第5話 大黒・小義の巻

もしやあの時・・・。橘は静かに考えている。昔一緒に川べりに行った時お姉さまがお考えになっていたのは、一のお兄さまのことだったのだろうか?お姉さまの話は夢なんかではなく、川を隔ててお姉さまと互いに見つめ合われておられたのは、あのお兄さまでいらしたのだろうか?

耳にどきんと心臓の音が聞こえた。

もしそうでいらしたなら・・・と不吉な思いが体を駆け巡った。事は意外と根深く、面倒なものなのかもしれない。


だが、橘がそれを確かめる間もなく、宮中で由々しき事態が起きた。妹の酒見郎女は十日ほど前から熱を出して臥せっていたのだが、その日突然病状が改まったのである。にわかに宮中は慌ただしくなり、祈祷の者が呼びこまれた。

「酒見、しっかりするのですよ」

妹が横たわる床の横で橘は小さな手を握り締めてあげながら、妹の名を呼び続けた。妹は頬を桃色に染め苦し気に息をしている。

「これから邪を払いまする」

白装束の祈祷師が三人、床に近づくと、集まっていた帝と后そして兄弟姉妹に向かってねんごろろな口調で、部屋を出るように乞うた。

「病人の体から離れた邪が乗り移ることもございますから」

そう言われて渋々と床を後にすると、皆隣の間で待つことにした。祈祷の声が時に高く時に低く、留まることなく聞こえてきた。

「お姉さま」

隣に座った冬衣の手を握って橘は声を震わせた。

「酒見は、酒見は大丈夫でしょうか」

「きっと大丈夫ですよ。気を強く持ちなさい」

姉の声は気丈だった。

不思議なことにいつもは儚さを纏っているような姉がなぜか、一大事が起きると急に強い芯を見せることがある。今はその時だった。姉は・・・以外に心が強いのかもしれない。姉の言葉に首を強く振るようにして橘は頷いた。

だが・・・。酒見は回復することはなかった。

「邪がたいそう強いものでございました。引き離すことはできましたが、その時姫の命まで引き連れて・・・」

祈祷師は心底悔しそうにそう説明した。。父帝はがっくりと首を落としていた。

「お父様、お気を落とさないでくださいまし」

末娘を殊の外可愛がっていた父の許へ行くと橘は父の手を取った。

「おお、橘。汝も酒見をよく可愛がってくれていた」

そう言うと父は橘をそっと抱きしめた。父に抱きしめられたのは初めての事だった。

気の強い母后もさすがに項垂れていた。兄弟姉妹同士もこの時は日頃、そこはかとなくある男女の境目を越えたように互いに慰め合っていた。ふと見ると、一の兄と冬衣の姉さまが手を取り合っている。日頃、影の薄い墨日子王、白日子王でさえ互いに抱き合って末妹の死を嘆いていた。

