第7話 小青・小信の巻
「お姉さま」
橘に振り返った姉の、髪を揚げた姿は物珍しく新鮮だった。美しい人はどんな髪型をしてもよく似合う。橘はまだ髪を下げたままだが、もう二年もすれば姉と同じく髪を揚げることもできよう。だが、姉ほど美しい姿になるかと言えば心もとない。それも諒闇のため、藤衣の姿である。諒闇が明け、衣装がもとに戻ればどんなにか華やかであろうか。
「お似合いでございます。お美しゅうございます」
「ありがとう」
姉は幽かに微笑んだが、橘に向けた顔は薄く陰を作っていた。
「どうなされたのでございます?」
「ええ」
と俯いた姉は
「朝顔が・・・」
と口ごもった。
「?」
橘は、朝顔の花を思い浮かべた。朝顔と言うのは今言う蔓のある花ではない。
「あら、あの老女のこと。どうなされたのです?」
と姉に問うた。
「実は・・・」
と姉が話したのは、少し異例の事であった。伯父の意冨々杼王から、昨日朝顔を寄越せと言われたのだという。今までそんなことがなかったので妙な、と思いはしたが格別に差し障りがなかったので遣いに出したのだが、その朝顔が今日になっても戻って来ない、と姉は心細げな表情になった。
「へんですわね」
橘も首を傾げた。伯父と朝顔には何の繋がりもない。親戚ででもあれば別だが、なんの関係もない付き人を伯父が呼びだしたというのも不思議である。
「伯父さまの方に使いを遣ろうと思っているのですけれど・・・」
「それが宜しゅうございますね」
朝顔は老女である。老女と言ってもそれほど年を取っているわけではないが、伯父が縁談など取り持つ
その時話している二人の耳に、遠くから、たたた、と小走りに駆ける足音が聞こえた。橘は眉を顰めた。宮は静粛なところである。その上諒闇に服しているこの時、駆ける足音は相応しくない。
足音と共に呼ばう声が聞こえた。
「冬衣命、いずこに?」
その声の調子に姉がはっと身を固くしたのが分かった。どこか
橘は怒りの籠った視線を声のした方に送った。それと同時に廊の先に男たちの姿が現れた。
「あそこにおわすぞ」
とそのうちの一人が指を指したのを見て、橘が厳しい声を上げた。
「何事です?ここをどこと心得る?静まりなさい。姉さまに向かって指を指すとはなんと無礼な」
駆けつけようとした男たちが橘の声に膝をついた。
「橘大郎女命、お許しください」
姉を背に隠すと、橘は男たちに向かって斬りつけるような声を出した。
「黙りなさい。ここは
「しかし・・・」
男の一人が顔を上げた。
「われらは命令にて動いておるのでございます」
「何、誰の命令か?」
「意冨々杼王の命でございます」
「伯父上の?」
橘は眉を顰めた。橘の背に身を隠した姉の付き人は意冨々杼王に呼ばれたまま姿を
「伯父上と言っても、この宮の主ではない。帝のおられぬ今、ここの主となるのは日継の御子である兄上、木梨皇子の筈。木梨皇子の許しはあるのか?」
橘の問いに、膝を屈していた男たちは互いに目を合わせたが、そのうちの最も位の高そうな男が、
「木梨皇子にも不審の事があるとのことでございます。后、それと穴穂命からも許しを得たうえで、
「それならばなぜ捕らえようとなさる。呼べば済むこと」
橘がなおも言い張ると、男は、
「その通りでございますが・・・。意冨々杼王からは万一の事があるから決して目を離さずお連れしろとの事でございました」
「万一の事?」
「は、万一にもお命を自ら縮めなさるようなことがあってはならぬと・・・」
はっとして、橘は後ろを振り向いた。姉は追い詰められた動物のように眼を見開いていた。その頬には血の気さえない。
「姉さま?」
「橘・・・。何もかも誤解なのです」
男たちに取り囲まれて連れ去られた姉の姿を呆然と見送ると、橘は急いで兄、穴穂命のもとへと向かった。事情を知っている者は三人、その中でどこか疎遠な母と姉の話をするのは憚られたし、伯父は一方の当事者である。ならば、穴穂の兄と話すしかない。
