第6話 大黒・大義の巻

新しい年を迎えたが、帝は新年の儀に際してひいた風邪がもとで床に伏す日々が続いた。祈祷師が呼ばれ、快癒を祈る声は日がな宮に満ちていたが、容体は一進一退を繰り返し、やがて帝の体が衰えていくのが誰の目にも明らかになった。

帝の枕頭ちんとうには入れ替わり立ち代わり皇子や皇女が見舞う日々が続いた。或る日、橘が帝の許を訪れると先に大長谷の兄が枕元に座り帝の顔を扇で煽いでいた。一瞬躊躇った橘だったが、兄は橘に気付くと目で来るように促した。拒むわけにもゆかず、橘はそっと父の脇に座ると、

「お加減はいかがですか」

と小声で兄に尋ねた。

「眠っておられる」

乾いた声で兄は答えた。

「ずっと、・・・そうやって煽いでおられたのですか?」

橘の問いに、兄はにやりと笑うと、

「私に・・・似合わぬか?」

と問い返したが、扇を使う手は止めなかった。

「そのような事はございません」

硬い声で返すと、橘は父の額にそっと手を置いた。たるんだ皮膚は籠ったように熱っぽく、辺りには病持ち特有の甘酸っぱい匂いがした。

「祈祷は?」

辺りに祈祷師たちの姿が見えぬので、尋ねた橘に、

「今は休んで居る。効かぬどころか、祈祷師の中には父上より先に参ってしまった者たちもおる」

と皮肉めいて言うと、兄は

「父上に強く祟っているものがおるに違いない」

と呟いた。

父の額に手を置いたまま、

「どなたのことを?」

と尋ねた橘の問いに、

「帝の位を惜しむものよ」

と答えた兄は、ところでと、鋭い視線を橘に向けた。

「お前は冬衣の姉さまと親しいようだな」

「ええ」

橘は訝し気に答えた。兄が冬衣の姉に関心を示したことは今まで一度もなかったのだ。

「どうかいたしましたか?」

「冬衣の姉さまに縁談がある」

「え?」

目を瞠った橘に、

「何の不思議があるか。お前にだってそういう話があっても不思議ではない」

確かに一の姉が嫁いだのも今の冬衣の姉と同じ歳であった。

「どなたと?」

橘は探るような眼を兄に向けた。だが、兄は僅かに首を振っただけであった。

「それは言えぬ。相手も貴いお方だからな。だが、姉さまは気乗りせぬようなことをおっしゃっているようだ。父上の耳にはまだ入れておらぬ。纏まらぬようなら知らぬ方が良かろう」

「え・・・、ええ」

「姉さまにはどなたか心を通わせている人でもいるのか?」

探るような視線を向けてきた兄に、

「存じ上げませぬ」

間髪を入れずに橘であったが心中は乱れていた。姉が気乗りしないという理由は一の兄さまにあるのかもしれぬ。

「父上の御存命中に話がまとまればいいと思っていたのだがな」

と臥せっている病人にちらりと目を遣った兄に、

「そのような言い様を父上の前でなされますな。まるで・・・」

帝が薨じられるのを前提としたような兄の言い方に、怒気を含んだ声を橘は放った。その声にそれまで静かに眠って伏していた病人がうめき声をあげた。

「お父様、目をお覚ましになられたのですか・・・申し訳ございませぬ。枕元で大声を・・・」

兄を睨みつけながら言った橘の謝罪の言葉に、不思議そうに目を瞬かせた父は、ゆっくりと目を閉じ

「ああ、」

とのどに痰が絡んでいるかのような幽かな声を上げた。

「大長谷、それに橘か・・・。いつも済まぬな」

弱弱しく言うと、

「橘、水を取ってくれ」

と枕元に置かれた杯の方に目を遣った。

「はいお父様」

杯を取ると、父親の唇の間に少しずつ水を注いだ。自由に起き上がれない父親に僅かずつ水を飲ませるのは橘の役目である。と言っても、別に言いつけられたわけでなく、橘以外の人が水を飲ませようとすると、父親はせてしまうのであった。咲いたばかりに花に水を遣るように慎重に父の唇の間を湿らせると、