だが、その中でただ一人、末の兄である大長谷の兄だけは誰と手を取り合うわけでもなく、ただ辺りを睥睨へいげいしていた。

穴穂命が母を慰めている。墨日子王と白日子王が父帝の側へと寄り添っていく。そうした情景を大長谷の兄はどこか冷然とした目で眺めている。

「お兄様」

橘は大長谷命の傍へと近寄った。

「橘か・・・」

醒めたような視線をふっと消して直の兄は妹に目を遣った。

「お兄さまは悲しくございませぬの?」

「なぜだ?」

「だって皆嘆き悲しんでいるというのに、お兄さまは一人、悲しんでいるようには思えませぬ」

「そんなことはない。私は・・・どうやらうまく悲しみを表せることができぬようだ」

「そうでしょうか?さっきからお一人で皆の様子を眺めておられるだけ」

橘が非難がましい目を向けると、兄は

「お前はずいぶんとずけずけと物を言うな」

と応じた。

「だが、私は嫌いではない。そんな風にはっきりと物を言う事ができることは悪いことではない」

「そうでございましょうか?」

橘の口調は険しかった。

「でも、私にはお兄さまに悲しんでいただきたいのです」

「さっきも言った通り私も悲しんでいる。だが同時に考えているのだ」

「何を、でございますか?」

兄は一瞬、妹の亡骸に目を遣ると、

「お前はいちいち、自分の考えていることを人に話すのか?」

と尋ねると、にやりと口もとに笑みを浮かべた

「もっともお前の思っていることなどいくつかは分かる」

「・・・どんなことでございます?」

橘は眉を顰めた。兄の口もとに浮かんだ笑みは忌まわしいもののように思えた。それに滅多に会うことのない兄に自分の考えていることなど分かる筈がない、そう思った。

「お前は市辺忍歯王を憎からず思っておるな」

橘は目を見開いた。と同時に、頬に熱く血潮が昇って来た。

「まあ・・・なんて・・・こんな時に」

「どうやら図星のようだな。お前があの方を見ている様子を眺めれば誰でもそのような事はわかる。それだけの器量をしておれば、市辺忍歯王といで天の下を統しめす子を産むことができよう」

「何をおっしゃるのです」

さすがに気色ばんで橘は兄を睨んだ。

「さようなことを妹を失ったばかりの時におっしゃられますな」

「ふん」

鼻を鳴らすと兄は蔑むような眼で橘を見た。

「世の中は人が死ぬときにも動くのだ。悲しんでいるばかりでは仕方ない」

兄はもう一度ちらりと妹の亡骸の方へ視線を送ると、

「女は嫁ぐ相手によって世の中を動かす事ができる。酒見が死んだことは悲しいが、父上は一人手札を失われたともいえる」

呟いた言葉に自分で頷くと、

「私の見立てでは、お前は可能性がある。せいぜい励めよ」

と言い捨てると橘の傍を離れ、帝と后のところへと去っていった。

一言二言話しかけると帝の傍からも離れ、姿を消していく兄の後ろ姿を橘は睨みつけていたが、やがて暗闇の中に消えていった兄の姿から重たげに目を逸らした。


弔いの間、いつもより兄弟姉妹は一緒に行動をすることが多かった。その暇を使って橘は比較的気軽に話すことのできる穴穂の兄に近づいた。穴穂はいつもより更に積極的な妹の様子に驚いたようだが、根が素直な性質な兄は、付き纏ってくる妹を邪険に扱うこともなく、そのとりとめのない話にも付き合ってくれた。

橘の話がとりとめのない話になってしまうのは、姉と一の兄の間に生まれた一抹の疑惑や大長谷の兄に感じた冷たさを率直に言えないからである。だがそのとりとめのない話を穴穂の兄は熱心に聞いて答えてくれた。

「お兄さまたちは一緒にお育ちになったのでしょう?皆さま、どのようなお方なのですか?仲は宜しいのですか」

という問いにはちょっと困ったように首を傾げ、

「一の兄さまは謹厳なお方だよ。やはり帝になるという心構えがおありになるのだ。境の兄はあの通り、楽に造詣が深い、というか夢中だな。白日子はまだ子供だ。いい歳をして食い物に夢中と言うのは困ったことだが、いずれ大人になるだろう。それに比べると大長谷は歳が下なのにずいぶんと大人っぽい」