「兄さま」
橘が兄のもとを訪れた時、兄は室を出ようとしているまさにその時であった。いつもは温和な兄は、厳しい表情をしたまま橘を見ると、
「どうした。今は忙しい。これから伯父上の許へと行かねばならぬ」
「そのことでございます。姉上様をどうしようとなさっているのです。木梨のお兄さまは何をなさったのでございます」
何、と呟くと穴穂の兄は立ち止まった。
「そなた、もうそのことを知っているか?」
「ええ、だってお姉さまと一緒におりましたもの」
「あれほど隠密にと言い聞かせていたものを」
と忌々し気な声を出すと、
「これから審問に参るところだ」
と声を潜めた。
「何の審問でございますか」
問い返した橘に、兄は顔を赤らめると、
「兄上と冬衣が・・・・その・・・
と怒ったような声を出した。
「・・・」
やはり思った通りの嫌疑である。
橘の脳裏に浮かんでいるのは子供の頃、一度だけ見かけたあの情景である。その時には判然としなかった男の顔は、今は長兄のものであった。だが一瞬のうちにその像を頭の中から消すと、
「まさかそのような、いったい誰がそのような事を・・・」
と問いただした橘に兄は、
「伯父上と私のところに誰とも知らぬものから
と小声で打ち明けた。
「まさか・・・」
「濫りがましいことなど二人の間にはないと女は申しておるようだが、その場にいたわけではない。ただ、そのお会いになっていたという事実が確かめられただけだ」
「兄上は・・・木梨の兄はなんと申されておられるのですか」
「兄上は何もおっしゃらぬ。だからこれから冬衣に確かめるところなのだ」
そう言うと橘を押しのけるように兄は室を出ていこうとした。
「そのような讒訴を・・・」
橘は兄の後ろ姿に声をかけた。
「お信じになりますな、兄上」
悲鳴にも似たその声に一瞬立ち止まった穴穂の兄は、だが振り返ることもなく廊を進んでいった。
その日、夜が更けるまで橘は待ち続けたが姉が戻ってくることはなかった。まんじりともせずに朝が来るなり、床を離れると橘は兄の許へと出向いたが、兄はいなかった。
宮の様子は普段と格段の違いはなかった。
姉を探しに来た男たちはしくじりをしたのだ、と橘は思った。あのような大声を上げ、姉を探しに来たのは兄のいう通り本意ではなかったに違いない。多分、穴穂の兄は讒訴を疑っている、そしてもし讒訴が本当でなかった時の事を考えているのだ。兄の部屋から戻る道すがら、唇をかみしめながら橘はそう考えていた。
兄が橘を呼んだのはその日、昼の刻を過ぎた頃であった。橘は急いで兄の許を訪れた。
兄はよく眠っていないようだった。目は赤く、顔は疲労のせいか少しむくんでいた。
「兄さま、いかがでございましたか?」
橘の問いに、
「うむ・・・」
と歯切れ悪く答えた兄は、
「少々面倒だ」
と付け加えた。
「何がでございます?お二人はお認めになられなかったのでしょう?」
「濫りがましい事があったということについてはな・・。しかししばしばお会いになっていたことは認めた」
「しばしば・・・?」
「ああ、月に一度、新月の日に・・・人目を忍んで、な。それを多いと考えるか少ないと考えるか、微妙なところだ。そしてその時に何があったのかということについてもな」
「でも・・・お会いになることなど何も問題はございませんでしょう。兄弟なのだから」
そう言った橘をちらりと見遣ると、
「冬衣が妙なことを言っておった。そなた・・・そなたならあれの気持ちを分かってくれるのではないかと」
「姉上様が?」
妙な目つきで兄は橘を見つめている。
「実はな・・・。弱っておる」
「何をでございます?」
「二人は・・・つまり兄上と冬衣は濫りがましいことはしておられると断言したが、一方で兄、妹の敷居を越えた感情を互いにお持ちだということもお認めになった」
「どういうことでございます?」
橘は目を瞠った。