「もうよい、ご苦労であった」

と父は、今度ははっきりとした声で言うと、放心したような目つきで垂木たるきの辺りを眺めていたが、不意に、

「大長谷、橘。汝らは明日、后とお前らの兄弟・・・そして意冨々杼の兄上に集まるように告げてくれ」

「え?」

と橘が声を発したのと、はっ、と大長谷の兄が答えたのは同時であった。

大前小前宿祢おほまへをまへすくねはいかがいたしましょうか」

兄の言葉に

「ん?」

と呟くと床の人はしばらく考えると、

「そうじゃな。大臣おほおみも来るように伝えてくれ。二人とももうよい。暫く一人にしておくれ」

との父の言葉に目を見合わせると、静かに兄弟は立ち上がった。


「何事でございましょうか。皆を集めろ、だのと」

あまり口を利きたくない相手であったが、父の言葉を一緒に聞いたのは大長谷の兄だけである。だが兄は一瞬橘に目を遣るとふん、蔑んだような声を上げ、

「決まっておる。父上はまだ日継の御子を誰にするか明らかにされておらぬ」

と答えた。

「では、それを皆の前で?」

「それ以外に皆を集める理由はあるか?」

と聞かれれば橘に答えはない。

「皆には私から伝えておく。いや、姉上たちには橘、お前が伝えてくれ。但し、一の姉さまには決して言うな、あのお方はもうこの家の者ではないからな」

とだけ言うと、兄は早足になって宮の奥へと消えていった。橘は呆気に取られてその後姿を見送っている。


翌日、午の刻になると祈祷の声がふっとやみ、帝の寝室の横に控えていた后と兄弟、そして意冨々杼王と大前小前宿祢がうち揃った。意冨々杼王が、目で頷くと皆も頷き返し、帝の寝室に入っていった。

大人たちは、それが日継の御子を定める帝の遺志と知って、神妙かつ厳かな様子である。

「みな、集まったか」

帝の言葉は昨日に比べると力がみなぎっていた。だが身を起こすまでの力はないらしく、臥せったままである。

「揃っております。帝」

代表して意冨々杼王が答えた。

「良く聞いてくれ。朕の命はもはやそう長くはないであろう、いやまあ、良い」

大前小前宿祢が自分の言葉をとどめようかとするように膝を前に進めたのを手で制すると、

「一両日にどうということを言っているのではない。だが半年もつということはあるまい。気がかりなことは日継の御子をまだ決めておらぬことだ。病に臥せってからというもの、ずっとそればかりを考えておった。というのも・・・」

並んだ兄弟にちらりと目を遣ると、

「朕は皆の幼い頃をよく知らぬ。その時はそれが良いと考えて離れて暮らしてきたが、いざ日継の御子を決める段になると、それが間違えだったと知った」

「どう間違われておられたのですか?」

大前小前宿祢が尋ねた。

「人の性情というものは大人になれば取り繕うこともできる。幼いうちにその性情というものは良く出るものだ、と知った。正しく見える人となりも本当にそうなのかは分からぬ。また愚かに見えるものとて、誠に愚かなのかそう見せかけているだけなのかは大人になってからでは分からぬ。自分の子供でさえそうなのだ」

残念そうに言葉を切ると、

「それでも、わしなりに考えて参った。日継の御子はやはり木梨王、お前にする」

枕元に座った子供たちを見据え、帝はそう宣言した。は、と皆が肯った中、とりわけ長く地に頭をつけていたのは指名を受けた木梨皇子であった。

順当な選出だと橘は考えていた。父が何を恐れて今まで一番の兄を日継の御子にしていなかったのか、その方が不思議だった。橘と同じ考えの者は頷いたが、そうでないものもいた。母后がふっと帝から目を逸らしたのも不思議であった。

「父上、お恐れながら」

膝を勧めたのは大長谷であった。

「かようなことを申し上げるのは誠に心苦しく、また患いに障るのではないかとも恐れますが一言申しあげておきたいよ存じます。ご存知の通り、おじい様でありまた先代の帝でもあらせられる大雀命は五人の皇子をお持ちになられました」