「皆さま、仲はお宜しいのですか?」

「まあ、悪いというわけではないが、境の兄と白日子は外遊びが嫌いだからなぁ。外で遊んだのは残りの三人だよ」

「そうなのですか・・・皆さま、思い人がいらっしゃるのですか?」

「思い人?」

穴穂の兄は、ははは、と笑った。

「一緒に暮らしていた頃は女っ気がまるでなかったからなぁ。ま、乳母や周りの世話をしてくれる女たちはいたけど・・・想い人には歳が取り過ぎだ」

「そうですか・・・今も?」

「何を聞きたいんだ、橘」

穴穂の兄は橘の目を覗き込んだ。

「まさか、お前、誰かに恋をしたのではあるまいな」

「いえ」

橘は笑いながら否定した。

「もし、どなたかを好きか、と言われれば穴穂の兄さまですけど、そのお方に聞くことなどそんな事を聞くわけがございませぬでしょう」

「そうか?」

橘の答えに

「橘は私が好ましいか」

穴穂の兄は相好を崩している。そんな兄の姿は歳が上だというのに子供っぽくて可愛くもある。

「だがその思いはかなわぬな。残念だ」

兄は謹厳さを取り戻そうと唇を結んでいるが、目のあたりが笑ったままである。

「まあ、ご冗談を。いろの中で好ましいというだけですよ」

「分かっておる。分かっておる」

と兄は手を振ると、漸く真面目な顔を取り戻した。

「我々は勝手に相手を選ぶわけにはいかぬ、それはお前にも分かっておろう?」

「そうですわね。黒日子の兄さまや白日子の兄さまに嫁がなければならぬお方に同情しますわ」

「口が悪すぎだぞ」

ははは、と今度は口を開けて兄は笑った。

「大長谷の兄さまも難しいお方。酒見の弔いの時にちょっとお話したのですけど、酒見の死を嘆いておられるようには思えませんでした」

「うん、そうか?」

穴穂の兄は目を細めるようにして、一瞬考えたが、

「そんなことはあるまい。あの弟は感情を外に出さぬかもしれぬが、いろいろと思慮をしている。なかなかの男だよ」

と答えた。

「そうでございますか?」

「大長谷の世話をしたのは白日子だが・・・白日子があの通りだろう?頼りにならぬ。だがその言いつけを素直に聞くように見せ、とうとう分からぬと最後に私に聞きに来たものだ。分別のある弟だよ。白日子をないがしろにするそぶりも見せなかった」

「はい」

そう頷いたものの、橘の騒めく心は谷間を流れる春の水のように揺らいだままである。


意冨々杼王おほほどのみこは橘たちの伯父である。

妹を帝に嫁がせて羽振りの良い伯父は妻を多く持ち、今となっては、その子供たちは三国君みくにのきみ息長坂君おきながのさかのきみなど多数の族の祖となっている。

その伯父自身、品陀和気命ほむだわけのみことすなわち応神天皇の孫である。伯父の祖母である息長真若中比売おきながまわかなかつひめは品陀和気命の最後の妻であり、帝が崩御された後は一人静かに余生を送って今はもうこの世にいない。

だが、更に遡った祖である息長田別王おきながたわけのみこは近江の豪族の娘と倭建命の一子であり一族は厳然とした力を有していたのである。皇統からすれば傍流であるが、伯父もそうした家系を背景に、帝の後見人として隠然とした力を蓄えている。

と言っても、その力は目に見えるものではなく橘にとってはただの好々爺然とした伯父でしかない。その伯父は時折、思い出したかのように橘のところに手土産をもって突然やってくる。

その日、伯父が持ってきたのは見たこともないほど大きな真桑瓜まくわうりであった。

「まあ、伯父さま、なんて大きな瓜でございましょう」

感嘆の声を上げて伯父の頭ほどもある黄色の果物をまじまじと見ると、伯父は目の隅を垂らし、ほっほと声を上げて笑うと、

「やはり橘が一番土産のもってきがいがあるわ」

と言った。

「なぜでございます?」

「お前が一番嬉しそうにするからじゃ」

橘はあらまあ、自分はそんなに物欲しげに見えるのかと頬を染めると

「お姉さまたちと分けて食べますわ」

と弁解をするように言ったが、伯父はゆっくりと手を振ると、

「皆に一つずつ持ってきた。じゃから、これは丸ごと橘が食べるがよい」

と答えた。

「お前の頭より大きな瓜じゃ。丸ごと食べれば、お前の頭はみんな瓜になろうよ」

「あら、いやなご冗談」

睨みつけた橘に向かって

「ははは、皆にも一つずつ遣ったから、宮は皇子と皇女の頭でいっぱいの瓜畑じゃ」

笑いながら言うと、どっかりと縁に腰を下ろし伯父は近頃見聞きしたことを取りとめもなく橘に話し始めた。橘はそれに熱心に聞き入る。伯父は話好きで、橘は伯父の話を聞くのが大好きである。宮にいる生活は、橘には少し退屈なのである。

畑で二股の大根が穫れたが、あれは吉祥きっしょうに違いあるまいと伯父は話し始めた。そして家人が雀を追っているうちに川に落ちたとか、猪が家に入ってきてそこらじゅうの備えを蹴散らして逃げたとか、たわいもない話が殆どなのだが、橘は目を瞠ってそんな話に耳を傾けている。

「そうじゃ、お前も知っておろうがいぬという男がおったであろう。ほれ、以前鯉を持ってきた男じゃ」

「ええ」

伯父の領地にある川で大層大きな鯉が獲れた事があって、それを掲げて伯父が帝のところにやって来た時の事を橘は思い出した。その時に鯉を運んできたのが戌という男である。ひょろりとした男が両手で抱えた鯉は男の背丈の半分ほどもあった。まだ活きている鯉は時々思い出したように暴れて男はそのたびに抱きかかえた鯉を抑えつけようとふらふらと右に左にとよろめいたのである。そのたびに、