「うむ・・・。この話、決して外に漏らすでないぞ。母上にも兄弟にもだ」
橘が頷くと、兄は途方に暮れたような眼をして遠くを見つめたが、意を決したように話し始めた。
「わしら兄弟は男と女に分かれて育てられた。それが父上のお考えだったということはそなたも承知であろう?」
「ええ」
「兄上はある日、われらの領であった川向こうの端で川を隔てて美しい女子を見た。そして恋に落ちた。その女子も同じ、兄上を見て恋に落ちた。その女子が冬衣だ。二人は互いが兄妹と知らずに恋してしまったのだ。二人はこの宮に来て、初めて互いが兄弟だと知ったが、恋する心を捨てられなかった。だから、忍んで会うことになった。一方で決して認められない恋だから、濫りがましいことはない。二人ともそう主張しているのだ。そして冬衣は一度だけ、お前と一緒に川に出かけた時、その時だけ自分の秘めた心をみせてしまったと申しておる。もっともその時は、お前はその相手が兄上だとは知らなかったであろうと言っているが・・・」
そう言うとちらりと橘を見遣った兄に橘は頷いた。
「その時の事は覚えております」
橘は言った。
「あれは夏の事でございました。川の水が減って、無理をすれば渡っていけるのを見て、なぜかお姉さまは涙を流されました。もし、もう少し前に水が減っていれば、きっとお姉さまは川を渡り愛しいお方の許に行けたのでしょうが、その頃にはもうそのお方と会うことはできなかったのでしょう。でも・・・。お姉さまは一言もそんなことはおっしゃりませんでした。ましてお相手の方など分かる筈もございませんでした。でも相手の御方とそれからは会うこともなかったご様子でした」
「兄上はその前に宮に召されたのだ」
穴穂の兄は溜息を吐いた。
「他人事なら美しくも妖しい話で済むが・・・」
「どなたが讒訴などされたのでしょう?兄上はその方と話をなすったのでしょう?」
橘が尋ねると、兄は小さく首を振った。
「話はしていないのだ」
この時代には今のように誰もが文字を使える時代ではない。従って讒訴を受けるとしたら口頭のはずである。なのに相手に会っていないとは・・・?
「実は妙な話なのだ。つい一昨日の夜の事、私はふと人気を感じて目を覚ました。だが、周りには誰もいない。夢を見たのかと思って、私が再び眠ろうとしたその時、闇の奥から声がした」
「いったいどういう?」
橘は息を殺すようにして尋ねた。
「声は申した。
日継の御子について穴穂命に申し上げることがあります。今の皇太子、つまりあなたの兄上を帝になさるのは障りがございます。なぜならば、あのお方は妹御、冬衣の比売と淫らなご関係にございますゆえ、とな。
誰だ、と私は問うた。聞いたことのない声であった。だが、その声はふふふと含み笑いをしただけで問いには答えず、
この事は意冨々杼王にも伝えてございます。三日前、新月の夜、
とだけ申した。私は再び、名を名乗れと呼びかけたが、既に人気は消えていた。そこで翌日、私は意冨々杼王のもとへ参りその話をした。伯父上もその話を同じように聞いたと申され、それを確かめるために冬衣の侍女を召された。その結果がこれだ・・・」
途方に暮れたように兄が呟いた時、前の廊に足音がした。走るというわけではないが急ぎ足の足音である。
「穴穂命さま・・・」
「入れ」
と言う声に戸を開けた男は、そこに橘がいるのを見て思わず、目を伏せた。
「構わぬ。何があった?」
「実は・・・」
言い難そうに眼を橘に向けた男に再び皇子は促した。
「構わぬと言ったであろう。申せ」
「冬衣命の侍女が逃げました」
男の答えに穴穂が目を剥いた。
「ばかな。あの者は閉じ込めて警固の者を置けと申し付けたであろう」
「は、ですが警固の者は殺され、女は逃げましたのでございます」
兄と目を合わせた橘は、思わず、
「すぐに探すのです、早く」
と男に命じた。驚いたように目を上げたその男に向かって、兄も怒鳴るような声を上げた。