「ん?」

何を言いたいのだと言うように帝は大長谷を見つめた。

「その時に日継の御子としてお決めになられたのは、帝の兄上伊耶本和気命、それに反旗を翻したのが墨江之中王でございます」

「ああ」

帝は末の息子の言葉に頷いた。

「それを鎮圧されたのが水歯別命、直のお兄様でございます。そしてそのあとを帝ご自身がお継ぎになられました」

「そうだ」

「一度、乱れた流れと言うのはなかなか静まりませぬ。川とても、一度濁った川が澄むまでには長い流れが必要なもの」

「何を言いたいのだ、大長谷?」

少し苛立ったように帝は声を荒らげた。

「御子がおっしゃりたいのは、この国にはまだ帝の位につく資格をお持ちのお方がいらっしゃるということでございましょう。そのお方たちが黙っておられるか・・・」

大前小前宿祢が助け舟を出した。

「もちろん、帝がお定めになられた日継の御子。ここにおります誰もが木梨皇子を盛り立てて参りましょう。ですが、万一帝の位を狙う別のどなたかが反乱を企てた時それを守る手立ても必要。その時にも大御心おほみこころに添ったお方がおられるようにしておけば例え乱が起きてもすぐに鎮圧できましょう。その時は阿知直あちのあたひのなされた通りやつがれも粉骨砕身の働きをする所存でございますが・・・」

「ばかな・・・」

吐き捨てるように呟いた帝は目を逸らして天上を見上げた。しかし、その声に勢いはない。

父、大雀命が薨じた後、兄伊耶本和気命の大嘗祭の豊明とよあかりの日に反乱を次兄である墨江中王が襲ったと聞いた時の衝撃は未だに忘れられない。その衝撃を抱えたまま自分は黄泉の国へ旅立つのだろうと思っている。

その時に、何度も、

「本当に墨江の兄上か?波多毗能大郎子はたびのおほいらつこではあられぬのか?」

と問いただしたのである。大日下王とも呼ばれる波多毗能大郎子は腹違いの兄である。普段、性情がおとなしくとても反乱を企てるような人ではないのだが、その人であれば兄を襲う理由は少なくともある。しかし、血を分けた次兄が長兄を襲うなどとは・・・。とても信じられなかった。

だが報せは誤りではなかった。危うく弟の襲撃を逃れた兄は石上神宮いそのかみのかみむやに逃れ、残りの兄弟と会うのも拒絶した。兄にとってはその衝撃は自分に比べても更に計り知れないものであったのだろう。

思えば父の時代にも速総別王と女鳥王の反逆があった。女鳥王は父の女、八田若郎女の妹である。帝位は昔日の良き頃と違って、平穏のうちに継がれていく時代ではないのかもしれない。自分こそ帝位を求めたのではなく、仕方なしに継いだのだが、あの時と同じことが起こらぬとは限らない。

「誰がそのような謀反を起こすと考えておるのだ」

帝の問いに、大前小前宿祢は、

「その名を申し上げるのは憚りがございます」

と額を地につけた。

「父上」

その時それまで沈黙していた木梨皇子がおもむろに声を出し、皆、はっとしたように新たな日継の御子を見た。

木梨皇子は落ち着き払った様子で、

「父上の御言葉、まことに心に染み入るものがございました。しかし、一度乱れかけた世の中はなかなか静まらぬという大長谷の言葉も故ないとは申せませぬ。日継の位を継いだとはいえ、私はまだ独り身、その次の皇子がいないというのもまた事実。されば父上が慎重にお選びなされた候補を次の日継の仮の候補と成されることに私は異存ありませぬ。私に子が産まれれば、その時は兄弟同士、腹蔵なく話し合い、日を継ぐ者を決めましょう。それこそ兄弟というもの」