「ほれ、戌、しっかりと支えよ」

「戌よ、そんなことでは鯉を落とすぞ」

と大声で伯父が怒鳴るので、しまいには帝も笑いだし、

「戌が鯉に踊らされておるぞ、皆見に来るがよい」

などと仰ったので、戌は帝一家にはよく知られている男である。鯉はそのまま池に放されて今では池の主になっている。

「あの戌が嫁を取って、すぐに子供が産まれたのだが、なんと女が一度に三人も子供をひねりだしよった」

「あらまあ」

鯉を運んできた時は三年ほど前で、その頃はまだ髭も生え揃っていない若者であったが、今は三人の子持ちということになる。

「三人も子供を養わなければならんと顔を青くしておるわ」

「それはおめでたいことでございます」

橘が祝いを言うと。

「いやいや、めでたいかどうかの。一時に三人もとはまさに犬のようじゃとからかわれて、このところ少し元気がない」

首を捻った伯父に向かって、

「それで、お嫁さんは?」

「はは、嫁と言うほどの者ではないが、やはり家人の娘じゃ。戌はあの鯉を運んできたころは姉を慕って、いずれは姉と世帯をもつなどと言って困らせたもんじゃが、ようやっと一人前になって、安心した」

にこにこと伯父は笑っていたが、橘は戌が姉を慕っていたという伯父の言葉にふと思いついて、今まで心の底に秘めていた疑問を投げかけた。

「ねぇ、伯父様。私、神代のお話の中で知ったのですが、天照大御神と建速須佐之男命の子供が忍穂耳命なのでございましょう?戌とは身分も何もかも違いますが、天照大御神と建速須佐之男命も姉と弟ではないですか。忍穂耳命の御子がこの地に降り立った邇々芸命、つまり私たちの祖でございます。ではなぜ、私たちはいろど同士で結婚をしてはならないのでございましょうか?」

橘の問いに、

「ん?」

と一瞬目を丸くした伯父は、

「それは・・・。いろど同士で番うことは高天原に住む神にしか許されていないことだからだぞ」

と少し怖い声を出した。

「高天原では許されていてもこの地では憚ってしてはならぬことがある。その一つがそうした結婚なのだ」

「では、罰が降ると?」

「そうだ」

重々しい声を出すと、

「かつてその罪を犯した者たちは、子を産んだ時に罰を受けたのだ。頭のない子供や姿さえ朧な子供、そうした子たちを産んでその時に報いを受けたことを知る。神に許されたことでも人としてやっていけないことはまだまだたくさんある」

「そうなのでございますか・・・」

声を落とした橘に、

「橘、お前まさか兄者の誰かと・・・・?」

と探るような視線を向けてきた。

「いえ、そんなこと、決してございませぬ」

きっぱりと否定した橘だったが、伯父は意外と執拗だった。

「しかし、好いておる者がいるのではないか?」

「まさか・・・。だっていっとう上のお兄さまは何を考えておられるかわからないお人ですし、穴穂のお兄さまは中では好ましいお方ですが好きというわけではございません。黒日子王命と白日子王命は・・・好きになられるお方がいらっしゃるなら見てみたいものですわ。それに大長谷のお兄さまは・・・私には怖うございます」

「怖い?」

伯父は首を捻った。

「ええ、なんだか。一のお兄様も何を思っておられるのか分からないお方ですが、あのお兄さまはそれとは別の意味で何を考えているのか分からないお方」

「ふむ、そうか。橘はなかなか手厳しいの。それに少なからず的を射ておる」

「そうでしょうか?」

兄たちへの評価を、伯父に巧みに喋らされたようでなんだか居心地が悪かった。

「何、心配する必要はない。お前がそう思っていることは、兄たちには決して漏らさぬから安心しておいで」

顔を和らげると、

「わしの見立てもお前と似たり寄ったりじゃ。だが、お前もわしがそう言ったなどと言ってくれるなよ」

そう伯父が付け加えたのは、自分の考えも明らかにすることで橘を安心させるためのものだったのだろう。

「お前の父上である帝は立派なものだ。病をおして五人の男皇子を得なさった。その中から次の帝が決まるに相違ない」

だが、先帝にもその先帝にも男皇子は生まれているのだ。伯父にとっては自分のお母様でもある妹の産んだ子が次の帝になられることが望ましいのであろうが、そうお考えにならぬ方々もいるに違いない、橘はそんなことを考えている。