「すぐに探せ」
「ははっ」
転ぶように男は振り返るなり、廊を降りると地面を裸足のまま駆け去っていった。
朝顔が見つかったのはあの川であった。
兄と共に川の畔に着いた橘が見たのは川の淀みに、花の咲いているかのように美しい紅と白の衣装を漂わせ、背を向けて浮いている女の姿であった。
「朝顔・・・」
声を震わせた橘を横目で見ると、穴穂の兄は、
「自死であろうか?」
と問うた。
「分かりませぬ。ですがそうだとしたら、自らが告白したことによって姉上が囚われたと知り、命を絶ったのだと思います」
橘は涙を袖で拭くと、答えた。
「さようか・・・。冬衣を捕えたとはあの者には伝えなかったのだが、そう考えたとしても無理はない」
「いいえ、お兄さま。朝顔を警固していたものが殺されたのですよ。きっと殺したものが朝顔にお兄さまもお姉さまも囚われの身になったと知らせたに違いありません」
「しかし・・・誰がそのようなことを」
「分かりませぬ」
男たちが腰の下まで水に浸かりながら浮いた女の死体を岸に引き上げるのを見守っていると、後ろの方からわらわらと人がやってくる音がした。振り返ると先頭に立っているのは伯父である。
伯父は橘がそこにいるのに気付くと、驚いたような顔をして、一瞬考えこんでから兄に向かって手を振った。
時折、橘の方をちらちらと見遣りながら顔を見合わせて話し込んでいる二人の様子に、橘は伯父が兄に自分をまきこんだことの苦情を言っているに違いないと推察した。伯父は意外に頭が固く、女が政に口を出すことを嫌っている。きっと、私の事を宮に返せとでも言っておられるのだろう、と思いながらじっとして待っていた橘に向かって、今度は兄がこちらへ来いというように手を振った。
おや?
と橘は首を傾げた。伯父さまのお話は自分の想像と違うのであろうか?不思議に思いながら呼ばれたままに近づくと伯父は険しい顔で橘を睨んでいたが、兄は
「橘、お前の考えを聞かせてくれ。伯父さまがここに来られたのは朝顔の最期を見られに来たのではない。あれほど秘匿しておいたのにも関わらず、宮では兄上と冬衣の話が既に噂になっておるとの話をしに来られたのだ」
「え?」
伯父と兄が秘密裏に事を進めようとしてもいつかは漏れるに違いあるまいと橘は最初から思っていた。宮に仕える人々は噂話が好きである。どんなに秘密にしようといずれは漏れるだろう、そう考えていたのだがこれほど早く噂が広まるとは思っていなかったのである。
「どなたがご存じなのですか・・・」
「どなた、どころではない。今や宮でその話を知らぬものはないほどだ」
苦虫を噛み潰したような顔で伯父は答えると、橘を見据えた。
「まさか、お前ではなかろうな?」
「いえ」
橘はきっぱりと否定した。
「お姉さまが連れ去られてから私、誰とも口をきいておりません」
「ではどうしてだ?」
伯父は天を仰いだ。、
「姉上とお兄様を捕えられた方たちは?どうなされているのです」
「皇子はわしが部屋に呼んでそのまま部屋におる。冬衣を捕えた者たちはそなた以外に知られてはおらぬと申しておった。わしら以外にこのことを知っているも筈の者は僅か七名、それとそなた・・・いや、先ほど先の后には話したが・・・」
「お母さまに?お母さまはどうなされておられますか?」
「話を聞くなり、顔色を変えてそのまま床に伏しておる」
「では・・・」
橘は少し考えると、
「噂をばらまいたのは伯父さまとお兄様に讒訴した者、そして朝顔を逃がし自死させたものでございましょう」
と二人の男に向かって断言した。どうやら相手は相当陰険な人間である、と橘の本能は知らせてくる。
「なぜそのような事をする?わしらは讒訴をしたもののいう通り事の真偽を確かめようとしていたのだ。その者のいう通りしたというに・・・卑怯な」
伯父は頬を染めて呪いの言葉を放った。橘はそれを聞かぬふりをすると、
