしゃった事は伝えておきます」
「ありがとう、橘」
姉は縋るように橘の手を握って来た。その指を一つ一つ、優しく撫ぜながら橘は言った。
「お姉さまが羨ましゅうございますわ」
なぜ?という風に見上げた姉に橘はそっと囁いた。
「だって、お姉さまは本当の恋をなさっているのですから。その相手が例えお兄さまであっても・・・。私にはきっとそのような恋は一生できませぬ」
ふっと姉は笑い顔を見せたように思った。でも一瞬の事だった。そして姉は橘の膝に顔を埋めると泣き続けた。いつまでも・・・いつまでも。
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