橘の心配を余所に日々はつつがなく過ぎていった。酒見郎女の喪が過ぎたのは三か月の後の事であった。喪の間中着ていた藤衣ふじごろもを脱ぐことは、酒見と訣別しその思い出を脱ぎ捨てるような気がして橘には気が進まなかったのだが、と言って一人だけ我を通して着続けるものでもない。

皆の着ていた藤衣を、酒見を葬った野辺で燃やしその煙が秋の空に消えていくのを見届けると一抹の寂しさはあったが、何か一区切りがついたような思いがしたのも事実である。帰路、思い思いに酒見の思い出や、他の事々を口にしながら宮への路を歩んでいた皇子、皇女たちであったが、酒見がなくなった時は嘆いていた白日子王が、

「ああ、寒かったなぁ。酒見も何もこんな時に喪が明けるように死ななくてもよかったのに」

と声を上げた時は、思わず橘はきっとした目で兄を睨みつけた。それに気づいた白日子王が、

「おお、怖」

と袖で顔を隠すようにしてよたよたと列の前の方に逃げるようにして進んだのを忌々しそうに見遣ると、橘は黙って歩いている冬衣の傍により、

「お姉さま、何を考えていらっしゃるのですか」

と尋ねた。姉ははっとしたように妹を見遣ると、

「何でもないのよ」

と微笑んだ。

「でも、さっきから・・・一言もお話もせずに」

橘が見上げるようにして言うと、

「そうね、酒見のことを考えていたの」

と冬衣は振り向いた。亡骸と藤衣を焼いた火の名残は白い雲に溶けて、もうどこにも見当たらない。秋の黄色い花々が、寒々と茶色がかった野に点々と見えるのがなんだか侘しい。

「どう思われます。先ほどの兄上の酷い仰りよう。寒いといってもまださほどの寒さではございませぬ。あんな仰りようをする兄上は嫌い」

「そうね」

冬衣は優しく橘の手を取った。

「でも、気にしない方が良いですよ」

「食べ過ぎて病気持ちなのですよ、兄上は。ついこの間までは暑い暑いと散々おっしゃっていたのに。今はちっとも寒くなんかございません」

憎々し気に前をのそのそと歩いている白日子王をもう一度睨みつけると、

「お姉さまは酒見の事をお考えになられていたのですよね。何をお考えになられていたのですか?」

と橘は繋がれた手を揺らすと姉の横顔を見た。

「そうね、あの子はあんなにわかくして死んでしまって。もっと楽しいことも、心が躍るようなことも知らずに死んでしまったのかと思うと可哀そうで」

「そうですね」

「きっとあの子は・・・恋をすることもなく逝ってしまったのね」

はっとして、橘は姉の顔を見上げた。だが、姉は橘の視線にも気付かずに遠くを見遣っている。

「恋でございますか?」

「ええ・・・」

うろたえた様子もなく、姉は橘を見返した。だが、なぜか繋いだ手から熱い血潮が自分の手に流れ込んだような気がして橘は怯んだ。

「恋とは・・・どんなものなのでございましょう?」

そう尋ねた橘に姉は小首をかしげると、

「さあ、でもどなたか殿方を思って、思って寝られなくなるほどその方の事を考えて、いつもそのお方の傍にいたいと思うようなそんな気持ちが恋だと聞いてますよ」

「そうなのですか・・・」

ちらりと視線を前の方に送ると、兄たちが何やら話しながら進んでいくのが見えた。一の兄さまが話をなさり、穴穂の兄さまがそれに何かを答えている。大長谷の兄さまはそれを黙ってじっと聞いている。黒日子の兄さまはそこから少し離れたところを一人で黙って歩いている。白日子の兄さまは遅れまいと懸命に歩きながら時折、一の姉さまに何かを必死に訴えかけているが姉さまは相手にせずに、さっさと先に進んでいく。


そう・・・。老いた女性は若者の目を真っ直ぐに見ると、懐かし気に遠くに目を遣った。

あれが、兄弟みながうち揃って歩いた最後の景色だったのですよ。それは、きっと酒見がわたくしたちにくれた贈り物だったのですしょう。

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