「伯父さま、お兄さまがどうなさろうと端からその者は噂を広めようと考えていたに違いありませぬ」
と考えを述べた。橘の言葉に兄と伯父がはっとしたように目を上げた。
「なぜそのような事を?」
兄が当惑したような声を出した。
「分かりません。でもだとすると困ったことが・・・」
「困ったこと?」
伯父が食って掛かるようにずいと前に歩を進めた。
「なんだ、それは?」
「お考え下さいませ」
思わず後ずさりしながら、橘は答えた。
「木梨の兄上を貶めるようなかような事をして最初に疑われるのは誰でございましょう」
「ん?」
伯父と兄は顔を見合わせた。
「世間の目には兄上を貶めて日継の皇子から降ろせば、穴穂の兄上、兄上が次の帝になると考えます」
木梨皇子に何か事があった場合、次の帝が穴穂の兄になるということはまるで既成事実のように世上で噂になっている。それも誰が言いだしたということではなく、いつの間にか世に知られていたのであった。
日継の御子は公知であるが、その先の事を言う筈がない。それを言えば、木梨皇子の身に何かが起こるかもしれないと宮中が認めたことになるからである。
「ばかな」
今度は兄が顔を真っ赤にする番であった。
「そなたは私がこの企みに係わっていると申すか?」
「いいえ」
橘はきっぱりと答えた。
「兄上がそのような事をなさるわけがございません。それは私が一番よく知っております。でも世間がどう思うかというのは別の話でございます」
「むう」
唸った兄の横で伯父は、
「なるほど、そなたの言うことも故なきことではないの」
と頷いた。
「伯父上まで、そんな」
悲鳴のような声を上げた穴穂の兄に向かって、伯父は
「いや、もちろんわしもお前が企んだなどとは爪の先ほども思っておらぬ。しかし、お前が帝になることを望んで居る者も宮にはおるであろう。その誰かが・・・」
と言い訳をするように手を翳した。
「いえ、さようなものは一人として。もしもそのようなものがいれば私は斬り捨てましょう」
昂った声の兄に、
「さようでございますね」
と橘は静かに言った。穴穂の兄は真っ直ぐな人である。兄を思ってそのような企みを思いつくものがいたとしても、兄の性情を知っている人なら決してそのような企みを実行に移すはずがない。
どこか平仄があっていない、と橘は思っている。
「これからどうなさいまする?」
橘の問いに伯父と兄は顔を見合わせた。
「どうにもこうにも・・・」
やがて伯父は呟いた。
「このままにはしておけぬ。先ずは后とそちたち兄弟に事の次第を説明して諮らねばならぬ。その上で連、臣たちにも話さねばならん。えらいことになってしまったの」
肩をほぐすように回して伯父は呟いた。
「それより仕方ございませぬな」
兄も頷いた。
「秘かに事を収めようとしたのだが・・・無駄だった。先が思いやられる」
川の方から大きな声が聞こえてきた。どうやら水死人を引き上げたようで、その中にはがさつに笑う声が混じっている。人の死は今と比べようのないほど身近で日常である。それでも、橘には我慢がならなかった。
「お黙りなさい。人が死んだのですよ」
空気を断ち切るような声に、あたりは静まった。人足たちはあっけにとられたような顔で声のした方を眺めたが、そこにいるのが貴い人と気付いたのか、一斉に腹這った。
伯父も兄も驚いたように橘を見つめている。固まった景色を一筋の風が吹き抜けた。その風を合図にしたように、橘は振り向くと腹這った者たちを残して歩を進めた。後を追うように兄が歩きだし、橘の横に並ぶと、微笑みかけた。
「橘・・・」
「はい?」
大きな声を出したことに頬を染めたまま橘は前を見つめて歩を進める。
「良かったぞ、今のは」
「そんな・・・」
後からついてきた伯父も頷いた。
「どうやらわしらは目の前のことに気を取られすぎていたようじゃ」
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