そう言うと、弟たちを見渡した。

「皆もそれで良かろう?」

大長谷は力強く頷いたが、他の御子たちは顔を見合わせていた。

「墨日子」

帝が再び力強い声を発した。

「はい・・・」

裏返るような声で答えた二番目の兄は顔を赤く染めていた。

「お前は日継になる気持ちがあるか?」

「あ、いえ・・・その」

へどもどとした答えを返した兄は、今度は青ざめている。

「どうなのだ?」

「いえ、私はできればそのう・・・」

と言ったまま言葉を失い押し黙った。

「はっきりと所存を申せ」

父の責めるような声に、唇を戦慄おののかせると、

「私は、その、政というものが嫌いでございます。ただ、治めるというのだけではなく、時には人の命を奪い、また人から狙われることもあったと・・・あの徳の高い聖帝と呼ばれるおじいさまの御代でもそのような事があったと聞いております・・・。私はその、できればつつみを打ち鳴らし、しょうを吹く、そんな人生を送りたいと考えております」

その答えに、母后は一瞬呆れたかのような表情をしたが、父はうむと頷いた。

「人はお前の事を意志の弱い者だと謗る事があるかもしれぬ。しかし己を知っているという点でお前は秀でておる。そして己の弱さを堂々と言ってのけ、拒むというのは悪いことではない」

そう言うと父帝は、穴穂命を見つめた。

「万が一ということがあれば、お前が日を継ぐことにせよ」

「は」

穴穂命はひれ伏した。

「もし、兄上に子がお生まれになったら、私は日を継ぐことを辞退申し上げましょう。それで宜しければ」

「うむ」

父帝は満足そうに頷くと、

「これでいいな」

そう言って皆を見回した。一人大前小前宿祢だけは何かを言いたそうにしていたが、他の者たちが頷くのを見て、頭を下げた。

「白日子のお兄様は嬉しそうだわ」

あからさまにほっとしたような表情で頻りに頷いている四番目の兄を見ながら橘はそう思った。

「でも、大長谷のお兄様は・・・何を考えておられるのかしら?」

日継の御子を定めるその段で、万一の事を言いだすというのはどうなのだろう。例え先例があったとしても、そのようなことを想像するというのは望ましいことではない。

口に出すことは、往々にして不吉を招くことがあるのだ。それを知らぬ兄ではない筈なのに・・・。


「あれで宜しかったのでございますか?」

一人の男が首を捻りながらまだ総角あげまきの若者を目の前にして尋ねている。

「もちろん」

「しかし・・・決まったのは日継の皇子と、万一の時に、穴穂命が継ぐということだけではございませぬか?」

「それでよいのだ」

「しかしそれでは・・・。いかにも迂遠」

そう答えた男に

「私がしゃしゃりででもしたら、どうなる?今はそんなことを考えていたわけではない」

「確かに・・・順当な話ではございましたがな。ただ順当な話を確かめただけではございませぬか」

「宿祢、そのような事では私の治世にお前に政を任せるわけにはいかぬぞ」

「は・・・そのような事を申されますな」

慌てた男に向かって若者は自信ありげに言った。

「私はな、あそこで種を蒔いたのだ。それと知られずにな」

「?」

「不信と言う種よ。いずれかはお前もそのことを知ろうよ」

そう言うと若者は笑った。その笑いの奥にある不敵さに、相手の男は掛けたのである。

「ご存知の通り、三韓の状況は思わしくございません。われらが保つ任那の国もその争いに巻き込まれておると報せがございます」

「それよ」

と若者は答えた。

「その事を考えておるのは父上も含めて誰もおらぬ。国を纏め、いずれ三韓のどこかと手を携えあの国を守らねばならぬのだ。そこまで考えておるのは私以外に居ぬ」

自信ありげに若者は言い放った。

「それにしても、日継の御子はお若くいらっしゃる。その上次の皇太弟まで決まっているとなると・・・」

不安そうに呟いた男に、

「心配するな。筋立てはもうできておるのだ」

若者は自信ありげに答えたのである。


帝の病は急に悪化するということもなく、冬が過ぎ、春が近づくと、時折床を離れるようなこともあって、皆をほっとさせた。夏も酷暑というわけではなく過ごしやすい暑さで、油断をしていたが秋が訪れると俄かに病状が改まった。

直ちに祈祷師たちが集められ、再び宮に祈祷の声が満ちたが、その声が消えたのは帝の崩御の日であった。諒闇りょうあんの一年が始まり、その年の新嘗は停止ちょうじされた。

華やかだった宮も藤衣の衣装一色となり、新たな年もしめやかないろどりに縁どられたのである。

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